日付:20178年2月 

  江古田ワンズ・スタジオ近くの普通味のラーメン屋さん

 

中央

netで拾った食べたい普通の醤油ラーメンの写真  

 
 
 去年(2016)の秋、東京練馬・江古田の劇団「一の会」の劇場ワンズ・スタジオをお借りして「踊り子」という芝居を上演させていただいた。そのおり仲間の俳優さんたちに、ワンズ・スタジオの近くにラーメンを300円で食べさせてくれる老夫婦のやっている下町風の小さな中華そば屋がある。ラーメン好きなら一度くらい行って食べてみたらどうだ、きっと気に入るぞ、とすすめられた。
 芝居の仕込みのあい間をぬって行ってきた。お店は思ったより小さく、カウンターと小テーブルが二つで、満席でもせいぜい10人ぐらいで、俳優さんのいうとおり八十近い老夫婦の気取りのない下町風の普通の中華ソバ屋さんで、おじいさんとおばあさん二人ならなんとかやっていける規模なのだろう。店の隅には漫画や雑誌の本棚、カウンターのうえにはスポーツ新聞、カウンターは低く調理するおじいさんの手元がみえ、店に入るのに気取り必要なく、サンダル履きでくつろげそうなこのラーメン屋さんがすぐに気に入って4日間も通ってしまった。
 こういう気取らないラーメン屋さんは、オレの生まれた墨田区玉の井(現東向島)の場末の街にたくさんあったラーメン屋さんみたいでどこか懐かしさを感じたのかもしれない。店主のおじいさんと三角巾に割烹着のウェイトレスのおばあさんが作ってくるラーメンは、玉の井同様昔風の支那そばで、麺もスープもことさら取り立てて美味いとか嫌いの判断を超えている。この味が江古田の住宅街片隅にあり、ラーメン300円~もやしそば400円なのはなぜか奇妙な感じがした。
 注文した品が出てくるあいだや食事をしているあいだもくったくなく手足が伸ばせて、この店は、オレのような無職の初期高齢者や近隣の独身男性にきっと重宝されているに違いない。食通を気取っている男性でない限り、日々に追われている男性の日常生活の食事は気楽さと簡便さ、手頃な値段、店の雰囲気も含めて、それらの総合点が独身男の<入りたい店の>を構成している、もひとつ味だからだ。この店は、言ったもん勝ちのささくれだったいまのバカみたいな世の中から一時的に眼と耳を塞ぐことが可能な店だ。
 店のラーメンは想像した通りのあっさりの醤油味だった。スープもそれなりに鶏や豚や野菜で出汁をとっている。あっさり味も好きだがもう少し濃い醤油味と適度に鶏や豚脂が浮いてるこってりも好きだ。もちろん¥300で四の五のいう気は毛頭ない。タンメンは野菜の盛りは大盛りで、上海風の焼きそば……カウンター越にみていたら、ラーメン玉を硬めに茹でて、野菜炒めになかへ放り込んで焼きそばにしていたように思う……がとても美味しかった。
 店の雰囲気も、店主もおじさんもおばさんも、ラーメンの味も、手を抜いているというより適度に投げやりな感じがいいとてもいい。客はそこそこに投げやりな感じに開放感をおぼえる。店はキレイはほうがいいし、味も美味いほうがいいに決まっている。肯きたいところだが、そんなのはうそで、いま住んでいる千代田線「町屋」駅のの駅近に有名店のトンカツ屋さんの出店が二件ほどできた。ときたまそこでトンカツ弁当とかを買うが、じいさんばあさん(ほんとにじいさんばあさんばっかりの店なのだ)がより集まっておかずを作って売っている名も知れない町場の総菜店のトンカツやコロッケのほうがよっぽど美味い。
 もし「投げやり」という言葉が乱暴なら「そこそこでいい」という間合いや生活の具合の尺度を解っている店が、巷の隠れた名店だ。
 
左寄せの画像  江古田の住宅街の片隅にあるそのラーメン屋さんの名前は『新京』といった。稽古や芝居のはねたあと呑み屋で俳優さんたち、スタッフさんたちのあいだで『新京』の¥300ラーメンが話題になり、愉しい笑いのなかでずいぶんお酒がすすんだ。
 『新京』は、あのおじいさんおばあさんの持ち家で家賃がかからない。だからといって、いまどき10人も入れば満席の店でラーメンいっぱい¥300、もやしそば等¥400では経営が成り立つものだろうか。成り立たないだろう。いやいや、あのおじいさんはおばあさんは、あの辺りでは知るひとぞ知る有名な大金持ちの大地主で高額な地代が収入が入り、ラーメン屋は道楽と心と身体の健康維持のために営業しているの過ぎない。いや違う、おじいさんは元は名のある有名な中華料理の職人さんで、現在のラーメン業界の喧噪への矜持として¥300のラーメンを出している等々……、おじさんとおばあさんは謎だということになってしまって、お酒の上ではラーメンの<味>についてはとうとう論じられなかった。

 だれでも「食べもの」には嗜好をもっていて、好き嫌いは少しはあるのではないだろうか。
 でも「食べもの」の美味い、不味い、好き、嫌いの固有の根拠や嗜好を書いたり、喋ったりしてじぶんにも他人にも説明するのは大変にむずかしい。じぶんでも美味いものや好きなものを、なぜ美味いと感じ、どうして嫌いと感じてしまうのか、少しはハッキリさせたいと思い、何度か言葉をあててみるのが、どうしても美味い不味い、好きだ嫌いだののじぶんの感受性の本丸に近づけない。果ては見当違いな言葉の海で溺れている。言葉は、やはり想像力の問題なんだなァとつぶやきながらじぶんの想像力のなさにうんざりする。いくら考えてても<美味い・不味い>と<好き・嫌い>は、まったく違う範疇に属するものだ。それくらいしかわからない。
 なぜカツ丼が美味いか、なぜカラ揚げが好きになるのか。こういうことに関しては、詩人の谷川俊太郎さんなら、なぜ男がカツ丼好きなのか、ラーメン好きなのか、ああ、なるほど、そういうことだったのかと深く肯ずける優しくだれにでもわかりやすい言葉で詩にしてくれるだろう。
 
 じぶんにも大手を振って好きだと他人にいうには憚られる、不遇で淋しい食べもがひとつある。『冷えた海苔弁』だ。好きなのでいまでもときどきじぶんでわざわざ作って、食べる。奥方には非難されるが、好きなのだから仕方がない。だが、ここでは、もうし少しラーメンにつきあってもらいたい。
 
左寄せの画像★ 自宅の昼飯・超簡単なCHEAPな醤油ラーメン ★
 
 ★ 材料(2人分)
 :中華麺 3玉。(奥方は昼飯をたくさん食べる)
 :クノールのブイヨンのキューブ固形2個。(1個5g)。
 :中華風の鶏ガラスープ、少々。 めんつゆ、適量。
 :長ねぎ、少々。わかめ。海苔。味付き卵2個。
 :自家製鶏油、自家製辛油、ニンニクのチューブ。
 :あればハム、お麩、もやし。塩・こしょう、ゴマ油。

★ 作り方なんてものは、まったくない。 ★
 
 あらかじめどんぶりを温めておき、細かくしたブイヨン1個と中華風の鶏ガラスープ(なければ即席の顆粒の鰹出汁でもOK)を少々とめんつゆ、自家製鶏油、自家製辛油を適量入れ、沸騰したお湯を注ぐとスープ完成。すぐに茹がいた中華麺をどんぶりに入れ、味付き卵、わかめ、お麩、長ねぎ、海苔を入れると、ブイヨンの超簡単なラーメンのできあがりです! 上の写真は、自宅からちょっと歩いた距離に業務用のスーパーがあり、ラーメン玉・1玉¥29円(税込み)を買ってきて、我が家では月に2~3回ほど昼飯にします。夏を超て残ったそうめん・冷や麦でも、上の作り方でラーメン風にして食べます。自家の奥方は「これは、ラーメンでも、料理でもない」といいながら食べています
 
 こんなチープなラーメン作りをなぜ喋言ったのかというと、ぼくも67歳になり、最近、年齢(老い)とはやはり抗いがたいものなのかなと思うようになったせいかもしれない。
 800円も出せば近所のラーメン専門店で美味しいラーメンは食べられる。節約をしなければ我が家はやっていけないが、800円が出せないほどで切迫もしていない。出かけるのが面倒なのだ。それで上のようなラーメンを作っているのかというとそうではない。ひと手間も、ふた手間も抜いて簡単につくり昼食をやりすごしてしまいたい気持ちなになってしまっている。「ひと手間かけられない、すぐに結果を生みだしたい、面倒臭い、短気になっている」そんなふうになってきた。
 よくテレビで見る「ゴミ屋敷のおばさん」とか「河原に掘っ立て小屋を作って住んでいるおじさん」とか、そのひとたちの気持ちがなんとなくわかる気がする。面倒臭いし、ほっといてもらいたいのだ。
 年齢(老い)は、華やかに賑わってはしゃいでいる社会の雰囲気から剥離してぼろぼろと崩れていくような感じなのだ。
 「これはいかん」と思い立ちあがってみるのだが、すぐに気持ちは萎えてしまう。
 だが、逆もいえる。年齢(老い)は、自然に萎縮してしまう気持ちとの斗いかもしれない。その結果が上の超簡単ラーメン作りなのかもしれない。
 年寄りに、明日はあるのか?
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 故吉本隆明さんから「ラーメン」の話を聴いてみたい。
 全文に近い引用になってしまうが、勘弁して下さい。
 
 
 
左寄せの画像  テレビ好きのわたしの実感では、ここ一年あまりのあいだに、料理番組が目立つほどおおくなった。
 家庭料理が専門の女流の料理研究家が、相の手に助手の若い主婦と対話をかわしながら、一品の主要なおかずをつくる旧来からの番組もある。また調理することが好きでキッチンに入っておかずを作って家族に食べさせているうちに、包丁さばきが上手になり、工夫もできるようになったテレビ俳優や話芸のタレントが、素人料理を作って味わうもの。
 またタレントがじぶん好みの料理を作るのを、専門の料理人が批評したり、助言したりして、一品料理を仕上げるもの。
 また食べることが好きで仕方がないタレントが、地方に出かけ、その土地に着いた名物の固有料理を食べ歩く食いしん坊の旅料理の番組のようなもの。また主題もきめて高度な料理の技量と味を競いあう料理の鉄人のような番組。
 その時間帯も、午前、正午、夜のどこにもゆきわたっている。食べることが好きなので、たまたまチャンネルが合ってしまうと、ついのめり込むように、料理ができ上がって、皿に分けられるところまで視てしまう
 東京のような根なし草の都市生活者が賑わっているところでは、名物の固有料理などほとんどなくなってしまっている。東京湾岸の魚料理など本当はどぶ泥くさいだけだし、深川丼のあさりもたぶん別のところで採れたあさりをつかっているにちがいない。駒形のどぜう料理も大井のあなごの蒲焼きも同様だろう。
 仕方なしにテレビでは、うなぎの蒲焼きのうまい店、ラーメンのうまい店、カツ丼や天丼の名店といったテーマごとのうまいもの店の食べ歩き番組をやっている。たぶんこういう番組は、その手の食べもの店のほうでも視ているにちがいない。
ラーメンなどを例にとれば判りやすいが、うまいラーメンとは何かということがとても判らなくなっている。大体の方向でいえば、味が複雑で多様になり、あいまいさも増していくが、いままでのラーメンのスープとしては味わったことがないものを作れば、うまいラーメンだという評価になると思い込まれる傾向に走ってゆく。具についてもおなじで、ネギ、支那竹、肉の薄切りのほかに、魚、きのこ、そのほか多様をきわめてくる。うにやイクラを添えるものも、揚げものをのせるものもでてくる。
 ここでは「うまい」というのは拡散と重畳のことになっている。わたしはどうも違う気がする。「うまい」というのは比喩としていえば『深さ』だということになりそうだ。

 ラーメンのスープは鶏ガラでも豚のあぶら身でも、魚介のぶつ切りでもいいが、その必要以上の量と一緒に醤油味の汁を長時間煮込む。めんはきしめんのように太い中華麺を使う。ネギを過剰におおく振り、肉味は厚く一枚。これでうまかったらほんとうの「うまい」ラーメンといえそうな気がする。
 カツ丼や天丼やカレーライスでもおなじことが言える。カツ丼を例にとれば、うまいカツ丼の条件は揚げたカツとご飯がどの程度醤油味をしみこませているか、卵と長ネギ(または玉ネギ)だけで、どこまでカツの表面と周辺を覆っているか、単調な醤油味がどこまで深いかによってきまる。ネギ以外に余計なものを入れたり、醤油味を拡げるために、さまざまなものを混ぜたりしたら艶消しだとおもう。カツの肉は適度に脂身をのこし、適度に上等であるのがいい。最上級のヒレ肉やロース肉など使わないほうがいいとおもう。
 わたしは今までにうまいカツ丼や天丼にお目にかかったことは、殆どない。最上級のヒレ肉やロース肉を使ったり、だしの醤油味を複雑にしたり、カツとご飯をびちゃびちゃに濡らしたり、逆に少な目にして揚げ物味たくさんのこしているものなら、お目にかかっている。
 ようするに味には日常味のうまさと特定の稀少味のうまさとがある。天丼とかカツ丼とかうどんとかのようなものは、日常味としてうまく長続きして飽きないものでなければ無意味だし、懐石料理などは稀少味でなければ無意味だとおもう。日常味は極端にいえばうまくもまずくもないものを「うまい」というべきだし、懐石料理などは料理人ひとりひとりで固有の味でなければ意味がない。
 だがテレビに出てくる場合をもとにすれば「うまい」と「まずい」は逆になっている。日常味であるものは、何が何でも新しい味をつけ加えて複雑になった味を「うまい」ということにしてしまっている。また懐石料理などは誰が作っても、『冷たい』そして『酸っぱい』という以外に変わりばえのしない伝統的な味を「うまい」ということにしてしまっている。そうとしかおもえないのだ。
 これは誰のせいなのだろうか? わたしには、料理通としにせの料理人とテレビ・タレントの料理自慢の模倣と、テレビにうつる視覚効果を勘定に入れる傾向とが、すべて相乗作用を呈して、そういう通念を作ってしまったのではないかとおもえる。
 日常味の「うまい」とはスピードだ。料理酒を使ったりみりんを加えたりすると味は複雑になるとともに輪郭があいまいになる。そんなの使わないほうがいいし、時間がかかって永続的な日常の反復に耐えない。それなのに料理人も素人も必須条件のようによくつかう。
 わたしは素朴主義者でもないし、素材の味は生かしたほうがいいともおもわない。だがどんなものにも酒やワインやみりんを入れなければおさまらない調理も、たまに野外へ出て川魚に塩をふって串刺しにして、薪の火で焼いて横ざまに喰い付いて「うまい」などという番組を視せられたりするのも、かなわない気がする。そんなものがうまいはずがないとおもう。
 わたしの記憶しているかぎりでは、各地の名物の料理を食べ歩いて「うまい」とそうでないのを評して歩くテレビ番組のはじめは山内賢という俳優が演じたものだった。
 わたしはこの番組が好きでよく視ていたが、この俳優が「うまい」というとき、ほんとにうまいかどうかは推測するしかなかったが、その評言の音声と口調は、調理して提供してくれたおじさんやおばさんにたいする配慮にみちていた。おじさんやおばさんの口調や音声とおなじ次元まで声をおとして、ほんの少しだけ突出してみせる案配だった。
 かりにその「うまい」にお世辞が混じっていたとしても何となく自然で納得させるものがあった。だからその「うまい」はおいしくもないのにわざとらしくおいしいといってるのではなく、普通の料理なのにじぶんに珍しい味だと評しているように受け取れて、いい感じであった。

左寄せの画像  その後山内賢に匹敵する味の旅のタレントにお目にかからない。まして何も言わないけれどその食べっ振りを視ていると、どれくらいうまそうかまずそうか視聴者に判るという演技の持ち主もまた、あらわれてないような気がする。
 金曜日の夜おそくやる番組に「料理の鉄人」というのがある。和食、洋食、中華料理の達人が三人いて、その三人に各地の専門の料理人が挑戦して、テーマごとに限定時間のあいだに幾品かの料理をつくり、素人の食通の名士が審査するという番組だ。
 テーマはあるときにはキノコであり、あるときにはアンコウであり、まるときには牛肉でありというふうに、さまざまな食材が、その料理の場で公開され、時間内に食材の調理と味が競われる。テレビのカメラは全視野のものと、ポータブルの移動カメラが巧みに組み合わされて刻々の状況が判るようになっている。
 視聴者には味がわからないから審査員の食通名士の評言とじぶんの視覚を信ずるほかない。でもヤラセは考えにくいから真剣な勝負にとても近いとおもえる。包丁さばきの見事さを視せるもの、器と盛りつけの美しさを誇るもの、料理の独創性を工夫するもの、さまざまだが、たいへんいい水準にある勝負にあるという意味で、現在のテレビ料理番組の旗頭だといえそうだ。
ただはっきりしていることは、味の複雑化が高度化であり、食材のつみ重ねが味の重層化あり、「うまい」ということの方向性がそこにあるということだ。視ているだけだから確かなことはいえないが、その「うまい」というのは、もしかすると、ゲップが出そうなやりきれなさと紙一重なのではないのかと空想されるところがある。
 審査員も食通だから、作った料理専門家を傷つけないように巧みな評言を呈するのだが、その評言は複雑な味を微妙な言葉をつみ重ねて味の実情に迫ろうとする方向へ高度化されてゆく。その極まるところ、ときに『ほんとかね』とおもわせるときがある。いままでのところ、あまりの「うまい」料理に我を忘れ、言葉を発するゆりりもなく、ペロリと平らげてしまったという審査員は見当たらない。
わたしは道場六三郎といういまは引退した和食の鉄人が圧倒的に優秀だとおもった。かれはわたしに、じぶんは審査員の方向を向いて調理したことはない。姿は視えないが、これをたべてくれるふつうの人の「うまい」だけを想定して作っていると語った。
 ☆吉本隆明著「食べもの探訪記」より「味の話」 ※写真や下線は、菅間勇が勝手に加えました。