日付:2020年12月10日 

  故吉本隆明氏の『ひきこもり』を再読しました

 
 吉本隆明氏の『ひきこもり』を抜粋・掲載させていただきます。
 
 
 コロナの季節で、芝居の稽古や初夏の公演を諦め、結果として自宅と就業先の往復だけで過ごしてきた自分の「ひきこもり」を、どのように考えたらよいのか、よく解らず把かめなかった。
 わたしの「ひきこもり」の時間のなかで読んだ一人の思想家の声を再読してみた。

左寄せの画像● 時間をこま切れにされたら、
 ● 人は何ものにもなることができない
 
 ● 世の中に出ることはいいことか

 
「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい。……そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません。
 ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に出張(でば)っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない。
 テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提として報道がなされています。でもそれは、テレビのキャスターなど、メディアに従事する人たちが、自分たちの職業を基準に考えている面があるからではないでしょうか。
 かれらはとにかく出張っていってものを言う職業であり、引っ込んでいては仕事になりません。だからコミュニケーション能力のある社交的な人がよくて、そうでない奴は駄目なんだと無意識に決めつけてしまっている。そして「ひきこもっている人は、将来職業につくのだって相当大変なはずだ。社会にとって役に立たない」と考えます。
 でも、本当にそうでしょうか。ぼくは決してそうは思わない。世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身につけないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計をする人もそうですし、事務作業をする人や他人にものを教える人だってそうでしょう。ジャーナリズムに乗っかって大勢の前に出てくるような職業など、実はほとんどない。テレビのキャスターのような仕事のほうが例外なのです。
 いや、テレビのキャスターだって、皆が寝静まった頃に一人、早口言葉か何かを練習していたりするのではないでしょうか。それをやらずに職業として成り立っていくはずがない。
 家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。
 
 
● 一人で過ごす時聞が「価値」を生み出す
 
 ぼくには子どもが二人いますが、子育ての時に気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。くだらない用事やなにかを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。
 勉強している間は邪魔してはいけない、というのではない。遊んでいても、ただボーッとしているのであっても、まとまった時間を子どもにもたせることは大事なのです。一人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです。
 ぼくは子どもの頃、親に用事を言いつけられると、たいてい「おれ、知らないよ」と言って逃げていました。そうして表に遊びに行って、夕方まで帰らない。悪ガキでしたから、その手に限ると思っていました。
 そうするとどうなるかというと、親はぼくの姉にその用事を言いつける。姉はいつも文句も言わずに従っていました。いま思っても、あれはよくなかったなあと反省します。つまり、女の子のほうが親は用事を言いつけやすい。姉本人もそういうものだと思って、あまり疑問をもたずに用足しに行ったりするわけです。
 そういつたことを当時のぼくはよくわかっていた。そして、うまく逃げながらも「自分が親になったら、これはちょっとやりたくないな」と思っていたのです。ぼくの子どもは二人とも女の子です。女の子が育っていく時に一番大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということなのではないかと思うのです。それ以外のことは、女の子でもやれば何とかなる気がするのですが、これだけは絶対に不利です。
 だから余計、気をつけました。お使いを子どもに頼むくらいなら、自分で買い物かごをもっておかず屋さんにでも何でも行くようにしていました。他のことではだらしない、駄目な親でしたが、それは意識してやっていましたね。
 つまりそれだけひきこもる時間というものを大事に考えてきたということです。自分の時間をこま切れにされていたら、ひとは何ものにもなることができません。
 ゆくゆくはこれを職業にできたらいいな、と思えるものが出てきたらなおのこと、一人で過ごすまとまった時間が必要になります。はたから見ると、何も作り出していない、意味のない時間に思えても、本人にとってはそうではないのです。
 
 
● 「引き出し症候群」の素人はおっかない
 ● ひきこもることは間題ではない

 
 ひきこもっている人たちを、なんとか世の中に引っ張り出そうとして活動してしている素人の人たちがいます。
 テレビを見ていたらこんなことが紹介されていました。もとはスーパーの店長だった人が、ひきこもりの人を集め、普通の人たちと語し合ったり一緒に遊んだりする場をもうける活動をやっている。店を辞めてボランティアでやっているというのです。
 よしてくれ、と言いたくなりました。
 スーパーの店長として仕事をしてきた人が力を発揮できるのは、新鮮で安い商品を仕入れるとか、商品が売れるように品物を並べ替えるとか、そういうことでしょう。ひきこもっている子どもに対してどうするかが専門では決してない。ひきこもりには二種類あると思います。ひどい引っ込み思案だったり孤独癖があったりして、どうも世の中とうまく折り合えず、一人でいるのが楽なんだよという人たち。そして、ある限界を超えて病気の範疇に入ってしまっている人たち。
 前者のような人は昔からいたわけで、別に問題はない。ひきこもる時間は当人にとって必要な時間です。生きづらかったり、社会に出る時期が他の人より遅れたりすることもあるでしょうが、赤の他人の素人になんだかんだ言われる筋合いはありません。
 そして後者の場合は、素人の手に負えるはずがありません。医者とか心理学者とか、そういう専門の力か必要になりてきます。スーハーの店長が手を出せば、かならず間違えるでしょう。
 つまり両方とも素人のボランティアが出てきても何もいいことはない。百害あって一利なしです。
 
 
● 他人とのつながり方は、それぞれでいい
 
 ぼくは専門家というのは馬鹿にできないと思っています。何であれ、ひとつの職業で食べていくということは大変なことです。だからスーパーの店長さんも、自分の専門の分野で世の中の役に立てばいいのです。余談ですが、ぼくは昔、失業している時に、理科系の編集者を募集している出版社の入社テストを受けに行ったことがあります。そこで校閲の試験のようなものを受けたのです。
 あんなものは字を知っていればできるだろうとたかをくくっていたんですが、問題用紙の文章を見ると、どこも間違っていないように思える。試験を受けに来きた他の奴に「どこも間違っていないように思うんだけど、どうだろうか」と訊いたら、「それは読むからだよ。読んじゃったら駄目だよ」と言うわけです。中身を読むのではなくて一字一字チェックしないと、専門の編集者としては駄目だという。それで、もう一度よく読み返してみたけれど、三つくらいしか間違いが見つからなかった。それで、見事に落ちました。やっぱり専門家というものは大したものだと思いました。このスーパーの店長さんのような「引き出し症候群」ともいうべき素人の人たちのやっていることは、実はとてもおっかないことです。本人たちは善意でやっているつもりで、世の中も、かれらを肯定的に見たりしている。そこには「引っ込み思案は駄目で、とにかく社交的なほうがいいんだ」という価値感が潜在的にあります。
 確かに引っ込み思案で暗い人間は、まわりの人にとって鬱陶しいでしょう。でもその人の申身は、一人で過ごしている間に豊かになっているかもしれない。そしてある瞬間に、「ああ、この人はこういう人なんだ」と誰かが理解してくれるかもしれません。その人なりの他人とのっながり方というのがあるのです。こう考えると、ひきこもりはよくないんだ、と思い込んでいるスーパーの店長さんは、ひきこもりから生まれるものをちっとも見てくれていないじゃないかということになります。テレビのキャスターにしてもスーパーの店長さんにしても、自分の尺度を他人に当てはめ、大きな声でものを言ったり善意の押し売りをするのは愚かなことです。
 
 
● ひきこもることで育つ
 ● 「第二の言語」
 
 ● 自分に通じる言語をもつということ

 
 ひきこもりが生み出すものについて考えてみます。一人になって自分と向き合う長い時間をもつことが何をもたらすのかについて、「第二の言語」という考え方にもとづいて、説明してみようと思います。
 他人とコミュニケートするための言葉ではなく、自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉。ひきこもることによって、そんな言葉をもつことができるのではないか、
 ぼくは、言語には二種類あると考えています。
 ひとつは他人になにかを伝えるための言語。もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。
 たとえば、美しい風景を目で見て「きれいだね」と誰かに言ったとします。これは、自分の視覚が感じた内容を指し示し、ほかの人に伝える言葉です。自分の心が感じた内容を表現してはいるのですが、それを他人と共有するという要素も同じくらい大きい。これが第一の言語です。
 それに対して、たとえば胃がキリキリ痛んで、思わず「痛い!」と口に出てしまったとする。この時の言葉は、他人に伝えることは二の次です。つまり、意味を指し示して他者とコミュニケートするためではなく、自分が自分にもたらすために発した言葉である要素が強いのです。これをぼくは、第二の言語であると考えます。
 
 
● 他人に伝えるのは二の次でいい
 
 第一の言語は感覚器官と深く関わっています。感覚が受け入れた刺激が神経を通って脳に伝わり、了解されて最終的に言葉となる。つまり感覚系の言語といえるでしよう。他人に伝えるのは二の次でいい一方、第二の言語は内臓の働きと関係が深い。内臓に通っている神経は、感覚器官ほど鋭敏ではありません。だから痛みにしても、たとえば胃の痛みは皮膚を怪我した時に比べると鈍い。また、他人から見て、どのくらい痛いのかをうかがい知ることも難しいといえます。のどたとえば熱いお茶を飲んだ時、口の中ではとても熱さを感じるけれども、喉仏から下へいくとそれほど熱さを感じません。まさに「喉元過ぎれば……」ということわざの通りです。
 ぼくはそれを、下っていく間にお茶が冷めるからだと思っていたのですが、そうではなく、のどから下は感覚が半分くらいしかないのだそうです。ぼくはこのことを、解剖学者三木成夫氏によって知りました。
 内蔵には、感覚的には敏感には鋭敏ではないけれども、自分自身にだけよく通じるような神経は通っている……このことは、とても興味深く、示唆に富んでいると思います。
「内臓の言葉」とでもいうのでしょうか、自分のためだけの言葉、他人に伝えることは二の次である言葉の使い方があるのだということです。
吉本隆明著「ひきこもれ」2002年:大和書房刊。    
      (糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より~ 「文化」ってなんだ? 朝日出版社)
 
 
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