日付:2019年11月30日

   稽古場から去っていた俳優さんたちの後姿……

 

 

 馬鈴薯堂vols.28「鮭」のヒロポン中毒役のじょじ伊東
じょじ伊東

 じょじ 伊東 
 
 2019年10月14日、俳優のじょじ伊東さんの通夜の帰り道、JR「東神奈川」駅を出発してから電車が多摩川にさしかかったとき、車内アナウンスで「台風19号により、多摩川が増水しており、安全のためしばらく徐行運転をいたします」という内容が流れてきた。電車は多摩川の鉄橋を渡る前にスピードを落とされ、ゆっくりと走りはじめた。
 夜の川だったのでハッキリとは見えなかったが、川は周囲の光を反射して川面がところどころ光って見え、確かに水位が異様なほどに盛り上がっている感じがした。
 「東神奈川」から「町屋」までの約一時間半の電車の旅だったが、遠くの景色を車窓から眺めているうちにふとじょじさんの稽古場からの帰り姿の背中を思い出してしまった。
 馬鈴薯堂の稽古場は、二ヶ月間ほぼ毎日のように荒川区営の「ひろば館」のいくつかを使用させていただいている。駅でいえば東京メトロ千代田線の「町屋」駅周辺ということになる。じょじさんのご自宅は東急東横線の大倉山駅近くにある。稽古は夜の九時半に終了するが、それから一時間半くらい火照った心と身体のクール・ダウンをするために安い呑み屋を探し、みんなで馬鹿話で談笑しあって夜十一時頃に解散する。時には興にのり十二時を過ぎてしまうこともある。じょじさんはそれから横浜方面へ約一時間半の電車の小さな旅をして帰宅していたことになる。往復約三時間を費やして、毎夜稽古場にせっせと通ってきてくれていたのだ。
 
 じょじ伊東の通夜の直前に、瀬戸口のり子の一家が家族四人で東京を引き上げ故郷の佐世保へ帰っていった。瀬戸口のり子は、ほぼ十年ほどポテト堂へ俳優として参加してくれていた。そんなこともあり、稽古場を去っていった数々の俳優さんたちを夜中にふと思い出してしまった。吉川湖もそのひとりで思い出深い俳優さんだ。ほかに名はあげないがたくさんの様々な俳優さんたちがわたしを支え続けてきてくれて、東京を去っていったり芝居から身をひいてしまった。
 
 
吉川湖 吉川 湖(ひろし) 
 
 吉川湖(ひろし)は、わたしに「衣装いらずの吉川」と呼ばれていた。
 彼は学生の頃運動部に入っていて身体は大きく1メートル90センチくらいあったのではないか。おまけに太っていて腹が出ていて、立派なその裸身を観客の皆さまにお見せしてこいと、わたしは彼を舞台に送り出した。彼にわたしはほとんど衣装を着せなかったように思う。褌姿や腰にバスタオルを巻いただけの半裸の状態で舞台に登場させた。
 彼の馬鈴薯堂での最後の舞台は「天空への途」という公演で、2011年に起きた東日本大震災を馬鈴薯堂なりの芝居に仕上げた作品だ。
 『なぜあれほどの未曾有の大地震を起こし、津波を引き起こし、無慈悲にも民に多大な悲劇を与えたのか?』。養老院で介護されている老婆六人が、その問いの応えを聴きただすため養老院を抜け出し天照大御神を見つけ出す探索の旅に出る。その道行きを芝居にした作品だ。ある夜、突然、天照大御神が隠れた天岩戸が東京スカイツリーの展望台に出現し、吉川には老婆たちから依頼されて天岩戸をこじ開ける相撲さんみたいに太った大男「舞の海」という役をやってもらった。
 まとまった科白はないけど元気よく大声で天岩戸を持ち上げ、こじ明け、天照大御神をこっちの世界へ連れ出してくれと頼んだ。吉川は「科白がたくさんないのなら稽古は毎日出る必要はありませんよね」というので、それは構わないが大声で天岩戸を持ち上げるんだから声の稽古ぐらいはしておけよといっておいた。ところが、彼は本番直前の通し稽古(ゲネ)一発で声を潰してしまい声が出せなくなってしまった。「すいません」と謝りながら、みるみる身体が小さく萎んでいった。
 彼は学生の頃運動で痛めた膝が思うように完治せず、故郷三重へ帰っていった。
 彼の演技の心棒は「ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会で13日、A組最終戦で日本がスコットランドに28-21で勝利し、史上初の8強入り。4連勝で首位通過を決めた。殊勲の勝ち越しトライを決めたPR稲垣啓太」みたいな演技者だった。
 吉川は、稲垣啓太選手みたいなあまり笑わないひとではなく、器用な役者とはとてもいいがたいが、稽古場や生活のなかで笑みを絶やさない穏和で静かなひとだった。吉川はじぶんの心に湧いてきた自然な感情でも素直に他者の前で流露するのが恥ずかしい、そんな素朴な役者さんだった。でも、芝居のなかで彼はじぶんの関係上の立ち位置をよく心得、余所見などせずじぶんがなにを引き受けなければならないのかを深く理解し、じぶんの役割を見事に背負って演じきってくれていた。たぶん思えば、誰にでもこういう人生上大切な友人の一人くらい周囲にいるものだし、また欲しいものだ。わたしは、彼に演技者としてよりも友人として深い信頼を寄せていたし、彼の意見を参考にして舞台を作っていた。
 膝の怪我を可能な限り治し、幸多き人生を送ることを願っています。
 
 
瀬戸口のり子 瀬戸口 のり子 
 
 瀬戸口のり子は小さなひとだった。
 彼女の最後の舞台は「篠原木工所の夜」という公演で、わたしが村上春樹氏の短編「かえるくん、東京を救う」に初めて挑戦した小さな芝居だった。
 彼女の役は山手線ほどの大きさの「みみず君」と死闘を繰り広げ死にいたるほどの深い傷を負うことになる「河童君」で、この役も科白はほとんどなかったが、圧巻だったのは見えない(登場しない)「みみず君」と死闘を繰り広げる瀬戸口のり子の「河童君」の勇姿(演技表現)だった。
 なにもそこまで俳優を追いつめなくてもいいのじゃないかという声が稽古場から聞こえるほど過酷な稽古の毎日だった。でも、科白なんてなくても所作だけの方がずっと心をうつ演技表現というものもある。彼女なら沈黙の死闘を演じきってくれるだろうと思って、そんな役をやってもらった。そして、瀬戸口のり子は驚嘆すべき演技表現を稽古場に遺して、故郷の佐世保へ家族みんなで帰っていった。たぶん彼女の演技表現の歴史のなかでピカイチな場面に彼女じしんが仕上げくれた。
 稽古帰りのいつもの定例の毎夜の呑み屋通いで、彼女は各個人が注文する酒やおつまみの世話係で、個々人が注文するおつまみによく注意を払い「そのおつまみ、高すぎ! 割り勘なんだから、毎日呑むんだからもっと安いおつまみにしなさい。300円前後のつまみがいくらでもあるしょ」とちょっとだけキツイ眼で指図していた。呑み会はいつも彼女の仕切りだった。
 旦那さんとの間に二人この子をもうけ、故郷の佐世保へ帰っていった。彼女の旦那さんは『マーク義理人情』という劇団で活躍していた優れた俳優さんの高橋康則さんだ。彼は馬鈴薯度にもよく客演してくれていた。
 瀬戸口のり子の演技の心棒は、このちょっときついが優しい<仕切り根性>だった。じぶんの場面はじぶんで仕切る強い意志<クセ=灰汁といってもいいと思う>が、「河童君」の勇姿(演技表現)を作ったのではないだろうか。
 二人で、子供たちを育てあげ、楽しいご家族を作ってください。
 
 
高橋広吉 高橋 広吉 
 
 わたしも高齢者だが、高橋広吉さんも高齢者だ。
 舞台上の高橋さんの立ち姿を見るたびに歳をとることの難しさ、<老いて>いくことを受け入れることの困難さを、じぶんのことのように痛感する。彼もわたしも『死んでも喇叭を離しませんでした』の口で、『昔取った杵柄』で杵柄を無闇に振り回し周囲の人びとを大いに困らせている箸にも棒にもかからない哀しくて淋しい老害演劇者だ。
 高齢者は、心の問題でも身体の問題でも、じぶんたちが<老いている>ことは充分に承知している。けれども<老い>をじぶんの問題としてじぶん固有の<老い>の処理方法、どのような言葉を紡ぎ出しじぶんの心と身体を処方・納得させえるのか、ホントのところまったく判らないで一人で懊悩・困惑しているのがホントのところだ。十代の頃<性>の問題に悩みたじろいだように、老人は<老い>の門前で悩みたじろいでいる。
 
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 世阿弥は言う。『このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬(どば=のろい馬)に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし』と。
 「老いては子に従え」とも読めますし、「老いには静かな沈鬱の華あり」とも読めますね。
 わたしも含めて高橋さん、演技表現の問題でいえば、じぶんなりに何十年も培ってきた自己の演技に対するイメージに固執するあまり、じぶんの演技への考え方を固定化し解体できなくなってしまっているのだし、これがわたしたち高齢者の実情の姿だと思います。じぶんのスタイルを創りあげるまで大変な時間と労力を要したことでしょう。でも、苦労して獲得したそのスタイルも残念ながら時代を超えて永続させることはできないのです。じぶんをもう一度現在に対面させる鵲(かささぎ)の渡る橋を発見し、じぶんの演技に対する考え方を深く練り直すことをしなければ、わたしたちは表現の場から退場を余儀なくされていくのも仕方がないことではないでしょうか。
 わたしも高橋さんと同様です。賢くもない頭と身体を駆使し何十年も培ってきた自己の芝居に対するイメージを、なぜ壊さなければならないのか。壊さなければならない現実と理由が本当に存在しているのか。その課題が解けず長い間悩んできました。いまでもそうです。
 わたしは座付き作者で演出、高橋さんは俳優さんです。わたしも旧い芝居の台本の書き方、舞台上の俳優さんがどのようになったら面白いかという演出の体験が身体深くに染み込んでいます。俳優さんならなおさらのことでしょう。高橋さんにも旧い演技の仕方が身体深くに残っていて、じぶんの方法的なイメージを身体から切り離すことができないでいるはずです。
 でもちゃんと考えてみると、実はわたしの心のなかにある『表現作品』に対する単純な<錯誤や短絡や思い込み>が、わたしをその応えから遠ざけてきたんじゃないか、と。
 わたしの書く台本や演出、高橋さんの演技表現、つまりわたしたちが作ってきた芝居表現は、じぶん一人だけの力で作ったものではなく、じぶんとその時代の社会現象や風俗(文化的な流行、時代的な感覚、生活様式等)との<共同作品=競作>としてあったんじゃないでしょうか。いいかえれば、わたしたちが一生懸命に社会や時代の風俗へ接触を試みたその結果が作品であり、方法と呼ばれるものであったんではないでしょうか。
 現在、わたしたちを育ててくれた(少なくともわたしたちにとっては劇的で華やかで楽しかった過去の)社会や時代の風俗は遙かに遠くへ消え去りました。そして社会はわたしたちの想像を超えるとてつもない大変化を遂げてしまいました。けれどもわたしたちは、じぶんの演技の方法や演出の方法を、じぶん一人で作ったものだという<錯誤や短絡や思い込み>を犯していて、時代が大変化を起こしてもじぶんの方法はまだ有効であると心のどこかで思い違いをしているんじゃないでしょうか。
 高橋さん、わたしたちがむしろ社会や時代に翻弄された結果が『作品』とか方法とか呼ばれているものに過ぎないんじゃないんでしょうか。
 わたしたちは年齢的に人生の最後の帰路にさしかかっています。でも、気力さえあれば、もう一度現在と対面する時間は限られてはいますが、ほんの少しは残されているのではないでしょうか。そんな空想を描いても許されるのではないでしょうか。
 もちろん、わたしたちの儚い願いは叶うことはほとんどないでしょう。けど、それいいじゃないですか。
 
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 最後の高橋さんの演技<芸>で、ああこれが本当に最後の高橋さんの真骨頂だなと思ったのは「光合成クラブ・Ⅱ」で、相手役の俳優加藤和彦にも恵まれて、あまり言葉を喋れない老人を演じてくれた作品だ。初冬の公園で、夜空からちらほら雪が降りはじめ、その雪を虚空で手で受け「……雪を、見る資格もない!」と嘆く場面だ。高橋老人ならではの場面となっていた。
 わたしの50年来の友人で、わたしの舞台をほどんど見てくれている優れた観客のひとりでもある彼は、高橋さんの演技を『あるがままで、彼がしたいようにさせてあげればいいじゃないか、彼一人くらい。観客だって眼があるんだからよく承知して見てますよ。老いぼれて世の中からも表現からもズレた間抜けな行いをしていることは。演出として、つまらない細かいダメ出しなんか出さないでサ』と老人への対処の方法を優しく教えてくれるのだが、彼のいうそんな偉大な器量は演出としてのわたしには無いのだから仕方がありません。
 わたしは、今後の高橋さんを遠いところから眺め、楽しい芝居をやって高橋さんが自然と嬉しくなって、美味しいお酒を呑んで機嫌良く生きている姿を夢想することにします。
 いつまでも元気で、楽しい芝居を作って遊んで下さいね、高橋さん。
 
 わたしは、この高橋さんについてのメモを書き公表しようと決めた。
 馬鈴薯堂への参加は誰にとっても各個人の自由意思によるものだが、このメモを読んだ場合と読まなかった場合の高橋さんの心象は自ずと違ってくるだろうことを信じて。
 
 
加藤和彦 加藤 和彦 
 
 加藤和彦は、俳優として大成する資質をもっていると思う。
 わたしの勝手な想像だが、彼の幼年時代や小学生時代・中学生時代で、彼が人前でオチャラケて人びとを笑わせてじぶんでもそんな雰囲気をうれしがっている光景が眼に浮かぶ。じぶんの家族の中での孤独や他者の中での無口とを紛らわせるようにオチャラケることが、じぶんと他者との関係の融和を図ることだったり、家族の中に穏和な雰囲気を醸し出すことをよく知っている子供だったように思う。そして対象である人びとが消えてもなおオチャラケること自体が彼のなかで永続していく。彼はそんな資質と雰囲気を稽古場で滲ませていた。それは、演技表現の貴重なひとつの事始めになりえる体験であったと思う。
 彼が憶えているかどうか判らないが、稽古場で一度だけ、あなたの現行のままの演技表現の方法を続けていっても、あなたの演技表現に<深さ>、<拡がり>という価値概念が加わることは困難だといった憶えがある。
 東日本大震災のおり、ビート・たけしは正確には記憶していないが確かこんな感じのコメントを残している。『死んだ人の数じゃないんだ。二万人死んだんじゃないんだ。一人が死んだ事件が二万件あったというこなんだ。』。たけしの例に習っていえば、お客さんが劇場に五十人集まってくれたとして、それは一人の観客が五十組観客席に坐って下さっているということだ。五十人の集まりを一つと考えてはいけない。つまり演じるもの、見るものは、一対一なのだ、と。
 加藤君の馬鈴薯堂でのいちばん楽しい場面は「光合成クラブⅡ」の、夜の公園で初音ミクの「TOKIO」の音楽をバックにダンスの練習をしている場面だと思う。屈託のない笑顔、ダンスの練習で息が切れている様子、でも息が切れても歌わなければならない焦慮、それらがみんな集まってとても楽しい貌(表情)を彼は作っていた。このとき、いわば彼の眼前の観客は彼の心のなかからちょっとだけ退場して、彼じしん一人だけのための演技表現の営みの瞬間があったのだと思う。だから観客は彼の演技表現を見ていて楽しんだのだ。
 彼の大振りの演技が解体される日をわたしは愉しみに待っている。演技者の表現の一番最初の観客は、事実としての実際の観客ではなく、実は彼じしんの心のなかにあるもうひとりの観客としての加藤君じしんだ。これは不変だ。
 彼は『タテヨコ企画』に入団して、元気で活躍している。彼の芝居も少しずつ小さく細くなって繊細になっていってる感じがする。良い劇団へ入れてもらったと思う。
 今後も楽しい芝居をたくさん作って下さい。
 
 
千田里美 千田 里美 
 
 千田里美さんは、池袋の舞台芸術学院の卒業生で、卒業後すぐに馬鈴薯堂へ入ってきて、まもなく10年ほどになる。
 千田さんは、6、7年経ってやっとじぶんなりの表現の扉を開けはじめた。彼女は瀬戸口のり子君みたいなアクの強い演技者ではなく、骨格は逞しかったがじぶんのことをあまり主張しない大人しい娘さんだった。
 彼女が演技表現のなかにじぶんの居場所を見つけたのは、「台所から見た漱石・鏡子夫妻・Ⅲ」の下女役を演じたときだった。
 「夜中の俳句教室」という場面で、夏目家には毎日のように弟子や客人がたくさんやってくる。もし弟子・客人が甘いお菓子を土産にもって来るようなら、漱石は俳句の作り方をお前に教えてあげるから、その代わりに妻・鏡子に黙ってお土産の甘いお菓子をいくつか内緒で盗み、授業料として「おれ」にとって置くようにときつく命じられる。下女は俳句なんて習いたくもないのだが、仕方なく主人漱石の命に応じる。ある夜中、下女の千田さんはじぶんではとても良い俳句ができたと漱石の前で俳句を披露する。だが漱石は早くお菓子を食べたいばかりに「そんなもんは俳句じゃない。早く菓子を出せ!」と怒りだす。漱石の普段からの横暴もありたまりかねた下女・千田さんは、漱石をいきなり柔道の大技で思いきり台所の床に投げ倒す。
 このシーンは、床に思い切り投げ倒される小田豊・漱石も見事だったが、投げつけた下女・千田の思い切りも良かった。思わずわたしも吹き出してしまった。この日を最後に彼女はじぶんのバリアーをじしんの力で解体し、じぶんの気持ちを稽古場のなかでよく喋るようになっていった。
 でも、女優志望の二十代の若い俳優さんにとって「6、7年の年月」は決して短くはない年月だったろう。
 芝居の小集団では、台本書き(座付き作者)と演出が同一人であることが多い。馬鈴薯堂もそうだ。そのシステムには致し方のない弊害は確かに存在する。どうしてもその集団内の既存の先輩俳優さんを優先的にあて書きをしてを台本を書いてしまう。新人の若い俳優さんはいつも後回しになってしまう。表現は民主主義では作れないと言えばそれでお終いだが、どこの芝居の小集団でも新人俳優の処遇と育成の問題について理無い思いを相互にしていると思う。
 わたしは、建前として空手形のように一人一場面を標榜してきて、確かにそのように実践してきたが、千田君たち若い俳優志望の人たちにやはり理無い苦い思いを何度も味合わせていたことだろう。
 先日、じょじ伊東さんのお葬式で彼女に遭ったが、いまは田舎で保育関係の仕事をしていると話してくれた。彼女は少し痩せて年齢とともに落ち着きが身に付いていて素敵な女性になっていた。
 わたしは、もう目先のことしか考えられない年齢になってしまったが、若い千田君(たち)にどんな言葉を贈ればよいのだろうか。その言葉がみつからないでいます。
 ただ、故郷で好んで就いた保育関係の仕事で生計を立て、楽しいご家族を作り、幸せに暮らしてくださいとしか、言葉はない。
 
 
小高 小高 仁 
 
 小高仁さんは、ちょっとハードボイルドなラスト・サムライみたいな俳優さんだった。寡黙さということでいえば、村田与志行と双璧で、記憶の限りでいえばわたしは彼に稽古場のなかでほとんど喋りかけられたことはなかった。
 「猫の墓~台所から見た漱石鏡子夫妻Ⅰ」で小高さんに「白足袋」という役名で、明治時代の尾羽打ち枯らした名もない町場の剣豪で、食い扶持もなく借金とりに落ちぶれた役をやっていただいた。
 漱石の妻・鏡子の前で、漱石の養父の遣いだと嘘をつき金を出せと脅しをかける科白で「(白刀を抜き、刀の講釈)播州手柄山氏繁(てがらやまうじしげ)、二尺四寸、黒具(ぞな)え。新撰組、二番隊長、永倉新八の刀です」と鏡子に凄む場面は見ていて楽しかった。
 その時、白刃を突きつけながら鏡子に畳の上を迫り歩くシーンの歩き方にわたしは詰まらない歩き方の注文を出したら、彼に「そう見えませんか?」と問いただされてしまった。臆病なわたしはなんと応えたかは忘れてしまったが、集中を切らさないでまるで白足袋の科白の持続ような低い声で話す小高さんにわたしはたじたじになってしまった。彼は身一つで、芝居の世界を歩いてきたひとなのだとそのとき思い知った。
 小高さんには、もう一つ貌があった。コミカルな小高さんの貌だ。
 ちっとも売れない演歌歌手影山ザザ・シリーズ五作目の「同行二人(2009年)」でやくざ役の鮫島という役で出演していただいた。四国讃岐のザザが出演している田舎の小さな劇場に、鮫島は内緒で夜中に付け火をし劇場を燃やして保険金を騙し取って山分けしようとザザのマネージャーに詰め寄る場面を、小高さんは実にコミカルに本心から楽しそうに演じてくれて、彼の楽しい演技で稽古場も華やいできた。ああ、強面の小高さんにもこんな楽しい貌があるのだなと思って、可能ならこっちの方の小高さんの演技表現をもっと延ばしたいなと思った。
 彼は、わたしたちと違ってプロの俳優として世渡りをしてきたひとだ。わたしたちの小さな劇団では出演料などほとんど出せないのに嫌な顔ひとつせず彼は出演して下さった。もう少し馬鈴薯堂に資金力があったら、何度でも出演していただきたい俳優さんである。
 小高さん、これからも元気で活躍して下さい。
 
 
大塚秀記 大塚 秀記 
 
 大塚秀記さんは、馬鈴薯堂草創期の舞台作りの時期にわたしが大変にお世話になった俳優さんだ。
 わたしはいまも台本の書き方も演出の仕方も混沌のなかにあるが、もっと深く、なにを、どのように書いたらよいのかまったく見当がつかなかった馬鈴薯堂草創期に大塚秀記さんに舞台に出演していただいき、同時に演技、台本、演出について彼流の芝居についての考え方やイメージをいろいろと聴かせていただいた。その後のじぶんなりの芝居作りの方向を定めていく作業に欠くことのできない貴重な助言を彼からたくさんいただいた。
 記憶の限りでいえば、大塚さんは「文学座」から平田オリザさんの「青年団」へ、やがて大間剛志さんと二人だけのユニット「つよしとひでき(trf)」を作って大活躍しておられた。特に「つよしとひでき(trf)」の時代に作った「SM社長(脚本:前田司郎・演出:渡辺純一郎)」は、ストリップ劇場の踊り子さんたちの踊りが終わった後の芸人さんたちのショー・タイムみたいな短い幕間芝居で、観劇したわたしは「これも芝居か?」と思えるほど面白かった。芝居の内容はSM大好きな社長の話でその驚くほどのカラッポさが楽しかった、この作品を書いた前田司郎さんという人は度胸がある人だ。意味ありげな社会派芝居なんかより遙かにずっと高級だなと感じた。なにより知識の捨て方、処理の仕方を知っている人だ。
 馬鈴薯堂に大塚さんに最初に出演していただいた舞台は「ちっとも売れない演歌歌手の影山ザザシリーズ(2001年)」の第一弾だった。演歌歌手を稲川実代子、マネージャーを大塚さんにやっていただいた。この時、大塚さんは彼なりに体得した「青年団」の<静かな演劇>みたいなもののイメージや雰囲気を少しだけわたしに教えてくれたのだ。わたしの芝居は「駄菓子屋の店先」みたいになんでもごちゃ混ぜにして平面に並べて出しているだけの芝居だから、その時の彼の現在の芝居に対するイメージや意見には相当に驚かされ聴き入った。
 翌年、大塚さんからの影響もあって「Laundry(2002年)」という奇妙な作品を作った。この作品は成功作とはとてもいいがたいものだが、なんとなく以後のわたしなりの芝居作りの基調音、外在化する「駄菓子屋の店先」みたいなごった煮芝居ではなく、内向化するごった煮芝居みたいなものに挑んでいくよう契機になっていった。
 大塚さんは、以後、芝居を中断して介護の仕事に就かれた。それから彼は独力で日本語教師への途を開き、現在では日本語学校の教師をしていると、彼から直接聞いた。
 馬鈴薯堂の草創期に大塚さんの存在がもし無かったとしたら現在のような馬鈴薯堂にはなっていなかったのではないか。大変にいろいろなことを彼から学んだ。
 大塚秀記さん、ありがとうございました。
 あなたが独力でいま仕事を獲得したように、わたしもまた、少しの時間しかありませんが、じぶんの芝居の作り方を可能な限り作り替えて行きたいと思っています。
 
 
鬼束桃子 鬼束 桃子 
 
 鬼束桃子は日本舞踊の名手で、33回公演の「幻の女(ひと)~台所の漱石・鏡子夫妻・Ⅲ」にはじめて出演していただいた。
 夏目家の下女たちが新宿区西早稲田の「穴八幡」の祭礼で素人踊りを踊ることになり、確か「木更津甚句」だったと思うが、その踊りを彼女たちに教えてくれる踊りの師匠役で出演していただいた。教え方の実に美味いひとだなァとった思ったのを記憶している。
 彼女が踊りの名手であることで35回公演「踊り子」という作品を作った。「踊り子」は、川端康成氏の小説「伊豆の踊子」を昭和初年頃の設定から昭和18年の戦時下の「学徒出陣」の時代へ設定を移した作品だった。彼女はこの作品でじぶんの芝居表現の扉を開けた。
 踊り子の一行が湯ヶ野温泉の知り合いの木賃宿の宿泊し、夜になって共同風呂をいただいて、彼女が自室へ帰ってみると先輩の踊り子が歩き疲れた身体を暖かい風呂に入ったことで気が休まったのか気持ちよさそうに寝ている。彼女は、化粧箱を持ちながら先輩を起こさないようにと先輩の踊り子を脇を静かに通る。そのときの彼女の歩き方を注意したことを憶えている。歩き方が彼女が習い憶えた舞踊風なのだ。もっと散文的にと言った思う。
 そんな些細なことまで、芝居の新人に注意する必要などないのだが、鬼束さんはそれがなかなかできず、余程悔しかったのか何度も歩き方を練習している姿を稽古場で眼にした。
 彼女の馬鈴薯堂への出演はわずは三回ほどだったが鮮やかな足跡を残した俳優さんだった。
 わたしは歌舞伎や能楽、神楽、日本舞踊の「いろは」も「学術」的なことはまったく知らないが、売れない芝居の作り方ならわたしはその権威だから、売れない芝居の作り方ならいくらでも伝授できますヨ。日本舞踊と近代劇以降の劇の相違は、大雑把にいってしまえば『定型詩』と『散文=小説』との相違だけです。身に付いた『定型』を壊すことは、習い憶えることよりちょっと大変な作業です。
 あなたが日本舞踊で衣食の途を作った後、もしじぶんの時間に余裕が生まれ、また芝居をやってみたいと思ったら、馬鈴薯堂の玄関には鍵は掛かっていませんから、いつでも玄関を開けて入ってきて下さい。
 まずじぶんが決めた日本舞踊で衣食の途を深めることに専念して下さい。
 遠いところから今後のあなたのご活躍をお祈りしています!
 
 
                             
 
 
 ここまできたら、ポテト堂の集団構成の芝居作りの内情の簡単な感想を述べなくてはならないだろう。
 ポテト堂はプロの台本書き、演出、プロの俳優の集まりではない。身銭を切ってまで芝居作りをしたい素人のアマチュア劇集団だ。これは、じぶんたちの舞台作品の出来の悪さやテーマ性の無さをカバーするための言い訳ではない。
 可能ならわたしたちも俳優さんたちも、書いたもの、演出したもの、演技表現で生計を立ててみたいと願ってきた。けれどその願いが叶えられないことはポテト堂の構成員は痛いほど知らされてきた。
 けれどもやっぱり身銭を切ってでも芝居を作ってみたいし、芝居のことをなんだかんだと喋ってみたい。じぶんたちの人生にちょっとでもいいから舞台作品という表現により色彩感や涼しい風通しを与えることができたら楽しい、そんな思いを抱いている人びとの集まりだ。
 ポテト堂の集団構成のあり方は『半農半漁』といういい方があるからそれになぞらえてみれば、
 (1)プロの俳優になりたいけれどそれは無理だから、その志は心の隅へそっとしまっておこう。
 これは十人に満たない小集団では、どこも同じような思いを抱いているのではないだろうか。
 (2)舞台に立った時、じぶんは決してプロの演技者であるという風な特別な貌はできる限りしない。一人の一般大衆(衆庶)としての貌を保持し、むしろその貌を大切にしたいと考えている偏奇な人間たちの集まりでもある。
 でも、(2)は、ポテト堂の芝居作りのルールや決まりではない。菅間の個人の勝手な趣味に過ぎない。<衆庶>を<衆愚>と換えてもいいが、その<衆愚>の一人であるでじぶんを心のなかに刻み込むようにすることが台本書き、演出にとっての大変に面白い仕事だと思っているからだ。
 
 じょじ伊東さんが往復三時間を費やして毎夜稽古場にせっせと通ってきてくれたが、もう一方では暑い夏の日も寒い冬の日も、雨の日も風の日も毎日稽古場に通うお金の節約のために自転車で稽古場に通ってくれる俳優さんがポテト堂には何人もいる。わたしは俳優諸氏に与えるものなどなにひとつ持っていないが、彼らはわたしの援護者であり、助言者であり、わたしにいろいろなことをたくさん与えてやまない人びとである。彼らもわたしも等しく<衆愚>の人である。
 これが、馬鈴薯堂である。ただの愚か者の芝居作りの集まりに過ぎない