日付:2018年3月 

 おしゃれってなんだ? ~ 糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より

 

我が家の最後の猫・ナツ  

 

  違う要素がうまくくっついているのが、「おしゃれ」かな
 
吉本 隆明   僕は、おしゃれには段階というものがあるんだと思ってるんです。その意味では、僕なんかはもう、あと二段階も三段階もおしゃれにならないと、全然ダメなんだよなあって思いますね。
 以前・香水にっいての対談をしたことがあるんです。まあ、匂いについてのおしゃれの話題ですね。そこで、僕は専門家の方に、女の人がつける香水が濃すぎると、かえって周りにいる人には「いい感じ」ではないことがあるじゃないか、とか、ちょうどいい香りっていうのを、どうやって決めるものなのかってことを聞いてみたわけです。
 
 そこでわかったのは、香水の香りを濃すぎるとか、ちょうどいい濃さはどうだとかっていう感じ方をしているのは、もう、すでに香水に対する民度が違うんだってことだったんですよ。香水の習慣とかがあるところに行ったら、濃いとか濃すぎるとかっていう感じ方そのものが、もう全然ないんだって。そういう香水の民度の低いところで僕は質問をしたわけで、僕は、おしゃれの段階的には、ずいぶん低いところにいるんだってことがわかりましたね。
 
 あと、おしゃれに関して他の例を挙げると、それこそさっき話した「カリスマ美容師」だかが出ているテレビがあるでしょう。それを見ていると、普通の人をモデルにして「こういうのがいいんですよ」とか言ってパシャパシャ切っちゃってる。そうすると、確かに「らしく」なるんですよね。
 それで、この美容師のおしゃれの観念っていうのは何なんだって考えてみると、この人の顔だったらこういうのが似合うよみたいな、ごく当たり前のイメージがちゃんとあって、出来上がると、実際、そのごく当たり前なイメージになるんですね。特別に変わったところとか珍奇なところ、異様なところとかなくって、そういうふうにおさまっているんですよ。でも、それでいて、相当に前衛的なというか、先端的な技術みたいなものも、ちゃんと取り入れていてさ。
 僕はその、ごく当たり前なところと前衛的なところが、両方あるぜっていうことに、びっくりしましたね。パシャパシャ髪を切っていって、ある種、ごく普通に見えるじゃないかと思わせるところにもっていく。でも、その「普通」なるものが、そういうことを考えたこともない人たちの「普通」とは違うってことに、感心したんです。
 だから、僕がいいと思うおしゃれっていうのは、そういうふたつの要素が、一緒にくつっいてるっていうことなんじゃないかとは言えそうな気がするんですけどね。
 
 昔、コムデ・ギャルソンの服を着て雑誌に出た時、変にああだこうだ言われたけど、あのデザイナーの川久保玲って人のつくるファッシヨンにも感心しましたねえ。なんか穴なんか開いてて、衝撃的なデザインだったりするんだけれど、やっぱり着方によって、ちゃんと普通の人が普段でも着られるよってところがあってね。なんていうんだろう、古典的なところを心得た上でやってるなって、大いに感心したんです。これも、さっきの美容師の話じゃないけど、両方を持ってるんですよね。
 でも、やっぱり僕なんかは、中学校から全部制服で、その後はゲートル巻いて、なんていう環境と習慣でしたから、そういうのがどっかと染みついていて、それがなんか、ほんとのおしゃれを自分にさせないような抑制剤みたいに働いているんだと思います。そういう抑制がなかったら、もしかすると、相当いい気なもんだよっていうような、おしゃれになっていたかもしれませんよ。
 やっぱり、最初の香水の話に戻って考えてみると、僕はおしゃれの段階としては、下のほうにいるってことなんでしょうね。で、おしゃれにはその次の段階もあるし、そのまた次もあるんです。だから、ひとつずつ段階を上っていかないといけないものなんでしょうね。
 
 
  これからの文化を支えるのは、第三次産業的な「週刊誌」だ
 
 なんでもそうですけど、<天才領域>に入って眺めるのと、ただ外で眺めているだけなのはまるで違うぜってことなんです。雑誌なら、その雑誌のイデオロギーの中に入って、それを了解した上で読むのと、普通にただ眺めて読むのとは大分違うぜってこと、これが唯一いたいことですね。
 雑誌っていうのは、着想力があるからやれるわけだし、着想力がなかったら、書くこともしゃべることもなくて、つまんなくなっちゃうわけですからね。だから、読者がこの領域へ入って雑誌とか文章を読んだら、自分が何をやるにしろ、得るところがまるで違うと思いますよ。
 同じようなメディアでも新聞っていうのは今の状況だったらどれを読んだって全部同じ。言ってることも同じで、読んだってしょうがないものになってきてるんです。今、その代用をしているのは、粗雑ではあるけれども、週刊誌だと思いますね。週刊誌は、テーマだけはなかなかおもしろいのを拾ってくる。だから、今は週刊誌の方がずっとおもしろいというふうになっちゃった。
 
 文芸に関しては、純文学雑誌はもうつぶれる以外にない。今の社会の経済的メカニズムは、もう読者本位的になってるわけですから、そこで純文学みたいに読者なんかいなくてもいいやっていうのが成り立つはずはないですから。万一、今、いい小説っていうのを探そうとしたら、一見もう全然ダメだと思われているけど、いわゆるサブカルチャーの領域、そこから探す以外にないと。それでもわざわざ探すと、かつて純文学的にいいぞと言われていたものに匹敵する作品が出てくるんですよね。それがきっとこれからの文化的な表現を推進していく力になるんだろうと思います。
 読者が比較的大勢いる週刊誌だったら、経済の第三次産業の役割と同じで、編集者がいいものを掘っくりかえして探してくるっていうことをすると、本当にすごくいいものがあると思いますね。必ずあるはずです。
 だいたい、日本みたいな先進国で文化を支えるのは、もう週刊誌的、つまり第三次産業的な領域でしかないです。実際にそれが支えてるし、そこで働く人ももちろん一番多くなるし、何をするにも、もう、その領域でするよりしょうがないっていうふうになっちゃってるわけです。
 昔みたいに製造業とか重工業とかいってる時代は先進国では過ぎちゃったんだから、もとへ戻そうたって戻るわけがないんですよね。
 そんな時に、もう純文学なんて言ったってしょうがないじゃないかっていうことで、結局、週刊誌が昔の純文学雑誌と同じ役割を必然的に背負うでしょうし、人もそこに集中していくでしょう。才能も集中していくかもしれないですね。
      (糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より~ 「文化」ってなんだ? 朝日出版社)