日付:2018年5月 

 演出ノオト  ~太田省吾さんの言葉の使い方~ (1) 

 

転形劇場の故太田省吾さん  

 

     引揚げ船の舷梯(タラップ) (1)
 
 われわれは、監視官の眼に健康であることを示さなければならなかった。
 わたしの家族は、六人で中国から引き揚げてきた。父母と、六歳のわたしを長男に三人の子供、そして父の叔母である。
 三歳の弟は、長いこと病気であった。だから、この港へ到達するまでの道をずっと背負われてきた。地平線が見えるような道を列になって歩く時も、荷物列車で運ばれる時も、ずっと背負われてきた。
 だが、三歳の子供が背負われていることは、この港では許されなかった。病人は、病人だけを運ぷ船に乗せられることになっていたのであり、病人船に乗ったら、家族と離ればなれになるというばかりではなく、おそらく生きて帰れぬだろうと予測された。弟は、健康を証すためには、歩いて児せなければならぬ年齢だった。
 これまで、ずっと親の背につかまってやってきた弟は、岸壁から船へ渡された長い舷梯を歩いて、しかも健康な歩みで渡らなければならなかった。
 弟が一人、遠く舷梯の下にいる。家族の者たちは、すでに舷梯を波り、船の上から遠い弟を見ている。だが、特別の気配を気どられてはならぬので、声を出すこともできなかった。わたしは、動こうともしない弟が歯がゆかった。
 弟は、やっとロープの手摺りにつかまりながら、上ってくる気配を見せた。すると、その顔の、足を運ぷことに必死になっている様子が大写しになって見えた。だめだ、そんな顔をしちゃ、と思うと、弟の顔は足を運ぷことよりも、健康さを示すために一心な表情となった。こんどは、だめだ、足を前へ出さなければ、と思った。
 弟が、やっと舷梯の半分ほどまで上ってきた。もっと早く、もっと、と思いながら、ふと気づくと、いつのまにか弟は、現在のわたしの息子になっていたのであった。わたしは、六歳の頃の体験を夢に見ていた。
 あの時、実際にはたぷん、わたしたちは六人かたまって、監視官の目からできるだけ弟を隠すようにして舷梯を渡ったのであり、弟が一人、これほど離れて渡ったわけではなかったのだろうが、記憶の中では相当に離れているのであり、したがって夢の中ではさらに遠ざかり、このような距離を示すのであった。そして、その弟が息子と、夢の中で重なった。
 息子は、なに気なさをとりつくろおうと、目をむいていた。だめだ、そんな顔はだめだ、と叫ぷように思った。
 弟は、当時黄色い毛皮を着ていたはずだったが、弟となった息子は、半袖を着て折れそうなほど細い腕を丸出しにしている。まずい、あんな腕は隠すべきだったのに、なぜ長袖を着せなかったのだ、と私は女房をなじるように見た。
 女房は、気のふれたように目も口も開いたまま、息子の方角をぼんやりと見ていた。
 夢は、救いのないまま中途で了えた。
 無事引揚げ、二年ほどして死んだ弟の、この舷梯でのいたいけな努力の様子は、母から三、四度聞かされているので、これはその話から構成された二次的な記憶の要素の濃いものかもしれない。とすれば、この夢は、その二次的記憶に、さらに夢による誇張が加わってあらわれたのである。
 最近、あの記憶は、歪曲しながらもこのようなかたちでやってきた。

 
 好き嫌いでいえば、太田省吾さんのこの文章がわたしは、好きだ。