日付:2020年8月12日 

   もういいよ   稲川実代子

 

 

左寄せの画像

天草苓北町    

 

 
      もういいよ    稲川 実代子
 
 
  前略
 
 暖冬といわれたこの冬ですが、東京でも厳しい寒さが続いています。
そちらはいかがでしょうか。皆様、お元気でいらっしゃいますか。昨年は、ろいろお気遣いをいただき、本当にありがとうございました。遠い天草で、伯母のこと、母のことを憶えていてくださる方がいる。それだけで私は、ありがたく、嬉しかったのです。ありがとうございました。
 
 先日、伯母と母の一周忌の法要を、子供と孫だけでささやかに営みました。連日の激しい雨もこの日だけは止み、よく晴れて、春のように暖かい一日でした。伯母も母も、きっと喜んでくれたのかな……と、思いました。
 一周忌の法要が終わりましたので、生前の二人と約束したように、分骨したお骨を、天草へ連れて帰ってあげようと思います。毎日毎日、天草のことばかり話していた二人です。夢にまで見た故郷だったのでしょう。約束を守って、天草の海を見せてあげようと思います。
 
 そこで、お願いなのですが、よろしければ、分骨した二人のお骨をそちらのお墓に、埋葬していただけないでしょうか。
 当初は、てのひらにのるだけの、ほんの少しのお骨なので、海に散骨しようかと考えていましたが、強様から埋葬のお話をしていただき、あれからずっと考えてみました。せっかく故郷へ帰るのなら、そして、皆様に許していただけるのなら、懐かしい人々のそばで眠らせてあげる方が、伯母も母も幸せかもしれない……そう思うようになりました。それで、お言葉に甘えさせていただき、あつかましいお願いで本当に申し訳ありませんが、山口家のお墓に分骨した二人のお骨を埋葬していただきたく、よろしくお取りはからいくださいますよう、お願い申し上げる次第です。
 三月十二日(日)頃から十四日(火)頃まで休暇がとれましたので、できれば、三月十二日(日)か、十三日(月)に、納骨をお願いできないでしょうか。
 
 何もかも初めてのことなので失礼がありましたらどうぞお許しください。お寺さんや石屋さんへの依頼など、大変なご面倒をおかけすることと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。また細かいことは、後日私の方からご連絡いたしますので、相談にのってください。今日は、埋葬のお願いのため、お手数を書きました。
 
 まだまだ寒い日が続きそうです。どうぞ皆様、くれぐれもお身体、ご自愛くださいませ。
かしこ   
 平成十八年一月十九日             ミヨコ
 
     山口 強 様

 「はい、おはよう」
 と言って、普段着の作務衣姿でお坊さんが仏間に入ってきた。ちょっと前、玄関前にバイクを止める音がしていた。お坊さんだったのだ。
 従兄の強さん、力さん、満久さん。強さんの奥さん、娘の浩美さん、息子の幸人さん。従姉の洋子さん、マツ子さん、マツ子さんのご主人の明男さん。そして、私と夫。ピタリと呼吸を合わせたように整然と座って、目の前で風呂敷包みを広げ着替えを始めたお坊さんの後姿を、伏し目がちにうかがう。質素な灰色の袈裟を着け、仏壇の前に置かれた小さな座卓の上にちんまりと座っているチヨさんとオキノさんの前に正座された。袖を正すように大きく両手を広げると、読経が始まった。天草の禅寺のお坊さんの、天草訛りのやさしい経音が、チヨさんとオキノさんの小さなお骨に霧のように滲みていく。皆はそれぞれにチヨさんとオキノさんを想い、目をつぶった。

 「天草へ帰りたいなぁ……な、おばちゃん。アハッ、あんた、連れてって」
と、はしゃいで語るオキノさん。
 「あたしゃ、天草なんか帰らん」
と、毅然と断言するチヨさん。
ふたりとも、私の反応をうかがうように、小さな目をこちらに向けて返事を待っている。
 「あのネー、車椅子二つ押して、私ひとりでババ二人、飛行機に乗せられるわけないでしょ。ふたりが死んでお骨になったら、骨で連れて帰ってあげるから、それまで楽しみに待ってなネ。ヤクソク」
五秒位、ちょっと考える様子を見せて大笑いが始まった。
 「アハハハー、やだよー。骨になったらなんも見えないじゃんか」
 「そうだな。それにお前、天草のうまいもん、なんも食べられん」
 「でも、マァ……骨でもいいかー。連れて帰って……、アハッ」
ふたりはそんなことを語りながら、何がそんなにおかしいのか、少女のように笑いこけた。

 
左寄せの画像  チヨさんとオキノさんが七十余年前、東京へ向かって辿った道を帰ってあげたかったが、わずか三~四日の日程ではそれは不可能だ。せめて長崎の茂木港から船で天草富岡港へ渡り、子供の頃遊んだであろう明神山や、この日賑わっているはずの志岐八幡宮のお祭りを見せてあげようと思った。ところが、この日に限って海が大荒れで、高速船がまさかの欠航。やっと辿り着いた茂木港で、高速船発着所の入口ドアに〈欠航〉とマジックで書かれた貼り紙を見た時、リュックに入れたチヨさんとオキノさんのお骨を胸に抱え、白波の立つ彼方を睨みながら私は途方に暮れた。もう午後二時を過ぎている。今日中に天草に渡れなければ明日の納骨式はできない。ああ……。
 私の様子に夫が機転をきかせ、天草へ今日中に渡れる他のルートを事務所の人にきいてくれた。
 「口之津からならフェリーの出とるかもしれんですよ」
 私たちは大急ぎで長崎市内へ戻り、諫早を経由してバスで島原半島の南端、口之津港へ向かった。――あとで考えるとバカみたいだが、港の電話番号が観光パンフレットに載っていたのに確認の電話をかけることすら思いつかず、口之津港に着いてまた〈欠航〉と貼り紙がしてあったら今度こそどうしようかとか、港の周辺に宿はあるだろうかとか……バスに乗っている間中、ずっと気分は重かった。――そして夕暮れ時。ヤッター!天草鬼池港行きのフェリーが運航していた。
 窓の外は靄がたちこめ何も見えない。日が暮れてもやはり波は荒く、フェリーは大きくゆんわらゆんわらと揺れながら天草鬼池港に到着した。スロープを降りて行くと、強い海風に煽られながら小柄な女性が震えるように立っていた。
 
 「ミヨコさんね?」
 「洋子さん?」
 ほとんど同時に声をかけた。
 「大変やったとねー。ようお出でやっと。まあー、今日は寒かもんねー。はよ乗って」
 強さんの家はこの日、志岐八幡宮のお祭りの当番とかで、夜八時頃まで不在ときいていた。私は皆が忙しい時に勝手に納骨の日程を決めてしまった。それなのに快く引き受けてくれた強さん。富岡港から地図を見ながら行くつもりでいた強さんの家も、鬼池港からではまったくどう行けばいいのかわからないので、洋子さんに到着時間と到着場所を口之津港から連絡しておいた。ご主人の吉男さんと車で迎えに来てくれたのだ。洋子さんとは三十五年ぶりの再会だ。やさしい笑顔とやさしい声は変わらない。
〈あー、着いた。おばちゃん、お母ちゃん、天草に帰ってきたよ……〉
 朝自宅を出てから十二時間半、夫と私は、飛行機やら電車やらバスやら船やら乗り物に乗り続け、ようやく天草に辿り着いた。

 「志岐村の吉本さんて、知ってるか?」
 「知ってるヨー。船、造ってた家だろ?吉本さん。……あー、だけど知らないまに、みんないなくなったよ」
 
 オキノさんの痴呆が始まったばかりの頃、私の質問に得意気に即答した。天草志岐村でのオキノさんが十歳頃までの記憶に“吉本さん”は残っていた。吉本さんというのは、あの“吉本隆明さん”のお父様、お母様たちのこと。チヨさんとオキノさんが生まれ育った家と、吉本造船所は目と鼻の先にあった。吉本家が一家をあげて志岐村を出るまで、チヨさんとオキノさんは隆明さんのご兄弟と遊んだかもしれない。そして、チヨさんとオキノさんのお父さんが所有していた船“大島丸”は、恐らく吉本造船所で作ってもらったものだ。

 私たち夫婦の敬愛する友人、石関善治郎さんが、“吉本隆明の東京”という本を出版した。この著書のおかげで見えてきたことや、確信できたことは多い。
 オキノさんの「知ってるヨー、吉本さん」の話をしたのがきっかけで、天草時代の吉本家の調査のため、私の親戚や地元の人々から昔の話がききたいということで、石関さんも同じ日程で私たちと同じ宿に滞在することになっていた。
 
 鬼池港から、洋子さん、吉男さんご夫婦の家に案内され、促されて居間に入ると、洋子さんのお兄さんの満久さんと、奥さんの笑美子さんが待ちかねたように迎えてくれた。食卓には所狭しと、天草の海の幸や手造りの料理が並べられている。私はリュックからチヨさんとオキノさんのお骨を出して、お礼を言った。満久さんは神妙に手を合わせてからニッと笑って、
 「さ、はよ飲も」
 と言ってビールを注いでくれた。満久さんや笑美子さんとも三十五年ぶりの再会だ。三十五年はそれぞれの風貌を変えたけれど、まるで毎日会っておしゃべりしている者同志のように話はなめらかに弾んだ。大勢の初対面の人の中に入ると、いつもはパッタリと口をつぐんでしまう夫も、なんかこの日は嬉しそうによくしゃべった。そして夫が“船を造っていた吉本さん”の話
をすると、洋子さんが、
 「裏のじっちゃんが昔のことよーく知っとるけん、呼んで来よか」
 と笑美子さんに相談する。
 「じゃっどん、じゃっどん、それがよか」
 と笑美子さん。
 現れた裏のじっちゃん、時田松市さんは、夜だというのにこげ茶色のチェックのジャケットをおしゃれにきちんと着て、櫛目の入った白髪に手をやりながらちょっと照れたように笑った。オキノさんより一つ年下ということは、この時九十一歳。元大工の棟梁。しっかりしている。
 「チヨさんもオキノさんも、よう覚えとる。子供ん頃よう遊んだばってん。……あー、チヨさんの嫁に行った日な、船に太か幟ば立ててな……」
 と、ちょっとアヤシイところもあったが(チヨさんは天草で嫁には行っていない)、吉本造船所の話になると、俄然リキが入ってきた。私たちが話をきくより石関さん本人が取材した方がいいと思い、洋子さんたちの許しをもらって急遽、石関さんを呼んだ。
 
 石関さんは大急ぎで紅い顔をしてやって来た。
 「スイマセン。到着が遅れるということだったんで、今日はもう宿でひとりでイッパイやってたところで。こんな顔でスイマセン」
 しきりに恐縮する石関さんだが、松市じっちゃんに挨拶すると見事に取材者の顔になって、録音テープを回した。松市じっちゃんは目の前の録音テープにちょっと緊張し、言葉が堅くなったものの、石関さんの矢継ぎ早の質問にもはっきりと迷うことなく応答していた。私たちは皆黙って石関さんと松市じっちゃんのやりとりを見守った。
 取材が終わると、洋子さん、吉男さん、笑美子さん、満久さんたちは石関さんの目的を了解したらしく、皆それぞれに電話帳を持って来たり、知り合いに電話したり、忙しく動き出した。
 「○○の○○さんは昔のことよう知っとるとよ」……
 「○○の○○に電話ばかけてみ」……
 「○○の電話帳ば、どけーやったとやろね」……
 ものを尋ねられたら知らないことまでも懸命に考える。尋ねた人と一緒になって悩み、考える。天草の人々の情の深さのかけらを見たように思った。
 この“吉本造船所、思い出して”話は、私たちが帰る前日まで皆の頭の中に刻まれ、松市じっちゃんからは何度も“思い出した!”と電話が入った。ありがとうございます。時田松市じっちゃん。
 このあと皆でいただいた洋子さん、笑美子さん手造りの料理、数々の海の幸のおいしかったこと。石関さんも眉尻を下げて雲丹を食べ、お役目を終えた松市じっちゃんもホクホク顔で焼酎を飲んでいる。――この席に、生きて、チヨさんとオキノさんがいたら――ふと思った。
 
 そろそろ強さんの家に行かなければならない。再び洋子さんと吉男さんが車で案内してくれた。夜八時半頃。外はまっ暗。月明かりだけの道だ。荒波の音、強い風の音がきこえる。他は何もない。洋子さんが懐中電灯で足元を照らしてくれた。
 「こんばんは。遅くなって」
 鍵のかかっていない玄関の引き戸を開けて洋子さんが叫ぶと、しばらくして、びっくりするほどチヨさんにそっくりな顔の強さんがニコニコして出てきた。“実直”が服を着たような、昭和七年生まれにしてはスラリと背の高い手足の長い人だ。三十五年前、ちょっとだけ会ったことのある強さんだが、お互いにほとんど記憶がない。
 「ようお出でやっと。疲れたとやろ。はよ、上がらんね」
 本当に嬉しそうにニコニコ顔で仏間に案内してくれる。ひとつの部屋のような、立派な仏壇があった。チヨさんとオキノさんの小さなお骨と写真を仏壇に上げてもらって、私たちは手を合わせた。東京で仏壇といえば、部屋の中にひとつの家具のように置かれたものを想像するが、天草では、多くの人々にとって仏壇は家の中のもうひとつの家、亡くなったご先祖様たちの家なのだ。家を建てる時ご先祖様の家も一緒に建てる。そして何の不思議も違和もなくご先祖様と同居している。
 「立派なお仏壇ですね」
 と感嘆して夫。
 「はー、どこも、こんなもんじゃっど」
 となんでもなく言う強さん。
 そういえば、洋子さんと吉男さんの家でも、トイレに行く時垣間見たお仏壇は、大きな立派なものだった。あ、植里家のご先祖様に手を合わせてくるのを忘れてしまった。天草では他家を訪れたらまず最初に、仏壇にお参りするようにときいたことがある。ごめんなさい。吉男さん、洋子さん。
 強さんの奥さんは、恥ずかしそうに笑顔でお茶とお菓子をすすめてくれる。お祭りの当番で今日一日ずっと忙しかったはずなのに、遠慮がちにニコニコと話に加わる。三十何年か前にオキノさんに買ってもらった半纏とセーターの話。
 「天草でん、寒か時は寒かですもんね。オキノ叔母さんのよう知っとらして、わたしに東京のハイカラな半纏と、息子にも東京のハイカラなセーターば買ってくれたとです。息子はそんセーターば着よらんと、どげん嬉しかったとやろかね、毎晩抱いて寝とりました」
 今でも大切にしまってあるという。七十年以上も前に島を捨て家を出ていった二人の叔母のことを、強さんご夫婦は何ひとつ拒むことなく受け入れてくれる。そして、懐かしくてたまらんというように目を細めて私たち夫婦を見つめる。
 「叔母さんらの世話ば……なんもしよらんと……すまんかった。ばってん、叔母さんらもやっと家へ帰って来らして……喜んどると……」
 朴訥に語る強さんのことばに私は声が詰まった。
 「はい、この度はありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
 やっと言った。
 
 
 読経が終わった。
 これから墓所まで皆で歩くという。
 「五分位なもんばい。さ、行こか」
 強さんが皆に声をかける。私はお骨を抱え、夫はカメラを準備し、強さんの奥さんが仏前に飾ってくれた庭に咲いたという可憐なオレンジ色の花や、白い花、お線香や、水の入った薬罐やバケツを皆で持って、お坊さんを先頭に歩き出した。昨日からの寒さと強風が続いている。
 「ウー、寒かー。こげん寒さばめったになか」
 と口々に言う。皆なんとなく興奮しているみたいだ。強さんの家を出て裏の斜面を降りていくと富岡湾だ。海を左に見て二百メートル位歩くと、右手に墓標が並んでいるのが見えてくる。富岡湾を見降ろすように、斜面を少し上がった所に“山口家之墓”はあった。
 大きな墓だ。回りを見ると他の家の墓も皆大きい。首都圏の墓地では見られないような大きな墓ばかりだ。そういえば、石屋さんはどうしたのかなと思っていると、強さんが墓石の脇に立ち、重そうな分厚い石の扉を開けた。中に骨壺が八つ。立ったまま大人が二人は楽に入れる。
 「どこに置こか」
 強さんは扉の中に入って八つの骨壺の位置を直している。ひとつだけ小さな骨壺がある。オキノさんが昔、たった一度だけ恋をして、ひとりで産んで、終戦直後に一歳にもならずに死んでしまった女の子。私の姉の骨壺。
 「チヨさんは奥に。オキノさんは誠子ちゃんの隣に。……いいですか?」
 「ああ、よかよか、それでよか」
 強さんは、私の言った通りにふたりのお骨を安置して、何回も頷いた。
 「ああ、これでよか、これでよか」
 また読経が始まった。強い海風に吹かれながら皆でお線香をあげた。夫がしきりに写真を撮っている。
 〈おばちゃん、お母ちゃん。ほんとうに、お別れだね〉
 平成十八年三月十三日。チヨさんとオキノさんは、懐かしい人々に囲まれて、大好きな海を見ながら、深い眠りについた。私がふたりにしてあげられることは、もう何もない。
 
 
 四日めの朝、高速船の運航がようやく決まった。富岡港を朝一番の船で出発だ。石関さんが名残り惜しげに港へ行く道の途中まで送ってくれた。
 二十人程しか乗れない小さな船だが、モーターボートのように波しぶきをあげて爆走する。これでは少々の荒波でも欠航するはずだ。窓ガラス越しに外を見ていても波をかぶりそうだ。振りむいて、遠去かっていく天草の島と海を見た。朝の陽射しを浴びて、島も海も群青色に広がっている。美しいと思った。
 昨日、夫は隣町の五和町まで石関さんの調査に同行した。吉本家についての大きな収穫があったそうだ。私は、満久さんと洋子さんのお母さん、マサ伯母さんを特養ホームに見舞った。海に面して明るく広々としたホームだ。マサ伯母さんは寝たきり状態で意識もあまりはっきりしていないときいていた。
 「オキノしゃんの娘のミヨコさんよー」
 洋子さんと笑美子さんが耳元に語りかけると、ニコニコ笑って布団から手を出し私の手を握って離さない。
 
 「おばさん、ミヨコですよ。二十歳の夏、一週間もおばさんのところでお世話になりましたね。ありがとうございました。元気でいてね。また来ますからね」
 私の言うことにひとつひとつ笑顔で頷き、握った手に微かに力が入る。洋子さんも笑美子さんも
 「こげん反応ばしよっと。珍しかねー」
 と、不思議そうに、嬉しそうに顔を見合わせた。

 それぞれの病院のベッドの上で、意識もなくただ眠り続けていたチヨさんと、自分で寝返ることもできず痛みに耐え続けていたオキノさんを思った。ひどい痛みや苦しみが長く続くと、人は超能力を発揮して、離れた所に居る者同志で交信ができるのかもしれない。

 チヨさんがメッセージを送信する。
 「オキノよ。あたしゃもういいよ。これ以上はミヨコがかわいそうだから、先にいくよ。お前も早くけりつけておいで。待ってるよ」
 オキノさんが返信する。
 「おばちゃん、疲れたろ。わたしももういいよ。ミヨコがかわいそうだから、わたしもそろそろいくよ。だけど、ふたり一緒じゃミヨコがなおかわいそうだから、一ヶ月くらい遅らせるよ。先にいって待っててよ」
 「ああ。もういいな」
 「うん。もういいよ」

 群青色の島と海は、私にそんなことを連想させる。だって、そうでなくちゃ、そうでなくちゃ……。
 
 「また来よう」
 夫がポツリと言う。
 「うん、また来よう」
 私は答えながら、富岡湾の方向へ送信してみる。
 〈おばちゃん。お母ちゃん。私も、もういいよ〉
 高速船のエンジン音が響く。返信はない。
 
 
★「ストイケイオン19号」所収 平成19年2月5日刊  「もういいよ」 稲川 実代子。 
写真:口之津港。 
 
 
 
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