日付:2018年3月 

  餓死老人の希望  吉本隆明著「新」死の位相学より

 

少し前の昭和の台所風景  

 
     1
 
 一九九六年(平成八年)の四月二十七日、豊島区池袋のアパートで七十七歳の母親と、四十一歳の病気で寝たきりの息子が死んでいるのが見つけられた。新聞(「東京新聞」96・5・18)の記事では、死後約一力月、死因は栄養失調だった。もうすこし細かい描写をみてみる。息子は寝間着すがたで、居間の布団のなかで死んでいた。母親は防寒用のズボンに、茶色のジャンパーや力ーデイガンを重ね着していて、台所附近で死んでいた。池袋署の調べでは、一家は十一年まえにこのアパートに引越してきた。父親は病気がちで四年まえに肺結核のあげく死亡した。母親は腰痛の持病をもっていたが、脳に障害をもつ息子の看護に追われる日々だった。
 
 生活費は月約四万三干円の母親の老齢年金だけだった。アパートの家賃は八万五干円。貯金をくずし、電話など売れるものは売って生活費にあてていた。近所の人の母親にたいする印象では、髪をきちっと整えた上品で律儀な人のようにおもえた。昨年の敬老の日には地元町会からパジャマを贈られ、地区の民生委員も、区からの祝い金をわたしたが、生活に窮しているようにはみえなかったという印象をのこしている。
 
 どうしてこの母親と息子が餓死したのかについても、新聞は伝えている。一九九五年(平成七年)の三月二十九日の日記によれば、息子の国民年金保険料の免除申請が出されたとき、生活困窮の実状がわかり、区では生活保護の対象になるから福祉事務所に相談するように勧告したが、母親からは相談もなく、生活保護の申請もなかったので、そのままになっていた。母親の日記はなぜ生活保護の申請をしなかったかについて、母子、老人、病弱家庭の立場から理由をのべている。

   三月二十九日(水)
 
 朝、年金係の人からの手紙が入っていた。昨日来たのだろう。うちがお金に困り、後、暫らくしか、ここにもおれないのを読まれて、相談する様にと、(編注・豊島)区役所と西福祉事務所など、教えてかいてあるが、私共はここが、最後と言って有るし、自分で家さがしも出来ないし、家に入らないとも言ってあるので、それに良い人が世話されるとよいが、悪い人にあたったら大変と聞いているので、今は、最後まで、ガマンする。

 これから約一年後、一九九六年、(平成八年)三月十一日の日記は、食べものが尽きた日のことを次のように書いている。

   三月十一目(月) 
 
 とうとう、今朝までで私共は食事が終った。明日からは何一つ□にする物がない。少しだけ、お茶の残りがあるが、ただお茶を毎日飲み続けられるだろうか。 (略)
 私は、今朝、夢の中で、歯が全部ぬけた夢を見ているが、これは身内に死人がある知らせと、聞いているので、子供が、先に死ぬのではないかと心配である。一緒に死なせて頂きたい。後に残った者が不幸だから。   (この二つの日記は「週刊文春」96・6・27号より)

 このいきさつをわたしなりに推量し、要約するとこうなる。区役所の年金課はこの母・息子の生活の困窮を知り、福祉事務所に相談をかけ、生活保護や介護を受ける手続きをするようにと通知した。これにたいし母親は老齢で手続きをし、事情を申し述べ、書類を作成するなどの面倒さに耐えられない思いから、このまま金銭や食糧が尽きるところまで生活をつづけ、そのあと息子と一緒に死んでもいいとかんがえて、区の民生関係者に手続きの相談をかけなかった。精神的にいえば永年自力で住みなれたアパートから、関係者の指示のままに住み所を変えたり、共同生活に入ったりすることがありうるのを想像して、その生活スタイルの変更のわずらわしさよりも、いまのままの生活の終息・死を迎える方がいいとおもった。これは老齢と息子の介護と生活費の不足などを勘定にいれると実感的に理解できる気がする。たしかに区の民生関係者がもう少し積極的に介入し、お膳立てをととのえれば、まだ生活の方途がたてられたかもしれない。しかし現状の福祉・保健行政では精いっぱいのことをやっているとも言える。そうだとすればこの母・息子の死の在り方のなかに一抹の衿持があり、また老齢のおっくうさがもたらす一筋の積極性への諦めが成り立っているようにみえる。もしわたしがこの事件の核心をどこにもとめるかと問われたら、母親の疲労、生涯の生活を老齢までたどってきたじぶんや家族の誇とおっくうな諦めをくつがえす意志ものてない(もたない)状態でとりかえたくなかったのだというところに見たいと気がする。別の言葉でいえば、この老母親は身体の動きと生活のための費用が尽きてしまうまで、寝たきりの息子を介護しながら、よくたたかいつくしていて、じつに見事に生涯の果てまで歩みきった。この餓死した親子の生きざま死にざまを、福祉行政がもう少し個別的な条件に踏み込んでいたらとか、老齢の母親と痕たきりの息子の餓死は、飽食の時代にたいする天の懲罰だとかいう慨嘆の声ととりかえたくないような実感が残る。そんなことを言うより、見事な生き方を貫いた生涯として、わが老齢世代の模範として、心静かに学びたい気がする。無用な感傷も社会福祉の在り方への批評も第二義的なものにおもえる。
 
     2
 
 この事件より少し以前に、新聞は老齢の夫婦が身体の衰えがだんだんと立居振舞いを不自由にさせ、それによって日常の生活もままならなくなって、夫婦ともに寝たきりになってしまい、じぶんたちの住居に火をつけて自殺したとおもわれる失火事件のことを報じた。これは失火ではなく放火のあげく意図的に死を択んだとおもわれる現場検証の見解も報道されていた。類焼を蒙った近隣の家屋があり、社会的には許されない行為に違いないし、福祉行政の踏み込みの足りなさが、こういう暗い老齢者の自死をまねいた悲惨な出来ごとともいえる。だが老齢者の実感を混えていえば、少し話は違ってくる。わたしはこの場合についても、記事を読みながら、見事な生きざま、死にざまだなという感想を、ひそかに禁じえなかった。その根拠をひかえめに挙げてみると、いくつかある。現在の老齢年金制度や福祉行政のあり方の情況で、老齢者が夫婦ともに足腰が不自由になり、それにともなって生活をつづける身体や経済の状態が不如意になったとき、どうするか、どうするのが一般的かといえば、老齢者の夫婦の方が願望を濃くして子どもの世代の世帯に合流したり、立居振舞いや生活上の援助ができる近隣に移住したり、老人施設に空きがあればそこに収容されて生活をつづけることになるのが、大多数の老齢後の生活のかたちになるといってよい。このばあいに問題になるのは何かといえば、生き延びた老齢者と子どもの世代のあいだに起るあいまいな融和だといえる。あいまいさも融和も決して悪い醜い関係の状態とはいえない。老齢者は身体の衰えからくる生活の困難さを幾分でも解消したいために、じぶんたち夫婦のあいだの困難な生活の補いと世話を、子どもの世代にもとめる。子どもの世代はじぶんたちに補いと世話の条件が整わないばあいでも、引受けるべき必然性をもつことになる。なぜならこの必然性が精神的に崩壊している社会の場所では、社会福祉(共 同負担)の場所しかあとに存在しないからだ。個々の精神的な、また生活的な事情がどうであろかはべつとしても、老齢者の世代にも子供の世代にも、さまざまな対立や葛藤や相互不信や感情的なしこりがありままに、親とこの世代は同居したり介護したり、経済的な負担に耐えたりしているのが現在までの実情だといえる。
 
 理想のかたちはこの現状と正反対なはずだ。老齢の親の世代が経済的に充実し、自立できる条件をもっていたとすれば、介護者を雇い立居振舞いの不自由さを補つてもらい、子どもの世代とのあいだには精神的な親和力だけを求め合うというのが常識的にかんがえられる充足した老齢者の環境ということになる。もうひとつ敢えて理想のかたちを求めるとすれば老齢者の夫婦が子どもの世代に求める親和の距離感と、子どもの世代が老齢になった親の世代に向かう親和の距離感が合致することが願望されることになる。だがわたしなどの実感を延長してみれば、老齢の母親は過剰に子どもの世代によりかかろうとし、老齢の夫婦のあいだの親和感が疎かになってしまう傾向をもっている。このことは老齢の親の世代と子どもの世代との関係をあいまいにするひとつの要因をなしているといって過言ではない。因みに大和ハウス工業の生活研究所のアンケートによれば定年後、配偶者と一緒にいたいと答えたのは夫が五六・四%だったのに、妻は二四・四%にすぎなかった。(「読売新聞」96/6/21)
 
 ここまできてわたしはじぶんの実感している老齢の現状について披瀝しないと点晴を欠くような気がしてきた。わたしは給料生活を二十年以上してきたし、その後国民年金に加入した年数を合わせると、隔月に約二十五万円くらいの老齢年金を支給されている。現在の日常生活の条件で四倍から五倍の老齢年金の額があれば、仮に立居振舞いや生活の維持活動が不自由になっても生活をつづけることはできるようにおもえる。しかし現状のままで立居振舞いが不自由になったとすれば、わたしがここで挙げた老夫婦の例や、母親と寝たきりの息子の例とおなじ轍(わだち)をたどることは、悲惨な例というよりは模範的な例とかんがえる方が妥当だということになると思う。もちろんここには子どもの世代の補充をないものと仮定し、収入の余燼もまたひとつもないことを前提にしている。しかしこの前提は実際とはずれるかも知れないが、理念的には必然としなければならない。老齢年金の額が現在の四倍から五倍に増加する事態をこれから後想定できるかどうかといえば、ほとんど不可能に近いとかんがえる。老齢化社会の進展は、むしろ負担の増をもたらすため、年金はもっと率が悪くなる事態もかんがえられるほどだ。
 
     3
 
 現在、国連の定義によると、六十五歳以上の人口比率が七%を超えると「高齢化社会」、一四%を超えると「高齢社会」と分類されている。日本の社会は一九七〇年に七%を超えて「高齢化社会」に入った。また一九九四年に一四%を超え「高齢社会」に入った。日本が「高齢化社会」から「高齢社会」に入るまでにわずか二十四年しかかかっていない。たとえばアメリカでは七十年かかり、スウェーデンでは八十五年かったとされる(「東京新聞」サンデー版96・4・14より)。この異常ともいえる速さは何に由来するのだろうか。常識的にいえば生活水準の高度成長、衛生保健、医療の急速な展開などに原因を求めることになる。
 
 この急速さは常識的にいえば、高齢者の病気、寝たきり、立居振舞いの不自由さ(それに伴う死亡率)などが、急速に減少していることを意味しているように判断される。わたしたちは日本の社会が急速に「高齢化社会」に突入し、そしてまた急速に「高齢社会」に入り、その勢いはとどまることを知らないということが、老齢者の生活手当や介護の必要さを急速に増加させている原因だと錯覚しがちになっている。だがこれは短絡的な気がする。高齢化する速度が急速だということは、たしかに老齢年金などの生活手当や要介護者の数を増加させている。だがそれは率を増加させているのではない。生活手当の支給や要介虚者の率は反比例して減少しているとみなすのが常識に適っているとわたしにはおもえる。
 たとえば一九九三年の六十五歳以上の老齢者で、要介護の数は二百万人で、高齢人口の十二%である。ところで予測される二〇二五年の要介護者の数は五百二十万人と推計されている。これは高齢人口の16%になる。たしかに一九九三年から二〇二五年までの三十二年間に、四%だけ要介護者の率は増加している。だが数の増加は二百万人から五百二十万人で二倍以上になっている。これをみると要介護者の数は二倍以上にはなっているが、率はわずか四%の増加にすぎないことがわかる。別の言い方をすれば、たしかに要介護者の数の絶対値は増加しているが、介護を要しないもの、立居振舞いはたしかに衰えているのだが、介蓑を要するほどでないものの割合はふえていることがわかる。
 
 一般的なイメージ.でいえば、老齢の人口の割合が多くなってゆく「老齢化社会」や「老齢社会」が到来することは、立居振舞いが不自由なものが増加し、そういう人達を主軸にして社会の活動のイメージを作らなくてはならなくなるため、暗い凋落の社会のような印象がつくられることになる。これはしかしきわめて一面的なイメージにすぎない。文明が発達し、産業が高度化し、平均寿命が増加すると社会は凋落するという定理でもこしらえ、信ずるほかない。これはエコロジストの社会観や文明観に似てくる。しかしほんとうは文明が発達し、産業が高度化し、平均寿命がのびて高齢者の割合が増加し、要介護者の絶対数は増えてもその率は減少してゆくことは、明るい社会像にほかならないのだ。わたしたちに求められているのは日本の社会の急速な高度化と高齢化に対応する見識や叡知であって、反文明ではない。わたしはここで挙げた二つの老齢者世帯の自死のなかに、むしろ模範と希望を拡大する契機をみたいと感じて、これに触れてみた。
   (「情況との対話」第41回「サンサーラ」一九九六年八月号、 『大震災・オウム後思想の原像』徳間書店所収)