2023年3月24日
土井通肇さんの想い出と元祖演劇乃素いき座の台本の感想
元祖演劇乃素いき座の主宰の土井通肇さんが、2023年1月30日に亡くなられた。享年八十五。
土井通肇さんというと、思い出すのはわたしが20才頃に見た早稲田小劇場の「劇的なるものをめぐってⅡ・Ⅲ」だ。「劇・Ⅲ」では、土井さんは「演説男」の役で、ドラム缶の中からヌーッと顔を出し、わたしから給料をもらうのではなく、わたしから給料をもぎ取ってほしい(科白の詳細は忘れたが)、どこかの高名な実業家の演説の台詞を語っている場面だった。後年になってからだが、ああ、こういう実業家の演説の文言まで台詞への拡張(解体)を可能にしてしまう、これがこの小集団の固有の強みであり<風俗の遊び>なんだなと改めて感心したのを覚えている。
二番目は、なんといっても「劇・Ⅱ」で、素っ裸で赤ふん一つの土井さんが岡潔のエッセイ「日本人のこころ」を喋りながら、身体を張って天井へと登って行く演技表現の破格な楽しさと力強さに惹きつけられてしまった。
わたしは50年ほど前の1972年の21歳から25歳まで、年末年始と日曜日を除いて毎日のように夜になると早稲田小劇場の稽古場へ通った。
いまから思えば、頭がおかしくなっていたと思われる4年半の毎日だった。稽古の日々は確かにきつかったが、苦には感じられなかった。主宰の鈴木忠志さんはじめ、わたしの年齢の一回り上の秀才揃いの諸先輩方から芝居の作り方や演技の方法、観劇の仕方など、なんにもしらないわたしに芝居の基本を教えてもらえたからだ。眼の前に新しい世界がどんどん開けていく感じがして楽しかった。
稽古が終わりアパートの自室に帰ると諸先輩が稽古場で喋った言葉たちを覚え書きのようにメモった。それらの言葉は未熟なわたしには天と地とがひっくり返るほど難しく、鈴木さんが話してくれるダメ出しの言葉などほとんどは理解不能だった。それでも退団する頃には稽古メモは大学ノオト10冊近くになって、解読不能な言葉たちから多少の芝居作りの道標のイメージがじぶんなりに感じられるようになってきた。
思えば、もぐりの研究生見習いとして在団した4年半の日々、わたしは墨田区の下町の鼻垂らしのバカガキに戻っていた。初めて手にしたベーゴマをどうしたら床(とこ)の上に回転速度を落とさずに着地させ、相手のベーゴマを床の外へ弾き出し、勝ちをとり、ぶん取るか。はやくそうなりたくて下町のガキは荒川土手の草むらで暗くなるまでベーゴマを手に過ごした。その感じとまったく同じ気持ちでわたしは早稲田の稽古場へ行き、芝居についてのあれこれを一生懸命に習い、身に付けたいと思った。
故吉本隆明氏は、芥川龍之介への感想のなかで、下町出身者について次のように述べている。「少年期のわたしは、貧しく濃密な街並みの中で生活した。そこから、しきりに脱しようと心がけ、知的に上昇することで、下町から抜け出したかった(吉本隆明著『日本近代文学の名作:芥川龍之介』毎日新聞社:2001年刊)。わたしも同様に大学へ通い、下町特有な濃密で息の詰まるような世界から抜け出し、知識の世界へ参入したいと願った
こうしたモチーフを抱えて、わたしは早稲田小劇場への研究生見習い時代を過ごした。わたしの青春前期の大きな出来事で、その劇団のなかに、背は高く、胸板厚く、筋骨隆々の異国の人のような風貌の土井通肇さんが端の方に坐っていた。
早稲田小劇場は、早稲田大学の近くにあった。一階は「モンシェリ」という喫茶店、二階が早稲田小劇場の稽古場兼劇場となっていて、とても小さかった。間口三間、奥行き五間ほどの稽古場兼劇場だ。
わたしが研究生見習いとして在団していた当時、土井通肇さんは昼間は「モンシェリ」の雇われマスターとなっていて、カウンター内で毎日のように濃く苦いコーヒーを淹れていた。白いホーロー製の背丈の高いお洒落な薬缶で。
わたしは、土井さんになぜかよく遊びに連れて行ってもらった。思い出深いのは二人で長野へ行き松本城を見学した旅行だ。稽古が終わったあと、早稲田から高田馬場へ向かう途中、土井さんから、めずらしく3、4日稽古休みが入るから、どうだ、どこか旅行にでも出かけてみないかと誘われ、いまバイトもしてないし、お金あんまり持ってないですと応えたが、お金がかからない旅行にすればいいじゃないかと誘われ、そのまま着のみ着のままの旅行に出かけてしまったと記憶している。汽車代も含めてすべて土井さんが支払ってくれた。
稽古場の帰りに、土井さんも何べんかわたしの安アパートに泊まりにきた。劇団のなかでは寡黙を通していた土井さんも、そんな夜は、田舎は奈良で、父親は職業軍人でと私生活にまつわる話を訥々と話してくれた。わたしも土井さんのアパートによく泊めてもらった。二冊揃いの分厚い新書版の小松左京の「日本沈没」を書棚から出してきて、これ、面白いから読んでみろとすすめられた。書棚には30冊近い岩波版の泉鏡花全集が整然と並んでいた。右も左もわからない未熟過ぎる二十二、三歳のわたしに警戒心など抱く必要を感じなかったのだろう、糸が切れた凧にならないように、優しく見守ってくれたのだと思う。
惜しむらくは、わたしより一回り年上の土井さんたち諸先輩方が、どのような契機とモチーフとでじぶんの生涯を芝居にかけようとしたのか、それをちゃんと聴き出す勇気と言葉をわたしがもてなかったことだ。時として、偶然としか思えない出会いのなかで、人はじぶんの生涯をいとも簡単に決めてしまうものらしい。
土井さんは、寡黙、実行人、まるで古武士みたいだとわたしたち研究生はそう感じていた。怒り出すと声が大きくとても怖い人だったが、研究生には優しかった。芝居の質問をすると、うれしそうに笑みを絶やさず「君、それはさあ……」という土井さんの決まり文句から始まり、時間をかけ丁寧に芝居につての説明をしてくれた。土井さんは稽古場ではいつも端っこに坐り、寡黙だった。研究生はその理由をなんとなく肌で感じていた。
わたしたち研究生には、抜群の演技的な力量をもつ諸先輩のなかで稽古を共にできたことは非常に幸運なことだった。けれども、凡庸でなにツ一つできないわたしたちにとって諸先輩方の表現水準が高すぎ、身の縮む淋しい思いを内に秘めてきたこともほんとうのことだった。
わたし一個人の思い込みに過ぎないが、早稲田小劇場の諸先輩から4年半の間で教えていただいたことは次のようなことだ。(1)物語の筋よりも、俳優のじしんの演技表現が作り出す美的な価値を大切にすること。(2)役柄を演じるのではなく、じぶんの演技表現の可能性を拡張(解体)し、じぶんの演技の文体を作り出すこと。(3)声は、口を大きく開けお腹から出すこと。(4)稽古は、必ず他者(劇団員の仲間)の見ている前で行い、仲間の声に耳を傾けること。(5)時代・社会の風俗をしっかりと演技のなかに取り込むこと。
秀才揃いだった先輩諸氏から、これだけのことしかわたしの力では学び取ることができなかった。けれども、これだけのことを道標にしてわたしはじぶんなりの芝居を作ろうと思い、早稲田小劇場を退いた。
下町のガキがどういう文章を書けばいいのか、というのはわたしたちにとっても重要な課題だった。わたしたちはリアリズムで下町を描くという方法はとらなかった。かといって、芥川もいや、堀辰雄もいや、立原道造もいやだった。これらのだれとも似ててはダメだと思った。 ▲吉本隆明著『日本近代文学の名作/芥川龍之介/毎日新聞社/2001年刊』
▲
●
■
小説より芝居の台本を読むのはほんとはやっかいな仕事だ。小説は、「語り手」や主人公が、本編のクッションになってくれるから、小説世界には入りやすいといえる。自然の景観や花の名前、地勢の説明が出てきたり、物語の展開の説明もしてくれたりするから楽だ。芝居の台本も一応「ト書き」もあるが、いきなり登場人物の会話に入るから、その「いきなり」をどう読むかへの跳躍が、ちょっと苦手だった。
わたしは、じぶんの趣味嗜好、思いつきだけで台本を書いてる。土井さんの書いた台本の本当の意味合い、作品の価値の軽重を正確に語ることなどとてもできない。じぶんの趣味嗜好に照応する台本の情景だけを語ることしかできないが、勘弁してほしい。作者により書かれた台本の言葉(活字)から喚起されるイメージを中心に稚拙な感想を述べてみたい。
1986年7月、『元祖演劇乃素いき座』を土井通肇さんと森下眞理さんと二人で旗揚げをした。眞理さんは俳優を、土井さんは出演俳優だけではなく、演出と台本も請け負っている。
なぜ、土井さんは演出、台本の仕事を率先して引き受けるようになったのだろうか。それはきっと、当時の流行の演劇にどうしてもどこか馴染めない感じを抱いていたことと、なによりも生活上でも芝居の上でも、俳優の森下眞理さんと婚姻し二人の共同の生活とが深い動契機となって、土井さんに演出と台本を引き受けさせたのだと思う。芝居について語り合える女性の演劇仲間兼奥様ができたのだ。
改めて土井さんの書き下ろした初期の台本の数冊と、『元祖演劇乃素いき座』が200回を超えるロングラン公演をしていた平田オリザさんの台本『阿房列車』をわたしなりに丁寧に読ませていただいた。
比較的入りやすかったのは元祖演劇乃素いき座第16回上演台本・1999年1月『おっちゃんの濃密手帖』だ。
『おっちゃんの濃密手帖』は近代劇的な家庭劇というふうに作られている。とはいってもチェーホフの「桜の園」みたいな大がかりなものではない。
登場人物は、家族の三人、住み込みの家政婦の四人だ。「父親」、その「娘」、その「弟」だ。それに「女2=ツタ」という家政婦だ。「男2=父親}は定年間近な高校の教師、「男1=アツノリ」はその息子で、台本を読んだ限りでは母親の死後、心の病いを患っている。「女1=カナコ」は「男1」の姉で、一度嫁いだが、別居して実家に戻ってきているらしい。家政婦「ツタ」は、その家で寝食を共にし、家族の変化の模様のナレーターの役割ももっている。引用は、ある遅い夜の時間の「男2=父」と「女1=カナコ」との会話の場面だ。
≪父と娘≫
薄明りの中、男(父)が一人、部屋の中央にポツリとあぐらをかいている。
部屋のドアーをノックする音。
カナコ (ドアをそっと開け)お父さん……! ねた?(ト、姿を現す。)
あら、未だ起きてたの?
父 (そのままの姿勢で)ううん、いや……。
カナコ (電気のスイッチをひねり)ねむれないの?
父 (まぶしそうに目をしょぼつかせ)いや、その……。
カナコ (男の前に坐り)また、母さんの事、考えていたんでしょう。
父 そんな事はないよ。
カナコ ダメよ、頑張ってねないと。毎晩、こんな事を繰り返していたらその中、本当に身体、壊しちゃうんだから。
父 そうなんだけどね。でも、こうやって、一人で横になってると、奇妙な感じがしてね……。
カナコ 奇妙って……?
父 何というか……、夜、寝ている時は、当たり前みたいに、あいつがそこにいたからね。
カナコ それは母さんが居た時は当たり前だったでしょうけど、今はもういらっしゃらないんだから、早くそのことに慣れなくちゃダメでしょう。
父 解ってる。しかし、いつもそばにあったモノが急に消えてしまったものだから、なんか落ち着かなくてさ。
カナコ 何、云ってるのよ、モノだんなんって。母さんは置物じゃないんですからね。
父 いや、そういう意味じゃないんだけど……。
カナコ やっぱり、一人ぼっちになって、寂しいのね。
父 だから、そう云う事じゃなくてさ……。
カナコ だって、去年の春、母さんが亡くなってから、お父さんの身体、急にしょんぼりしちゃって……。
父 そんな事もないだろう。
カナコ いや、そうよ。なんか、そうやって背中まるめてると、もう何年もおじいさんしてきた人みたいよ。
父 馬鹿云っちゃいけないよ。未だ、私は現役バリバリさ。
カナコ だったら余計しゃんとしてなければ駄目じゃないの。
父 そんなにジジむさいかね?
カナコ ジジむさいもジジむさいも、いいとこだわ。
父 どうせ、そうだよ。まあ、私はほとんど本物のジジイなんだから、ジジむさく見えたって……、いいんだけどね。
カナコ 父さん、又……。直ぐスネるんだから……。
父 別に……。私はありのままの自分の現実を語っているだけさ。
カナコ ちょっとばかり傷ついた?
父 何が……?
カナコ (父親の顔を見て、クスリと笑い)ねえ、お父さん。少し肩、揉んであげる。(ト、父親の背後に廻る。)
父 (ドキリとした様子で、身をずらし)いや、いいよ。
カナコ いいから……。(ト、揉み始める。)
ーー(中略)ーー
父 (間)指がくたびれたろう? もういいよ、寝なさい。
カナコ (父親の肩を平手でポンポンと叩き)それではフィニッシュ! 少しは楽になった?
父 ああ、ありがとうさん。
カナコ (間)ねえ、私、今日はここで寝るよ。
父 ハハハ……。大丈夫だよ。もう、一人で寝れるよ。
カナコ そうじゃなくて……。私、こうして久しぶりにお父さんの身体に触れている中に、小さかった頃を思い出してね……。ほら、わたし、よくお父さんの布団に潜り込んで、お話をして貰ってる中に寝ちゃったでしょう?
父 (間)そんな時もあったな……。
カナコ 隣の布団には、アツノリが母さんの胸にしがみついて寝ててさ……。私達、あの頃は絵に描いた様な家族だったのよね。
父 (間)どんな家族にだって、絵に描いた様な一刻はあるさ。
カナコ (間)待ってて……、私、今、自分の布団、持って来るから。(ト、立ち上がり、去る。)
父 (見送り)……? (間。ポツリと)女体か……。
ーー溶暗ーー
▲元祖演劇乃素いき座第16回上演公演:1999年1月『おっちゃんの濃密手帖』
少し長くなったが、いい場面だと思う。会話の意味も雰囲気もとても解りやすい。どこが解りやすいのか。この場面は、作者が作者じしんを慰めている場面なのだ。作者は、この場面で、観客からの笑みや拍手喝采の見返りを求めていない。会話は、台本上の凸(主題の積極的な意味性)の雰囲気をもつものではなく、むしろ凹(作者の消極性への意志)のへこんでいる場面に相当している。台本でも小説でも、こういう凹のへこんでいる場面が面白い。
だが、この場面の会話は、現在のわたしたちの生活感情からみてあまりに遠くへ隔たり過ぎている。誰でもがそう思うとおもう。現在のわたしたちの生活感情なら『父さん、呆けが始まったり、歩けなくなったら、なるべく早く死んでよね、お願いよ。父さんを世話する時間もお金も、子育と亭主の世話と家のローンの返済で、その日その日、あたしらもうヘトヘトんなんだかんね、お願いね、勘弁よ』もちろん、そんなことは、いまもこれからも誰もが口には出さないが、けれども、この言葉は、心理的にわたしたちが今後追い詰められて行く身も蓋もない場所からいつか発信される言葉に違いない。当然、作者もそんなことは承知の上だから、むしろ、こういう深夜の親娘二人だけの会話に、浸透力と親和力の豊かな稜線に満ちた小世界をもたせて書いてみたかったのではないか。
わたしは、この凹のへこんでいる場面は、『おっちゃんの濃密手帖』という作者が設定した主題(全体の筋やテーマ)を超えて、素朴でいちばん輝いている場面だと思う。どういう言葉を使ったらよいのかわからないが、性愛の行為のない「父」と娘「カナコ」とのとても淡いエロスの場面に仕上がっている。明るく、ひかえめで慎ましいエロスの表現の場面となっている。
かつての早稲田小劇場で、ドラム缶から首を出したり、素っ裸で赤ふん男を演じた俳優土井は、もしかしたら、こういう場面のイメージを心のうちに秘めていて、堰を切ったように書き始め、作品化したんじゃないだろうかと思った。思わず「あの土井さんが……」としばし考え込んでしまった。
ここで、わたしにしか役に立たないローカルな台本の書き方をいってみる。要素は二つしかないから簡単だ。
一つは、言語の指示性による台本の骨組み、屋台骨、また筋やストーリー作りだ。これはどこの商店街にもある煎餅屋の店先の「○△せんべい」と書いてある意匠を凝らした表看板だと見なせばよい。二つめは、言語の自己表出性による、作者がじしんの無意識の自己解放を遂げる箇所だ。観客の笑顔や拍手喝采の見返りを望まないで済む作者の無償の表出の場面だ。この二つだけだ。筋やストーリー性を第一義の課題としてしのぎを削り生き抜いている大勢のエンターティメントの書き手さんたちが読んだら、わたしの言い分などゴミ箱に棄てられるに違いない。
「勝てば官軍」ほれたが因果
馬鹿で阿呆で人様の
お顔に泥をばぬりました。
欧米留学から帰った頃の高村光太郎のデカダンス生活の自嘲と自虐を込めた述懐になっている。
▲吉本隆明著『日本近代文学の名作/高村光太郎・高村光太郎「泥七宝」より
わたしには、こういう凹の場面で、先のようなエロスの場面や上の引用のような自虐の場面、どこにでもあるようなありふれた生活の情感の本音が出てくると、素朴に面白いし、解るなあ、いいなあと思ってしまう。凹の場面とは、作者が企画した積極的な物語性の拘束から、ほんの少しだけ作者が自由になれる場面なのだ。
引用部の最後の行の、「父」の「(見送り)……?(間。ポツリと)女体か……。」の台詞もとても見事な台詞だと思う。場違いな感じを与えながら、作者のもう一つの本音、「父」の「女体か……」の台詞に「なんちゃって……」という言葉も台詞の裏側へ貼り付けて差し出している。作者のエロスへの述懐の素直さと矛盾とが重なり合って描かれていて、とてもいいと思った。
また「元祖演劇乃素いき座」の作者や演出、俳優も気がついていないところで、現在の一般大衆の一人という位置に立ち戻り、じぶんの心のなかにある、生きて在ることの空虚さ、まじめでないのにまじめさを装うことの空々しさを、面白くもないのに面白い顔をしてみせるものたちへの嫌悪を含めて、作者はじぶんの思念を台本のなかへ書き込んでいる。それが、『おっちゃんの濃密手帖』のなかの「父」と「娘」との孤独とエロスの場面だと思う。
▲
●
■
余談だが、わたしたち夫婦は昨年(2022年11月)に新型コロナウィルに感染し十日間の自宅療養を経験した。熱は下がり、心身も落ち着いてきていたのでコロナは治ったには違いないのだろうと思っていたが、そうではなかった。感染する以前と以後では、心身の状態が驚くほど違ってしまっていた。心身の動きが鈍くなり、物忘れが激しく、なんともたとえようのない日がいまでも続いていて、じぶんの心身が他人の心身を借りているように思えて、深い疎隔感がある。これにはほとほとまいってしまった。これがコロナの後遺症というものなのか、それとも老齢でコロナに感染したので急速へ心身にガタがきている自然さなのか、素人なので判断はつかない。仕方なく、コロナ感染以後、わたしたち夫婦は、高齢者の《新入生》となったんだと考える日々が続いている。
第27回上演台本:2006年3月『みつめるーさいわい住むと人のいうーpartⅡ』作品へ入ってみる。
女 この時計のおかげで、私達は今日も丁度の時間にいつもの通りのお茶の時間を過ごせたのだわ、
男 (間)なんだかなァ……。
女 (間)ナミだかなァ……。
男 (間)何だい、それ……。
女 波ですかね?
男 エエッ!?
女 海の波……。
男 何がさ?
女 ですから、なんだかなァ……。
男 どうしてなんだかなァが海の波なんだい?
女 違うんですか?
男 だから、何が……?
女 波だかなァ。
男 違うよ、大違いだよ。
女 なんだ……。
男 なんだってなんだよ?
女 いえね、あなたがなんだかなァっておっしゃった時、何か波の音が聞こえたみたいな気がしたもんだから……。
男 そりゃ、耳を澄ませば、色んな音が聞こえて来るさ。
女 私の場合、波でした。
男 だからさ……。
女 で、結局、なんなんですか?
男 何が?
女 だから、なんだかなァって……。
男 (間)なんでも無いよ。
女 そう。(間)片付けます。
男 ああ。
&e
▲元祖演劇乃素いき座第27回上演公演:2006年3月『みつめる』
作者は、ここで「老夫婦」の聞き間違い、言い間違いの遊びを書きたかったのだろうか。確かにそういう遊びも含まれていないとはいえないだろうが、そうではない気がする。「男」と「女」は、目の前の相手に対してというより、むしろなにかよくわからないもの、それでいながら「男」と「女」にとってきわめて日常的で具体的なもの、得体の知れないくらい巨きなものに向かって苛立ち、抗っているように思う。
この作品を読みながら、わたしは、作者はこの作品の前後の時期に、以後のじぶんの生涯の作品のテーマを確定したと思う。だが、台本の構造や構成、情緒や雰囲気、言葉の選択等を作品のなかへ組み込むすべを手にまだ持っていない時期に書かれたのが『みつめる』だと思う。
わたしの勝手な想像に過ぎないが、作者は《老いる》ということはいったいどういうことなのか、《老い》にとって性とはいったいどういうことになっていくのか。《老い》ても人間の《性》は死ぬまで消滅などしない。そんな《老い》への解らなさへの苛立ち、抗いを書き始めている。
作者は「老いるということがよく解らんのだよ、それでは、これからももう少し生きていくんだから、困るんだ」という《老いること》への解らなさを描こうとしている。わたしたちは、じぶんたちが《老い》のなかへ置き去りにされ、《老い》についてはなに一つ解っていないという状態のなかにある。
これ以降、元祖演劇乃素いき座の作品、作者は、早稲田小劇場時代とはまったく違った世界へ突入していった。人間にとって誰にも解き明かされていない人間の普遍的で不可避な課題の一つの世界へ、作者と森下さんは二人で歩きはじめた。
いまのわたしには、土井さんの台本の感想はここまでしか解らない。
もういつだったか忘れてしまったが、土井さんと森下さんの芝居を見ていて、台詞を忘れてしまったのだろう、土井さんが「ア-、ウー」と困っている姿がとても可笑しくて面白かったので、芝居って台詞なんか忘れたっていいんじゃないんですか。客もぼくも楽しんで見てましたよと土井さんに伝えたら、土井さんに「芝居はそういうもんじゃない」とえらく怒られた。いまとなっては、わたしの忘れがたい土井さんの楽しい姿である。
最後に、「元祖演劇乃素いき座」の台所事情についてふれておきたい。
わたしのポテト堂の台所の実情を語ればよいことになる。ポテト堂も、わたしと稲川実代子の二人の劇団だ。たった二人で作る芝居の経済的な基盤は貧弱きわまりないものだ。これが、どこにでもある極小の劇団の典型の姿だ。
そして、二人(夫婦)だけの劇団のいちばんの問題は、作者や演出家が芝居の問題を家庭内へ持ち込んでしまうことだ。困惑するのは、ポテト堂の場合、舞台の創造費、及び家事一般を任せられている家人である。表現は個人の問題に属する。家庭は対の問題に帰属する。作者や演出家は、芝居を作ることの熱に浮かれているから、この基本原則を顧みることはできない状態だ。芝居に関わる資金、日々の生活の資金を捻出するのは、いつもきまって家人ということになってしまう。これが極小の劇団の創造の台所事情の姿だと思う。森下さんのご苦労は大変だったろう。
小さな集団を作り、自立した台本を書き、芝居を作りはじめた土井さんと森下さんに敬意を表します。貧しい土壌の土起こしからはじめなければなにも生まれない。
さようならです、土井さん。そしていままで本当にお世話になり、ありがとうございました。
▲
●
■
詩はにはまったくの素人なのだけれど中也の「帰郷」は好きで、最終連は諳んじています。
読んでみてください、土井さん。
これが私の故里ふるさとだ
さやかに風も吹いている
心置こころおきなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云いう
▲
●
■
◎今回は、元祖演劇乃素いき座の初期台本を選び、読ませていただきました。
※参考作品……元祖演劇乃素いき座、上演台本:浦路ひょこ(土井通肇)著。
●1999年1月、第16回上演台本『おっちゃんの濃密手帖』
●2002年5月、第24回上演台本『出かける』
★2004年9月、第25回上演台本『静かな海ーB面』
★2006年3月、第27回上演台本『みつめる』
●1991年8月、平田オリザ著『阿房列車』
-----------------------------------------------------------------------
★印は、竹廣零二さんにお願いして、貸していただきました。
●印は、土井さんより菅間が直接いただいた台本です。
◇掲載写真は2022年の賀状。左:森下眞理さん、右:土井通肇さん。