日付:2017年10月 

 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~ 村上春樹氏へのインタビュー集より

名前は「ミー」24才没

一番上の姉の「ミー」  

 
 
 小説家村上春樹氏へのインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より「短編小説はどんな風に書けばいいのか」からきいてみる。
 
 
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村上春樹 カポーティから学んだのは、短編小説において文章というものが「妖しくなくてはならない」ということです。ちょっと下品な言葉で言えば読者を「こます」文章でなくてはないらないということですね。頭で考えたような文章では読者をこませない。身体の奥の方からじわっと出てくる何かがないとだめだということです。それがカポーティから学んだいちばん大事なことじゃないかな。フェロモンが適当に出てないと、短編小説の世界にはなかなか人をひきずりこめない。短編って一発勝負だから、その世界にすっと人を引きずりこめなかったら、どうしようもないです。
 
 フィッツジェラルドから学んだことは、フェロモンは出ていなくては ならないんだけれど、それが下品なかたちであってはならないということです。「とにかくフェロモンが出りゃいいんだろう」みたいなことになってはいけない。そこには優しさと哀しみのようなものがなくてはならないし、書き手の視線は基本的にできるだけ遠くを見ていなければならないということです。姿勢の問題です。
 
 短編小説というと「細部、細部」みたいなことになりがちで、読む方も、「ここがうまい」みたいなこだわりを持つことが多いんだけど、フィッツジェラルドの優れた短編を読むと、そういうところももちろんいっぱいあるんだけど、読み終えて目を上げると、遠くの風景がふっと前に浮かび上がってくるんです。そういう小説の志が感じられる作品は、読んだ人の心に長く残ります。
 
 カーヴァーから僕が強く感じたのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと書いていれば、それで立派な小説になるんだということ。もちろんそのためにはうまく書かなくてはならないし、普通の人とは違う視線を持たなくてはならない。でも「そんなもの、プロの小説家なら当たり前のことじゃないか」と前提をつけてしまえば、あとは「当たり前なことを、当たり前にちゃんとやってりゃいいんじゃない」ということになります。その辺の捨て去り方がカーヴァーはとてもうまい。うまいというか、ものすごいです。ある人は彼のスタイルをミニマリズムと呼ぶけれど、そんな段階のものじゃないです。人としての生きる節度みたいなものが、彼の場合凛としている。そしてそれはみんな、きっちり身銭を切って獲得されたものです。しかしまったく偉ぶるところはない。彼の短編小説はぜんぶそっくり訳したけど、学ぶところは多かったです。
 
      …… (略) ……
 
 短編小説というのは「うまくて当たり前」の世界です。それが前提です。その上で何を提供できるか、ということが主題になります。「はい、よく書けました」だけではどこにもいかない。うまくは書けているけど、どっかで前に読んだことのあるような話だよな、みたいなものでは、書く方には意味があるかもしれないけれど、読む方にとってはほとんど意味はない。他の人には書けない、その人でなくては書けない「実のある何か」がそこにくっきりと浮かび上がってきて、今まで見たことのないような情景がそこに見えて、不思議な声が聞こえて、懐かしい匂いがして、はっとする手触りがあって、そこで初めて「うん、こいつは素晴らしい短編小説だ」ということになります。
 
 でも、そんなことって口でいうのは簡単だけど、なかなか起こらないものです。定評のある優れた短編作家だって、せいぜい十編書いて、そのなかのひとつかふたつそういうものができあがれば上出来だと僕は思います。そしてその少数の素晴らしいものは、最初の定義とはぜんぜん矛盾するんだけど、べつにそんなうまくなくてもいいんです。うまくなくてはならないけど、その中でとくべつうまくなくてもいい、というのが優れた短編小説の定義かもしれない。変な定義だけど。僕の個人的な好みは「ばらけかけているんだけど、あやういところでばらけてなくて、その危うさがなんともいえずいい」という感じの作品です。カーヴァーはそういうところではすごいんです、やっぱり。どこまで行ってよくて、どのへんで止まるべきかをちゃんと心得ている。
                (2012年9月4日、文春文庫として文庫化)
 
 
 
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