日付:2018年2月 

■ <演技>に、価値ってあるの?
 「書 文字 文学」対談 石川九揚著 × 吉本隆明著 (筑摩書房刊)

 

左寄せの画像  
 芝居を見終わって、その舞台作品が面白くても退屈でも、舞台上の俳優さんのなかにひとりぐらいはへえと感心する素敵な俳優さんを見つけたり、こりゃちょっと見てられないでダメな俳優さんだなと思えたり、舞台作品の善し悪しにかかわらずそういう個別の印象を観客のだれでもが観劇体験のなかにもっている。厳密に考えれば、そこにはさまざまな難しい問題が介在するだろうが、観客は舞台作品の生成(作り手側)の諸問題、演出上の内容的な展開力や他のすべて技術的な問題を無意識のすべて排除して、俳優さんの演技表現の善し悪しが、なぜ、どこの、なにに由来するのかを、観客一人ひとりが密かに固有に物語化して楽しんでいるともいえる。
 なぜそんな見方が可能なのか。もちろん、感想や想像は自由でどんなことを観客は思い描いてもいいはずだが、そこには舞台表現の本質を観客が見抜いているという観客の自然な深い見識が語られている。観客のみなさんは、眼の前で現に繰り広げられている舞台を超えて演者(人間)の悲喜劇を見抜く潜在的な洞察力の怖さをもっているのだ。
 
 観劇の際、観客のだれでもが抱くそんな洞察力について、わたしはなにも決着をつけられないまま、「書 文字 文学」対談 石川九揚著 × 吉本隆明著 (筑摩書房刊)を読んだ。さて、わたしの抱えた問題にどんな光がが見え隠れしてくるのだろうか。
 
 対談集「筆蝕の構造」は、こんな会話からはじまる。
 
 
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第1章 書の美はどこからくるのか
  ~自然ということ~
 
 
 吉本隆明  石川さんの「筆蝕の構造」(一九九二年、筑摩書房)というのを読ませていただいて感じたことは、ぼくらは毛筆で字を書くという実体験がないから、実際に書いた人でないと<筆蝕>の概念というような考え方というのは持ってこれないなとびっくりしたわけですよね。それからもうひとつ言いますと、今日の総主題というのは「文字」というわけですが、いまの石川さんのお話で、良寛でも岡本かな子でも同じように書で心が動いてさらに中へ入っていくという言い方でそれで何かよくわかるような気がしたんですけど。つまり、ぼくらが小説を読むと同じように、書のなかに文学を読む、岡本かな子のすべてが含まれているという見方をしようと思えばできるという観点になるわけですから、石川さんの「筆蝕の構造」の論旨がよくわかった。
 
 つまり、「筆蝕の構造」には、書くということは<触れる>ということと<刻む>ということとふたつなんだよという論旨があると思うんですよね。文字というものにはあまり意味がないのであって、要するに言葉に意味がある。言葉を書くということに、<触れる>ことと<侵す>ことそして<刻む>ことが入ってくるんだという論旨に、ある意味びっくりしたわけです。こういうふうにやっちゃうと書を文学として読むことができるのではないか。
 
 いま、<書体>と言われましたけど、<書体>というのは文学で言えば<文体>と同じである。文学で言う<文体>と同じふうな取り扱いをして、非常に微細な読み方をすれば、書自体が文学として読めるし、<物語>として読める。ここのところで力を抜いたのはなぜかとか、このときこう書いたのはなぜだろうかということまで含めて考えれば、<物語>が逆にできてしまうというふうに読めないこともない。一種の何か書をもってする文学芸術というか言葉の芸術を書という観点から総括するというふうな、そういう観点も出てくると思うんですよ。ぼくはびっくりしまして、なかなか面白いなと興味深く思ったのですけど。
 
 もうひとつは、そこまで考え方を拡大していきますと、書くということは<触れる>ことと<刻む>ことであるという観点で言葉を書くということを相対的にやっていった場合にですね、石川さんの「筆蝕の構造」では、<価値論>というのが出てこないと思うのですね。事実、あのなかに、この字とあの字をくらべて、こちらの方がいいという場合にですね、<価値論>をつくりあげるのがたいへんむずかしいのじゃないかなと思いました。これからのお仕事になるわけですが、そういう感じをもったわけです。
 
 
~文字について~  
 
 
 吉本隆明  それから、文字についていいますと、ぼくの<文学論>というのは『言語にとって美とはなにか』にももちろんありますし、いままでに何回かあるのですが、いちばん新しいのは『ハイイメージ論Ⅱ』(一九九〇年、福武書店)の「拡張論」というのがあるのですね。石川さんの筆蝕の理論に感じたのですが、『筆蝕の構造』にデリダ(jacques Derrida' 一九三〇~二〇〇四)の『尖筆とエクリチュール』(一九七九年、朝日出版社)からの引用なんかがありますが、
 
 
 文体(スタイル)=尖筆の問題を、問うこと、それはつねに或る尖った物体を検査することであり、重さをはかることである。
 ときとしてはたんにペン先についてのそれにすぎない。しかしそれはまさに細身の短剣、さらには短刀についてのそれでもある。なるほどたしかに、それらを用いて、人は哲学が素材(質料)もしくは原型の名のもとに訴えるところのものを残酷に攻撃して、そこに一つの印を突きさし、そこに一つの刻印もしくは一つの型(形、形相)をのこすことができるが、しかしそれらを用いて脅しをかけてくる形(物腰、態度)を押し返し、そうした形を距離をへだてたところに保ち、それを撃退し、それから身を守ることもできる。
 したがって尖筆は、みずからを現前させ、頑強にみずからを眼に見させる(ものの)、おびやかし、盲目にさせ、死滅にみちびく脅威にたいして、その[突出部]でもって守ることもできるものでもある。したがって尖筆は、現前、内容、事物そのもの、意味、真理を守るものである。
            ●(デリダ 『尖筆とエクリチュール』白井健三郎訳)

 
 
 吉本隆明  つまりこれは、ヨーロッパ語を書くペン字書きといいますか、そういうところからしか出てこない論理じゃないかなという感じがぼくにはあるわけです。ですから、デリダというのはそんなに意識しなかったのですが、ソシュール(1857~1913)というのがぼくには大敵でしてね。つまりソシュールをいつも意識に入れながら、やってきたわけです。
 
 ソシュールの文学論というのはですね。やはりこれだったら、書というもの、書道というものは成り立たない。つまり文字を書 くことがどうして書の価値、美になるのかということや美としての基準をどこに置くのかということとか、またこちらの字とそちらの字をくらべて、こちらがどうしていいのかという価値基準をどこにもっていくかということ。それが、ソシュールの言語論ではどうしてもでてこないんじゃないかなということがぼくの観点だったのです。たとえばここにソシュールの文学論があります。
 
 
 (1)書の記号は恣意的である。たとえば「れ」の字と、それが示す音とのあいだには、なんの関係もない。
 (2)文字の価値は純粋に消極的であり、差異的である。かくして同一人が「れ」の字をつぎのようにいろいろな書体で書くことができる。肝要なことはただ一つ、この記号が運筆上「わ」なり、「ね」なりと混同しないことである。
 (3)書の価値が生じるのはただ、一定数の文字からなる有限体系の内部におけるそれらの相互的な対立のみによる。この特筆は第二ものと同じではないが、それと密接な関係にある。というのは、二つとも第一のものに依存するからである。書写記号は恣意的であるから、その形態は問うところではない、いやむしろ体系の押しつける限界内のおいてのみ重要性をもつ。
 (4)記号の制作手段は全然問題にならない、それは体系の関知するところではないからである。(これもやはり第一の特質からくる)。白く書こうと黒く書こうと、凹字にしようと凸字にしようと、ペン字を使おうとのみを使おうと、それらの意義にとってどうでもよいことである。
           ●(ソシュール『一般言語学講義』第Ⅱ編 第4章 小林英夫訳)

 
 
 吉本隆明  ソシュールに言わせれば、「れ」の字を一番目のように書こうと、二番目のように書こうと、つまり「れ」は「れ」だという、意味としての「れ」にかわりはないと言ってるんです。色も白で書こうが、赤で書こうが関係ないことだと言っているんですね。ぼくの考えでは、たとえば最初の一番目の「れ」と、次の二番面の「れ」では意義ないし意味において同一な言葉なのだが、価値において微細な差異があるとしなければ、書ということは、東洋独自の、つまりあなたの言葉で言えば、漢字圏独自の書の美ということは成り立たないのではないかというのが、ぼくの文字論なんですね。
 
 もうひとつは、文字というのは意義なんだけれど、文字がないときに人が文学を語る場合に、つまり口承時代という無文字時代の文学というのは語りの物語なのですが、語り手というのは何を相手にするのかというと、聴く自分というものを相手にして語っている。そのときに偶然のようにして、それを聴く村人なら村人という聴き手がいたんだと。聴き手はなぜこれを聴くのだろうか。同一ないし共通の語りの物語の圏内に自分もいて、だけど自分が語ることはできない。語り手の物語を聴いて、「ああ面白かった」となるわけです。そのためには、共通の基盤として聴いているほうも同じ物語圏内にいるということが前提になります。そこで、文字が出てきたということになりますと、文字で書く場合に、文字を定着させることの意義は第一に何なのか。要するに聞き手と語り手が文字を媒介にして、同一場面として同一化してしまう、そういう作用が文字にあるんじゃないか。だから、文字以前と文字以後というのは、石川さん流に言えば文字形象以前と文字形象以後というふうになるんでしょうけど、すっぱりと断絶された契機なんだと考えたほうがよかろうということがひとつあったのです。
 
 もし、ソシュール流に「れ」なら「れ」をどんなふうに書こうと、意味ないし意義には関係がないという観点を押しとおすと、書道みたいな字の配置いかんによって美が決定されるというのはなりたちえないんじゃないか。成り立ちえなくはないとしても、それが独自の美の領域として自立してくるということは、少なくともそういう観点からは起こりえないんじゃないか。そうだとすると、形象文字を主体にする言葉というのは、文字の意義というところで、断絶という意味合いをそこに込めないとだめなんじゃないか。ソシュールというのは、形象文字の圏内にいないから、そういうことはよく考えなかった人で、もちろんペン字だって、インド・ヨーロッパ語にだって、うまい書き方、まずい書き方というふうに美としてみられるんですが、美として自立させるところまで、どうしても考えられなくて、機能的なところでとどまってしまう。というのは「れ」なら「れ」でどのように書こうと「れ」の意義に変わりはないじゃないかという観点を通してしまうとそうなるんじゃないないか。
 
 それと同じような意味で、デリダが言うように、書くということは触れるというか、引っかくことなんだという観点で言った場合に、どうやったら<価値論>といいましょうか、言葉の表現の価値、文字定着、書くことの価値、書かれた文字の価値というふうに<価値論>をつくっていけるかということが、なんとなく課題になりそうな気がして弱っていたんですけどね。
 
 
 
文学理論におけるイメージ~  
 
 
左寄せの画像  吉本隆明  文学作品というものを読むと、言葉で書かれているものですから、これは意味ですよね。そうすると、そうであるにかかわらず、簡単な例で言いますと、ふたつだけ違う要素が出てきちゃうんです。
 
 つまり、意味を述べるとか意味を完結するとかいうのが、文学作品の本道であるにもかかわらず、ある文学作品を読みますと、その作品のなかの頂点に位するような非常に緊迫した場面がきますと、おのずからイメージが出てきたりするんですね。これは何だろうなと考えるのですが、そこがひっかかるわけです。しかし、それはあくまでイメージはイメージなんで、イメージが鮮明であることが文学作品をよくすることだとしたら、その点では、文学作品は映画みたいな映像表現にかなわないわけですね。ストレートに映像表現しちゃえば、もうイメージだけでくるわけですから。
 
 だから文学作品の緊迫した場面で出てくるイメージというのは鮮明であることを必ずしも必要としていない。また言語にとってはイメージをうかびあがらせることが必ずしも本領ではない。では、これはどうなんだろうということですね。ものすごくひっかかってくるのですね。
 
 簡単な例で言っちゃえば、「彼は今朝早く起きた」という場合に、「彼は今朝六時に起きた」という言い方がありますね。その場合にどこが違うんだろうということになりますね。六時という数字の限定を入れたのと入れないのとでは、文章の意味も多少違うのですし、だけども、文章がいわんとしている意義は同じなんですね。早く起きたということを言いたいだけです。
 
 だけど、ある場合に「彼は今朝早く起きた」と書き、ある場合に「彼は今朝六時に起きた」と表現する。そうするとその微かな違いは何だろうなということになりますとね。それは何かしらないけど、一種の意味が同時に浮かびあがらせるイメージというものを読む人の側が同じように喚起されるということが前提とする共通の基盤とするならば、これは六時に起きてという時刻を限定するのと、ただ早く起きたということとは明らかに違ってきちゃうということがありますね。そういう問題がうんとひっかかってきてしょうがないんです。
 
 
 
良寛の書~  
 
 
左寄せの画像  石川九揚  ぼくの立場をお話ししておきますと、たとえば良寛(1758~1832)に魅かれていく場合に、まず良寛の書に魅かれるんですね。まず書がいいと思う。そこから良寛という人はどういう人間なんだろうかと思って、良寛がつくった詩や歌を読んでみる、あるいは良寛について書かれた評伝などを読んでみる、という関心の進み方をたどるわけです。
 
 また岡本かな子(一八八九ー一九三九)の場合では、彼女の小説はそれまではなにも読んでいなかったのですが、彼女が三晩夜を徹して書いたといわれる写経「観音経」の書に出会って、この書はすごいと驚いたわけですね。そこで、彼女の小説を読んでみたり、どんな人なんだろうかと伝記を読むという進み方をするのです。このように書に触発されて文学作品の方に入っていくというのは、言葉の側から入る文学関係の批評の場合と違う入り方です。
 
 もうひとつ、書についてあれこれと考えてくる途中に、吉本さんの良寛の書についてお書きになられた「隠遁の構造ー良寛論」(一九八五年、修羅出版部)などを読ませていただいて、吉本さんが書について深く関心をもっておられ、書について相当つっこんでお書きになられたことに非常に驚きました。たとえば、次の箇所、
 
 
 『はじめに「書」の文字のバックグラウンドになっている空間をひとつの「自然」とかんがえて、そのバックグラウンドのなかで、どこまで自然がひとつの世界としてみれるか、というように「書」をみてみたいとおもいます。つまり、この「書」をみまして、書の紙のところを「自然」とかんがえるわけです。そこにもやもやと文字が存在すると比喩的にみなしてみます。それをみて、そのバックグラウンドになっている自然性がどこまで同一だとかんがえられるかを直感的に測れたらとおもいます。つまり同一性とみなしうるバックグラウンドの空間は、このなかでどこまでだろうかな、というふうにかんがえてほしいのです。このばあいどこまで、という意味あいはとてもメタフィジカルな意味になります。「書」の本質にかかわりがありそうだからです。つまりどこまで平面の空白部分を占めているかという可視的な意味は全然ありません。ただこの書をみたとき、そのバックグラウンドになっているものを自然性というふうにかんがえて、その自然性というものを、同一という意識でみられるのはこの書のなかで、どこまでかなというふうにかんがえてほしいのです。』
          ●(初出「隠遁の構造ー良寛論」、後に一九九二年「良寛」春秋社)

 
 
 吉本隆明  石川さんが言われた<自然性>っていうこと、紙という自然でもって、そこに何か「書」を書くということは自然に対して異和を打ち込むことだという観点がいいんじゃないかな。良寛を見てそう思ったんですけど。痩せっこけて、か細く鋭いような風貌の良寛の肖像画が残っていて、ぼくらのイメージの短絡もあるかもしれないけど、ほんとはこの人は自然のなかに消えていきたいんだけど、どうしても消えられない部分だけが細身の字みたいなものとして残ってくる。この残った細身の良寛の字というのは、石川さんも言っておられるような気もするのですが、細身だけど、ものすごい緊張度のある削ぎ落とした細身だという、そういうものが良寛の書というものを成り立たしているのだという気がします。
 
そうしますと、この字が価値が深ければ深いほど、紙を自然と見た場合に紙は後景に退くだろうという見方ができる。逆にそういうふうに見えれば見えるほど、紙は平面ではあるけれど、<自然性>としての厚みと奥行きがどんどん増してくるというふうに見てもいいし、いずれにしても、紙の背景の<自然性>としての表象として見れば、どれだけの厚みでできているのか、これからどれだけ字というものが、異和をもって突出しているのかということが書の問題になるのかなという考え方とったんですね。 (中略)
 
 吉本隆明  ぼくが良寛の筆跡というものはどうしてもこれをはずすことができないと思ったのは、良寛の書というのは、良寛にとって、少なくとも余技に類することではなくて、かなり本格的なものとしてあり、自分の詩とか短歌とか、長歌もありますけど、そういうものと書くのとが少なくとも同等あるいはそれ以上の意味で、良寛の書は存在している、そういうふうに書いていると思えたからですけど。これを抜かしたら、良寛の非常に重要な部分に何も触れないで、逃しっちゃったということになるというのが、ぼくの感じ方だったのです。
 
これがたとえば、ふつうの文学者が書も残したんだとか、揮毫してそれがどこかに残っていたんだという場合には、一種の余技といいますか、そういうことになるんでしょうし、また岡本かの子もそうかもしれないし、夏目漱石(一八六七ー一九一六)もそうかもしれないけど、こういう人たちにとっては書はかなりな程度、本格的、本気だったんじゃないかと思います。また高村光太郎(一八八三ー一九五六)だったら、もっと本気だったかもしれないと思いますし、これがある程度きちっと論じなければいけないのじゃないかという感じをともなうわけです。良寛の場合はもっと本質的で、もっと本気だったんじゃないかと思われてならないのです。書を論じる糸口というものが掴めないかなということだったのです。
 
 もうひとつ批評という欲求からいきますと、石川さんは「筆蝕の構造」のなかで徹頭徹尾書というのを文字形象の絵画的な配置として見るというのは邪道ではないか、あるいは大した見方ではないんだというふうなことを書いておられるんだけど、つまり絵画を批評する絵画批評というものはあるんですね。絵画批評をやるように書の批評をやるとすれば、何が違うのかっていえば、ひとつは色が違うってのがありますね。墨の深いか浅いかが書の大部分だ。色彩というのは加わらない要素になりますね。だけど、別な意味で言いますと、絵画というものは、形態あるいは形象といいますか、それを色と配置があり、そこで細かい違いが生じるだろうと思います。書の場合にはやはり言葉ですから、意味があったり、また文字形象、言葉が文字の形象をしているというのは、絵画とは同列にまったく論じられない。表現自体の意味になっちゃう。そういうことは、絵画とはまるで違う。この絵画とかりに同列に論じたとしても、少し絵画とは違うんだという論じ方をせざるをえないわけです。それは批評の問題としては、どのような問題となるのかというと、一種の批評的な関心ということがあると思うのです。良寛に固有な関心と、批評的な関心つまり書を批評するということはどういうことなんだろうかということがあります。このようにぼくは両方あると思います。石川さんの「筆蝕の構造」を見ていて、一種の衝撃を受けたのということは、やはり書を絵画的な配置というふうに見る、文字を絵画的な構成のための崩しみたいに見るのは邪道なんだという石川さんの考え方というのがあって、それに衝撃を受けたのです。これはぼくがやっているのは、もしかすると、書の批評をやろうとしているけど、絵画と同じように絵画批評をやろうとしているものなのか、そこをもう少し考え直さなければならないかなという気がしたんですね。
 
 石川九揚  高村光太郎「書は造形の芸術」という言い方をしていますが、書は造形の芸術ではないですね。筆蝕の芸術というのがいちばんいいと思います。(中略)
 
 吉本隆明  ただ、直感的に言えば、良寛の書っていうのは、他のたとえば禅のお坊さんの書とくらべて、違うように思うのです。ぼくはわからいけど、禅のお坊さんの書というのはなんていうのか、くどいですね。良寛という人も禅のちゃんとしたお坊さんですから、一人前の修行をしてきた人なんですけど、この人の書はくどくないんです。くどくないというのは、ひとつは資質が違うんだよ、その人の人格について違うんだよと言えるかもしれない。もうひとつは、どう言ったらいいんでしょう。禅の思想力というのか資格というのは、修練ということに直進していくために、深めていくために、余計な要素を全部その修練以外のところにしわ寄せしていって、何か書を書くものですから、みんなそれはくどくなっちゃうみたいなところがある。
 
 良寛というのは、禅の修行っていうこと自体を、鍛えるというのとちょっと違うように、考えていたんじゃないのかなと思えるんです。これは良寛の性格ってことだけじゃなくて、生きる面ではりきることのできない人間なんであって、良寛にそういう自己反省の詩がありますよね。それはたしかに良寛のもって生まれた性格みたいなものも含めてあるんですが、それだけじゃなくて禅の修行自体を何か違うように考えていたんじゃないのかなと思えるところがあって、それを何とかしてみたい、何とか言えないかと考えていった思います。だからもしかすると、良寛の書がいちばん良寛を表現しているのであるというふうに言えちゃうのじゃないかな。むしろ歌とか長歌とか、そういうもののほうが余技というくらいで、書のほうがきっと本当だと、もしかすると言えちゃうというふうに感じたのですね。他の人にはあまり感じないんですけど、良寛の線でものすごいエロチックだなってっていうように感じるところがあるんですね。書というものをほんとにやってことがないし、良寛の無意識まで含めてというところまで、書論ということでいけるのかっていったら、ちょと可能性ないんですが。(略)書は良寛を語るには、また良寛を彷彿させるにはいちばんのコア(格の)主体じゃないかなと思えてしょうがないんですよね。(中略)
 
 たとえば良寛の維経尼宛の書簡のですね、維経尼の「尼」の字のこの「ノ」の線が、ぼくにはものすごくエロチックに見えてしょうがないのです。なぜなんだろうなと思うわけなんです。良寛の無意識というか、出したくない部分がちゃんと出ちってるというか、そういうのは言えてしまうじゃないかと思えるんです。太さなのか、角度なのか、反り具合なのかわかりませんが、この「ノ」の線はものすごくエロチックな線に見えて驚嘆してしまうみたいな感じがあるんですね。もしかしたら、良寛がいちばんやろうとしていた形が出ちったというのは、書じゃないかと思えるくらいです。
 
 

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   (この項、続く)