日付:2018年3月 

  森田芳光監督の「それから」という映画  言葉から映像へ

 

・森田芳光監督の「それから」の三千代役の藤谷美和子、代助役の松田勇作  

 

 ☆ 吉本隆明
森田芳光監督の「それから」という映画
 
 
 「それから」という映画は、漱石の小説作品『それから』に映像で張り合おうとした野心的な試みだとおもう。そしてほとんど成功しているといいたいところだ。これは日本のいわゆる文芸映画では、はじめての出来事だといっていい。小津安二郎、成瀬巳喜男、黒澤明、木下恵介など、想い出すだけでも、一級の文学作品を映画にした監督はいるが、みな原作を映像でダイジェストしただけで観せようとした程度の出来映えと心構えを出なかった。こんど森田芳光だけが、言葉で書かれた優れた原作にたいし、はじめから映像で張り合おうと企てたことがとてもよく伝わってきた。
 
 この監督は、真正面(あるいは真裏面)からと、真側面からと、少数の斜め上方からしかカメラを動かそうとしていない。すると映像は並列直交か一列縦隊になって映される。これは張り合いのカメラ・ワークともいうべきもので、映像を際立たせるために、この方法が多用されている。弱点をいえぱ、そのために映像の流れが停滞感と滑稽感を与えられるようになる。じじつこの映画でも危うく停滞の感じを与えそうな映像が、いくつかの場面であった。そしてカメラ角度の誇張された極端の選択の効果と弱点は、すれすれのところで辛うじて効果の方に傾いているとおもわれた。もうひとつ欠陥をあげつらうとすれば、原作にある弱点が、映像だからどうしても誇張されることになっている。漱石の原作の弱点は代助と三千代と平岡の三角関係のなかで、平岡にやや人格的な欠陥を与えて、感情の均衡を代助、三千代の結びつきの方に向かせようとしている点にあった。新闘の経済記者の職にあった平岡が、代助の父や兄の会杜が、折から起こった疑獄事件にかかわりがあるのを知っていて、あえて記事にしないのだといったことを仄めかして、代助に脅迫がましい感じを与える個所があり、漱石がやや手を抜いた箇所となっている。
 
 平岡は失業して心がうらぶれていて、高等遊民の代助の優雅な生活に比べると、いかにもせせこましい貧弱な感じを与えようと描かれているのは、このばあい当然だが、人格的に欠陥があるかのように描かれる必然はなにもない。それなのに平岡の人格がだめなために、三千代をめぐる平岡と代助の関係に安易なかげりを与える結果になっている。この原作の弱点は映像ではどうしても誇張されている。平岡が放蕩して、謝金をこしらえ、生活を破綻させようとしたり、おまえの息子はわたしの妻君に手を出すような奴だと、代助の父や兄に告げ口したりして、やや悪党にちかい印象を与えられ、それが代助と三千代の道ならぬ愛情を当然とおもわせるような描写を、やや安易にやっている。つまり三千代の方からは、うちの亭主はつまらない嫌な人なので貴方に心が傾きましたという感じになり、代助の方からは、可哀そうに学生のころ好意をよせた女性が、つまらない男のため生活苦や心労を与えられているの見かねて、援助しているうちにわりない恋愛感情に陥ってしまった、とうい印象を与えることになっている。このこと映像が人物を具象化し、場面をはっきり形象化するから、ある意味ではやむをえないといえる。
 
 だが漱石が猫きたかったのは、代助と、三手代と平岡のあいだに醸し出された三角関係の「均衡必然性」ともいうべぬきさしならない性格で、それが明治の文明開化の当然の酬いとして、平岡に三千代にも代助にも分割されて負荷されてゆく成り行きであった。森田芳光監督は、原作が平岡や三千代や代助に負わせている文明苦のよりなかげりを捨象し、その代償として綺麗で、原作よりも通俗的で、しかも見事に際立たさられ、構成的にしつらえられた映像を、これでもかこれでもかというように繰り出して、灰暗い映像苦の美しさの世界に変貌させたといえよう。わたしには原作がもつ文明苦の象徴は、ほぼ原作に拮抗できるカで映像苦の象徴に転化できているとおもわれた。「家族ゲ-ム」このかた、はじめてこの監督の力量を充分発揮した作品になっていた。
 
左寄せの画像  わたしはのっけから藤谷美和子が扮する三千代の正面半身像が、画面の真ん中に浮かび出て、ちょうどこの映画の映像の雰囲気の全体を象徴する薄暗い、やわらかい絞りでしだいに出現し、またしだいに消えてゆく冒頭の映像に、すぐに感心させられた。これはやるぞという感じで、すぐに映画のなかに入りこみ、わき見をする余裕もあたえられずに、終わりまでもってゆかれた。かくべつ説明的にもならず、筋書きを追いかけるだけでもなく、映像で語らしめるという形で、原作に肉薄しているこの監督のカ量に驚かされた。
 
 心臓が悪い三千代が息を切らして代助の家に入ってきて、鉢の水をコヅプですくって飲む場面は冴えていた。三千代が上半身肌ぬぎになって髪を洗う場面に、決心してしまった女のあわれさを象徴させているのもよかった。三度もあって多用しすぎたともいえるが、古い昔馴染の市電の座席に松田優作の扮する代助を座らせて、花火とか月影とかで、代助の心象と明治の雰囲気を象徴させた場面も鮮やかに残っている。概していえば俳優たちにあまり喋らせずに、いわば象徴的なせりふだけを与え、動作も含みがおおく絵画的にして映像の象徴性で行為を語らせたことは、明治という時代にたいするわたしたちの無意識の趣向に喰い込んでくるカがあった。雨、後ろ向きの映像から入る代助と三千代の姿、夜桜の舞う花びら、しばしば斜め上方から映写される庭や室内の摘写、代助と平岡の対話に割って入るタバコのケムリの役割、代助と平岡と三千代のと、三千代の兄が池にかかる橋のところで、無言のまま動作やお互いの距離で疎遠さや親密さを象徴させる映像の場面。これとは逆に中村嘉葎雄の扮する代功の兄、実業家の長井誠吾や、森尾由美が扮するその娘の女学生達が登場する場面で、対照的な明るさとお喋言りの弾む雰囲気を作っている映像。こうやって強い印象を与えられた場面を思い浮かべていくと、ほとんど全編が丁寧なよく考えられた映像の連続によって、原作よりやや通俗的に柔らかく情緒的に変容させてはあるが、最後まで休みない充溢感を与えられながら、観終えることができた。
 
 代助が茶屋遊びをしている場面で、酔った代助が変な手振りで踊りの真似ごとをし、そばの女がふたり、代助の手振りを真似て後ろからついてくる正面からの映像だけは、意味が不明であった。手塚治虫の漫画風にいえば、ヒョウタンッギの出てくる場面みたいなもので、あの代助の手振り踊りの場面を撮ることで監督がいだいている代助のイメージと、松田優作が演じている代助のイメージとの喰いちがいを無化して、パアにしているのだとおもえた。これにくらべれば、平岡が茶屋あそびをする場合は、職がみつからずに苛立ち、家へ帰っても三千代の暗い表情にぶっかるので面白くないといった平岡の憂さばらしの気分がよく出ていて、はるかに分かり易くなっている。
 
 わたしの感想では、あとほんの少しで映像を際立たせ、構造化しようと考えて、並列直交の真正面(あるいは真裏面)や真側面からの画像を強調多用したら、鈴木清順や寺山修司の映像みたいな停滞に陥ったかもしれないとおもった。このあたりで映像に速度をつけ自已救済しているところが、この古風な映像と雰囲気に、いまの感覚を与えることになっている。この映両は、森田監督がいうほど一般大衆に受けることはありえないだろうが、わたしが今年みた洋画、邦画のなかでは、ベストワンかペストトゥだという感想をもった。
      (「マリー・クレール」昭和六十一年二月。吉本隆明著「夏を越した映画」所収・潮出版社)
 
★ 森田芳光(1950~2011)映画監督。東京渋谷区に生まれる。日大芸術学部放送学科卒業。70年代初めに8ミリ作家として出発。ほぽ10年に21本の作品を発表した。70年代の商業映画崩壊現象に抬頭した注目される監督。
▲写真:森田芳光。
 
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   ★ この稿、続く