日付:2020年2月25日 

  哀悼 岡田 幸文さん

 

中央

☆在りし日の岡田幸文さん        

 
 
   わたしのなかに生きている 岡田 幸文さん…… 
 
 
 訃報は、やはり突然のようにやってきた。ミッドナイト・プレスの社主で、詩人の岡田幸文さんが令和元年12月9日午前2時5分に亡くなられた、と報らせをくださったのは詩人の八木幹夫さんだ。岡田幸文さんの訃報は、わたしたち夫婦にとってはとても衝撃だった。
 
 岡田幸文さんは、いつもあまり多くを語らず、わたしたちの話を「うん、うん」と静かに聴いてくださり、いつも笑みをたやさない受け身で穏和なひとだった。12月14日(土)の『岡田幸文 お別れの会』へわたしたちは夫婦揃って、岡田幸文さんと山本かずこさんご夫妻に逢いに行った。岡田さんとわたしと同い年で、彼は69歳で逝ってしまったことになる。妻の山本かずこさんは一人残されてしまった。
 
 岡田幸文さん、山本かずこさんご夫妻といつ頃、どこで知り合ったのか憶えていない。三十数年ほど前からすでにお付き合いをさせていただいたことは確かで、たぶん評論家の芹澤俊介さんから「凄い詩を書く詩人さんがいるんだよ」と紹介していただき、お二人にお逢いし、以後ご懇意にさせていただいていたと思う。たいてい都内の喫茶店とかでお逢いするのだが、岡田さんと山本さんはいつもご夫妻で、わたしたちも夫婦で揃ってお逢いした。妻は山本さんと逢うたびに急速に仲良くなっていくようだった。
 岡田幸文さん、山本かずこさんから贈っていただいた詩集は必ず夫婦で読ませていただいている。詩に素人のわたしはただただ「凄いなあ」と感想を抱くだけで、岡田さん、山本さんの書かれた詩について哀しいかなお二人にお話しする言葉をなにひとつもてなかった。大変に申し訳ないと思っている。
 
 わたしは、岡田さんの詩業について語ることはできない。わたしが語ることのできるのはごく僅かなことで、わたしのなかに存在する岡田さんの、無償で空白の愉しい時間の過ごし方、についてだ。
 岡田さんの『midnight press』や彼の個人詩誌『DANCE!』の「あとがき」は愉しかった。彼が編集の仕事が一段落したときとか、詩作が終わって肩の力を少し抜いてビールでも呑んでいるときとか、彼は休息を交えながら大好きなビートルズの歌の歌詞を日本語へ翻訳している文章は、彼の人となりを感じることができる。どのように翻訳したらよいか考え悩んでいる彼の難しい顔、言葉がピタッと決まった時の子供のような彼のうれしそうな笑顔、そんな彼の表情が浮かんできて、読みながらこちらもうれしい気分になってくる。というより、岡田さんはこの翻訳の時間を至福のときとして大切にしていたのではないだろうか。事実、彼の「あとがき」にはビートルズの話がよく語られている。

●<オール・マイ・ラヴィング>については、ジョン・レノンの次の言葉に尽きるだろう。
 「これは残念なことにポールの曲だよ(笑)。原稿にここで「笑」と入れといてくれよ。
くやしいほどいい曲さ。(歌い出す)バックで思い入れたっぷりのギターを弾いているのがぼく」
 この歌についてはなにも言うことはない。とにかく最高!
 好きな酒場で好きな人と酒を呑んでいるとき、この歌が流れてきたら、明日も生きられると僕は思うのだ。
 ところで、この詩の訳はむずかしかった。
「I miss you.」とか「I'll be true.」あるいは「I'll pretend……」など、シンプルな言葉が繰り返されるばかりなのだが、そのシンプルが容易ではない。
 ともあれ、「オール・マイ・ラヴィング」という言葉と「くやしいほどいい」メロディとの結合がこの歌の成功の理由だろう。
 
 
   オール・マイ・ラヴィング  (訳:岡田幸文)
 
   目を閉じて! キスさせておくれ
   明日になれば 君はいない
   だけど 僕はいつだって君のことを考えていること
    を忘れないでほしい
 
   君に会えなくても
   僕は毎日手紙を書くよ
   そして 僕の愛の全部を君に送ろう
 
   キスするふりもするだろう
   君はいないのに
   ああ 君と一緒にいられたら
 
   君に会えなくても
   僕は毎日手紙を書くよ
   そして 僕の愛の全部を君に送ろう
 
   僕の愛の全部を君に送ろう
   ダーリン 僕の心は変わらない
 
   僕の愛の全部を君に送ろう
   いとしい人よ 僕の心は変わらないよ
   僕のすべての愛
   愛の全部を君に送ろう
 
☆『 DANCE! 6 』 (1993年3月20日発行)発行人:岡田幸文。   

 岡田幸文さんが「詩」を書くときの心身の構えを脱いだ文章を読むと、なぜかほっとするのだ。キーンと冷えたビールを呑みたくなってしまう。別に詩人でなくとも、誰でもそうだろうと思うけど、「遠くまで行きたい」という願望と、「このままでいいんだ、遠くまで行けなくとも」という、その二つの気持ちは岡田さんのなかでちぐはぐに存在しながら同在している。岡田さんのあの笑顔を思い出すと、岡田幸文さんはそういう人だったように思えてならない。つまり、だれもが<無償で空白の愉しい時間の過ごし方>を密かに抱いて生きている。勝手な言い分だが、岡田幸文の「あとがき」の文章には<じぶんの立ち位置をしっかり見つけ、ゆっくりでも歩みを続けなさい>という彼の無声の激励の言葉が織り込まれていて、どれだけ救われたことか解らない。
 
 
 岡田幸文さんと山本かずこさんは、ほぼ三十数年わたり、毎回のようにわたしたちの芝居を見に来てくださった。最後にいただいた岡田さんのわたしたち馬鈴薯堂の『光合成クラブ・Ⅱ(2017年11月)』という芝居への手紙の全文を引用したい。

 
 菅間 勇 様
 稲川 実代子 様
 
 
 冠省 昨日の「光合成クラブ・Ⅱ」、たいへんおもしろく、よい時間を過ごすことができました。どこがよかったのか、考えてみたく、以下、思いつくままに記してみたいと思います。
 この「光合成クラブ・Ⅱ」は、23年前の台本のリメイク版ということですが、物忘れの激しい僕にはもとより23年前の芝居を思い出せるはずもなく(「光合成クラブ」というタイトルはかすかに記億にありますが……)、菅間さんの新作を見に行くという気持ちで江古田に向かいました。
 ところで、芝居が始まる前に、配られたチラシにあった「見果てぬ夢」という菅間さんの文章を読んだのですが、これがいつにない迫力が感じられ、どんな芝居が目の前に現われるのだろうと、開演のベル(口上)を待ちました。
 結論(?)を先に云えば、「光合成クラブ・Ⅱ」は、2017年、安倍政権下の日本を描いた問題提起的作品であると同時に、芝居の可能性に向けて無償の挑戦を試みる菅間勇(台本)・稲川実代子(女優)のおふたりに勇気を与えられる作品であると思いました。
 印象に残ったシーン、あるいはセリフはいくつかありますが(それは、「カメラを一箇所に据え、公園内での風物を映し出した(作り出した)もの」であるがゆえにリアリティを持ちえていると思いました)、まず女優・稲川実代子の存在感がハンパでなかった。和田アキ子の歌(だったと思いますが?)を歌う稲川さんは、女神降臨ともいうべき、オペラに満ち満ちたもので、オペラのアリアを聴いたような興奮を覚えました(思わず「ブラボー!」と叫びたくなるほどでした)。それはその後の踊りのシーンにも現われていて、稲川さんの身体の動きは神業としかいいようのないものでした。
 また、高橋広吉さんによる難病者の言語表出、村田さん(加藤和彦です:菅間注)による世界の言葉のアラカルトなどのシーンは、「生活の場面で瞬間に生成し次の瞬間には消滅してしまう」もののカタログのコラージュのようでもあり、忘れ難い印象を残しました。
 今回の芝居が成功している理由は、菅間さんの問題意識が役者全員と共有されていること、結果として役者のみなさんが生き生きとしていること、そうであるがゆえに可塑的な情況が観客と共有されていることなどにあると思いました。
 いつも芝居のご案内をありがとうございます。「未知へと向かう芝居へのぼくの哀しい見果てぬ夢」を生きる菅間さん、そして稲川さんのさらなるご活躍をお祈りしています。どうぞ、お身体をお大事にされますように。
草々      2017年11月30日
岡田 幸文   

 岡田さんはいつもこんな具合に、時には声で、時にはあの笑顔で、わたしたちの貧しい雑音芝居へ激励を送ってくださっていた。以下、わたしたち馬鈴薯堂の芝居「 光合成クラブ・Ⅱ 」の当日の挨拶文です。
 
 
      ~ 見 果 て ぬ 夢 ~
 
 本日は、ご来場ありがとうございます。
 ぼくは、4~5本に1本の間隔でまったく意味不明の作品を作る男といわれています。今回の「光合成クラブ・Ⅱ ~男のいない女たち~」もそんな意味不明の作品です。作品内容は、NHKの「ドキュメント72」みたいに、東京タワーの見える名もない小さな公園の、夜の10時から1時間ほど、いわばカメラを一箇所に据え、公園内での風物を映し出した(作り出した)ものです。
 もちろん、頭も尻尾もないこんなものは芝居ではないといわれるでしょう。それはよくわかっていますが、でも、ほんとをいうと、芝居にもならないこんな非・芝居を作りたくて、4本か5本に1本作ってきました。なぜ、そういう芝居を作りたいとおもっているのか。
 ぼくは、言葉としての「物語」を書く力はありません。かろうじてぼくに書きとめることができるものは、それは一般の生活者のだれでもが日々の生活のなかで脳裏に書きとめているものと同じで、生活の場面で瞬間に生成し次の瞬間には消滅してまう、生活のなかのごくありふれた小さな幸せであったり、悔恨の暗い心であったり、そんな心のうちで束の間泡立ち、そして消えてゆくだけで、言葉以前の痕跡はのこるけれど、言葉にはとどめえないものたちばかりです。
 また、ぼくの無知な思い込みを率直にいえば、重なり合ったもう2つの理由があります。芝居は「物語」の風下にいつまで立っていなければならないのか、という孤立感。いま劇は「詩」に近づきたがっているという表象(演技)の純化へのあこがれ。もちろんこの重なり合った課題はぼく固有の妄想に過ぎませんが、そんな心の底から湧き昇ってくる妄想(未知へと向かう芝居へのぼくの哀しい見果てぬ夢)をかなぐり捨てて芝居らしい芝居を作っても、ぼくには芝居を作ったことにはなりません。
 今回も、ぼくの力不足で、芝居にまったくなっていないとの感想のあることは充分に承知していますが、それでも力一杯、観客のみなさまに楽しんでいただけるよう頑張って作りました。
 60分と少しの芝居です。ぼくの見果てぬ夢を、厳しい眼差しでご覧下さい!
 
 
 
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okada        2005年の忘年会。左より、山本かずこさん、吉本隆明さん、菅間、岡田幸文さん。 

 
 
 
 わたしが故吉本隆明さんのミーハー読者であることを知っていた岡田さんから「一緒に吉本さんの忘年会に遊びに出かけませんか」と突然のお誘いをうけた。その歳の忘年会は2005年の暮れも押し迫った12月28日で、吉本さんと一度お会いし、お話しをしてみたいと思っていたわたしのミーハーぶりを岡田さん、山本さんは見透かしておられて、先回りして誘ってくれたのだ。当日は、わたしども夫婦は上気して、岡田さん、山本さんご夫妻のお尻にくっついて吉本隆明さんを囲む忘年会へお邪魔した。
 吉本さんと話しておられた岡田さんから「こっちに来たら」という手招きをうけ、お二人の近くへおずおずと歩み寄った。岡田さんから「芝居の中村座の台本・演出の金杉(忠男)さんのお弟子さん筋にあたるような感じの菅間さんです。芝居をやっている方です」と、はじめて吉本さんにご紹介していただき、吉本さんの第一声は「あ、そうですか、金杉さんの。まだ金杉さんは芝居をやっておられるんですか? そうですか」。
 話が弾んだのは、翌年(2006年)の春になったらわたしたちは妻の亡くなった母と伯母、その二人の遺骨を故郷天草へ分骨に行くという話になってからで、妻の母の故郷熊本県天草郡苓北町志岐は、偶然にも吉本隆明さんのご尊父の故郷と同じで、それも吉本家のごく近くに母(オキノ)と伯母(チヨ)は住んでいたらしいということで、話しが盛り上がった。
 痴呆がはじまっていた母に、妻は、

 「志岐村の吉本さんて、知ってるか?」
 「知ってるヨー。船、造ってた家だろ? 吉本さん。……あー、だけど知らないまに、みんないなくなったよ」
 オキノさんの痴呆が始まったばかりの頃、私の質問に得意気に即答した。天草志岐村でのオキノさんが十歳頃までの記憶に“吉本さん”は残っていた。吉本さんというのは、あの“吉本隆明さん”のお父様、お母様たちのこと。チヨさんとオキノさんが生まれ育った家と、吉本造船所は目と鼻の先にあった。吉本家が一家をあげて志岐村を出るまで、チヨさんとオキノさんは隆明さんのご兄弟と遊んだかもしれない。そして、チヨさんとオキノさんのお父さんが所有していた船“大島丸”は、恐らく吉本造船所で作ってもらったものだ。
☆稲川実代子著「もういいよ」より引用。   

 吉本さんは笑顔で「天草へ出かけて、どなたかの家へお邪魔するようなことがあるのでしたら、その家の仏壇にまず手を合わせてください。それと現在の天草では大きく三つの宗教があります。キリスト教、浄土真宗、禅宗です。禅宗は天草の乱のあと宗教がないと困るだろうからと徳川家が禅宗を天草へ持ち込んだものなんです。」と吉本さんが話してくださった。
 
 天草の母の親類の家へ寄ったとき、仏間自体が大きな一つの仏壇みたいに映った。
 最初で最後のたった一回きりだったが、こうして岡田さんと山本さんのお世話で吉本さんにはご迷惑だったかもしれないが、わたしと妻にはなによりの愉しい思い出となった。それも、もう十五年前のことだ。
 岡田さんと山本さんには、お世話になりっぱなしで、わたしのうけたたくさんの様々なご親切をお返しする前に岡田さんは亡くなられてしまった。
 
 さようなら、 そしてありがとうございました、 岡田幸文さん。
令和2年8月3日     
 
    ☆ 稲川実代子著「もういいよ」へ。