日付:2017年12月 

 美空ひばりⅠ・Ⅱ ~吉本隆明著「情況としての画像」より

 

美空ひばりさん  

 

 
 美空 ひばり Ⅰ (吉本隆明『情況としての画像 テレビはどこへゆくか』より
 
 
 美空ひばりの歌唱力は、古典声楽の歌手も、歌謡曲の歌手も、ニュー・ミュージックの歌手もふくめて、世界で数えるほどの水準にある、ほとんど唯一の例だとおもう。この人が日本語のままで、演歌を唱ったとしても、たぶん世界のどこでも聴くひとを惹きつけることができよう。それはながいあいだ、わたしたちが夢みてきたことだが、この天才的な歌手は長い年月の超人的な修練で、単独でそれをやりとげてしまった。こんどの東京ドームでのコンサートの独演でも、体力と歌唱力の衰えを気にさせないところまでは、もっていっていた。「新しい空に向かって」翔んだとまではいえないが、衰えをみせない工夫と準備はやったうえで、唱っているとおもった。(中略)
 
 美空ひばりの楽声の特徴を、一口でいえば、メロディを歌詞の言葉のほうへ引き寄せ、言葉に同一化してしまうことだとおもう。もっと極端にいえば歌唱のあいだに挿まれるセリフの言葉もメロディに同一化してしまう。もしかするとこれはわが国の演歌の特徴で、べつに美空ひばりの特徴ではないかもしれない。そうだとすれば美空ひばりはただ演歌をほんとの声の姿でうたい出しているのだということになる。わたしのいいたいことは、こんなことだ。たとえばスパーニッカのウイスキーのCMにでてくるキャサリン・バトルが、ノドを細くしてソプラノかメゾ・ソプラノの楽声をながくながくひきのばしてみせるとき、うっとりと柔らかな声楽の表出を聴き入っている状態になる。おなじように美空ひばり「ひばりの佐渡情話」で、ノドを細くしてソプラノかメゾ・ソプラノの楽声をながくながくひきのばしてみせるとき、その声音の抑揚は、ほんとは言葉みたいに分節化されてコーティングしているように聴こえる。そのためまるで意味ある情念の言葉を楽声で聴いている感じをうける。この二人の世界的な歌手の唱い方は、まるで発声がちがっているようにおもえる。
 
 もうすこしさきまで耳を延ばしてみることが、できそうだ。美空ひばりの力量がそれに耐えるからだ。わたしたちはインドの民族音楽やバリ島のガムラン音楽を何となくオリエント的な音として聴き入る。チベットの民謡調を高地アジア的な音として聴く。東南アジアの民族音楽をオリエント的なものの低地アジア的な変調のように聴く。美空ひばりの音声メロディのなかに北方遠東的なものと南方島嶼的なアジア的なものとの融和された音を聴くことができる気がする。つまりわたしたちは美空ひばりの歌声に日本の演歌調を聴き、直接じぶんの情念の声につながる余韻で聴くこともできるが、同時に外からの耳で、フォア・イースト(遠東)の民族的な声調の一種として聴くこともできる。内なる耳と外からの耳に美空ひばりの歌はひっかかってくる。
 
 美空ひばりの楽声の特色としてメロディを言葉に近づけたところで同一化する唱い方は、この歌い手のどんな個性に収斂してゆくのだろうか。伝法でいくらか投げやりな庶民の娘の声調にゆきつくようにおもえる。この声調はそれ自体ではあまり感じのいいものではない。たとえば死んだ江利チエミの声調のほうが、はるかに受けがいいといえよう。また三人娘でいえば雪村いづみの声調の方が、盲目的に一途なという印象があって、同情をうけやすいといえる。美空ひばりの声調はもっと生意気な印象を与えるものだった。それにいつも傍にくっつている母親ややくざっぽい兄弟の像をつけくわえると、ずいぶん受けの悪い印象をひきずって歩いていた。このマイナスの負荷をどこかでくぐりぬけ、無化してしまう歌の力量を身につけていった。
 
 歌謡曲の歌手の唱う肉声は、それだけですでにお辞儀をして円まっているものだ。これがまずわたしたち聴き手を撥ねつけてしまう理由だ。またこれが煽り方の巧さにによっては、庶民のおばさんや若いきゃあきゃあいう娘さんたちを、ますます惹きつけてしまう理由でもある。なぜそうなるかといえば、歌謡曲の歌手の肉声は、ほんとの直接的な肉声ではなく、レコード会社、音楽事務所等、興行システムという土台の層をかならず通過して発声される肉声だからだ。また歌手の肉声が分節化する言葉言葉もまた直接の詩ではなく、レコード会社、音楽事務所等、興行システムを通過した詩、いいかえれば流行歌謡にほかならないからだ。わたしたちが歌謡曲の歌手の唱うのを聴いて、まずその歌声や衣装や装置に撥ねつけられてしまうばあいも、それに惹きよせられるファン層のばあいも、まずこの興行システムの層を通過するときに、肉声や詩の言葉が変成されてしまうところからきている。
 
 これを拒否すればソロがグループのシンガー・ソング・ライターとして出発して、肉声と、受肉された詩と、ストレートな舞台で、パフォーマンスをやりつづけるほかない。これはつらい困難方法だが、けっして不可能ではない。ただ興行のシステムの層を通過する声にくらべて何倍も何十倍も修練を積むつもりでなければ、とても歌唱力で太刀打ちできない。甘ちゃんのおおいシンガー・ソング・ライターはそれをやらないし、やる気もないから駄目だというだけだ。つまり興行システムの層はたしかに歌手の肉声を先験的に変成して、挨拶の声にしてしまうかわりに、歌手を経済的にも、見せることで鼓舞してくれる舞台としても、利点として作用する。  美空ひばりの歌声も、もちろん興行システムの層に幼児から拾いあげられることを目指し、それを光栄だとする庶民的な願望から出来あがっていった楽声だ。骨の髄までそのシステムの層の変成作用が染みついている。わたしたちが撥ね返されてしまうのも、たくさんのファン層のおばさんや若い娘たちが、惹きつけられ追いかけるのも、まったくそのためだ。そして現在でも、厳密にいえばこの変成作用の名残りは感受できる度合いでのこっている。
 
     (中略)
 
 わたしは美空ひばりが、興行システムの層があたえる変成作用を、どこかで超えた地点があったのだとおもう。それがどこであるか指摘することはできないが、そこを超えたときからこの歌手は、ほんとに偉大といえるようになった。システムにつくられ変成された声の出し方が気にならなくなる場所へ到達していったからだ。それから以後の美空ひばりは、わたしの仮借のない批評に耐えるようになったとおもえる。もちろんファン層の要望もすてないままで、だ。偉大という定義はいまのところそこにしか存在しない。古典声楽の歌手でそういう存在はいるか。わたしはたぶんいないとおもっている。

 

左寄せの画像    美空 ひばり Ⅱ
 
 (前略)死にいたるまでの晩年の五、六年のあいだにテレビに登場してくる美空ひばりの歌を聴くことがときどきあった。三人娘といわれた江利チエミや雪村いづみと比べると、もう何かが決定的にちがっていた。江利チエミや雪村いづみのジャズ調の歌は、やはり天才的なうまさがあって模倣のたくみさをでることができない。こころの色合いをどこでどう歌声にいれたらいいのかを把みきれなかったのではない。そのため実生活上の破れ(結婚や離婚のいざこざ)があると、その都度持続する歌唱の意志も破れやすくなっていた。美空ひばりはじぶんの結婚や離婚の生活、近親がまきおこす刑事事件や民事事件や家族生活の波瀾があっても、歌う能力を修練することはいつも持続されているとおもわせるものがあった。江利チエミや雪村いづみにくらべると晩年になればなるほど、才能が正統さの道をたどっているなという印象を与え、格差のひらきを感じさせた。
 
 正確に何年まえの何月ということはできないが、こんな時期からだったとおもう。この歌手は身近にどんな不協和音や雑音がつきまとっていても、その歌唱の高さと成熟度をそこなわれることはないと信じられるようにおもえた。クラシックの歌手の世界でも、ニューミュージックの歌手の世界でも、ジャズやヨーロッパの調の歌唱の世界でも、美空ひばりに匹敵できる歌手は、まったく存在しないとおもえた。才能や資質もあったろうが、ここまで歌唱の修練をやってみせた歌手は、それまでほかにいなかったのだとおもう。美空ひばりの歌は、そのまんま日本語で歌っても、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと世界じゅうどこでも、即座に通じ、その感銘の度合いは世界的なレベルにあることを、どこででも示すことができたにちがいない。
 
こんなことが成り立つ存在は、芸術や芸能その他の分野では、わが国ではほとんどひとりも数えあげることができない。模倣によって国際的だといえるものが少数いるだけだとおもう。こんなことはほんとはどうでもいいことだ、芸能か芸術家も、どんなに他人の評価をもとめてたり、評価を拒否したりしても、ほんとはただ表現したいという無意識だけが、その必然なのだといえる。子どものときから歌うことで肉親の生活を支えたい、金銭を得たいとひたすらおもってきた美空ひばりでも、その歌唱の偉大にしているのは歌いあげたいという無意識だということは疑い得ない。それがなければ得たいとおもうものを手に入れたあと、修練の必要などなかったはずだ。だが彼女は疲労しても、生活の心労がどんなに重なっても、修練を手離すことがなかったと推測する。これはほんとの天才だけが演ずる悲劇なのだ。彼女の死にはこの悲劇の影があった。
 
     (中略)
 
 わたしが好き嫌いはべつに、いい歌だとおもったのは、「ひばりの佐渡情話」だった。
 遠東(ファ・イースト)のヤポネシアに流布されている歌謡の、いちばんの特徴はメロディが分節化し、つぎに言語化して、歌詞も文句と二重になっていることだ。二重化はたがいに補完する関係におかれたり、まったく別の意味を語って、独立しているようにおもわれたりすることもある。これは言語でさえ音符化し、メロディにひきこんでしまう西欧の声楽とはまるで反対のようにおもえる。「ひばりの佐渡情話」のなかで、美空ひばりはこのヤポネシア的な歌謡の特徴を、じつに見事に唱ってみせた。彼女がこの歌でノドを細くしながら楽譜の声をひきのばし、メロディを分節化してたくさんの波形をつくり、ある部分は迫るように、ある部分は遠ざかるように言語化して唱うとき、ヤポネシアの歌謡の特徴は最大限に発揮されるようにおもわれ、聴きほれるおもいにさせられた。歌詞の区切りと区切るのあいだの、言葉としてはどんな意味も途切れてしまっている箇所を、彼女の声のメロディはまるで言葉で訴えているのとおなじように、嫋々(じょうじょう)とした生命の糸をたぐりよせていた。この歌唱の力能が、世界普遍性をもたないはずがないところまで、その力量は到達していた。
 
      ★吉本隆明著「情況としての画像」より 河出書房新社1991年刊)  
 
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