日付:2018年6月7日 

 井上梅次監督の「夜の牙」  ~日活アクションの面白さ

 
夜の牙 『夜の牙』1958年。
脚本・監督:井上梅次、
脚本:渡辺剣次。
出演:石原裕次郎、月丘夢路、
岡田眞澄、浅丘ルリ子。
 
 
  ☆ 吉本隆明
  『 夜 の 牙 』  
 
 探慎小説をしこたま読んで相当頭をいかれているものには、この程度のスリラーは直ぐに種が割れてしまって、後には、恋愛ともいえないお粗末な恋愛メロドラマや、演技ともいえない役者の演技だけしか残らないから、まったくつまらないだろうが、わたしは、結構おわりまで種を知らずに面白く見通した。少くとも、わたしがみなれている捕物帖映画と比較すれば、上の部に匹敵している。ついでだから捕物帖との比較をつづければ、石原裕次郎の扮する医者杉浦健吉は、右門とか伝七とか若さま侍とか平次とかに該当し、岡田真澄の扮する掬摸(スリ)の三太は、伝六とか、獅子ツ鼻の竹とかのような道化役に該当していることになる。
 
 この映画では、石原の扮する医者が、何故、自分が戸籍上死亡者になっていることに、これ程執着して探慎的興味を働かせるのかが、うまく描けていないが、冒頭のこの欠陥を除けば、あとは、快調のテンポで事件は進行し、終りまで娯しめる。
 わが捕物帖の主人公達の性格が、古典的倫理感をもった善良な庶民か武士であるのに対し、この現代的捕物帖の主人公は、いささかアプレ的で、自分の助手の女とも関係するし、昔の弟の愛人であり、いまは、犯人の情婦にさせられている女とも関係する。わが捕物帖の主人公たちを探債的行動にかりたてるのは、庶民的正義感や名人気質であるが、この現代的捕物帖の主入公を動かすのは、スリルと冒険を味わいたい好奇心である。
 わが捕物帖の主人公達が、庶民的生活に滲みこんだ中年者であるのに対し、この現代的捕物帖の主人公は、いくらか崩れかかった「坊ちゃん」である。
 
 わたしは、現代の観客が捕物帖を愛するか、この「夜の牙」のような日本的スリラーを愛するかは、ただ、年齢的な差異にしかすぎないだろうと思う。質の差異などは、少しもないのだ。知的な緊張もいらなけれぱ、性格葛藤にたいする心理的緊張もいらない。また、捕物帖の世界から江戸庶民的な倫理感や生活の典型を嗅ぎ出す興味にさそわれるように、この「夜の牙」から現代的風俗感覚やアプレ的な崩れを嗅ぎ出すとしても、まったく、おなじ程度のことしか出来ないだろう。
 
 わたしがこの映画で最も興味をひいたのは、石原裕次郎の扮する探慎医者のマスクと歩きっ振りと動作であり、これを除いたら「夜の牙」の魅カは、半減してしまったとおもわれる。この石原のマスクは、分析的にいえば、「疲労した坊っちやん」のマスクである。映画のなかで、月丘夢路の扮する犯人の情婦が「さっぱりして少し不良っぽいところがあるような」といったセリフを吐くと、「俺みたいじやあねえか」などと医者が答えるシーンがあるが、冗談じやあない。どこに不良っぽいところなどあるものか。不良っぽいとみえる石原のマスクや動作は、もちろん、おあつらえ向きに作ったものであり、本質的には「疲労した」と呼ぶべきマスクや動作である。わたしは、何故に石原のマスクや動作の特長のなかに、生活的疲労ではない「疲労」が若い身空で具わってしまっているのか、知らない。しかし、この石原の「坊っちゃん」と「疲労」との同居が、若い観客のなかの深層意識にあたえる魅力が、「夜の牙」の魅力の大半を占めていることは疑いない。観客は、一応、石原の扮する医者のマスクや動作のなかに、知的な職業(医者)と不良味を帯びた行動性を発見して惹かれるだろうが、このとき、実は、その生活の蔭のない「疲労」に惹かれているのである。
 
夜の牙  今日の所謂「アプレ」的な現象は、経済的基礎のハイアーなクラスの青年たちにある杜会的「疲労」を本質としているにちがいない。彼等の不良性などは、もちろん、不良などという凄味のあるものではなく、杜会的「疲労」からくる甘えであるにすぎない。「夜の牙」は、この甘えを逆手にとって、かなり巧みにつくりあげた風俗スリラーであるということができる。
 わたしが欲するのは、経済的基礎のロウアーなクラスの青年の「アプレ」的現象の描写であり、杜会的基礎をしんかんさせるような「不良性」であるが、今目、こういう「不良」を主人公にしたスリラー映画を製作する意欲をもった監督は、左翼から右翼までひっくるめて一人もいないだろうから、まず、高望みといわなくてはならない。左翼の方は、純愛の涙のなかに、ちょっぴり政治的看板をもちこんだ映画をつくり、右翼の方は、肩で風を切ってキャバレーかなにかに入ってゆくときだけの「不良」を描いてみせてくれる。
 わたしは、石原の扮する探慎医者が、額にしわを寄せて明け方の並木路を深刻そうに歩いてゆくラスト・シーンに至って、高田浩吉の扮する伝七親分だったら、事件を解決したあとは、鼻歌を唄って歩いてゆくところだ、とおもいながら、さてあの額に寄せたしわは何ものであるかと思いめぐらしたとき、坊っちやんの杜会的疲労という概念につきあたった次第である。空虚なポーズというよりはましだから「夜の牙」の主人公は、たとえ愛する弟を殺害され、恋人の一人を死なせたとしても、もって瞑すべきではなかろうか。
 
      (「映画評論」昭和32年2月号。潮出版社、吉本隆明著「夏を越した映画」収)
 
 ★井上梅次(1923~)慶応大学在学中に東宝争議の渦中、後の新東宝の前身と在った組合の製作による「縁は異なもの」にアルバイト助監督として参加。佐伯清,千葉泰樹などに師事。「恋の応援団長」で監督としてデビュー。日活アクション全体のイメージを作りあげた。
 ▲写真:左:月丘夢路、中央:脚本・監督:井上梅次、右:石原裕次郎
 
 
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