日付:2020年6月1日 

 吉本隆明氏の『写生の物語』より「神の仕事場」を読む

 
 
  『神の仕事場の特性』
    吉本隆明著 「写生の物語」より
 
 
 
      (1)
 
 
 岡井隆の歌集『神の仕事場』は格段の飛翔にみえると、まえに評したことがあるとおぼえている。この飛翔の意味は、個人の短歌表現の閲歴にとっても、近代よりの短歌史にとってもおなじことを意味している。これをもうすこし詳細にいうとすると、特性を露わにとり出してみることになる。特性は二つに帰着するようにおもえる。
 
 
      (一)
 
 
 鴎外を垂直に引き込みたるは百年前の此処の夕闇 (「此処」はベルリンのこと)
 留守のまにはひりてをりし電話より女狐の声たばしれるかな
 つづまりは制度の東、煮くづれし野菜の皿が昨日(きのふ)に見えて
 ははそはの母を思へば産道をしぼるくれなゐ筋の力や
 カンボジアの死(注、文民警官戦死)の扱ひが気にくはぬ成るつたけ薄く引けマーガリン
 アメリカは戦後日本のそ、そ、祖型なンだ思はずどもつてだまる
 
 
      (二)
 
 
 天つ邦ゆざわりりりつつ米を購(か)ふくぐつめのつめじゆらめくOriza(オリザ)
 叱つ叱つしゆつしゆつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゆわひるなゆめ
 モリスは君の言ふ事だけはきくやうだ[メトロで行かう]薙(きじ)の朝狩
 すまぬすまぬ表現の流れが気になつて[年だよ]帯文(おび)の冒頭の仮名(ルビ)
 
 
 こう(一)(二)に分けて並べてみる。(二)の試みは以前から岡井隆はしきりに試みてきた。ひと口に音喩(オノマトペ)に類する分節化されない言葉を、音数律の線上に並べることで意味以前の意味を暗示しようとする試みといってよかった。そして受けとる側も、あたかも何も意味しないのに、じぶんを母親の場所に仮設して身をおき、意味として聞きとれば、読むものにとって意味を暗示されているかのように感受できるからである。
 
 この音喩的な試みは(二)の後半に挙げてみたカッコ[ ]のなかの言葉を、音数律の線上におく試みに接続する。このカッコ[ ]のなかの言葉は意味がある言葉だが、短歌的な表現としていえば表現の流れの本筋とは異質なところから出てきてた独り言(ひとりごと)のような言葉を、おなじ音数律の流れに挿入していることになる。音喩とは違うが、異次元からくる言葉を同じ線上に置いたということでは、一首の意味の次元を立体的に拡張していることになる。
 
 それならば当然もっと拡張の試みはなされるべきだというふうにもいえる。それは(一)に例示した短歌にあらわれている。こういう単純な言い方で、済ましたつもりになっては、もちろんいけないのだ。歌集としての『神の仕事場』の特色はこの(一)に挙げた作品の系列にかかっているといってもいいからだ。もっと別の言葉でいえば『神の仕事場』が短歌史のなかで未踏の領域に達したとおもえるのは、この(一)に類別される作品の存在することによっている。わたしの判断はそうだ。もちろんこの歌人にとっては(二)に分類した言語的な意味をもてない音喩を、未明の意味として表現するながい試みの歴史があった。この試みは宮沢賢治が詩作品でやっていたとも言えるから岡井隆の試みを未踏ということはできないかもしれない。だが岡井隆はこの試みと連続する軌道の上に(一)に挙げた短歌の表現を造り上げている。
 
 それでは(一)にあげた短歌の特性はどこにあるのだろうか。わたしはこの『写生の物語』の一連の文章で使ってきた概念を延長して使いたいのだが、この『神の仕事場』のいちばんの特性である(一)の短歌作品の系列は、はじめて意味ある短歌句(表現)の句の意味を、意味でありながら短歌的なリズムとメロディを拡大するのにそのまま役立てている。別の言葉でいえば、これらの短歌作品の系列で、短歌の句の意味は、そのままでリズムとメロディに転化されている。いままで再三述べてきたように岡井作品は意味にならない音喩の言葉から意味以前の意味をひき出す試みをやってきた。そしてその試みの極限のところで反転させて、意味そのものである短歌句をリズムとメロディに転化させる表現法を獲得したといっていい。わたしの知っているせまい範囲でしか言えないのが残念だが、この方法は『神の仕事場』がはじめて開拓して、わたしたちの眼の前に開示したといっていい。もちろん岡井隆にとっては永いあいだ音と意味との短歌的音数律のなかでの変形と融合のヴァリエーションの問題であった。そしてこんな言い方ができるとすれば、短歌的な言葉における音と意味の変容と融合の臨場感から、言葉の意味が意味のままメロディを発生する瞬間を表現として捕らえたというべきなのだろうか。
 
 『舞姫』にフィクション化されているように、陸軍に属する予防医学の研鑽のため、鴎外はドイツに留学し、ベルリンに生活する。その折、ドイツ人の貧しいダンサーと恋に陥る。それは作者岡井隆がベルリンを訪れたときから百年前だ。作品は鴎外を「垂直に引き込みたるは」と表現している。これを意味として受けとれば、ベルリンに潜んでいる不思議な夕闇の魔力(魅力)が、鴎外を真っすぐに暗い深みに惹き入れたのだと言っている。卓抜な修辞的な意味をもっている句だといえば済みそうにおもえるが、わたしにはそれだけとはおもえない。「垂直に引き込みたるは」という表現には、うなりたいほどの魔力(魅力)があって、わたしなどはかつてどんな短歌作品からも受けたことのないような波動を感覚できる。
 
 それはどこからくるかを言ってみれば、垂直に引き込むという修辞が、文字どおり留学生鴎外を捕えたあやしい魔力を象徴する意味句でありながら、同時にこの句から一首に豊饒なメロディを発信しているからだとおもえる。この表現は普通ならば巧みではあるが意味句として一首のなかの役割を荷っているだけだと読めるものだ。だがわたしには(たぶんわたし以外の読者にも)それだけでなく何ともいえない響きがこの句から発信されて、一首全体のリズムやメロディに加わっていくように感じられる。そんなことはありえないはずだ。しかしそんなことがありえないはずの音喩的な句に、意味の原型をもたせるような逆の試みならば、この歌人は永いあいだたびたび試みてきた。いま垂直に引き込むという表現が、逆にメロディを意味と同時に発信しても不思議でない気がする。その根拠はこの歌人のなかで、短歌的表現では、音喩のメロディは意味を発するし、また意味はそのままでメロディを発することが、無意識のうちに体得されてしまったからではないだろうか。別の言葉でいえば、前衛歌人として緊迫した言葉とは九〇度ほど違う跳躍の方法があることを、短歌の思想として体得したとでも言うべきだろうか。「垂直に引き込みたるは」という修辞には、緊迫が尖鋭さではなく濃度の緻密さのことだという作者の思想がこめられていて、それがわたしたちにメロディを発信している。
 
 二首目の留守電に入っていた声を聞いてみたら「女狐の声たばしれるかな」というのもまったくおなじだとおもえる。「女狐の声」は、たぶんリアルな声としては、かん高く切口上の女性からの通話が再生されてきたということに相違ない。すると「女狐の声」はやや皮肉をこめた女性の通話の声にたいする巧みな言い廻しのようにみえるし、またそうには違いない。だがこの「女狐の声」と「たばしれる」という表現は一首全体にあるメロディを附加する。このメロディはどこからくるのかをつめてゆくと、電話に入った女性(の声)どんな感じを与えても、いいかえれば嫌な声だとおもっても怒られている声だとかヒステリックな声だとかおもわれても、そこにはこの歌人の主な関心はなくて、ただその声を冷静に中性(立)的に聴くことができる余裕が、人間に対する思想として獲得されているからだとおもえる。だからこの「女狐の声」が意味からメロディの方へ転換し、同時放射できる交響のようなものがあらわれる。わたしには短歌的な表現の特性としての「女狐の声」や「たばしれる」がかもしだす意味からメロディヘの転換を何と呼ぶべきかわからない。またなぜこの歌人だけが近代以後の短歌史のなかでこの特性を獲得しえているようにみえるのか、巧く解釈することができない。
 
ただ個人的には音喩の意味化について独自の修練と試みをやってきた果てに、ぽっと現われた成果のように感じられる。こうかんがえてくると三首目の「制度の東」という意味句の交響させるメロディはひとつの極限のようにおもえてくる。わたしたちが「制度の東」という句から受けとれる意味は精いっぱいのところ《制度の果てにあるもの》あるいは《制度の彼方にあるもの》というところまでのような気がする。だが「制度の東」と表現したところであるメロディが発信されるのを、読者は聴くのだ。わたしにはこの歌人のなかに、短歌的な表現のなかでは言葉は意味と同等の力価でメロディやリズムでありうるという徹底した明智かあるいは修練が生きているとおもえる。それとともに具象物と抽象物、物象と心象はいつでも異質の障壁なしに連結したり、交換したりできるという自在さが獲得されていると信じられる。
 
 
      (2)
 
 
 もし声楽の専門家みたいな人がいたら、ある呼吸法の度合がこの歌人に習得されて薬籠にはいっているために、この自在さが得られているというかも知れない。またわたしたちは言葉の働きのうえで、意識と無意識の融合のある度合のところから言葉が発信されるとき、ひとりでにこの種の自在さが得られるとかんがえたい気がする。だがわたしたちが言葉の働きと片付けているものは、ほんとは歌人の生の体験の成熟や生活の経験と資質の働きの偶然の融合の働きも含めて、言葉が稀にみるよい培養基のなかで育まれているせいかも知れない。
 
 わたしたちは短歌的な表現を交響する音形で比喩してみるとする。いま意味の機能をまったく抜いておくとすれば、細長い葉巻きの形をした密雲の塊りのように見做すことができよう。すると岡井隆の『神の仕事場』の交響する密雲は、わたしたちが短歌的な声調にみているものの倍増した円方体(2x2x2)に比喩することができる作品に出遇う。いわば意味句が、下句または上句の全体でメロディを発信している例に出遇うからだ。
 
 
      <北窓のうつくしい刻>
 
  沖を行くくらき親潮また君は挫折のうへにあぐらをかいて
  たとふれば秘密のみつは蜜の味ドンファンの背に頬を埋めよ
  ちつぽけな嫉妬の燭に火がついてぼくならほんと耳を噛むのに
  降る雪は古典の雪に相似つついつそかうなれば走れ幌馬車
 
      <夜書いた詩を>
  比売(ひめ)よ嘆くな批評は葉つぱ詩は華だシーツの痕がまだ頬にある
 
     駅ごとにエスカレーターが増えてゐる。
  北風の老いを援(たす)けてあはれあはれM駅新設エスカレーター
 
     <冬螢飼ふ沼までは>
  富なるべし薄雪めく富なるべし僕をかれらから遠ざけたのは
(岡井隆『神の仕事場』)  
 
 
 きっと短歌的な意味としてこれらの表現は岡井作品にかつてなかったものだと言えるのかもしれない。たとえば岡井隆の詩歌的エロスの表現において「ドンファンの背に頬を埋めよ」とか「ぼくならほんと耳を噛むのに」とか「シーツの痕がまだ頬にある」という延びやかな作品はなかったような気がする。また「いつそかうなれば走れ幌馬車」などほんとに「走れ幌馬車よ」という実際のメロディがのってくるほど延びやかだ。また「挫折のうへにあぐらをかいて」という下句や「富なるべし薄雪(うすらゆき)めく富なるべし」という上句の表現などでも、この種の表現にともなう罪障感のようなものの影はまったくふっきれ、何とも言えぬ延びと調和を獲得している。
 しかしそれにもまして強調されるべきなのはこの種の表現が意味よりもメロディを発信して、それが短歌的な声調の交響を倍増しているようにおもえることだ。下句または上句の全体から響いてくるメロディが全体に及びそれが円方体の立体的な交響を倍加している。わたしにはたとえば「淡海の湖夕波千鳥」という『万葉』歌の和やかに延びひろがる交響とおなじものを、意味句自体のカで発信しているようにみえる。この歌人が何となく天空に入ったなというわたしの感慨のようなものは、ここに発祥している。
 
★吉本隆明著『写生の物語(2000年講談社刊)』より「神の仕事場の特性」の抜粋・引用させていただきました。
★写真:岡井隆氏。『神の仕事場』出版社:砂子屋書房:発行年:1994年・再版
 
 
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