日付:2018年6月7日 

 文芸映画と恐怖映画と  ~芝居の台本の枠組みの現在

hitcher

映画「ヒッチャー(1986年)」の「女の手足を縄で縛って車が駆動すれば引き裂いてしまうところ」の場面   

 

   現実的で具体的で、本質的な示唆
 
 やはり最後は文体の問題に尽きるんだよ、そう思う。故吉本隆明さんの「夏を越した映画」を再読してみて、どうしてもこの書物を採り上げたい理由、あるいはこの書物のなににわたしは驚かされたのかというと、文体の流れの速いスピードのなかでこれだけの豊富な内容を平易な言葉で語りきっている、ということだ。わたしの現在は、吉本さんが「夏を越した映画」で表現した内容をなにひとつとして所有していない、けれどもその内容と文体の速さをじぶんなりに咀嚼をしてみたい、それがほんとの理由だ。
 
 
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     ☆ 吉本隆明
     ふた色の映画
 
 
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 このところしきりに映画を観た。専門家にすすめられた映画は、いわば純文芸映画ともいうべき映画であり、素人にすすめられて観にいった映画は「デモンズ」と「ヒッチャー」(これはビデオで観た)で、いずれもひろい意味の〈恐怖〉映画である。おまえはどっちが面白かったかと訊かれたら、正直に〈恐怖〉映画の方と答える。〈恐怖〉映画の条件ともいうべきものは二つあるとおもった。ひとつは映像を作る特殊撮影技術の高度化と〈恐怖〉の内実が必然的にからみあって切りはなすことができないことだ。どんな視覚映像も作ろうとすれば、ほとんど荒唐無稽の感じを与えずに作り出してしまう。「デモンズ」でいえば、劇場に誘導された観客の前に、スクリーンに映ったデモンズが、スクリーンを破って跳び出してきて、観客を襲いはじめたり、デモンズに噛みつかれた傷口が忽ちのうちに肉塊をひろげ、縁色の血を噴きだし、目が割けてデモンズの貌にみるみる変るといったことが、いわば連続的に映像化される。これは、典型的に特殊技術の高度化の賜物だとおもう。ところでもうひとつ〈恐怖〉映画には特質があるとおもえた。それは心に起る願望は、どんなに〈恐怖〉を与え、〈残虐〉さを感じさせ、〈背徳〉性を露わにし、〈病的〉な欲求であっても、とことん〈やってしまう〉ことだ。「ヒッチャー」でいえば無気味な変質的な殺人者が、女の頸動脈の上をほんとに切ったところを、ためらわずに映像化し、女の手足を縄で縛って車が駆動すれば引き裂いてしまうところを、正面きって映す。通常、映像が〈ためらい〉をおぼえる境界を容赦なく踏みつぶし、踏みぬいてゆくことで、無意識の抑圧を切開しようとするモチーフが、かならず作っている監督の側にも、内心で衝撃を感じながらも、それを観ている観客の側にもある。これは映像のデカダンスだといえばそれまでだが、同時に映画がどんな意味でも映像を抑圧し、禁忌としようとする自已制御機能を解体し、どこへゆくかわからぬが、もっと拡張された映像の概念を作ろうとする模索としても受けとれる。特撮技術を使って、〈恐怖〉を呼びおこしさえすれば、どんな映像でも作ってしまう。また、ふつうなら誰でも多少の〈ためらい〉なしには作れない〈恐怖〉・〈残虐〉〈気持ちの悪さ〉・〈臓物的なものを取出す禁忌の侵犯〉などを、限界を超えて喚起することで、わたしたちの視覚像に衝撃を与えようとする。このふたつはどこかでつながっている。
 
 わたしはここで〈ためらい〉の境界を踏みこえて〈恐怖〉を映像化してしまう〈恐怖〉映画の特質に触れながら、〈ためらい〉や〈恐怖〉は、成人の〈無意識〉がこしらえあげた境界に、まったく左右されるというフロイトの考えをすぐ思い出した。フロイトは幼児が何の〈ためらい〉も境界もなく独りでに踏み越えている性的な〈倒錯〉の場面を、五つに類別した。そのなかで第一に「種の限界(人間と動物との間のギャップ)を無視すること」と、第二に「汚穢の限界を踏み越えること」を挙げている。そしてこの限界は成人までの成長過程と学習によってこしらえられたもので、幼児はほんとは、この限界からまったく解放されていると述べている。わたしには〈恐怖〉映画が観客に観せたいとおもっているのは、この幼児のリビドーの倒錯が、解放されたときに出現するイメージの世界で、そのためには成人の〈恐怖〉感とはげしく衝突し、嫌悪や忌わしい感じを喚び起しても、それを踏みぬけようとするところに、映像の力価が産み出されるような気がする。観客はどんな年少でも、すくなくとも幼児ではないから、大なり小なりこんな映像が繰出されてくると〈恐怖〉を感じ、衝撃をうける。でもそれに惹かれ、その世界を覗きたいと願望するのは、忌わしさや汚穢の境界をとび越える解放感があるからだ。すくなくとも、自分が禁忌としたものに、意図的にぶちあたる快(このぱあいは不快や恐怖も快だ)が必ず秘められていると云える。
 
 「デモンズ」という映画はじつによかった。あの映像が繰出され、ストーリーが進行する速度は、幼児の空想の世界のように、考え込んでしまうちょうど直前のところで、跳んでゆく速度だとおもえた。この映画でやや速度が遅くなって、もたれ気味になったのは、劇場のなかでデモンズと観客とが追いつ追われつの活劇を演ずる場面だけだった。ここではあまりに長い時間、観客席と舞台裏と劇場の廊下といった反復の多い単調な場面で、デモンズと観客のせめぎあいが繰返し演じられた。この場面だけは幼児の空想の世界のスピードをうしなって失速した分だけ、〈恐怖〉は薄れ、子供じみた馬鹿らしい活劇だと、われわれ大人に馬鹿にされてしまいそうだった。だがこれはいかんと思わせる寸前のところで、この映画は、ふたたび速度を回復し、大人たちに息もつかせない〈恐怖〉を繰出してみせた。カフカの『城』では、測量技師はいつまでたっても、まるで迷路のなかのように、呼ばれてきた城に到達できない。しずかなもどかしさと、しずかな不安と、遅い心意のように進行する文体の遠度が、根源的な生の〈怖れ〉を喚起させる。「デモンズ」では、いつまでたっても街の真ん中にある劇場の内部で、デモンズに追われ、喰いつかれるとじぶんもデモンズになって、観客を追いはじめ、どんなにして逃げても劇場の外に出られない、あの〈恐怖〉映画の世界は、やや誇張になるかもしれないが、わたしにはカフカのやったことを映像でやりとげたような、いいようのない感銘を与える。〈恐怖〉は、フロイトのいうように幼児の空想のリビドーだから、倫理などは存在しえない。幼児の空想には非モラルも反モラルも残酷も無遠慮に踏みこんでくる。そして大人たちはその世界を、無意識のなかに封じこめてしまったものだ。
 
 映像の技術は、特殊撮影の効果について、次第に精緻をきわめるようになり、大人たちが意識して作れる映像と無意識のあいだの境界を自在に踏み越え、往来する連結路を作れるようになりっっある。また現在のところ究極映像とかんがえられる高次映像をも、特殊撮影で出現させることができるようになった。映画とは何か定義ができないうちに〈恐怖〉映画の定義はできそうもないといえばそれまでだが、映画が映像をつくる技術的な手段の高度化と切り離すことができない表現分野だということを承認すれば、〈恐怖〉映画は、無意識の映像と意識的に願望し、実現される映像の境界を、自在に連絡しようとする撮彰技術の高度化にともなって、産みだされてきたひとっのジャンルだといえる。たぶん幼児の空想の世界の非倫理性や残酷さと、禁忌のない自在な露出された内容とが関わりあいながら展開されている。そのところには、膨大で依りどころや把まえどころがなく、そのくせメカニカルな、現在の杜会の手触りから逃れて、切実な匂いがする根拠を願望せずにいられないわたしたちの状態と、どこかでかかわりがあるかもしれない。映画が近い将来に死を体験するとすれば〈恐怖〉映画をひとつの分野とする、映像と心像とがもっれあってひろがってゆく世界からであるような気がする。
 
 
      2
 
 現在、専門家が映画の本流とみている映画は、素人からいえば文芸映画にあたる。原作がおおく文芸作品であるような映画のことだ。わたしもひと月ばかりのあいだに、たてつづけに「フール・フォア・ラヴ」、「蛛蜘女のキス」、「ホテル・ニューハンプシャー」、「カラーバープル」、「山の焚火」など、この種の映画を観てきた。おおざっぱな印象をいえば、どれひとつとしてあきれかえる駄作はなかった。(〈恐怖〉映画にはときどき始末に悪い駄作がある)。だが同時にどれひとつとして魅カ的な、これこそが映画だというほどの作品もなかった。ひと通りの意味でいずれも上位の部類の作品に入るというだけだ。すこし立ち入ってしまえば映画を文学に従属させて平気な作品ではあっても、映画を映像の芸術として文学性から解き放ち、自立させようとする意欲も、気力も、モチーフもない作品ぱかりだといってよい。こんな印象を与える理由を挙げてみればっぎのことに帰着する。
 
 (1)映像の速度が遅くて、退屈を感じさせる。現在の観衆はさまざまな刺戟の麻酔薬を注入されていて、視覚像の速度を急速にされている。それを考慮にいれた映像速度は、この種の〈文芸〉映画では皆無であるといっていい。むしろ映像の速度を文芸作品の黙読の速度に合わせようとして作られている。わたしにはたまらなく馬鹿気たことのようにおもえる。原作にある程度は優れた、ある程度は大衆受けする作品をとってきて映画化すれば、さしたる駄作を作らなくて済むのはわかりきっているからだ。その代りこれでは原作以上の映画も、原作とは異った存在価値のある映画も、ほとんど製作不可能にちかい。またほんとに優れた「大」をつけたような文芸作品を映画化すれば、必ず失敗するにきまっている。もう数十年前だが、ドストエフスキイの『白痴』を映画にした大監督がいたが、わたしは観ながら驚きあきれたことを覚えている。はじめからこんなことはやらない方がいいのだ。
 (2)映画としての未知への新しい挑戦がない。これらの〈文芸〉映画は、ほとんどが原作の物語的な〈意味〉にもたれて、物語的な〈意味〉を映像的な〈無意味〉に転換するばあい、また物語的な〈無意味〉を映像的な〈意味〉に転換するばあい、どんな新しい映像的な試みもしようとしていない。でも映像表現手段の新しい探究を含まない映画作品など、映画の本来にとって無意味だとしかおもえない。古い、テンポの遅い、何の工夫もない(ことを誇っているような)一本調子の映像を、ただ映像面の明暗にかかわるぼかし処理で、情念の雰囲気に作りあげようとしている。映像固有の芸術性としては最低だというよりほかない。ただ原作(またはそれに近い)文学作品の出来映えに依りかかってしまって、辛うじて上位の作品として成立しているのだ。
 
 
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 もう少しだけこれに立ち入って感想を述べてみたい。そこでこれらの作品の「場面」と「内容」の処理の仕方を表にして挙げてみる。(表参照)
 これらの〈文芸〉映画の共通した特徴は、いくらか例外をみとめるとしても、わざわざ狭い固定された一家族の住居に類似する場所を、舞台にとっている。わたしに言はせれば、この狭い舞台(場面)と、そこに登場し退場する少ない数の人物という特徴は、演劇と私小説的な文学作品に固有な特徴だ。映画の特徴でも必要な条件でもない。むしろ映画を絞殺する条件だ。この狭い舞台(場面)という自分で勝手にこしらえた制約を多様化し、単調さに陥るのを避けるために、様々な工夫を凝らし、その工夫がこの種の映画の芸術性のすべてだといってもいい程だ。いったいじぶんで勝手に制約をこしらえたうえで、その制約を壊すことが即ち映画の作品性だという馬鹿らしい作品を、感心して観てはいられないのだ。
 「フール・フォア・ラブ」では、俳優の演技を演劇的にもってまわったように際立たせ、場面のなかの俳優の動き、場面の意味を、無理に対立的にしつらえ、ところどころに回想の場面を挿入することようとしている。工夫といえば工夫だが、単調で高級ぶった長セリフの新劇を、下手な俳優で観せらで、単調さを避けれているようなもので、どだいはじめから無理なのだ。「蜘蛛女のキス」を救っているのは、これとはすこしちがうが、たいして変りばえはない、ホモ男モリーナが語る映画の話も、空想的な回想も、すぐその場から別の物語として挿入されることで、単調さが避けられている。いわば映画のなかに、物語の場面が映像として重畳される効果なのだ。もうひとつは主題の特異さが、この映画の単調さを救っている要素だ。刑務所の二人房室に入っている同室者が、ひとりは反ファシズムの政治犯の男であり、もうひとりはだらしないホモ男であり、ホモ男は政治犯の男の方ににじり寄りたがったり、自然な優しさで奉仕したりするのに、政治犯の男の方は、はじめは頭から嫌悪して撥ねつけている。だがしだいに相手の人柄を容認してゆくようになる。そしてついに相互に親愛感をもつように変容する。この過程の主題的な特異さが、背景にある刑務所役人の政治的な思惑とからみあうところに、単調さが避けられている。

   映画の主な舞台(場面) -----