日付:2020年12月10日 

  故吉本隆明氏の『反原発で猿になる』を再読しました

 
 
  「反原発」で猿になる! (吉本隆明著)
 
 
左寄せの画像 原発事故は、日本人の原子カに対する見方を一変させてしまった。以来、自然エネルギーへの転換ぱかりが叫ぱれ、既存の原発も運転再開は厳しいままだ。だが、そんな日本を覆う「反原発」の空気に異論を唱えるのが思想家・吉本隆明氏。日く、反原発で猿になる。
 
 
 僕は以前から反核・反原発を掲げる人たちに対して厳しく批判をしてきました。それは今でも変わりません。実際、福島第一原発の事故では被害が出ているし、何人かの人は放射能によって身体的な障害が生じるかもしれない。そのために<原発はもう廃止したほうがいい>という声が高まっているのですが、それはあまりに乱暴な素人の論理です。
 今回、改めて根底から間われなくてはいけないのは、人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか、ということなんです。考えてもみてください。自動車だって事故で亡くなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう。ある技術があって、そのために損害が出たからといって廃止するのは、人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものです。
 そして技術の側にも問題がある。専門家は原発事故に対して被害を出さないやり方を徹底して研究し、どう実行するべきなのか、今だからこそ議論を始めなくてはならないのに、その問題に回答することなしに沈黙してしまったり、中には反対論に同調する人たちがいる。専門家である彼らまで<危ない>と言い出して素人の論理に同調するのは「悪」だとさえ思います。
 
 
思想家・吉本隆明氏。日本の言論界を長年リードしてきた『知の巨人』である。レーニンに傾倒し、60年安保闘争では逮捕も経験した吉本氏だが、旧来のイデオロギーに左右されない斬新な評論活動に影響を受けた知識人は少なくない。時にはサブカルチャーやマンガ批評も手がけ、原発・核問題についても独自の立場から発言してきた。病気もあって最近は足腰も衰え気味だが、その筆鋒は87歳の今も衰えを知らない。
 
 
 いま、原発を巡る議論は「恐怖感」が中心になっています。恐怖感というのは、人間が持っている共通の弱さで、誰もがそれに流されてしまいがちです。しかし、原子力は悪党が生み出したのでも泥棒が作ったわけでもありません。紛れもなく「文明」が生み出した技術です。
 今から100年ほど前、人類は放射線を発見し、原子力をエネルギーに変え、電源として使えるようにしてきました。原子力をここまで発展させるのには大変な労力をかけてきたわけです。一方、その原子力に対して人間は異常なまでの恐怖心を抱いている。それは、核物質から出る放射線というものが、人間の体を素通リして内臓を傷付けてしまうと知っているからでしよう。防御策が完全でないから恐怖心はさらに強まる。もちろん放射能が安全だとは言いません。でも、レントゲン写真なんて生まれてから死ぬまで何回も撮る。普通に暮らしていても放射線は浴びるのです。それでも、大体90歳くらいまでは生きられるところまで人類は来ているわけです。そもそも太陽の光や熱は核融合で出来たものであって、日々の暮らしの中でもありふれたもの。この世のエネルギーの源は元をただせばすぺて原子やその核の力なのに、それを異常に恐れるのはおかしい。
 それでも、恐怖心を100%取り除きたいと言うのなら、原発を完全に放棄する以外に方法はあリません。それはどんな人でも分かっている。しかし、止めてしまったらどうなるか。恐怖感は消えるでしょうが、文明を発展させてきた長年の努カは水泡に帰してしまう。人類が培ってきた核開発の技術もすべて意味がなくなってしまう。それは人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです。
 
 
★ 押し戻すことはできない
 
 
 文明の発達というのは常に危険との共存だったということも忘れてはなりません。科学技術というのは失敗してもまた挑戦する、そして改善していく、その繰り返しです。危険が現われる度に防御策を講じるというイタチごっこです。その中で、辛うじて上手く使うことができるまで作り上げたものが「原子力」だと言えます。それが人間の文明の姿であり形でもある。
 だとすれば、我々が今すべきは、原発を止めてしまうことではなく、完壁に近いほどの放射線に対する防御策を改めて講じることです。新型の原子炉を開発する資金と同じくらいの金をかけて、放射線を防ぐ技術を開発するしかない。それでもまた新たな危険が出てきたら更なる防御策を考え完壁に近づけていく。その繰り返ししかない。
 他の動物に比べて人間が少し偉そうな顔をできるようになった理由は、こうした努力をあきらめず営々とやってきたからではないでしようか。
 そして、仮に放射能の防御装置ができたとしたら、その瞬間から、こうした不毛な議論は終りになる。科学技術というのは明瞭で、結果がはっきりしていますから。
 正直言って原発をどうするか、ちゃんとした議論ができるにはまだ時間がかかるでしょう。原発を改良するとか防御策を完壁にするというのは技術の問題ですが、人間の恐怖心がそれを阻んでいるからです。反対に、経済的な利益から原発を推進したいという考えにも私は与しない。原発の存否を決めるのは、「恐怖心」や「利益」より、技術論と文明論にかかっていると考えるからです。
 
 
東工大出身で技術者だった吉本氏は、原発・核兵器に関しても事あるごとに発言してきた。その主張は『反核・反原発』を唱える人は『蒙昧』でしかないという痛烈なものだ。なかでも80年代に盛リ上がった文学者らの反核運動では、それを<エセ平和主義>と批判し、議論を呼んだ。
 
 
 もちろん、原子力を語るとき核兵器の問題は避けては通れません。戦争で大切なのは、主として兵器ですから、改良して相手に勝るようにしていくのが戦時の技術開発です。そうやって開発してきた原子爆弾は、今や、人類を何度も減亡させられるだけの規模に達している。しかし、人間が原子力という技術を手に入れたとき、それがどんな現実をもたらすかまでは想像していなかった。どんなに優れた人でも予想はできなかったのです。
 一番分かりやすい例はアインシュタインだと思います。アインシュタインは相対性理論を提唱した理論物理学の大家ですが、原子力の利用については、原爆を開発することに賛成していますよね。しかし、アインシュタインは後で被害の大きさを知りショツクを受ける。そこで「自分は原子力を兵器に用いることに反対した」と態度を翻す。核爆弾からどれだけ大量のエネルギーが生み出されるかという計算はできても、結果を見たら、とてもそんな反対賛成云々なんて軽率なことじゃなかった。あれだけ優秀な頭脳で、あれだけの業績を上げてきた科学者でさえ、とことんまで想定できていたかは疑わしい。
 今回の原発事故も天災とか人災などと言われていますが、やはり危険を予想できなかった。つまり、人間は新技術を開発する過程で危険極まりないものを作ってしまうという大矛盾を抱えているのです。しかし、それでも科学技術や知識というものはいったん手に入れたら元に押し戻すことはできない。どんなに危なくて退廃的であっても否定することはできないのです。それ以上のものを作ったり考え出すしか道はない、それを反核・反原発の人たちは理解していないのです。
 
 
★ 『戦後』に似ている

 
 
 福島原発の事故が起きてから、よく思い出すのは第二次大戦後の日本社会です。当時、僕は敗戦のショックに打ちのめされて迷いに迷っていた。敗戦を契機にほとんどの価値観が180度変わってしまいましたから。知り合いにも「もう日本はお終いだ」と自決する人もいた。そんな中で、当時の大人たちが敗戦に対する責任をどう考えているのか、文学界の中でもそれを問う雰囲気がありました。特に私は小林秀雄に、
「あなたはこの戦争とその結果についてどう考えているのか」と聞いてみたかったのです。他の文学者はいい加減な答えをしたとしても、小林秀雄は尊敬していた人でしたから、何を考えているのか知りたかった。今のような状況の中で、答えが欲しかったのです。折しも若手文学者たちが先輩たち一人一人に意見を聞く機会があった。そこで、意見を求められた小林は、「君ら若い人たちは、考え方を変えるのもいいかもしれないけれど、俺はもう年寄りだからね、<今は違う考えになっている>なんて言う気はさらさらない。だから、戦争中と同じ考え方を今も持っているさ」と答えたんです。そう言われたら、突っ込みようがない。私はその答えを聞いて、小林秀雄という人は、考え方を易々と変えることはしない、さすがだなあ、と思いましたね。世の中では時代が変わると政府も変わる、人の考え方も変わる。それがごく当然なのですが、僕はそれにもの凄く違和感があった。だから、福島原発事故を取り巻く言論を見ていると、当時と重なって見えてしまうんです。
 
 
福島原発事故をきっかけに原子カに対する見方は大きく変わった。菅直人前総理は「脱原発」を政策に掲げ、ソフトバンクの孫正義社長など『自然エネルギー』ビジネスに乗り出す動きも出ている。しかし、電力不足が表面化しても、テレピ・新聞は原発の再開について<タブー>のように扱うばかリだ。だが、それでも吉本氏は原子力を捨てるべきではないと言い続ける。
 
 
 原発を捨て自然エネルギーが取って代わるべきだという議論もありますが、それこそ、文明に逆行する行為です。たとえ事故を起しても、一度獲得した原発の技術を高めてゆくことが発展のあり方です。僕はこういう立場ですから、保守的な人からも、進歩的な人からも、両方から同じように攻撃されて、言ってみれば<立つ瀬がない>という状況でした。批判はしょっちゅうです。それも、ちゃんと名を名乗ったり、政党や党派を明らかにしての批判ならまだ反発のしようもあるけど、覆面を被ったままでやっつけにくる。特に今みたいな状況の中では誤解のないように言うのは中々難しいんです。しかし、それでも考えを変えなかったのは、いつも「元個人(げんこじん)」に立ち返って考えていたからです。元個人とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない。そう思ったとき反原発は間違いだと気がついた。
 「世間で通用している考えがやっぱり正しいんじゃないか」という動揺を防ぐには、元個人に立ち返って考えてみることです。そして、そこに行きつくまでは、僕は力の限り、能力の限り、自分の考えはこうだということを書くし、述べるだろうと思うんです。
★「週刊新潮(新潮社)」2012年1/5・12号掲載。   
 
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