日付:2018年3月 

 糸井重里×吉本隆明の『悪人正機』より~ 「声」ってなんだ?

 

・綾戸智絵さん  

 

 
綾戸智絵(あやとちえ)の声には、びっくりした  吉本隆明さんから聴く
 
 
吉本 隆明   例えば、北島三郎の「風雪流れ旅」とかを聴いてると、いいなあって思うんです。
 この「いいなあ」の理由が何かといえば、北島三郎の声が「追分」のもとになっている。大陸につながっているもので、古ジア的な声だからなんだと思うんですよ。
 日本人の中には蒙古の血があるんで、なるほどここまでの声なら日本人はやれるんだって思っていたわけです。
 ところが、綾戸智絵さんっていう人は、もっと根源的っていうか、それはちょっと日本人には出せねえよっていう声が出ていますよね。いやあ、これは誰にも出せない、今まで聴いたこともないっていう声でした。
 
 そうですね……北島三郎の声が北方アジア的な声だとしたら、その一方で、美空ひばりは、東南アジアからインドネシアのバリ島にっながるような声だと思うんです。あの「芸能的」な歌いっぷりの部分を抜かしたとすると、そういう南の国の声だよつて言えるんですね。だから僕は、その芸能的なところを取っちゃえばいいんだって思っていましたけど、そういうことで言えば、この綾戸智絵って人の声は、アフリカ的な声だなって思いました。
 
 いや、もちろん本当にアフリカのジャズシンガーがこういう声を出すかどうかは知りませんよ。でも、これは<声>として、やっぱりそういう<声>なんです。だから、日本人でどうしてこんな声が出せるんだ、どうやってこういう声を出すことを学んだんだ、と思いましたね。とにかく、こんな人がいるのかと、本当にびっくりしました。
 
 僕は美空ひばりを高く評価していて、これはまあ、説明すれば、割と簡単なことなんだけど、日本の歌というか演歌の特徴っていうのは、要するに「音はみんを言葉なんだ」ってことですよね。
 例えば美空ひばりの「ひゅー」っていうような細い声は、それは<言菓>としてこちらが聴けるものだと思うんですよ。声じゃなくて、分節された言葉として聴けるものだと思うんです。これはもう、僕らの文学畑で彼女の声に匹敵するひとはいないなって思ってたくらいです。とにかく、そういう特徴があるわけです。
 
 ところが、この綾戸さんの「アフリカ的」な声は、そういう意味での《言葉》じゃないんですよ。言語論で言えば、指示表出ではなく、自己表出ってことなんですね。何かを訴えてどうだっていうんじゃなくて、ワッと、自分の、内臓の言葉を、動きを言葉にしちゃったっていうか。これは結果として、彼女の声を聴いた人も、ワッとなっちゃいますよねえ。感嘆詞のようなものに近い言葉というか、それによく似ています。
 これは、ちょっと日本列島では出しようがねえっていうか、アジアからは出ねえよっていうものですよ。彼女が日本人じゃなかったら、あり得ることかもしれないけど、実際、こういう人がいる。
 
 となると、どこでこれを学んだのか、というか、どこでこういうものを身にっけちゃったのかなっていうことが問題になりますね。そこが知りたいですねえ。
 何か身体的な事情、病気があって声がこうなったのかもしれませんが、何か聴く人にワッと思わせる秘密というか、これはいわく言い難いものかもしれないけれど、かなり意識的に修練して創りあげたものだと思いますね。こりゃあすげえよって、思います。
 
 文学では、作者の創作上の秘密がよくわからないという、これは天才だ…っていう人は、そんなにいなくてさ。もしいるとすれば、それはやっぱり、宮沢賢治なんですね。彼の創作物の中には、知識で辿っていけないところがあるんですよ。これはもう、本人に説明してもらわんとわからんぜっていうところが、どうしても残るんです
 それと似て、彼女の「アフリカ的な声」の秘密っていうのも、わからないんですね。ま、とにかく、びっくりしました。
 
 
 
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 吉本隆明さんに聴く。
 
   折口信夫(おりくちしのぶ)は、『源氏物語』に「声」を感じた
 
 
 
左寄せの画像吉本 隆明  折口信夫(歌人・国文学者一っていう人が「歌のはじめ」ということについて、要するに「自分の魂、恋愛感情をね、その相手の人にくっつけちゃうことなんだ」と言っているんです。
 歌自体は文字で書くものだけど、本当は声に出して詠むものだと。そうすると、歌に込められた魂や恋情が、相手にくっついちゃうみたいに対応するんだ、と解釈しているんですね。
 この折口信夫の解釈ってのはすごいぜ、って思ってるんです。
 
 例えば、奈良時代の人たちが、どういう言葉で、どういう発音で、どういうふうに喋っていたかってことを、本当にわかっているんだと思えるくらいの天才的な国文学者でね。書いたものを読むと「あーツ」って思わず恐れ入っちゃうほどですし、明治以降の近代インテリを挙げたら、この折口信夫と柳田国男のふたり以外はもう仕方ないだろうってくらい、恐ろしい人なんですね。
 
 ですから『源氏物語』の見方でも、光源氏が冬景色の月が煌煌と照らす庭を眺めながら涙を流した……みたいなところ、今の時代の人から見たら、ちょっとわからないと思うようなところなんですけど、折口信夫に言わせれば、そういうのは「すごくよくわかる」そうなんです。
 なぜ、冬の庭の景色を見て涙を流すのか。それは、そこに<声>があるからだと言うわけですよ。
 庭の景色を見ても、葉っぱが揺れる様子を見ても、その風景を光源氏は<声>として思い、月の光や風の流れも<言葉>になって脳に認識されていたんだと。おそらく精霊のようなものを感じていたんだ、という理解なんですね。
 
 このように、折口信夫の解釈は、もう飛び抜けて、全然違うわけです。源氏物語には、瀬戸内(寂聴)さんの現代語訳とかもありますよね。これはいかにも彼女らしいって思えるんだけど、もう、甘い内容のことばっかり言っているんです。ところが、源氏物語はそれだけじゃないんだっていうことを折口信夫はやっている。解説として別物なんですよ。
 例えば、光源氏は、怒ったり、癪に障ることがあって、「これは許せん!」となると、相手を呪い殺すような性格だった、というようにね。実際、話の中には、源氏に疎まれた揚げ句に神経が衰弱して、痩せ細って死んじゃった相手も出てきますからね。
 
 つまり物語でも言葉でも、その発生のところで遡って考えを突き詰めていく。その意味では、初期マルクスに近い、すこい人ですよ、次元が違うって感じですね。
 折口信夫に関しては、源氏物語でもなんでもいいんだけれど、中火公論杜から『折口信夫全集』が出ています。これには、何度も何度も、びっくりするようなことが書いてあります。
 
 元の元を辿ること、つまり、もっと前もっと前と、物事の根源を突き詰めていくというのが、僕が彼の本から学んだことですね。
 初期のマルクスが、リンゴ一個の価値ってのは何なんだって考えたようなことや、三木成夫さんの「胎児の世界」とか、ダーウィンの「種の起源」とかも、折口信夫のやってきた方法と、みんな同じだと思います。
 そういえば、小林秀雄さんが、晩年に折口信夫を訪ねているんですね。その際、折口信夫は別れ際に「小林さん、本居宣長は、やっぱり源氏(げんじ)ですね」と言ったと書かれています。
 
 一般的には宣長の代表作っていえば『古事記伝』なんだけど、そっちじゃないんだ、と。文学において倫理的な価値があったりするっていうのは、そいつは違うんじゃないかと折口信夫は言うんですね。ただ「もののあはれ」を書くっていうのが文学で、それが一番いいんだと。世間で常識とされていることとは全然、違うことを言っているわけです。
 例えば源氏物語のことをやるんだったら、折口信夫は読んでおいて損はないと思いますよ。
 
 
      ★(糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より~ 「声」ってなんだ? 朝日出版社)
      ★(写真・左・柳田国男、右・折口信夫)