日付:2018年3月 

 吉本隆明の「夏を越した映画」より~ 「現在の名画の条件」

 

映画「Fitzcarraldo」  

 

  現在の名画の条件
 
 こんどみんなが、いい映画だとすすめてくれた映画を、ゆきつもどりつしながら何本かみて歩いた。お座興にそうやってみた映画に順位をくっつけてみる。つまり私説ベストシツクスというわけだ。
 
    第一位 「フィッツカラルド」
    第二位 「ソフィの選択」
    第三位 「愛の絆」
    第四位 「アウトサイダi」
    第五位 「フラッシュダンス」
    第六位 「白由の代償」
 
 ほんとに映画に夢中だったころは、こんなばかな見方はしなかった。じぶんだけの名画を見つけ出し、ひそかに胸の中であたためて大事にしていた。それは概して専門の映画批評家がいいという映画の向こう岸にあてた。そんな私的な発見や思い入れがなかったら、わざわざ暗がりに出かけて、映像に見入るいわれはないわけだ。そう考えるといまのじぶんの映画鑑賞は堕落している。みた映画に勝手な順位をくっつけて、さて名画の条件は何だろうなどということしか考えられなくなっているのだ。
 
 名画の条作はいくつかあげられよう、
 
    ①は、いいストーリーのちみつな遊び。
    ②は、映像の緊密さ、均斉、つや(明暗)、つよいスムーズな流れ。
    ③は、構成の規模の豊かさ。
    ④は、試みの新しさ。
 
 これらの四つの条件がバランスよく高単位で結びついていたら、一般に名画ということになるにちがいない。
 この条件に照らして、こんどみた六本の映画はどれも、現在の映画作品の最上級にある名画にちがいない。では名画が現在そこに「ある」条件は何なのか。わたしは改めて、この六本の映画を流れる共通の基調を探る眼っきになった。すると、やっと微かに浮かびあがってくるものがある。ひと口にいえば「徒労(無駄な空しさ)」に土を盛りあげ、形らしいものに仕立てて、世界を作ろうとしていることだ。
 それは投げやりなニヒリズムともちがうし、破減感に加担しているのでもない。また人生の実相はかくのごとき真実にあるのだと主張しているのでもない。「徒労(無駄な空しさ)」を冷静にニュートラル(中立的)に追っていって、「徒労(無駄な空しさ)」が現在の世界に差異をつける大切な線分であることを、暗喩しようとしているとおもえる。っまり「徒労(無駄な空しさ)」であることと「徒労(無駄な空しさ)」でないこととのあいだの差異に、現在の世界のほんとに大切な姿が潜んでいることを、冷静に暗示しようとしている。
 
 唯一の例外は「フラヅシュダンス」で、こればかりは甘美なハヅピーエンドに終わるようにみえる。だが、ほんとはハツピーでもエンドでもない。そのあと女主人公アレックスをまっているのは「徒労(無駄な空しさ)」なひとりのステージ・ダンサーの地味な道なのだ。出発点にやってきたとき世界の甘美さも幸福な輝きも終わっている。あとは淡々とした冷静な「徒労(無駄な空しさ)」が続いてゆくに相違ない。
 
 それにしても、とわたしは最後にすこし本音を言わしてもらう。もしかすると、ストーリーの展開と映像の流れとを重ねあい、撚りあわせ、重層した構築物に仕上げる映画というジャンルは、現在ではもう過ぎてしまったのではないだろうか。こんど現在の名画をみながら、しきりにそうおもった。どうしてかというと、この六本とも映像の意味するものが鈍重で、暗くて、ストーリーと映像がけんせいしあってできている重力の場が、とても負担に感じられる。心の底から感性の解放を与えられるのは、はじめから不可能におもえてならなかった。
 
 このなかでは「フィッツカラルド」が、いちばん均等に高単位で名画の条件を備えているとおもえる。それでもこの映画が仕遂げている新しさは、全体のストーリーの進行が主人公の夢と計画の事実を、そのまま実写したのではないかとおもわせるほどに、情景と人物の動きの映像を自然さに近接させたということに帰着する。いいかえれば、もっとも完全に、人工的にこしらえた演技や情景が、もっとも実写の記録に近づいているという逆説を、忍耐づよい演出と演技で実現しているということだ。もっと解体しなくてはならぬ。
 ストーリーがこの世界の「徒労(無駄な空しさ)」の中心を過ぎって走り、映像の流れが白目の自然光のように軽やかな解放感を与えるほど、脱構築を実現した映画は、いまどこかで、だれかの手で作られているのだろうか。
        (共同通信配信、昭和五十八年十月 吉本隆明著「夏を越した映画」所収・潮出版社)
 
 
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   ★ この稿、続く