日付:2018年6月10日 

   ★ ふたつのポルノ映画まで

 

 

 浦山桐郎監督
浦山桐郎

 
 浦山桐郎の「暗室」は、もちろんそういう云い方をすれば「楢山節考」とおなじポルノ映画である。わたしは日本のポルノ映画の水準がどこにあるのか、世界の水準にたいしてどうなのか、一向に通じていない。その意味でこの映画の水準を測る目安をもっているわけではない。だから比較級でこの作品の水準をいうこどはできない。じぶんの性についての洞察から測ってみるより仕方がないのだ。ポルノ映画の核心は性交の場面にあるにちがいない。では性交の場面の核心はどこにあるのか。性交における映像的な愉悦と、リズム感の流れにあるに相違ない。サディズムやマゾヒズムみたいな苦痛の表現であっても、愉悦とリズムが、スムーズに流れていなければならないとおもえる。この映画のポルノグラムは、とうていそんな水準にはない。性行為はただ<努めている>とか<仕事している>とかいうより仕方がないものになっている。何も愉悦を感じていないのに、性行為の動作だけはおおげさに演出され、演技される。観客の方はもどかしさや苛立たしさや空虚しか感じない。たいへん努力して男女が裸で仕事をしあっているという感じしか伝わってこないからだ。性交などしたことのない少年や少女が、はじめてこの映画をみたとする。性行為をはたから見ているじぶんの場所から、はじめての衝撃をうけるかもしれないが、性交行為というのはこれぽど仕事みたいに勤めるものなのか、ということからも衝撃をうけるにちがいない。女優たちの演じてみせる快楽の表情や声ですら、おおげさな<仕事>のような気がしてくる。もちろん<成人>にしてもおなじことだ。この「暗室」程度のポルノ場面だったら、物珍らしさがすぎたらただ勤勉な、しかもよく修練をっんでいない体操映画をみせられているのと、ちっとも変りがない。
 どうしてこういうことになるのか。もちろん監督の演出が妥協的で、中途半端な性演技のところで俳優の演技に、見切りをつけてしまったか、そうでなければ、もともと演出の性意識がこの程度のものでしかないのか、どちらかである。
 ポルノ映画ほど、監督や俳優のカ量や、人間的な質の高さを間われる映画はないはずだ。なまじの気持ちで決して手がけるべき主題でないことがわかる。すぐに性についての洞察がどの程度のものなのか、また俳優にたいする要求や、俳優としての演技や、人間の豊さがどの程度なのかを露呈してしまうからだ。
 吉行淳之介の原作小説「暗室」は、性衝動のモチーフにおいて質のいいポルノ小説である。ただこのポルノ小説は「そのこと(性交のこと……註)ができなくなったら、死ぬことしか私を待っていない」という心境にある中年あるいは初老の私を主人公に択んでいる。しかも作品には「どんな人間でも、その躯が占めている僅かな空間を幾十年かのあいだそれぞれ特有の形で引掻きまわした挙旬、消えてゆく」存在だという虚無的な肉体観がまつわりついている。それがこの小説のボルノ性を、たえず死臭のただようエロスにひきよせている。いいかえれば女たちの体臭や性器の匂いが、そのまま「私」にとって死臭につながっている。それがこの本質的にはボルノ小説いがい何ものでもない小説に、墨絵のような文学的な濃淡を与えている。
 浦山桐郎の映画作品は、かなりよく原作の質を生かしているという見方も成立つだろう。だが原作の性意識そのものにまつわる死臭を再現させるには程遠いものになっている。だいいち性交行為のからみの場面を演技するのに、差恥心をふりきるのが精一ぱいの女優に、性交動作とよがり声の誇張した演技をもとめれば、<勤勉な仕事>という雰囲気が出現してしまうのは当然なのだ。ほんとうに滑らかに愉悦が流れ合う性行為を出現させるのが難しいように、ほんとうに滑らかに愉悦が流れ合う性行為の演技を実現させるのも難かしいにちがいない。わたしたち人間は、男また女として、生涯に数えるほどしか、そういう性行為をもちえない存在なのだ。だが演技としてならまったき愉悦の性行為は不可能ではないかもしれぬ。それが実現できていることが、演出者や演技者がポルノ映画で優れていることの意味である。監督はなぜそれよりはるか以前の段階で、俳優たちの性交演技に見切りをつけてしまうか。また俳優たち(とくに女優たち)は、せっかく養恥心をふり切って性交場面を演じているのに、どうしてわざとらしく誇張され、ただ空しいだけの性交動作やよがり声を演じ、性交を演じたっもりになってしまうのか。わたしには一級の監督が、この程度のポルノ映圃をじぶんに許容してしまう理由が合点がいかない。
 「暗室」のような作品が、同本のポルノ映画の水準として、どの辺に位置するのか、まったくわたしには判っていない。だからこの映画程度までもってゆくのでも、たいへんなことなのだと、演出者や演技者が主張すれば返すことばをもたない。だが人はそれぞれにじぶんの性交行為に固有の思い入れをもっている。そうでなければ性交の専門家であるプロの女性または男性相手の放出と射出の行為をもっている。その中間にさまざまな中途半端な気分の性交関係がありうる。そしてポルノ映画を判断するのに最後には固有の思い入れのところに、かえるほかはないのだ。つまり性交行為は、人間的な行為のうち、いちばん質の高い行為であることから、いちばん動物生理的である行為までの、膨大な振幅をもった行為である。この膨大な振幅が本質的に、ポルノ映画の難かしさの根拠であるとおもえる。

 会ってしまえぱ、私は多加子に満足した。いつもと同じように最初は恥じらったが、そのこと自体が多加子の欲望のあらわれのようにみえた。間もなく差恥は消え、烈しく多加子は乱れた。躯が蒲団から擦り上り、黒い豊かな髪の毛が畳に落ち、長く尾を曳く声をあげた。細く澄んだ声で、それは夏枝には無いものだ。   (吉行淳之介『暗室』)
 
 美しい女同士が抱き合うのは、官能の世界に生きることだ。そこには受胎も家庭生活もなく、あるのは官能の揺らめきだけである。女の躯の微妙さにっいては、男よりもはるかに精しく、女のほうが知っている。女は自分で自分の躯を熱く熟れさせるように、傍の女の躯を燃え上らせる。樹に蔦が絡るようにではなく、蔦と蔦が縫れ合い、膨らん乳房をもった二つの躯の触れ合い、探り合い、長い髪の毛が絡まり合い、やがて一つに溶け合う。紫色の気体の中の、薄桃色の液体となる。あるいは臙脂の固体となる。   (吉行淳之介『暗室』)

 こういう文学作品の男と女、女と女の性交場面の描写では、わたしたちは言葉の概念的な<意味>をたどりながら、場面のイメージを思い浮べようとしている。すると言葉のイメージ喚起力に応じて、おぼろ気な性交の体位や場面が浮かんでくる。それがポルノ性の限界と価値とを決定する。だがこれらの場面を映像に移す(じじつ浦山桐郎の作品はこのふたつとも映像にしている)というのは、まったく別のことだ。映像ではまずはじめに、はっきりと性交の体位や動作の場面も、表情や貌も視えている。わたしたちはその映像からおぼろ気に浮びあがってくる<意味>を読みとろうとする。だが励んで仕事をしているだけの性交場面の映像からは、どんな<意味>も浮びあがってくるはずがないのだ。わたしには映画の要素にまで解体した本質的なポルノ映画が、「櫓山節考」や「暗室」程度の質のところでとどまるとはとうていおもえなかった。
 
   (「映画芸術」昭和五十八年八、十月号。吉本隆明著「夏を越した映画」所収・潮出版社)
 
 
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