日付:2018年3月 

 「大衆としての現在」……しゃべり言葉、書き言葉、ふたつを超える。

 

・村上春樹さん  

 

『マス・イメージ論』その後

 

   ”現在”という大衆文化情況の下で、話体派と正統派との位相について、及び大衆の発言
 
安達 史人  『マス・イメージ論』ということでお訊きしていこうと思いますが、まず第一に新しいお仕事から始めますと、『空虚としての主題』と『マス・イメージ論』について、前書は作品の側に吉本さんが近寄り、後書は吉本さんの概念に 作品が近寄るという、二つが対になつた仕事と思われるんですがどうでしよう。
 
吉本 隆明  『空虚としての主題』の問題も結局は文学の”現在”ということでした。そうすると 、作品というものは、一体何か、ということこなったわけです。作品というのはひとりひとりの個性が創っているものなんですが、逆に”現在”が作品を創ったんだ、と見た場合どうい・つことになるのか? というのが『マス・イメージ論』の意図だったんです。現在っていうのもひとりの巨きな作者だ、ってしますと、個々の人が生み出してる作品つていうのは、現在というの大きな作者にも創り出されたものと見ていいわけです。それを”マス・イメージ”ととらえたもので、”現在”ていう巨きな作者は何か、という問題を作品を介してみたものなんです。
 
安達 史人  『空虚としての主題』の最後に「現在をおおつている、その、すごくぶ厚い何か、イメージの層みたいのがあるんだ」っていういうふうに書かれておりますが、その辺から『マス・イメージ論』が出て来たんでしようか。それとももっと長期的な視野で考えられていたわけでしようか。
 
吉本 隆明  二つの面あるとおもうんです。ひとつは、『空虚としての主題』を書いていた時に、「おや!」とおもいまして、作品を介してもっと現在というもののイメージをはっきりさせておかなければっていう問題が出てきました。ですから、『空虚としての主題』をやりながら出てきたことだっていえますし、それとは別に『共同幻想論』の現在版っていうのをやってみたいなあっていうね、そういうことももう一方にありました。その面からは、前からの延長線であったとももちろんいえるとおもうんですけど。だから僕の中では両方あったんでしょう。ただ、現在っていうのは、自分がそん中の渦中にいるわけですから、そりゃ客観的にわかろうとしたってわからねェですよ。そこだけは見えないですから。ですから、歴史的な表現を主題にしてっていうほど、うまく出来ないってことは元からあり得るとおもいますけど。まあ、あんまりうまく射程が伸びなかったですね。”現在”ってこと自体に対しても、これからどうなるかってことに対しても、そんなに射程は伸びないもんだなっていうのが、実感です。
 
安達 史人  『マス・イメージ論』の主要なテーマは、「今まで低俗で価値がないとされてたところに価値が出てきたんだ」。ということと、「その価値の転倒っていうのは、主観の側でなくむしろ世界そのものが価値の転倒を図ってるんだ」というものだと思われますがどうなんでしょう。
 
吉本 隆明  あのね、図式化して説明するとこが僕のダメなとこだけど、大衆の文化意識や生活意識は経済的基盤も含めて、量的にも質的にも社会全体のだいたい半分のレベルまで到達してきてるでしょ。そしたら否応なしにね、大衆文化の現象は正面の課題に入り込んでくるわけてす。それは知的な少数のエリートの課題が退潮して不必要になりつつあるということでなく、それはますます高度になっていくわけですが、大衆文化の量的な意味とか、質的な意味がすでに無視できない全般的な課題になっているってことなんです。これが外枠からみたいまの安達さんのいわれた問題ではないでしょうか。
 
安達 史人  吉本さんが、<停滞>っていう概念を取り上げられておられることは、それだけ現在の世界が停滞をしいてくる、その強さみたいのがすごいっていうことなわけですか。
 
吉本 隆明  そうですね。どんな時代でもく<停滞>ってのはありますが、現在の<停滞>の根底にあるのは、オーソドックスな文化の頭が見えてきた。境界線っていいましょうかネ、天井といいましょうか、それがだいたい見えてきた。そんな図式のイメージで理解できるものです。社会現象でいえば、資本主義杜会も、擬似的に資本主義杜会と同じ杜会主義国の社会も、今の社会経済様式だったら境界線がみえてきたじゃないかということです。その限界線が見えてき夫ことが、いわばオーソドックスな文化や理念に、<停滞>を強いてんじゃないかっていうことです。その一方でね、大衆文化現象が現在の社会の代表権を象徴するってところまで伸びてきた。これが現在の停滞感の根底にある現象じゃないでしょうか。大よその図面ですけどね。
 
安達 史人  僕が「停滞」って項を読んで思ったことなんですが、現代の危機的な情況を乗り越えるためには? といった時に、過去の価値観とか方法論とかを引っぱり出してもダメで、鍵は現代にしかないんではないかと思うのですが、吉本さんのお仕事はそういうんじゃないかと考えるんですけれども、過去に遡って価値観が見つかるという発想が<停滞>っていうのと関係してるんでしょうか。
 
吉本 隆明  「近代の超克」って四、五〇年前にいわれたようないい方を、いますると、”現代の超克”っていうことですね。『マス・イメージ論』は、現在の中にこれからの影を手探りしてみたいモチーフが含まれています。<アジア的>って称して、前近代の問題は本当はどうなのかっていうことにもかかずらわってるんです。それは、近代以前の問題を世界レベルというところまで引っぱってきたいとおもうからでね。つまり、西欧の近代が世界の近代であれば、西欧の現代が世界の現代であるっていうことでしたら、<アジア的>なものとか第三世界的なものっていうのは何かってね。肯定するにしろ、否定するにしろ、それは傍流のものであるとかそれ以前のものである。とかで、かたずけられてしまっていますが、それをね、現在のところまで引き出してきて、有効、無効を判然とさせていかなくっちゃならない。それが現在の課題としてあるんだ、ってことなんです。まあ日本の共同体とか宗教とか、そういう問題を広場に引き出せっていうことです。我ながらおかしいのは、それを歴史的な表現の内でやるのと、『マス・イメージ論』みたいな方法でやる場合とがね、くるりと向きを変えてる気がしてしょうがないことですよ。奇妙だとおもうけど、あえて一元化するとか一軸化していいとは、どうしてもおもえないんです。
 
安達 史人  えーと、<暗喩>っていうことなんですけれど、『マス・イメージ論』の中の「喩法論」っていうところで、「詩の言葉の産出自体が全体的な暗職であるということは何か? そこにおいて、<暗喩>されるものと<暗喩>するものとは、どうなっているか」っていう風に書かれていますが、それは、暗喩するものとされるものっていうふたつの関係というのが、崩壊してしまって、言葉自身が言葉を乗り越えたっていうような世界を、吉本さんはおっしゃってるのかなって感じたわけなんですが、その辺はどうなんでしょう。
 
吉本 隆明  その個所に例を掲げてあったとおもいますが、それにどうして気づいたかっていいますと、半世紀前の、暗喩もないし直喩もない、とにかく思いどおりのことを、ただ行分けにした素朴リアリズムの詩がありますね。その詩と、いまの若いラジカルな詩人が書いた詩を比べてみたときです。若いラジカルな詩人が暗喩なんかつかわずストレートに思いざま書き流しているような詩は、素朴リアリズムの詩とおなじにみえて、その実相は三六〇度ひっくり返っているんだと判った。とってもじゃないがそう考えないと理解できんぜェ、とおもえたからなんです。つまり、全体が暗喩に入っているって理解するのが本当だろうと考えた。じゃ、何がなにの全体的な暗喩なんだっていえば、それは”現在”だろうということです。”現在”とその詩人との問にね、いってみれば単語と単語との間の暗喩関係と同じものが、成り立っている。それだからストレートな表現になる。素朴リアリズムの詩から三六〇度ちゃんとでんぐり返ってるって理解すれば納得できたんです。その理解にもとづくとね、現在に対する作者の対し方や、大なり小なり現在の作品というものは、全体的にか部分的にか、とにかく”現在”っていうものと暗喩関係にあるっていう理解が成り立つわけで、それが「喩法論」の根底の考え方になってるんです。

 では、詩の言葉を産みだすことが、それ自体で全体的な暗喩だとすればどんなことなのか? またそこでは<暗喩されるもの>と<暗職するもの>とはどうなっているか? これが現在、詩の審級にとって最後の問いにあたっている。いままでこだわってきたところに答えはふくまれているかどうか。というのは、若い現代詩の喩法の特質を、もっぱらポップ詩や歌謡詩と地続書なところで扱ってきたが、げんみつにいえば、それが若い現代詩のすべてへの緒口だかどうか、これだけではきめられないからだ。ただ誰でも出口と入口さえあれば、全体を暗喩できるような「言葉」を探しもとめているところでは、詩が現在はじめて獲得しはじめた外部への言葉の滲出力を特徴として信ずるほかにない。    吉本隆明著『マス・イメージ論』「喩法論」より

編 集  その”現在”を暗喩するいろんな作品がありますが、吉本さんの場合で興味深いっていうのは、高橋源一郎さんとか、その他にどんな方がいますか、そういう意味合いの中で……。壊れるっていうことや、暗瞭っていうことの中で……。
 
吉本 隆明  高橋さんの作品っていうのは、壊れ方が”現在”の大きな暗喩のし方になっているとおもいますね。それはね、壊れ方が現在的だからというのか、作品としてわからない。これはもうネ、わかろうとすれば、しかたがないから壊れた破片だけを作品で、それが寄せ集まってるんだと見れば、かなりわかり易くなってくるんです。極端にいえば散文詩だとおもって読めばいい。高橋さんの 作品には、作者の自已主張っていうのはあんまりないとおもうんです。あるとすればポルノ性だけ。あとのところは全部壊れっぱなしで、その壊れ方が”現在”っていうものの暗喩になっている。高橋さんの命綱ってのは、サブ・カルチャーに繋がってるとおもうんです。ところが、逆な意味で、正統的な教養主義と、正統的な純文学主義に繋がっていて現在の壌れ方を暗喩してる作家もいるわけで、古井由吉さんとか小島信夫さんとか、大江さんとか、オーソドックスな命綱を掴んだ人たちが、高橋さんたちと同じ領域に並んでいる。これが現在の文学現象の中で大きな意味があるんでしょう。
 
安達 史人  あの、システム・カルチャーに対して、二つあり方があるっておっしゃってたと思うんですが、一つはシステムから自由に逃走したり融脱したりすることができる。それからもう一つはシステムの持っている未知性みたいなところに可能性があって、それを実現していけるんではないだろうか、っていうことでしたが、このことと対応して、<縮合>という概念は吉本さんの言葉をお借りすると、「ある未知のシステムを感受しているために産出される無意識の必然から、やさしさも言葉も言葉の産出もモチーフもすべてやって来た世界」っていう風に考えていいんでしょうか。そうだとすると、<解体>っていうのは、そういう無意識じゃなくて、意識的にそういうシステム・カルチャーから自分を解体するっていうことである、あるいは、逃走するっていうことだ、と、そういう風に受けとってよろしいんでしょうか。(※1)

 つまり世界の秩序や制度が、無智な大衆を啓蒙してやれとか、大衆向けにやさしく通俗化してやれというモチーフから生みだしたマス・イメージの世界ではなくて、ある未知のシステムを感受しているために産出きれる無意識の、必然的な孤独からやさしさも、言葉の産出も、モチーフも、すべてやってきた世界のようにおもえる。    吉本隆明著『マス・イメージ論』「縮合論」より

吉本 隆明  あの、それでいいんじゃないでしょうか。受け取り方が正確だとおもいます。へーゲル的語法でいってしまえば、現在の文化の中、あるいは文学や芸術現象の中で、縮合というのは、結果として現在が実現している、同一性の世界だっていえるとおもうんです。その縮合部分では、誰がやってもどうやっても、同じになってしまいます。でも解体のし方だけは差異があって、多方面に方向性が違うし、さまざまな形で表われてこざるを得ないんです。それは解体現象として現われざるを得ないっていう問題意識から、そういう言葉便いをしてるんです。
 オーソドックスにいえば、同一性と差異性の世界です……これはへーゲル論理学の用語ですけどね。唯物論の言葉でいえば、対立物の統一ってなります。その対立物=差異性の世界であり、あるいは解体の世界であって、統一ってところが同一性の世界だっていうことです。そういうオーソドックスな用語になってしまいます。もともと僕は化学(バケガク)屋だもんですから化学用語を便ってるんです。縮合なんていうの便利な言葉だからね。ドゥールーズとかも、網状組織みたいな言葉使ってますが、ありゃやっぱり元々は化学用語ですよ。
 
安達 史人  そうすると、ある個人の内部で意識としての解体と無意識としての縮合が振幅してるってことですか? たとえば村上春樹のばあいなど。
 
吉本 隆明  椎名誠と村上春樹の作品を比較しながらいってる意味は、もっと外側の部分でいってるんです。村上春樹の作品というのは、意識の働かせ方、形成のし方に縮合性、あるいは同一性の世界でもって追い詰めていこうとする見えざるモチーフがある。と同時に、そういう縮合しようとする自分のオーソドックスな作品意識とまったく逆に、壊してゆこうとする差異もやってるんです。その振幅がたとえば『羊をめぐる冒険』の中にはあります。椎名誠さんの方は、僕は一方的にしかないだろうとおもいます。椎名さんのばあいは、作品形成のモチーフは椎名さん自身が持ってるんではなく、無意識にできちゃってるといった方がいいんで、外在的にあるものなんです。これは作品のでき不でき、新しさ古さっていうことではなくね。オーソドックスなものが新しく振舞えば新しいかっていうと、そんなことはないので、極端にいえば古井由吉さんが、椎名誠みたいな作晶を、突然、明日から書いたとしますね、だからといって、サブ・カルチャーの新しい作品になるかっていったら、そうはいかないとおもいます。古井さんが「俺、サブ・カルチャーでいこう」っていってそれをやれば、自分の今までやってきた作品形成のし方を取りながら、その中で、自分で解体していく課題を実現していかなきゃなんないから、その課題の切実さは、今のカルチャーの世界では重要ですけども、外側からくる判断としては、けっして新しくないってことになりますよ。……できたって、それは見かけ上の新しさでね。村上さんの課題と椎名誠さんの課題とは違うんだけれども、僕みたいにカルチャーってこととサブ・カルチャーってことを両方同一性として踏まえようって考えるんならば、どちらに多くの課題があるかっていうと、両方にたいし意識的である村上さんの方が大きな課題があるという気がします。椎名さんの作品は純文学って今いわれるものからみても、いい作品の中に入ってくるとおもうんですが、ある部分がとても無意識にできちゃってる。そこがちょっと純文学からみた現在の課題と違う気がします。
 
安達 史人  さきほどのシステム・カルチャー(※1)に戻った質問になりますが、『羊をめぐる冒険』で、「この作者は椎名誠とは違って現在のシステムの無意識を揺さぶっているのだ」と書かれたとおもうんですが、その辺をもう少し……。
 
吉本 隆明  主人公は日常的な行為を色々やってますが、自分は何をしているのかっていう疑念なんかちっとも感じないんです。感じることは、またとても野暮なことであって、軽快に、感覚的に生活を取ってます。そういう日常性の世界を実現している。でもそれは現在のシステムっていうのに対する感受性なんですよ。そういう観点は主人公はないんですね。それに気づけば、主人公はたぶん、その軽快な、感覚のまにまにあるその日常生活のどっかに亀裂を、あるいは違和感を覚えざるを得ない。そうなって行くはずなんですよ。そこのところが、『羊をめぐる冒険』では、主人公はスーツと気づいていくんですね。耳のモデルの娘さんと、ベッドをいっしょにするところで、主人公が、娘さんに、「何故、俺みたいの、ちっとも魅カが無いじゃないか」みたいなことをいうと、「あんたは自分で気がついて無いのよ」みたいにいわれるところあるでしょう。今度はね、主人公側から耳のモデルに、耳のモデルが、自分はきれいじゃないから、顔とか姿のモデルになれないっておもってるんだろうけど、主人公が「そうじゃないんだ、あんたの方は、あんたの耳は誰が見てもはっとするような耳なんだ」っていうふうに言って、気づいてないものを象徴させるところがでてきますね。そこが現在の気づき方っていうものを、初めて作品のなかに描いている象徴のような気がします。
 
安達 史人  あのー、オーソドックスにやって来て正統である、あるいは純文学であるとずっといって来た側は解体していくし、片方はシステム.カルチャーの未知性みたいなものに同調するっていうか、縮合するっていうことになると、すべてがやっぱり解体の方向に、結局は向かってしまうわけではないんですか。
 
吉本 隆明  巨視的に”現在”というものを一個の作者として仮定すれば、それは全体としてそうだろうし、その方向に行っちゃうんじゃないでしょうか。サブ・カルチャーの方からは、システムを自覚する方向に凝縮していくものがいい作品になるでしょうし、純文学の方の作品でいえば、何らかの形の解体っていうことの問題を含んでいる作品がいいっていう風に言えるんじゃないでしょうか。一般論としてそういえるんじゃないでしょうか。だから、もし、古井さんとってきても、大江さんとってきても、それから、小島信夫さんとってきても、それぞれ個性的ですが、どっかに解体ということの課題は必ず含んでいます。純文学の優れた作家で、解体の課題っていうのをもってねえのは中上さんだけだとおもいますね。純文学的世界の伝統から影響を受けないまったく別のところに、物語の舞台を自分ではじめっから設定してますから。それで、解体って課題から、作品を遠ざけてます。つまり隔離してますよね。だから中上(健次)さんはちょっと現在でいえば特異な作家じゃないでしょうかね。
 
  < 中 略 >
 
吉本 隆明  とことんまで言っちゃえばね、知識っていうのは本質的に不可避だとおもうんですよ。不可避力としての知識っていうのは、高度化していく一方です。ですから具体的に言うと、中上健次だって柄谷行人だって浅田彰だっていいんです。どんどん頭ん中に高度な知識を獲得していって、それを表現する。こうしたことは、少数であろうとなんであろうと、ますます高度化する一方だと思う。だけども、知識の高度化は現在ではもはや知識の一般的な課題ではないということです。そういう意味で、知識の高度化っていうことは、だいたい悪の領域に入ってきたぞ、悪の影が見えてきたぞ、っていうふうに言いたかったわけです。不可避カとしての知識っていうのは、誰が止めようにも止めようがないとおもうんです。もしかすると、科学技術よりもっと止めようがない。ですからある少数の人たちが今よりもっと高度に知識を蓄積していくってことは、科学技術よりももっと不可避です。それを無くしちゃえよっといっている意味とは全然違うんです。ただ、大多数の課題たり得る、かっていうと、その課題としてはもうなくなるだろうっておもいます。少し緻密に言えばそういうことになります。
 
   (「大衆としての現在」語り:吉本隆明×聴き手:安達史人。北宋社:1984年11月刊 )