日付:2018年3月 

 「言葉」ってなんだ?  糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より~ 

 

2017年の桜の散った谷中の墓地  

 

  「J文学」はハートの文学。時間給でやってる感じ
 
吉本 隆明   文学の一番のべースにあるのは、昔からの夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介といった純文学というものと、子母沢寛、山手樹一郎とか、推理作家の小栗虫太郎とかのエンターテインメントのものと二種類あって、それぞれが勝手にやっていた時代が続いてきたわげなんです。
 その名残は今でもあるんですけど、この文学をふたつに分けるってことが、どうにもそぐわないぞってなってきたんですね。
 それこそ百万人が読むものから、読者は誰もいないけど書いてるってものまであるんだけど、文学を分けるなら、そのふたつのあいだに何層も何層もあるんだと考えないと、わかりにくくなっちゃったんですよ。
 その中間層には、いろんな文学が入る引き出しがたくさんあると。そして、そのどこかの層から、いろんな新しいものが出てきたりしているわけなんです。
 
 これは「パート」の文学っていう言い方ができると思うんですね。
 作家という職業を考えてみると、嫁ももらえないとか、親に勘当されるとか、社会的に認められないような時代があったり、逆にバブルみたいな時は、金も名誉も入ってきて、親まで喜んだりっていう時代もあったわけです。
 今は、そのどちらでもなくなってきていて、パートっていうか、時間給でやってる感じなんですよね。
 町田康でいえば『くっすん大黒』は悪くないと思ってます。ある意味で、言葉の使い方も面白いし、着想が新鮮でもあるし。
 だけど、『くっすん大黒』の次にはこういうものを書いて、こういうふうに成長していくんだっていうようなことは、考えようがないんですよ。
 
 例えば、漱石なら『坊ちゃん』から始まって『明暗』までの道筋をたどることはできるでしょうけど、町田康っていう人を作品でたどろうった& 僕の理解の仕方では、成長の後をたどれるような作家というのは、村上龍と村上春樹で終わり、ウチの子供(吉本バナナ)なんかだと、そうであるところと、そうでないところところがありますよね。なんか、テレビドラマのワンクールごとっていう感じはありますけどね。
  ただね、町田町蔵(町田康のパンクバンド時代の名前)っていう人が、パンクバンドの領域から学んだいいところっていうのがあると思うんです。だから、もし本人が「ロックやってるより、小説書いてるほうが高級だ」なんて思っていたらダメでしょうね。それだと「この程度の人だったらいくらでもいるよ」ということになっちゃいますから。
 
 パートで全然かまわないんです。読者として培ってきた「文学とはこうでこうで」なんて知識や認識は忘れて、例えば、理屈を二、三行書きましたっていうのを集めたっていいんだし、書く様式は自分の好きなやり方でいいんですよ。パートなんだから。現状よりもっと発展したものを書かなきゃいけない、なんてことはないんだから。
 七面倒な知識、教養のつまんねえ部分をあんまり憶えてると、「小説ヘタになるぞ」って、子供にも言ってますけどね。
 
 
  日本語のリズムと使われ方が、今かわりつつある
 
 僕が「カリスマ」って言葉を、いちばん最初に聞いたのは、戦後ですかねえ。鶴見俊輔とか久野収とか丸山真男とか、あのあたりの人が北一輝なんかのことを言ったのが、最初だったと思いますね。教祖性があって、神がかっているということも含めて、飛び抜けて崇拝されているみたいな、そういうのをカリスマっていうんだなあって知ったような気がしますね。それ以後、カリスマって言葉を聞いた最後っていうと、学生運動の時の黒田寛一が、そういうふうに言われたり思われたりしていましてね。いずれにせよ、あんまり一般的を言葉じゃなかったですよねえ。
 僕もこの間テレビで見たんですが、近所の人を集めた主婦のサロンみたいなところで、なんかつまみものを出したり、いろんなことを他の生婦に教えたり、世話を焼いたりしているひとがカリスマ主婦って感じでした。
 
 僕らが知っていたインテリ・カリスマっていうか、イデオロギー・カリスマっていうんじゃなくて、今は、いろんな前提を抜きにして、何でもいいですよって感じでカリスマって言葉が使われてて、僕は、言葉の使い方としては、けっこうおもしろいなあって感じはしてますけどね。
 今は、生活レベルでのカリスマ、暮らしの中のカリスマってなってますよね。社会全体が、なんかこう、知的な世界のこととそうじゃないことが、全部もうごちゃまぜになって、同じレベルになりつつあるっていうようにね。これは違う世界なんだよって、ある程度言えるのは、学者の世界くらいかなあ。あくまでも、ある程度だけれど。
 だけど、それ以外は区別がなくなっちゃってるんだっていうことで、カリスマっていう、いわゆる高級な世界の言葉が、それだけ通俗的になっていっちゃってるってことがおもしれえなと。
 本来的な意味でカリスマっていう言葉が使えるような分野の領域と、なんでもない分野の領域との境界が、もうはっきりしなくなっちゃって、そのどっちもが同じようになっちゃったっていうことが、カリスマって言葉が流行ったりしている理由なんでしょうけど、それはそういうご時世なんだということなんじゃないでしょうか。
 
 日本語が変わろうとしているのか、日本の社会が変わろうとしているのか、どっちなのかはわからないですけれど、とにかく何か、今変わろうとして動いているんじゃないかなあ。
 なんでそういうことを感ずるかというと、僕の関心からいうと、言葉に多少は敏感だからと思うんですけど、リズムが大きく変化しているんですよね。テレビなんか見ていても「なになにでー」っていうふうに、音が、一丁だけ多いんですよ。昔だったら「なになにで」って止めちゃうところを、ひとつ、延ばすんですね。これはちょっと何か日本語のリズムが変わりつつあるんじゃないかって思うんです。これは変化としては非常に大きな兆侯ですね。
 
 こういうことと、専門領域のカリスマみたいな言葉が一般領域に人り込んできている、つまり言葉の使われ方が変わりつつあるってことは、関係があると思うんです。
 言葉が変わるということで、僕自身も、勝手に「造語」してますね。「共同幻想」とか「固有時」とか、数学や理工系の言葉の使い方を広げるってのが多いかなあ。もともと工学系だから、そっちの言葉が鍛えてあるんでしょうね。
 まあ、それはさておき、特に、今っていうのは、社会の変化が言葉を変えてきているということでしょうね。それは、非常に面白いことと言っていいんじゃないでしょうか。
 
 
  方言と外国語の違いは、地続きだと思っている
 
 知り合いの奥さんで、外国人の人とか、長いこと外国にいた人とかに聞くとさ、あんまり、日本人が、外国語を流暢にしゃべったりすると、ちょっと気持ち悪いって言いますね。
 日本にいる外国人でも、日本語があまりにもうまいと、なんだかヘンな感じがしますけどね、ちょっとヘタなくらいがいいんだろうなあと、思ったことがありますね、
 僕は、もう、全然ダメです。
 できるとかできないっていう領域までもいかない。何言ってるんだかわかんねえ(笑)。特許事務所に勤めてた頃に外国人とモメたことがありましてね。要するに何か怒ってるのはわかるんだけど、どのくらい怒っているのかはわかんないですよ。
 戦争中は英語は敵性国家の言葉だからあまりやらなくてもいいっていうことになってたんですよ。そして僕は、やらなくてもいいっていうのは結構なことだから、やらなかったんです。
 
 それからこれも実感なんですけど、僕は自分の考え方として方言と民族語の違いは、地続きになっていると思ってるわけですよ。ずっと方言を延長していくとね、違う民族語になるって。で、そこに断絶はないと思ってるわけですよ。
 秋田弁とか、青森弁っていうのはあるでしょう。それと要するに韓国語とか、中国語とか、あるいは英語とかね、それとは地続きんだと思ってるわけです。
 今だと地方へ行っても、あんまりコトバがうまく通じないってことは少なくなりましたけどね。僕らの学生時代なんか、山形にいたんだけど、買い物だけでも難しかったってくらい、コトバがつうじませんでしたね。向こうの人は、聞くのはわかるんですよ。ラジオとか、新聞とかで、標準語ってやつに接しているからね。でも、こっちが向こうの人のコトバを聞き取れないんです。方言がきつくてね。
 つまり、方言だからわかるなんてウソだって、そのとき思いましたよ。だから、その地続きのところに外国の民族語があるんだって考えです。
 
 民族語に分かれて十万年単位っていうふうに言われているんですけど、十万年単位で、わざわざ分かれちゃったんだから、それを今さらゴッチャにすることも、一緒にすることもないじゃないのって思います。ただ、強い国の、利用度を持ってるコトバがだんだん別の国のコトバに入り込んで占めてきたのなら、それでいいじゃないのっていう考え方になっていっちゃうんですね。そうしてコトバがなくなっていっちゃうんならいいじゃないのっていう。まあなくならないで残るっていうんなら、それはそれでいいじゃないのって思うし。
 なんかなるに任せるってことでいいんじゃないかなと考えますけどね。
 
 
  言葉の成立には、全然根拠がないんだ
 
 それから、もうひとつ、要するに言葉っていうのはね、全部根拠がないんですよ。つまり、例えば年上の肉親の女の人を「姉」って呼びますよね。じゃあ、どうして「姉」って呼ぶんだって。これをね、「妹」ってどうして言わなかったんだとか思いますよね。そういうことには根拠はないんですよ、何も。なぜお米のことを「米」って言うのかに根拠なんて、全然ないんです。コメって言わないでソメって言ったってよかったはずなのに、なぜコメって言ったのかといったら、それは偶然でしかないでしょう。
 だからコトバっていうのは、先述した民族語の違いでもいいんですけど、あまり根拠がないんですよ。つまり、民族語であるとか、方言だとかって云ってるけど、そんなものは何の恨拠もないよって、あるとき偶然、誰かが「シスター」って言い出したから「シスター」になっちゃったということでしかないんですよ。
 
 フランスにソシュールっていう、本当に偉い言語学者がいたんですけど、この人はそれで頭がおかしくなっちゃったんですからね。つまり、こんなに根拠がない、もうどうしようもないっていうことを考え詰めていってね。何もしゃべらないっていうのと、しゃべるっていうのとどこが違うんだとかね。もうそうなって、ちょっとおかしくなっちゃったんですよ。だから、それぐらい、言葉っていうのは根拠がないんですよ。
 人間そのものが持っている根拠のなさと同じでね。生まれたことっていうのには根拠がないんですね。生まれたことには根拠がなくて、それで親の方からいえば、産んだことにも根拠がないってなるんですよ(笑)。
 動物はそんなこと考えなくていいわけで、これは、人間のつらいところですよねえ。それで、どういうコトバが、いま一番役に立っっていうか、通用しやすいかって言えば、英語でしょうね。どうしてなんだって言われると困るんですけど、多分英国人が最も早く、いろんな地域に植民地をもったりとか、いろいろやったっていうことがあるのかなと思うんですけどね。
 今のところは英語が一番役に立つから、じゃあ英語を習っておきゃいいじゃないかって、こういうふうになるわけです。
 
 磯田光一みたいに英語のできる人は「語学なんていうのは、要するに書いてあるのを読んで訳せれば、つまり読解できればもういい。だからしゃべれなくてもいいんだ」って言ってますし、一方では「いくら書いたものを読めたってしょうがないんだし、しゃべるっていう交通ができなきゃお話にならんじゃないの」っていう考え方も非常に多くありますよね。そういうことについては、僕にはよくわからないところですけれど、利害がからんでくると、しゃべれた方がいいとか、読んでわかるのは大事だとか、もっと切実になりますから、その流れの中で、自然にやらざるを得なければやるってことになるんでしょうね。
 国家の力の強さによって、ある民族語が広まっていくか衰退していくかっていうよりは、もっとビジネスの必要に応じた、利害が、いろいろ決めていくんでしょうね。
 そのうえで、まあ、英語を憶えたいんだとしたら、違う言葉だと思わないで、、方言のひとつとして考える方法というのは、案外早く憶えられるようになるかもしれないですね。
      (糸井重里×吉本隆明の「悪人正機」より~ 「言葉」ってなんだ? 朝日出版社)
 
 
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   ★ この稿、続く