日付:2018年3月 

   新しい文体をみつけることの試行錯誤

 

・セックス・ピストル  

 

おしゃべりの言葉

 

吉本 隆明  ほんというとおしゃべりの文体、そいつが見つからなきゃダメなんだっていうのが僕の感じか方なんです。だからじぶんが従来書いていることを書く寸前に、その止めて、その材料をしゃべってるみたいなの、そういうのはもちろん、それだったら、書いた方がいいんだってと思います。つまり物書きなんだから書いた方がいい。そういうのいつもつきまとっていて、うしろめたいし、さればと言ってどっかにお手本がないかっていいますと、「これはいいぜ」っていうのはなかなかない。そういうふうに見ていくと、このごろ学者先生は、こういう所(サージュ・1984年2月号・巻頭鼎談・糸井重里+浅田彰+中沢新一)に出しゃばってきて、言ってるでしょ。口調はくだけたように見えるんだけど、本当は体が笑ってないっていうんでしょうかね。つまり下手な芝居見てんのとおんなじで、科白だけおもしろおかしく言ってんだけど、ほんとは体の演技が笑ってないんだから、ちょっと見ちゃいられねえみたいなのがあるでしょ、それとおんなじような気がするですよ。この人たちは、なんかね、新しいこと、くだけてようなこと言ってるし、本当は片手間にやってるんだと思うんですよ。つまり、くだけてみせんだけど、本当なら日常会話で誰れかプライベートにしゃべってるときに言ってることね、それを記事にしているだけで、それはダメだと思うんです。僕らが書くべきことをこういう座談会でしゃべってるとおんなじでね。
 
 あの人たちは、本当は、「俺は学者であって」って、学問してんだ、やってる専門の学問は別にあるんだってね。だけどこういうことおもしれえから、関心持ってんだって感じでね。そうだったら、そんなことは、てめえたちだけでしゃべってればいいんだ。てめえたちの仲間でね、酒でも飲みながらしゃべってればいいので、こんな記事にすることはないと思うんです。
 
 そういう意味では、この人たちも全部ダメだとおもうですね。本当のそういうおしゃべり文体っていうのは、そうじゃないとおもう。こういう、サブ・カルチャーについてのしゃべり言葉っていうのは、違うとおもうんですよ。違うけれども「これだ」っていうふうなものは、あんまり見つけたことがないんですよね。あのそれで、あの、ほら、糸井重里やそれからビートたけしとか、おしゃべりをしているの、TVなんかで見てて、そんときはね、この人たちはしゃべり言葉として出来てて、自分のスタイルを持っててね、ちゃんと肉体がしゃべってるみたいな、こういう格好のこういう体つきのこういう顔している人は、こういうしゃべり方する以外にないよなっていう、それが出来てるって感じがするんです。
 
 だけど、糸井さんでもビートたけしでも自分がしゃべったことを本にするでしょ、そうすると、それはやっぱりダメだっておもってますね。本当は、生にしゃべってるほどよかあない。そうおもうわけです。何故かっていうと、そうなってくると、どうしても、文字になりますから意味が固定してしまいますよね。しゃべってる言葉みたいにフワッと聞いたら……相手は必要なだけ受け取ってあとはフワッと消えてしまうんじゃなくて、固定化してしまいますから。そうすると、固定化してしまったおしゃべりの口調としては、ビートたけしの本も、糸井さんの対話もそんなによくはないとおもう。しかし中沢新一とか浅田彰なんかよりはちゃんと出来ているとおもっていますね。こういうふうに言葉の記事になっても出来てるとおもうけど、しかし、本当の意味ではやっぱり、文字にしちゃったら、ちょっと違うんだって思ってます。
 
 僕らは学者ではありません、批評家ですから、守備範囲に何の限定もありませんから、サブ・カルチャーを論ずることもありうるわけだけれど、本当をいうと、サブ・カルチャーのことを論ずる時の文体っていいますか、自分でもわかってないんですよ。模索はするんですけれど、本当はわかってない。こんなんじゃないんだとか、これじゃだめなんだっていうふうに、いつでもおもいながらやってるっていうのは、自分の自意識なんですね。だから、サブ・カルチャーのこと論ずるときの、その書き言葉の文体も、本当はわかんないんですよ。それからもちろんしゃべり言葉の文体も本当はわかんないです。どっかにいいお手本はないかなあーって、いつでも探しているみたいにおもうんです。TVなんかには、そういう話術の専門家みたいな人が、いずれにせよ出てるわけで、よく注意して見ていても、お手本だっていう人はなかなかいない。やっぱり、ビートたけしとか、糸井さんの"YOU"であるとか、欽ちゃんのしゃべり言葉とかね。そういうのが、ああこれは、今考えられる限りは一番いいしゃべり言葉してるっておもっちゃう。
 
 ただその人たちのしゃべり言葉を記事にして、対話集みたいなこういう本にして、そうなってくると、ちょっと誤差がね、よく考えられてないよなっておもえます。そういう意味では、こうしたらいいんだっていう手本は、無いんだけど、ただ現状では誰れが見てもダメだっていうことだけは、もうはっきりしてる。少なくとも、こういう文字に固定されたね、北宋社の編集が企てた本のなかのしゃべり言葉は「ちょっと見つけるのは難しいなあ」っておもってますね。だから、安達さんが、本当は書き言葉で書きゃいいのに、それがしゃべり言葉になってるみたいじゃない話し方を、出来るだけ引き出して下さることが望ましいですよ。そうしたらありがたいですね。
 
 もともと僕がしゃべってんのはいつでもそうですよ。書きゃいいことを水薄めてね、しゃべってるみたいな、僕の対談はいつでもそうですよ。おっもしろくないなあって、いつも不満ですよ。こんなことなら書いちゃえばいいのに--それをなしくずしてしゃべっちゃってるっていうのは、自分でほとんどイヤーな感じです。だから、出来るだけ、そのー、書き言葉をただ水に薄めてしゃべってるだけみたいにならないように、やって下さればいい、というのが僕の前口上の注文なんです。
 
安達 史人  じゃそういう意味でいうと、あの読む側ではね、結局最初から書き言葉だっていうふうに読む場合と、それで、これは話し言葉なんだよっていう事で読む場合っていうのはやっぱり意識としてあるんじゃないかと思うんですよね。
 
吉本 隆明  ああ、そうでしょう。こういう記事だってさ、しゃべったそのまんまの語調とか口調がでるわけじゃないから、速記だったらそれを起こした人とか、起こしたのをまたアレンジした人の文体が、そこに入るわけでしょう。しかし、一応は御本人たちが読みかえしているわけだから、合作として出来てる言葉でしょう。そうすると、いま流通してるしゃべり言葉の規準みたいなのになりますよね。そうすると、その人たちはやっぱり自分のしゃべり言葉の文体に責任もたなくてはならんということになるような気がすんです。
 書かれたしゃべり言葉のいいの探してこようと思って問に合わなかったんだけどね、速成で見た限りではこのね、セツクス・ピストルズの人のおしゃべりの内容と文体はね、比較的いいんじゃないかとおもいました。
 
編 集  『ロッキング・オン』ですね。ジョン・ライドンでしょう。
吉本 隆明  この人がインタビューして、それを訳したわけですか。
編 集  日本に来たんですよね、この人。その時にインタビューしたんじゃないかと思うんですが。
吉本 隆明  したんですか。それで、この人がアレンジしたのかな。
編 集  そうかもしれませんね。
吉本 隆明  この人が優秀だってことも含めてね、僕、これ、いいとおもったんです。
 
 
  ……今回のメンバーを結成するまでのいきさつをおしえて下さい。……っていうでしょう、答えは、
 
  --- ニューヨークで二週問ぐらいかけて集めたんだ。
  --- 名前を教えて下さい。
  --- またかよ、あとで名前を書いた紙をやるよ、面白くないな。
  --- メンバー1との出会いについては。
  --- 新聞で募集したら、どいつもこいつも来てしまうからロコ、、、で集めた。
  --- どういう基準で選んだんですか。
  --- ルックスよりも才能だよ。
  --- ミュージシャンとしての才能ですか。
  --- そうさ。
  --- みんなどういうバンドに入ってたのかな。
  --- さあ、彼らに聞いてごらんよ。かなり幅広いらしいよ…。
 
 
吉本 隆明  っていうふうになって、これは、聞く方も、みごとだとおもうんだけれど、答えてる方もみごとだし、アレンジした人もみごとだとおもうんだよね。それで、悪い方の例も集めてきたから出しましょうか。これは(『スタジオ.ボイス』を広げる)高橋源一郎クン、スガクンたちの、編集者をまぜた座談会だけど、これは全部悪いから、どこで取ってくりゃいいのか、(と、いいつつ読み上げる)
 
 
   渡部  ここでまた質問を変えよう。
   智子  聖子ちゃんと芳恵ちゃんとどっちが好きですか?
   一同  出たあっー。キャハハハハハ。
   SV  『相対幻論』だ。
   高橋  ムズカシイ問題なんだよなあ、これが。どっちもねえ、好きじゃないんだよ僕。
   智子  じゃ誰が好きなんですか?
   高橋  早見優。やっぱりけ
   智子  優ちゃん。
   スガ  俺、キョンキョン。キャハハハ。
   高橋  俺ねえそれを聞いてねえ、許せないと思ってたんだよ。小泉今日子って最悪だと思うんだよね、あんなモン。あんなモン好きなひと人問じゃねえって。
   智子  どおして一?
   高橋  でもねえ小泉今日子ってねえ、よくみると顔が凶悪なのね、あの人。
   スガ  イイじゃないの、凶悪で。
   高橋  凶悪だと思わない?
   智子  カワイイですよう。
   高橋  小泉今日子は凶悪な感じがしてねえ。あの顔だけは受け入れられないねえ。後ろ向いてぺロッと舌出してるのがよく分かる。
   スガ  そう、イイじゃない?すぐれた人だなあって思うねえ。
   高橋  すごい悪趣味だねえ。
     『スタジオ・ボイスニ九八四年六月号一』(流行通信)
 
 
吉本 隆明  こういうのをセツクス・ピプトルズのジョン・ライドンと較べてみればわかる。つまりね、これ分析すれば、何故、まえのがいいとおもい、あとのが良くないとおもうかっていうと、
編 集  やっぱり、こっちの方は、知ったかぶりが目立つような気がしますね。
吉本 隆明  そう。つまりはね、知ったかぶりですよね。知ったかぶりって別の言葉で言えばつまり、本来的に、自分が、体がついていく以上に、くだけようとして、悪ふざけに見せてようとする意識が文体にあってね、それが本当は自覚意識なのにそれを見せるっていいますかね、悪ふざけしてるんじゃなくて、悪ふざけを見せてるっていう事です。
 そういう問題意識っていうのがさ、この人たちにないんだっておもうんですよ。だから本来言えば、二、三人でプライベートに集まって、ヒョロヒョロ言ってる分には、これはね消えちゃうし、誰れも、それ読むわけじゃないから、その場の雰囲気があって、みんなが適当に軽薄にぼんぼん言ってるんだから、誰れだってそういう瞬問はあるわけだからいいですよね。誰れでもそういうこと、プライベートにやっていますからね。
 それが座談会なら座談会っていう別に意識を持てっていうわけじゃないけど、非公開性と公開性ということの間の問題っていうのが、うまく解けてないとおもうんですよね、この人たちはみな。
 
編 集  あの、『GS』のこれはどうお思いになりました。これは、わりとうまく、できたとおもうんです。あとでごらんになって下さい。
吉本 隆明  あ、それは僕はみてないんです。
編 集  あの公開の場で、この人たちなんですけれども、あの、自分を入れずに自分の興味と、わりと最近のなかではいっしょうけんめいさが出ていました。けっしてね、学者が適当に話しているとか、知ったかぶりにならないところが、わりによかったとおもいます。
吉本 隆明  ああそうですか。それじゃ、それもあとでみせてもらいます。そういうところが問題になっちゃうとおもうんですよね。今日は僕はもうひとつ持ってきたんですね (笑) やってしまえと思ってね。これは、糸井さんとね。中沢クンとそれから浅田クンの三人でしょ。まあどこを取って来てもいいんですけれどね……あほらしいとこひとつ。
 
 
   糸井  チベツトは超能力宴会やるそうだけど。カラオケみたいにやるっていう噂が……、    中沢  チベットではなくてインドですよ。縄をスルスルって持ち上げて、子供がヒュッヒュッと昇っていくと消えちゃうんですよ。
   糸井  インドでは……(笑)
   浅田  どこへ戻ってくるの。
   中沢  戻ってくるのは難しい(笑)。
   浅田  飛ぶのは降りるのが難しいらしいね。
   中沢  浮き上がるときは精神集中だけでいいんですよ。本当に難しいのは降りるとき。
   糸井  ドーンと降りてもいいんでしょ。
   中沢  尾てい骨を打つでしょ(笑)。
   糸井  そのこと気にしながらは飛べないしね。
   中沢  かといって、気にしないでいると困るし。
   糸井  深いものがありますね。人間には尾てい骨はいらないってことを神が教えてくれたんじゃないでしょうか。
   浅田  ヒュッと降りられるというのはテクニックだと思うわけ。武士道は飛ぶほうだけになっていると思う。飛びさえすればいいんで帰り途がないでしよ。
 
 
吉本 隆明  これ見るとさ、こうおんなじだとおもうんですよね。これ、三人でプライベートな一室で酒でも飲みながらね、あるいはお茶でも飲みながらしゃべっているんならこれでも十分、まあおもしろい。おもしろい話題にはなってるとおもうんですね。でも、公開のところでしゃべっているときにはね、改まったていう意味じゃないんゼけどもね、公開性ってことを問われるでしょ。
 安達さんの専門かもしれないけどさ、公開性ってことはいくらプライベートにしゃべっても、演技性あるいは演劇性としてみられる面があるでしょう。このばあいは読む方ですけれどね、読む方からみると演技として読まれるって面、どうしても出てくるわけでしょ。それが公開性ってことの意味になります。だから演技性あるいは公開性とそうじゃないって区別をわきまえるってことが、無意識に入ってないとおもうんです。
 それは、一番はじめのセックス・ピストルズのインタビューみりゃわかる。このジョン・ライドンなんか、まことにみごとだとおもうんです。その初めからビタッと決まってるっていう感じが僕はしますね。こっちはそれができてないとおもうんです。
 何故できていないのかっていうと、本当はね、浅田クン中沢クンなんか、ちっともくだけた人じゃない、くだけない秀才ですよね。そういう人がくだけたことをくだけた口調で言おうとすると、言葉だけがくだけてんだけども体がくだけないんですよね。僕は基本的には、この人たちは文体ができてないんだとおもいますね。この部分だけだったらわかんないけど、これ全体読むとね、糸井さんだけができてることわかります。
 糸井さんって人は、わりに知識に弱いから、そっちへ引きずられて行く面があって、言葉がその分だけ崩れてしまってますが、しかしやっぱり、糸井さんの方はできてるとおもいます。
 内容から言ったってさ、こういういかがわしいこと言ってもらうと困まるわけで、こういうの誰れも見てないところだと出来るかもしれないですよ。だけど、公開になったら、ことごとくペテンですよね。こんなのスプーン曲げとおんなじでね。共同幻想の中のね、自己幻想の運命みたいなもんでね。だれも見てなきゃ出来るかもしんないんだけど、公開の場になったら出来ねえっていう、あたりまえのことなんだけどね。その、この手のミステリアスなことは全部そうなんですけどね。
 この人たちが安心してるほどサブ・カルチャーってことはね、そんな馬鹿にしたもんじゃないっていうのが僕の理解のし方なんです。少なくともいま、僕は、『マス・イメージ論』っていうの、そんな意味ではやってないんです。ただ、うまく文体がわからんなあとか、もちろん分野としてわかんないこともたくさんあります。
 
編 集  自分ではっきりとサービスしてるつもりでいると思うんですけど。で、これをね、確かに喜んでる学生もいるはずですよ。ただ出て来て、役者のように思ってる。でも、そうじゃなくて、それは間違えて無理してるみたいな浅田さんのふざけた文章っていうのは、シラケちゃいますね。
吉本 隆明  だから、この人たちなんか、こんな自分たちだけでやんないで、また糸井さんなんか心得てるからね、相手んなってるけどさ、例えばねビートたけしとやってごらんなさい、ほんとはケチョンケチョンやられるとおもうね。僕もやられるとおもいますね。僕、たけしとやりたくて、いつかやってやろうとおもいます。やりたくてしょうがないです。でもあの人は敬遠してるんですよ。つまりまだ俺、あの人ちょっとわかんないところあるとおもっててね。あの人の発想の出どころなどがね。そういうの本当にわかったらね、俺、一度やってやろうとおもってんです。つまりそん時はね、遠慮なく撃ち合いでね。こっちも遠慮しないしサービスもしない、向こうもそうでいい、話題もどうでもいい、それで俺いつかやりたくてしょうがないの、あの人と。それはね、たびたび薦められたりする事もあるんですけど、何回かあるんですけどね、俺断わってるわけ。今は俺まだよくわかんないからね。ダメだと言ってんですけど。本当は、今やったら僕ー、言葉が無いですからね。サブ・カルチャーを論ずるとかね、サブ・カルチャーについて言うときのしゃべり言葉の文体を持ってないですからね。でもいつかはしてみたいですね。しゃべり言葉の文体、サブ.カルチャーについてしゃべり言葉の文体、サブ・カルチャーについてしゃべる言葉を発見してね。この人の発想の根源がどっから出てきて、こうだってもう少しわかってきたら僕はやってみたいですね。そうして、もちろん遠慮なんかしないでやってもらいたいし、こっちも遠慮しない。で、ふつうにやりたいですね。糸井さんみたいに、インテリゲンチャーのことわかってくれる人たちばかりとしないでね、中島みゆきでもいいし、萩尾望都でもいいしね、サブ.カルチャの人でもおっかない人いるでしょう。そういうおっかない人とやってもビシャッとやられないような、そういう言葉を発見する努カはして下さいよ。つまり学問やると同じくらいの努力はして下さいよっていうことはね、僕、あるとおもいますね。そこの問題のような気がするんです。
 
  < 中 略 >
 
安達 史人  それ、あれですか、『試行』の一番新しいやつで、偽悪的というか、わざと、まあ、ああいう調子は前から吉本さんあったと思うんですが、極端に、こういう言葉、使われてるでしょう。おめえ、とか、ばかやろうとか、それはひとつの試みなわけですか。
吉本 隆明  それは、割にひとりでに出てきます。(笑)僕もビートたけしと同じで、ほら、下町の悪ガキですからね。環境もおんなじ、それからもう、父親、母親もそんな違わねえみたいなね。だから僕にはそういう要素あるんですよ。ただあれは文体にはなってないんです。勝手なこと言ってるだけで、本当は文体になってない。あんなのじゃないです。
安達 史人  そうすると場所があるわけですか。こういう自分の文体っていう場所と、それから、こっちはガッとやっちゃうんだみたいなところと、その使い分けっていうか、そういう場所があるわけですか。
吉本 隆明  いや、そうじゃなくて、何て言いますか、書き言葉っていいましょうか、知識っていいましょうか、そういう事にこだわり続けた自分っていうのと、そういうのを取っちゃったら、ただごく普通の生活人というふうにした自分っていうのと、そのあいだの分裂じゃないですか。
安達 史人  つまり〈解体〉ですか。
吉本 隆明  そういう解体ってほどのことではないんです。つまり僕はごく普通の生活ですから、地でそういった、それだけのことで、文体上の工夫もないし、しゃべり言葉の工夫もない、そういうところになっちゃうだけで、本当は、良くないことですね。
安達 史人  良くないってことが良くないんですか。
吉本 隆明  ええ、スタイルがないってのが良くないとおもうんです。カルチャーについての書き言葉なら、自分なりのスタイルがあるつもりですが、それをとっぱらっちゃうと、スタイルもなにもないただの生活人の自然体があるだけ。そこにスタイルが見つからないところが、面白くないかなあって自分ではおもいますけどねェ。
安達 史人  たださっき、あの、ビートたけしと、じゃあもうギリギリしゃべってみる とか、ちょっと言われたわけですけれども、そういう時は、だいたい何をしゃ べろうと思われてるわけですか。
吉本 隆明  あのー、何でもいいわけです。漫才のことであろうと、何であろうと、その主題は何でもいいわけなんです。ビートたけしが知識教養のことしゃべりたいなら、「どうぞどうぞ」っていうことであってね。そりゃ、何でもいい、どんなことでもいいんですけどね、主題自体は、問題じゃない。ただ質感だとおもうん。あのしゃべり言葉の、質といいましょうか、その出所(でどころ)っていいますかね。あの、どういう所からいまのしゃべり言葉が出てくるのか、そのしゃべり言葉の出所っていうのがあるでしょ。そうすると、関西の漫才師だったら、歴然と出所とスタイルの伝統がある。しかもその伝統にどっぷりとひたって、それをよく心得たうえで、それに多少新しい事を添えて出てくる。まあ、関西の漫才みたいなもんは、そんな気がするんです。だけど、東京にはそんなのは無いですからね。だからね、ビートたけしなんかのしゃべり、漫才のしゃべり言葉、あれは伝統じゃないですよ。さればと言って、普通の生活人のしゃべり言葉じゃないですよね。あれはやっぱり自分なりの固有のしゃべり言葉の発生源っていうの獲得してる。そうおもってますけどね。そのしゃべり言葉の根源ってのは何なのかっていうことが、こっちに掴めればいいとおもいます。掴めればね、対話になるとおもってます。つまり向こうはしゃべり言葉の専門家だからね。そういう意味では口ごもったりするだろうけど、そりゃたちうちはできるわけです。その根元がわかれば。どういう工夫をして、どういうところからしゃべり言葉を発してるかっていうことを、こっちが掴めたらね、それはできるんですよ。
 
 あの人のしゃべり言葉っていうのふたつの意味があって、話芸人の世界からもちろん学んできたしゃべり言葉なんでしょうが、それだけじゃない。固有に工夫してる。知識でありながらね、知識を徹底的に壊してきたところからね、出てくるものでしょ。それが固有の工夫だとおもってるわけです。あの人くらいそういうことが出来てる人は僕はいないとおもってます。知識を徹底的に壊しっちゃってる。そういうことかできてるのは、あの人だけなんじゃないかなって気がします。もちろん欽ちゃんてのは、ビートたけしより偉大だとおもうけど、欽ちゃんは、普通の生活人のしゃべり言葉からずいぶんたくさんのことを取って来てるし、たくさんのね、発想を取って来てるから、決してわからないところはないですよ。この人のしゃべり言葉の根源はよくわからないなっていうことはない。それだけだとおもいますね。
 糸井さんなんか知識人そのもので通じますから、糸井さんのしゃべり言葉の解体のし方はちょっと違うんでね。あれはしゃべり言葉の中で自分をね、どうやったら「無」にできるか、いるかいないかわかんないようにできるかっていう工夫だとおもうんです。ただ糸井さんとおしゃべりしてみたいけども、あの、そういう、例えば座談会みたいのしてみたいですけども、糸井さんとする時には、もう話題を選ばなくちゃいけないです。つまり、知識教養の話題を選んだらこれは、これとおんなじになっちゃうんですよ。だからそうじゃなくて、あの人の時には、世間ばなしがいいとおもうんです。また世問ばなしでできないといけないですね。今の僕にはできないんですよ。これはまた、敬遠する所以なんですけどね。つまり、あの人は世間ばなしのなかで世間の公開性と演技性がひとりでにできんですよ。僕はできないですよ。つまり、それができないですから、多少はできるようにならなきゃ、ちょっと話にゃならんです。だから、それもまた敬遠してるんですよ。
 もうひとり坂本龍一って人は敬遠してるんですよ。どうしてかって言うと、あの人は「音」だとおもってるんです。音そのものだとおもってる。つまり知識教養っていうんだったら、坂本さんはすぐ出来る人だからつまんねえんだよな。あの人は音だとおもってるわけだから、音の出所がわかんなけりゃね、やってもしょうがないな。他人から言われることは、何回かあったんですよ、だけども僕が敬遠してるんです。音がわかるようになったらやってみたいですね。
 
安達 史人  ということは、吉本さんは、当然かもしれませんが、やっぱり自分のこと を、じゃ知識教養の側の人間だっていうふうに、こう、とらえてるってことで すか。
吉本 隆明  僕はですね、頭の構造がね、書き言葉になってるとおもってるんですよ。だから、これはね、こういうふうにしやべってる時はそれほどそういうことは意識してないんですけど、大ぜいの所でしゃべるとよくわかりますね。僕は翻訳してますよ。
 高速度写真ででも撮れば、一度頭のなかで書き言葉で言ってね、それを話し言葉に翻訳して人の前でしゃべってますよ。それは自分で艮くわかります。だから、それだからそれをあのー知識教養人っていうと、そういう意味で言えばそうなんですよ。そういう病的な現象をね、取ってしまわないと、つまり解体できないとね、本当は俺は知識教養人じゃねえやって言えないような気がするんです。僕はそういう時には、全然それをぬきにして、ただね、育ちが下町の悪ガキだったのよっていう所へ行けば、自然しゃべり言葉になるんですけどね。そうじゃなくて、頭の構造でしゃべり言葉にならない。うまくできないんですよそれが。だから、それができないっていう意味で知識教養人だっていえばそうなんじゃないでしょうか。
      (「大衆としての現在」語り:吉本隆明×聴き手:安達史人。北宋社:1984年11月刊 )