日付:2018年6月10日 

 ★ 記憶の闇に現れる眠れる美女たち (2) エロス篇

 

速水典子

★日活ロマンポルノ「ラブホテル」:監督:相米慎二、脚本:石井隆、出演:速水典子、寺田農。  

 

   名前を忘れてしまうまえに……、
 
 
 あるひとつの映画作品を憶えているということと、その映画に出演した俳優さんを憶えているということでは、一観客の立場に立って省みると若干意味合いが違う思う。たとえば"日活最後の非行"と呼ばれ当時の若い人びとのあいだでかなりの人気を博した藤田敏八監督の映画『八月の濡れた砂(1971)』という作品をわたしも何度も観たが、その作品の内容の流れはかすかに憶えているし、主演で出演した俳優さんたちの顔も憶えているといえるが、その俳優さんたちの名を憶えているかと問われると記憶が薄い。村野武範さんや広瀬昌助さんの名は憶えているが女優人の名はすっかり忘れてしまった。もちろんまったく違った場合もある。題名もドラマの内容も俳優名も憶えている場合もあるが、わたしはちゃらんぽらんで気まぐれな映画鑑賞者だったからすべてを記憶していることは少ない。
 これを映画鑑賞ではなく芝居観劇の問題に切り替えまったく逆な問い方をしてみると、こうなる。あるひとつの舞台作品は劇場を出たらすぐに忘れてしまいたいほどにつまらなかい内容だったが、その舞台に出演した俳優さんの演技の愉しさは舞台の内容を超えて心に残っている、と。
 ここで、わたしがいいたいことはとても素朴であたりまえなことだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 性についての体験は、だれもが心のなかにしまわれ、密かに握りしめられている。そして握りしめられた性の物語は本人の意識と無意識がまぜこぜになって成長する速度にみあってやがて肥大化し変容してゆく運命にある。
 いちばんはじめの性の体験は、母親からの授乳や母親からの排泄の補助で、子供にはじしんの生命の存続と切り離せない重要なものだ。だがこの母親から子へ刷り込められた宿命の性の物語は、無意識の底に深く沈められていて、刷り込まれた本人はその性の宿命の物語を自由に取り出すことはできない。次にやってくるのは兄弟姉妹の相互に共有された生活のなかでの親密感とか、たわいもないケンカ等から教え込まれていく性の物語だ。男女の超えがたい心身の差異への覚醒の物語だ。最後の一歩手前でやってくるのは、たとえば外戚の従兄弟との少し遠い距離の近親から生まれてくる性の禁忌の物語だ。そして最後にやってくるのが<町内>とか<学校>とか、<家族>を超えたところで<風俗としての性>の物語を獲得してゆく。
 わたしは東映映画の時代劇に出てくる<悪役>やポルノ映画の女優について、次のように書いた。
 
 子供心に東映映画の時代劇に出てくる<悪役>の顔や性格、声や存在感は、すべて同じ町内に住んでいる小父さんや小母さんたちのだれかに似ていると思いながら映画を観ていたように思う。そしてこの癖は後年、日活ロマンポルノをよく見るようなってからもくっついてきて、ロマンポルノに出演している女優さんたちを、直接話したことも交流もないがもはないが、同じ町内に住んでいるお姉さんのだれかの顔や姿やもの言いや存在の仕方に無意識に重ねて観ていたように思う。
 いいかたを変えれば、子供にとっての世界は<家族>と地元の遊び場<原っぱ>とか、<町内>と<学校>だけが世界だった。馴れ親しんだそうした世界からしか遠い銀幕の映像の世界を、こちら側の現実の世界の実像へ変換できなかった。
 
 水戸街道から東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅を通り北千住へ抜ける千住間道沿いに間口一間ほどの小さな時計屋があった。その隣は蛇屋で、生きた蛇がガラスのショー・ウィンドに入れて売っていた。気持ち悪いけど何度も蛇をのぞきに行ったりした。時計屋は一番下の息子さんが小学校の同級で、一番上に背の高い、賢い美しいお姉さんがいた。後年、ポルノ映画を観るようになって女優・速水典子は、なぜか遠い記憶のなかの時計屋のその姉を思い起こさせた。
 女優・風祭ゆきは、モーッアルトやベートーベン、シューベルトの肖像写真の飾ってある小学校の音楽室の音楽の先生みたいだと思った。
 昭和三十年代の墨田区はまだ貧しかった。荒川の土手下には手内職で生活を支えている家族が何所帯も住んでいた。女優・池玲子や杉本美樹は、そんな手内職で一家の生計を助けている勝ち気だが優しいお姉さんたちみたいに見えた。
 
 いい歳をしたジジィの子供じみた<性>へのたわごと、それも時間の不可逆性をわきまえないバカ話に過ぎない。読まされる方もたまったものではないだろう。けれども子供時代にだれでもが、自宅を中心に周囲三キロ四方のなかにあった遊び場、原っぱ、おもちゃ屋、風呂屋、戦争で焼け残ってそのまま放置されていた空き地、お寺や神社、それらの地勢図を頭のなかで作って遊んだ。
 やがて子供の作る地勢図は空間性に対してのみ行われるのでなく、そこに住んでいる人間を対象にした人間の地勢図を自然に作ってゆく。
 山や河や街の地勢図を作るように人間の地勢図を作ることは、世界を差異によって分別しはじめる子供たちの初動の根源的な物語の開幕であり、歪んでゆく自己の<性の物語>の追認作業でもあった。
 ポルノ映画を観ることの大半の動機はもちろんスケベ心だが、大袈裟にいえば女性についての差異のイメージの地勢図を作るわたしなりの貧しい方法であり、歪んでゆく自己の<性の物語>追認、そんなものが無意識のうちにポルノ映画を観ることの最少の意味の形成していたように思う。

 このコーナーに取り上げた女優さんは十人ほどで、じぶんの映画観劇史からみればもっと刺激的で魅惑的な女優さんはたくさんいた。しかし、いまはそれくらしか挙げられないのだ。憶えていないし、なぜか思い出せないのだ。

  
 
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    ふたつのポルノ映画まで
 
 浦山桐郎の「暗室」は、もちろんそういう云い方をすれば「楢山節考」とおなじポルノ映画である。わたしは日本のポルノ映画の水準がどこにあるのか、世界の水準にたいしてどうなのか、一向に通じていない。その意味でこの映画の水準を測る目安をもっているわけではない。だから比較級でこの作品の水準をいうこどはできない。じぶんの性についての洞察から測ってみるより仕方がないのだ。ポルノ映画の核心は性交の場面にあるにちがいない。では性交の場面の核心はどこにあるのか。性交における映像的な愉悦と、リズム感の流れにあるに相違ない。サディズムやマゾヒズムみたいな苦痛の表現であっても、愉悦とリズムが、スムーズに流れていなければならないとおもえる。この映画のポルノグラムは、とうていそんな水準にはない。性行為はただ<努めている>とか<仕事している>とかいうより仕方がないものになっている。何も愉悦を感じていないのに、性行為の動作だけはおおげさに演出され、演技される。観客の方はもどかしさや苛立たしさや空虚しか感じない。たいへん努力して男女が裸で仕事をしあっているという感じしか伝わってこないからだ。性交などしたことのない少年や少女が、はじめてこの映画をみたとする。性行為をはたから見ているじぶんの場所から、はじめての衝撃をうけるかもしれないが、性交行為というのはこれぽど仕事みたいに勤めるものなのか、ということからも衝撃をうけるにちがいない。女優たちの演じてみせる快楽の表情や声ですら、おおげさな<仕事>のような気がしてくる。もちろん<成人>にしてもおなじことだ。この「暗室」程度のポルノ場面だったら、物珍らしさがすぎたらただ勤勉な、しかもよく修練をっんでいない体操映画をみせられているのと、ちっとも変りがない。
 どうしてこういうことになるのか。もちろん監督の演出が妥協的で、中途半端な性演技のところで俳優の演技に、見切りをつけてしまったか、そうでなければ、もともと演出の性意識がこの程度のものでしかないのか、どちらかである。
 ポルノ映画ほど、監督や俳優のカ量や、人間的な質の高さを間われる映画はないはずだ。なまじの気持ちで決して手がけるべき主題でないことがわかる。すぐに性についての洞察がどの程度のものなのか、また俳優にたいする要求や、俳優としての演技や、人間の豊さがどの程度なのかを露呈してしまうからだ。
 吉行淳之介の原作小説「暗室」は、性衝動のモチーフにおいて質のいいポルノ小説である。ただこのポルノ小説は「そのこと(性交のこと……註)ができなくなったら、死ぬことしか私を待っていない」という心境にある中年あるいは初老の私を主人公に択んでいる。しかも作品には「どんな人間でも、その躯が占めている僅かな空間を幾十年かのあいだそれぞれ特有の形で引掻きまわした挙旬、消えてゆく」存在だという虚無的な肉体観がまつわりついている。それがこの小説のボルノ性を、たえず死臭のただようエロスにひきよせている。いいかえれば女たちの体臭や性器の匂いが、そのまま「私」にとって死臭につながっている。それがこの本質的にはボルノ小説いがい何ものでもない小説に、墨絵のような文学的な濃淡を与えている。
 浦山桐郎の映画作品は、かなりよく原作の質を生かしているという見方も成立つだろう。だが原作の性意識そのものにまつわる死臭を再現させるには程遠いものになっている。だいいち性交行為のからみの場面を演技するのに、差恥心をふりきるのが精一ぱいの女優に、性交動作とよがり声の誇張した演技をもとめれば、<勤勉な仕事>という雰囲気が出現してしまうのは当然なのだ。ほんとうに滑らかに愉悦が流れ合う性行為を出現させるのが難しいように、ほんとうに滑らかに愉悦が流れ合う性行為の演技を実現させるのも難かしいにちがいない。わたしたち人間は、男また女として、生涯に数えるほどしか、そういう性行為をもちえない存在なのだ。だが演技としてならまったき愉悦の性行為は不可能ではないかもしれぬ。それが実現できていることが、演出者や演技者がポルノ映画で優れていることの意味である。監督はなぜそれよりはるか以前の段階で、俳優たちの性交演技に見切りをつけてしまうか。また俳優たち(とくに女優たち)は、せっかく養恥心をふり切って性交場面を演じているのに、どうしてわざとらしく誇張され、ただ空しいだけの性交動作やよがり声を演じ、性交を演じたっもりになってしまうのか。わたしには一級の監督が、この程度のポルノ映圃をじぶんに許容してしまう理由が合点がいかない。
 「暗室」のような作品が、同本のポルノ映画の水準として、どの辺に位置するのか、まったくわたしには判っていない。だからこの映画程度までもってゆくのでも、たいへんなことなのだと、演出者や演技者が主張すれば返すことばをもたない。だが人はそれぞれにじぶんの性交行為に固有の思い入れをもっている。そうでなければ性交の専門家であるプロの女性または男性相手の放出と射出の行為をもっている。その中間にさまざまな中途半端な気分の性交関係がありうる。そしてポルノ映画を判断するのに最後には固有の思い入れのところに、かえるほかはないのだ。つまり性交行為は、人間的な行為のうち、いちばん質の高い行為であることから、いちばん動物生理的である行為までの、膨大な振幅をもった行為である。この膨大な振幅が本質的に、ポルノ映画の難かしさの根拠であるとおもえる。

 会ってしまえぱ、私は多加子に満足した。いつもと同じように最初は恥じらったが、そのこと自体が多加子の欲望のあらわれのようにみえた。間もなく差恥は消え、烈しく多加子は乱れた。躯が蒲団から擦り上り、黒い豊かな髪の毛が畳に落ち、長く尾を曳く声をあげた。細く澄んだ声で、それは夏枝には無いものだ。   (吉行淳之介『暗室』)
 
 美しい女同士が抱き合うのは、官能の世界に生きることだ。そこには受胎も家庭生活もなく、あるのは官能の揺らめきだけである。女の躯の微妙さにっいては、男よりもはるかに精しく、女のほうが知っている。女は自分で自分の躯を熱く熟れさせるように、傍の女の躯を燃え上らせる。樹に蔦が絡るようにではなく、蔦と蔦が縫れ合い、膨らん乳房をもった二つの躯の触れ合い、探り合い、長い髪の毛が絡まり合い、やがて一つに溶け合う。紫色の気体の中の、薄桃色の液体となる。あるいは臙脂の固体となる。   (吉行淳之介『暗室』)

 こういう文学作品の男と女、女と女の性交場面の描写では、わたしたちは言葉の概念的な<意味>をたどりながら、場面のイメージを思い浮べようとしている。すると言葉のイメージ喚起力に応じて、おぼろ気な性交の体位や場面が浮かんでくる。それがポルノ性の限界と価値とを決定する。だがこれらの場面を映像に移す(じじつ浦山桐郎の作品はこのふたつとも映像にしている)というのは、まったく別のことだ。映像ではまずはじめに、はっきりと性交の体位や動作の場面も、表情や貌も視えている。わたしたちはその映像からおぼろ気に浮びあがってくる<意味>を読みとろうとする。だが励んで仕事をしているだけの性交場面の映像からは、どんな<意味>も浮びあがってくるはずがないのだ。わたしには映画の要素にまで解体した本質的なポルノ映画が、「櫓山節考」や「暗室」程度の質のところでとどまるとはとうていおもえなかった。
   (「映画芸術」昭和五十八年八、十月号。吉本隆明著「夏を越した映画」所収・潮出版社)
 
 
 
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速水典子  速水 典子   1985年
★ 日活ロマンポルノ 「ラブホテル」。
 監督:相米慎二、脚本:石井隆
 出演:速水典子、寺田農、志水季里子、
 尾美としのり、佐藤浩市・他。

 
 
 公開が1985年とあるから、35才前後に当時三軒茶屋の古臭い映画館が二つあってそのどちらかでこの映画を見たことになるが、もっとずっと以前の、20代の若い頃に見たような気がしてならない。とはいっても、もう30年前の昔の映画ことだ。監督の相米慎二は「セーラー服と機関銃(1981年)」、「魚影の群れ(1983年)」、脚本の石井隆も劇画家として名前だけ知っていたけれど、普段通りのポルノ映画を見るように映画館に入った。日活ロマンポルはバカにしながらも実はよく見ていた。けれどもこの「ラブホテル」を見ながら、この映画はいままでの日活のポルノ映画とはなにか大きく違っていることを素人眼にもすぐにわかった。
 この映画は、映像のなかで裸身の男女が絡み合うセック・シーンを第一義に撮っていない。むしろセック・シーンなどは他のロマン・ポルノ映画にくらべれば最小限にしか撮っていない。この映画の制作者たちの主眼は、どこにでもあるような男女の行き違いのみみっちいいドラマをその当時の「現在」の視点から撮ろうとしている。なによりも主役たちの速水典子、寺田農、志水季里子の相互に噛み合わない生活の堆積が醸し出す表情の変化を<長廻しの相米>が丹念に撮っている姿勢に、わたしたち観客はそんな感じで観るように促されたのだと思う。
 
      更新中!
 
 
 
 
 
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風祭ゆき  風祭 ゆき   1981年
★ 日活 「女教師 汚れた放課後」
 監督:根岸吉太郎、脚本:田中陽造、
 出演:風祭ゆき、鹿沼えり、他。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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真咲乱  真咲 乱   1985年
★ 日活 「団鬼六 美教師地獄責め」
 監督:瀬川正仁、脚本:佐伯俊道、
 出演:真咲乱、志麻いづみ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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田口久美  田口 久美   1975年
★ 日活 「東京エマニエル夫人」
 監督:加藤彰、脚本:中野顕彰、
 出演:田口久美、他。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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池玲子  池 玲子   1971年
★ 東映 「女番長ブルース 牝蜂の逆襲」
 監督・脚本:鈴木則文、脚本:皆川隆之
 出演:池玲子、杉本美樹、天知茂

 
 日活ロマンポルノばかり挙げたのでは片手落ちだから東映のポルノの路線もあげてみる。やはり池玲子と杉本美紀が本命で、この二人の映画はよく見た。たぶん同時上映が高倉健の「唐獅子牡丹」とか「網走番外地」だったと記憶している。時代劇や任侠映画が振るわなくなり、映画路線を<ポルノ>に変更して最初の頃の作品群に池玲子は出演していた。
 日活ロマンポルノは都会風の風俗性を描いているが、東映のポルノ映画は葛飾、墨田、江東、荒川あたりの下町風の匂いのする風俗性を描いている。池玲子も杉本美樹も、なんとなく路地の無向こうに住んでいる気の強いお姉さんという感じがしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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杉本美樹  杉本 美樹   1972年
★ 東映 「女番長ブルース 牝蜂の挑戦」
 監督・脚本:鈴木則文、脚本:皆川隆之
 出演:池玲子、杉本美樹、梅宮辰夫

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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大川恵子  大川 恵子   1957年
★ 東映 「若さま侍捕物帳 鮮血の人魚」
 原作:城昌幸、監督:深田金之助。
 左の写真はたぶん「姫君一刀流」のものかな?

 
 
 わたしは、大川恵子(おおかわけいこ、愛知県名古屋市出身、1936年7月26日~)の声をいまでも憶えている。と、そう錯覚している。もちろんそんな筈はない。わたしが彼女の姿や声を銀幕で見ていたのは1957年~1965年で、わたしが7才~15才のときだ。いまから50~60年前のことで、声を憶えているわけはない。じぶんの都合のいいように記憶を大きくねじ曲げ、ありもしないことをあるように錯覚している過ぎない。けれども、どうしても憶えてるような気がしてならない。
 映画の題名は忘れてしまったが、たぶん「大奥物語」みたいな内容だった思うが、大川恵子が白い絹の長襦袢をスラリと畳に落とし、後ろ向きで全裸になるシーンがあった。けれども、銀幕の上で後ろ姿とはいえ、大川恵子は半裸になるような女優さんではなかったし、そんな映像が許される時代に活躍した女優さんではなかった。けれども記憶していると錯覚している。
 
 
 
 
 
 
 
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美里真理  美里 真理   1995年
★ アリスJAPAN 「女尻」等
 監督:神野太。出演:美里真理

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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麻田奈美  麻田 奈美  1973年
★ 「りんごヌード」
 撮影:青柳陽一、モデル:麻田奈美

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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