
転形劇場の太田省吾さん
役 者 の 背 中
1
地下鉄を降りる大勢の人々に混じってひとりの男が歩いて行く。劇団の仲間のひとりである。わたしは、そういった場で見る彼らの背中を、時にある緊張した感触で見送ることがある。
大勢の人々の中をある人が混じって行くとき、その人はおそろしく露わな姿を見せることがあるものである。大勢の人々や街のたたずまいは、見る者の中で抽象され、いわば〈情況〉というようなものとなって彼の背景をつくるのであろうか、一種特別の様相を展げ、とりたてて彼の全体像を見たような気持にさせたり、だしぬけに彼の抱える原理的な問いを聞くような思いにさせたりする。いわばそこでの彼は〈情況の中の彼〉という像としてのようすを示す。映画で、よく人混みの中を歩く主人公を画面にするのもこれに似たものとして彼をとらえようと意図したものだろう。
〈情況の中の彼〉は、幸福な全体像を見せなかった。それどころか、ひどく不安な、どこか入口を探すような、そしてそういう自分を人に気づかれまいとする背中を見せた。〈彼は十年前に遡行している〉といった感想が浮かぶ。彼はおそらくあんな背中をして劇の戸口の前に立ったのだ、俳優に望みを抱いて、そう思われた。
劇の戸口は、追われてきた者がたどりつくところであるといえる。彼は彼の個体に抑圧を加えるものたちから追われるように、どのような経緯をたどってか、ここへやってくる。
現象を見れぼ、さまざまな者がいて、劇の戸口に立つ時、なにか目的意識、社会的意義といったようなものをもって胸を脹らませている者もいるが、それはただ単に悪質な観念をどこかで吹き込まれたからであって、己の行為をすなおに意識した結果であるとはいえない。悪質な観念は常にそうだが、不健全さを治癒しにかかる。劇は自由な人間の創造する肯定性に満ちたものとされる。現実社会において自由な者、健全にくらすことのできる者がどうして劇を欲し劇へ足を運ばなければならないのか。
劇はまずはじめに人間の不健全がたどる方法である。劇を行なうにふさわしい者はおそらくこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちである。そして、そのうちの幾人かが劇を行なうにいたるだけである。
わたしは〈情況の中の彼〉の背中の不安定さ、十年のあいだ少しもかわらず、否、ますます強固になってい行く不健全さを不幸なことだと思いながらも、親愛を込めて眺める。彼の背中を見送った数秒後、わたしの乗った電車がふたたび動き出した。車内の宣伝広告を見ながら、ふと思い出したことばがあった。
無能力な人間も生きてよいか、と問われて、この単純な人間の眼が文学に向けられるのは、ごく自然だと思う。何故なら、これを問いこれに答える声を聴くために、人はそれ以外のどこへ行げばいいのか。多数の人間に共通して切実な、或いは、人間の一面にとって本質的な、そういう問題を考えるものには文学しかない、それが現状である。 ★ 秋山駿『小説に何を求めるか』
〈無能力な人間も生きてよいか〉という問いがはじめの問いかどうかということについては、わたしには違和感がある。しかし、〈これを問いこれに答える声を聴くために、人はそれ以外のどこへ行げばいいのか〉という考えについては親しい肌ざわりを感ずる。それは、総体としてこのような考え方に出会うことが少ないからであるし、文学がある人間にとって切実な必要として問われているからである。わたしも、劇を一個の純粋な制作物とは考えていない。いや、身体を基点として考えねばならず、その身体は、それをもつ主体者にとってついに対象とはなり得ぬという一事のために、劇行為はこの点についてより明確に意識される在り方をもっているはずである。劇とは、殊にそれを行なう者にとって制作物ではなく、そういうものとして眺めることのできない行為である。
日々を生きる上での欲求と接続した地点を問わぬものであるなら劇はなにものでもなくなる、そういう行為として劇はあるのだ。わたしにとっての劇は、そのような地点を開示する方法である。生きたものとしての、行為としての方法である。
こういった、いわば当然といえる問い方考え方も、しかし一つの立場を形成するらしい。なぜなら、舞台を見、劇について書かれたものを見ていくと、そのほとんどは依然としていわゆる美学的用語、批評用語によって語られ、こういった問い方や、あの一人の俳優の背中をさえ登場させずにいるからだ。わたしの提出しようとしている問いを、劇以前の、劇論以前の問題だなどと軽々しく考えるべきではない。劇以前も劇以後もあるものか。真にこの身に宿る欲求を方法としてもたずに、手なぐさみの論理や展望をもてあそぶところに劇は起こりえない。もう一度くりかえすが、劇を行たうにふさわしい者はこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちだけである。
ここで、劇の美学的用語による劇理解がどのようなものであるか、もっとも最近目にしたもののなかから例をあげておきたい。これを論じている人の名は『構造主義』『情報社会と人間の解放』などという本の著者として見かけたことがあるので、きっと劇に関心をもつ思想研究者といった人なのであろうが、ここで例としてあげるになんの支障もないと思われる。
俳優個人において、精神と肉体との分裂が終わり、彼が一箇の演技者となるとき、そして演劇そのもののなかで、書かれたものと、その上演との二元論的分裂が終わり、演劇的空間における舞台と客席との二分法が廃絶され、演技者と観客との対等のコミュニケーシヨソが回復するとき、そのとき演劇はふたたびパフォーマンという、不変的構造といきいきした即興的創造の源泉を回復し、ひとつの全体性のなかでその本来の人間的な力をとりもどすにちがいない。そのとき、演劇はみずからの内側から演劇であることを超え、マルクスのいう真正な憶味での社会的ブラクシス(実践)としてひとびとの肉体と魂をとらえるにちがいない。われわれはいま、そのような演劇的文化革命の入口にたっているのである。 ★ 北沢方邦『演劇的文化革命のために……構造的演劇論序説』
黙っていようと思っていてもついつい腹がたってくる。演劇的文化革命の入口に立っているなら入るがいい。この種の展望が何物も生み出したためしもないが、まず、その勇気があるかどうかだけでも見てみたい。〈勇気のいらない理想や展望というものは玩具であり、何物も生み出さないし、しかもその多くがにせものである〉というふうにいったのはたしかチャールズ・チャップリソだった。しかし、それにしても、なぜこういったことをいいたがる人間がこの文化の中には存在するのだろう。
2
不健全さへ傾斜するわたしの考えは、たんなるわたしの性向であって劇の在り方とは何のかかわりもないものなのかと疑わずにいられない場面に幾度か出くわしたことがある。わたしがはじめて劇団という場にかかわった時、そこではわたしの予想したメソバーと相当ちがう人々が実際の劇団の動きをおさえていた。そこでは広末保の『新版四谷怪談』が台本に択ばれ、やがて稽古に入ろうとしていた。台本をもらって早速読んでみたが、その『四谷怪談』の現代的解釈が鼻についておもしろくなかった。そこで、どうもおもしろくないのですが、といってみた。なにがおもしろくないのかと聞きかえされたので、このような批評性はおそらく劇とは関係のないものではないか、いっそのこと原作を台本にする方が良策ではないか、といったようたことをしゃべった。その時〈パロディのアクチュアリティ〉などということばで上演の意味を説明されたように憶えているが、それは当時『新日本文学』あたりでさかんにいわれていたことばだったので、ああ、これは困ったところへ入ってしまったと思った。こういうことばづかいをする人たちとわたしの構造はどうしてもかみ合わないことを知っていたからだ。
数日して、作者がやってきていろいろなことを話した。その中心は〈かぶく精神〉とか、〈河原者の精神の復活〉とかいったようなことで、なるほどと思って聞いていたが、内心おまえはその覚悟があるかと問われたらどうしようなどと考えていた。そして、同時に考えていたのは、しかしどうもこの論理にはおかしなところがありはしないか、少なくとも何か違和感があるたということだった。話の勢いでか、〈芝居にかかわる者は河原者にならなげれば本当ではない〉などと話すので、それならこのひとは大学をやめて〈河原者〉になるのだなと思っていたら、それはまた別のことらしく、やめるようなことはなかった。そしてそういうことはあたりまえのことらしく、問題にならなかったが、しかし、わたしにとって、そういうことはおかしなことであった。
稽古をずっと見ていて、わたしは毎日苛々していた。これでは外と同じだ、現実社会にしこらされるものと同じ抑圧をなぜここでも感じなげればならないのか。もちろんここも現実社会であるが、そうだとしても〈文化的な場〉であるぶんここでの抑圧感は深かった。
ここでは、思想とはなにか特別のことばで語るものであって、いちいちの演技や劇への態度そのもののことではなかった。それはそれ、これはこれ。もちろん、これがここでの思想であると考えるべきであるが、そこで毎日をすごすのはかなりつらいことであった。
わたしがそこでさまざまなことに出会って、学んだことがあるとすれば、劇を劇の存在の仕方に沿ってすすめていくことは自然にまかせていては果たせぬもの、つまりそれは、一つの方法として考えなければならない、現実、劇はそのようには進行していないのだということであり、もうひとつは文化の症状の汚染状態を測定することができたことである。
3
ここにひとりの男がいる。
彼がもし劇、とりわけ演技に願望をもち、そこへ足を踏みこむとすれば、それはどのような内実をもっているのか。なぜ劇行為がある人間にとって必要とされるのか。美学的用語、あるいは批評的用語には登場しないが、劇を劇と結びつけ、劇と人間の生、その切実な約束と結びっける用語を構成しようとするうえでは、この問いがまずはじめに必要である。
なぜ劇行為がある人間にとって必要とされるのか。
彼の棲むこの世界は、どうやら多様で厖大な抑圧の手をひろげている。抑圧は現実生活において具体的、個的体験を通して肉体をきしませるものである。それはたとえば何なのだ、と自問し、それはこれこれであると名指すと、そんなものかという思いとともにぬるりと感覚の指間から漏れこぼれてしまったりするが、しかし依然として、たしかにこの身を圧えるものであり、それどころかほとんどあらゆる物事について、毎時しこりとして身に宿っていくもののことである。ここで感ずる抑圧感は、彼の存在の仕方、行動、意識にわたり、いやそれをこえるひろがりをもっている。おかしなことのようだが、己の自覚的な感覚では感知しがたいところまでも深くからみついているのである。
それをたくみに解消する術を知らず、無視することもできず、それゆえそれへのわだかまりを固くしてゆく彼が、この個的で具体的な体験を通して胸に宿す欲求と劇とが、どのような経路をとってか接することになる。
文学をやっても絵をやってもよかったのかもしれない。しかし彼は劇へやってきた。それはあくまで個的な、偶然的な経路なのであろうか。
もし劇への、演技への必然的経路とよべるものがあるなら、それは彼の抑圧の感受の仕方が文学へ向かう者よりも絵画へ向かう者よりも、より身体的、現実的であったことを意味Lていると考えられる。彼は抑圧感の最深部から、その実在をもって抑圧感のいちぶしじゅうを開こうとしたのだ。この実在をもって、身体をもってというところにあるにちがいない。この生きた身に感じた抑圧は、この生きた身をもって開き、放出しようとしたのである。さきの秋山のことばをつぎのようにいいかえることができる。多数の人間に共通して切実な、あるいは、人間の一面にとって本質的な、そういう問題を、考えるものは、というより行為するものは劇しかない、それが現状である。
ある男が劇へいたる過程のありさまを、劇の存在の仕方に沿って不十分ながら追ってみた。俺の実感とはちがうといわれるかもしれない。実感をもちだされても考えの枠がちがうのだからしかたがない。また劇は、演技はもっと解放的欲求に根ざしたものであるといわれるかもしれない。そのとおりだ、抑圧がなければ解放はあり得ぬのだから。奴を見てみろ、奴はもっと単純に劇へ入っている……そのとおりだ。しかし、おまえは奴の無意識的な、潜在的な世界を覗いたことがあるのか。
ひとりの男、あるいはひとりの女が劇へやってきたなら、その行為はこのような内実をもっていると考えるべきである。あるいはこのようなあり方においてしか彼らは行為していないのだ。こう見ると、彼もしくは彼女の劇への経路を大きな誤りを犯さずに見ることができ、その彼、彼女に向かって、〈現代を表現できる俳優たれ〉などという悪質な助言をせずにすむ。助言をするとすれば、彼の行為がより彼の行為に近づくように、あたうるかぎり劇へ踏みこんだ自分にこだわれということにつきる。そこに現代がないなら、情況がないなら、劇において現代も情況もないのだ。それでも、もし〈俺はむしろ脱出を欲しているんだ〉といったなら、若干感傷的にこういってやったらいいだろう。
お前は自分を狭苦しく感じている。お前は脱出を夢みている。それもいいだろう、だが、蜃気楼に気を付けるがよい。脱出しするというのなら、走るな、逃げるな、むしろお前に与えられたこの狭小な土地を掘れ。お前は一切をそこに見出すだろう。虚栄は走る。愛は掘る。たとえお前がお前自身の外に逃け出してもお前の牢獄はお前について走るだろう。だがもし、お前がお前の中に留まって、お前自身を掘り下けるならば、お前の牢獄は天国へ突き抜けるだろう。
★ (ギュスターヴ・ディボンーー越智保夫著『好色と花』からの再引用)
4
ここまで、わたしは俳優をいわば背中から追った。彼はそろそろ振り向いて、いよいよ本来の行為へ、演技へ向かわなければならない。
ところで、彼は振り返って、他者を前にして演技のあてがあるのだろうか。というのは、彼はこれまではただ個的な体験から個的な経路を経て劇へやってきただけである。ここにはもひとつなにかがなければ、他人を前にして二進も三進もいかぬのではないか。彼には他者とのあいだに了解のめどがたっていないように思われる。しかし、これは観念的な問いであることが、実際の演技の場ではすぐにわかる。
振り返ろう、振り向こうと決心したなら、そこから楽になるなにごとかがある。彼は予想していたよりもうまくやってのけるのだ。
さっき、彼を演技へ向かわせる必然というもががあるのを見た、彼の抑圧の感受の仕方、そしてその放出の仕方が身体的であったからという。この身体的であるという特徴は、肉体的な領域の特徴としてだけあるのではむろんなく、彼が振り返ったときに心的にある特徴を生み出すのである。
これまでの彼の背中は、孤独な、それゆえ自己が肥大した、いわば自分の他はなにも存在しない暗く狭い部屋に閉じこもっている姿であった。しかし、彼が振り返る。身体を表面化する。彼は身体になる。このごく小さな動作が、彼を狭い部屋から荒野に立たせるのだ。それが太陽の輝く荒野か、寒風の吹きすさぶ荒野か、性向によってその印象は異なるだろう。しかし、彼は荒野に立って、己が太陽にとっての一個の石、寒風にとっての一本の樹でしかないことを眼前に見る。他者にとって、私はある遺伝子をもって生まれた一個の人間でしかなかったのである。
この変わり目、身体を他者の前に立てること、このことがあらわしてくる様相を退行とよんでみる。何が退行するのか。〈私〉が退行する、否、〈私〉の自他峻別性が退行する。そして相対的に、といっていいのだろうか、自他共同的側面が浮上することになる。この生きた身に感じた抑圧はこの生きた身をもって開き、放出しようという彼の欲求が刻々この〈退行〉を醸成していたのだろうが、最後のひと突きはこの身体がもたらす変わり目の劇にある。ここで、われわれは個的でありながら、他者との理解についてあるあてをもつことができるのである。
そして、この自他峻別性の退行、自他共向性の浮上はこののち彼が行為する世界の基本的な性格であり、彼はこの世界に生きることになる。この劇的世界は、だから大脳の新皮質よりも旧皮質が優位をしめる世界であるように思われる。
この様相は、彼の演技への必然性にかかせなかった身体が、已の姿をいまここにあらわしたのであると考えるべきであって、〈私〉の自他峻別性に制限を加えてそうなったわけでも共同性を肥大させたからというわけでもない。
たとえば、劇を個的なものであり、全き〈私〉の自他峻別性を追求するものであるといった考えがある。これは、劇にとって誤りであるよりはありえないといってよい考えである。ありうるとすれば、そこには了解不能を観念的に意図した操作があるだけである。また逆に、共同的側面を肥大させ、全き対他性を追うという考えは、劇にとって誤りであるというよりは自已の行為にとって、そしてく〈他〉である観客にとって真の軽蔑である。〈おれはもっとやりたいことがあるよ、しかし劇は客のものだからねえ〉という奴である。それはそれで放っておけばよいが、その場合〈自己〉などということばは断じて用いるべきではないし、のぞかせるべきでもない。自己はそんな口から吐かれるものではない。劇へ演技へかりたてる自已はもっと深い、自己にとってもなぞをふくんだものであり、限度や境界線を設定して考え得るものではない。
5
背中を向けていた時の彼の胸の中のありさまから見ると、身体を表面化したときの劇、彼の自他峻別性が〈退行〉したかに見えるこの身体を主役とする劇はどういう意味をもつのだろうか。それはなにも彼にだけ特徴的にあらわれることではなく、ただ人間のそもそもの姿なのである、とコードウェルはいう。
人間は昔ながらの本能と原始的生活の轍を歩む巨大な無意識の塊りである。意識などはその頂きにときどきまたたく燐光にすぎない。そして、この意識のほのかな光のカを強めようと人間は努力してきた。そのため、芸術家は感情をより繊細化し、強烈化し、科学者は思考の形式をより充実化し、現実に即したものにしようと力めてきた。そして、そのどちらの努力も、より一層人間存在の実質を、かすかな意識の焔の中にもやすことによって行われるのである。
★ (C・コードゥェル『没落の文化』増田義郎、平野敬一訳)
とすればあの狭い部屋から出た荒野とは、こういう場だったのだろうか。彼が劇へ向かう経路にだけ起こる劇とはおえない、ただ当然そうである人間の存在様態なのか。そうだ、彼が振り返ったとき直面したのは他者であるというよりは、自分の、人間の存在様態であったのだ。
劇などという特殊な行為に人間の存在様態と結びつく本来的な根拠があるとすればそれはここにあるのだ。
ある詩人は、マルティン・ハィデヅガーを引用しながら、詩を書いて生きることの本来的な理内についてこういっている。
現存在が詩人的であるとは、いさおしではなく賜物だ、という言葉や詩は歴史を担う根拠だ。という言葉はわたしの気に入る。これをやさしく翻訳すれば、現存する杜会に、詩人として、いいかえれば言うべきほんとうのことをもって生きるということは、本質的にいえば個々の詩人の恣意ではなく、人間の杜会における存在の仕方の本質に由来するものだ、ということになる。これを、わたしのかんがえにひきよせていいかえれば、わたしたちが現実杜会で、口に出せば全世界が凍ってしまうだろうほんとうのことを持つ根拠は、人間の歴史とともに根ぶかい理由をもつものだ、ということに帰する。
★ (吉本隆明『詩とはなにか』)
右の引用をくりかえすことになるが、ここでわたしたちはこういえるのではないだろうか。抑圧をうけた欲求を放出して生きる場を現実の時空にこの身をもって立っことは、われわれの存在の仕方の本質に由来しているのだと。そして、さっき振り返った彼にもたらされた変わり目の劇は、彼のまったき個人的事情と見えたものが、実は杜会における人間の歴史とともに根深い理由をもつものとしてあるのだということを身体的にたしかめた場面だったと考えることができるのではないだろうか。振り返ったあとの彼なら、おそらくこのことを了解することができるだろう。
特殊な個人による特殊な行為と思われるく〈神憑き〉も、実はもっとも深い共同性によって支えられていることをわかりやすく説則するエピソードが、柳田国男によって伝えられている。
平生はそっけない物言いをして、人の前ではろくに目も見合わさぬ兄や夫が、実はひそかに家の女性の言行に対して、深い注意を払っていたのであったことが、こんな異常な場合になるとすぐに露顕する。通例まさに霊の力を現わさんとする女は、四五日も前から食事が少くなる。目の光が鋭くなる。何かというと納戸に入って出てこぬ時が多くなり、それからぽつぽつと妙なことを言い出すのである。不断からやや陰欝な、突き詰めて物を考えるたちの女ならば、おりおりは家族の者の早まった懸念のために、いくぶんこの状態を促進することもないとはいわれぬ。そうでなくても産の前後とか、その他身体の調子の変わり目に、この現象の起りがちであるのを、やはり新しい医学の理論などに頓着なく、全然別様の神秘なる意義を彼らは付与したのである。だから世間はももちろんこの類の風説に決して冷淡ではなかったのだが、しかし第一次の固い信徒は、いかなる場合にも必ず家族中の男子であったというよりも神憑きを信じえない家には、神憑きの発生することは決してなかった。
★ (柳田国男『妹のカ』)
神の憑きやすい女とは、〈不断からやや陰欝な、突き詰めて物を考えるたちの女〉、つまり、くったくある女であるとされているが、わたしのこれまでの文脈でいえぼ、抑圧の感受に富んだ女と言いかえていい。そして、それを解消する術を知らず、といって無視しとおすこともできず、それゆえわだかまりをもつ女、その抑圧はなんなんだと自分でも判然とせず、それゆえ陰欝さをもつ女。彼女が、そういったわだかまりを放出するには、特殊な場、〈憑き〉ということがあるのだという共同的認識、そして憑いてもいいのだという共同的心情の場が必要である。そして、彼女はこの場合〈納戸〉という籠り場に入る。籠り場とは、まず共同的認識、共同的心情のつくりあげる物理的な約束の場であり、つぎに神経を集中するに適した必要の場であると考えられる。そして、この彼女の行為のようすは、なんと俳優の集中 → 放出過程に似た様相を示しているだろう。〈四五日も前から食事が少くなる。目の光が鋭くなる。何かというと納戸へ入って出てこぬ時が多くなり……〉と。
さて、このエピソードで注目しなければならないのは、つぎの個所である。〈神憑きを信じえない家には神憑きの発生することは決してなかった〉。彼女は、あてのないところ、共同的認識も共同的心清もないところでは憑くわけにはいかなかったのである。彼女の神憑きは、このように個的ではあっても、他から切り離された自他峻別性によって行なわれるというわけにはいかなかったのである。
では、彼女に憑いてもよいとか憑くということがあるのだとする男たちの思いはどんなものなのか。彼らはこのエピソードによれば、憑きを許しているというよりは待っていると察することさえできそうである。彼女は〈家族の者の早まった懸念のために、いくぶんこの状態を促進することもないとはいわれぬ〉。男たちは彼女の憑きを促進させるほどに期待していたのだ。彼女の憑きのあては、男たち=抑圧をうけた自己を放出する場をもつことが男にはふさわしくないというかたちで禁じられている者たち、の期待であったのだ。
ここでは、この期待が女の憑きによって達せられたならある充足感といった感じをもつことができる。しかし、この期待は自分の破綻をくいとめるために必要なねがいといったものであると考えることもできる。
通常のくらしは平穏を欲するし、平穏を必要とする。しかし、平穏にくらすということは考えてみるとやさしいことではない。〈平生はそっけない物言い〉をしている男たちが実は〈ひそかに家の女性の言行に深い注意を払っている〉。男たちのこういった態度は抑圧というよりもうすこし切実なものと見ることができる。平穏を破る契機は、平穏を要誇され強制されている男たちのうちにも口をあけているのだ。ここではむしろ彼らは、ある限度をもった破綻である妹の神憑きをねがっているのだ。それによって彼自身のうえに訪れる破綻をくいとめるべく彼女に代行させている。
とすれば、ここでは憑いた神がなにをいうのかというよりは、いわぼ神憑き女が男たちの欲求の放出を代行しているという行為そのものが重要なのである。彼女は、自身その行為によってある充足をあじわうことができるのだが、そのあてはこのような内容をもっていると考えることができる。これを、劇が、演技がこの情況におかれた人間にとって必然となるものであるといいかてもよいように思われる。これが、俳優の背中のもつ意味であると。
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劇の歴史を見ると、その多くの例で劇が女によってではなく、男によって演じられてきたということに気づく。この事実はなにを意味しているのか。さきの男たちのだれかが、妹の代行ではおさまらなくなったのだと考えることができる。現実では果たす場をもたぬから、もひとつの納戸を必要としたのだ、だから女よりも数等劇に熱心だったのだと。とにかくそういった、ある男たちにとっての生きる方法だったにちがいない。殊にわが国においては著しいが、女を演ずることにあれほどの精力が傾けられていることは、ここから考えてよいことである。それは、いわば自分が神憑きの妹になることではなかったのだろうか。芸の対象としての女というより、それは男によって考えられた、女性態としての女、自己を託しうる態、自己の彼岸へ行きうる者、自已を放出することのできる者のことであった。ここから生み出される演技が空間的(ものまね)であるよりは、時間的(歌舞)に傾斜したことも、彼らにとっての関心が、女という対象にあったというよりは自分にあったからであろう。彼らは、女という疎外態を通して自已であろうとしたのだ。
地下鉄の駅で見送った、ある役者の背中を見てわたしが感じたことは、われわれにとって、自已とはずいぶんな距離にあるということであり、たったそれだけのことであったのだ。そして、たったそれだけのことが理解できればそれでよいことであったのである。
★ ※『新劇』昭和四十九年四月号。原題:劇の方法について。
太田省吾(おおた・しょうご)劇作家、演出家。1939年、中国済南市生。学習院大学政経学部中退。高校時代に書いた戯曲が大学のサークルで上演され、芝居に関るきっかけとなった。1968年、劇団「転形劇場」を創設、70年から主宰。同年、その上演台本として書いた「乗合自動車の上の九つの情景」が処女戯曲。1977年、能楽堂にて初演された「小町風伝」で、78年、第22回岸田戯曲賞受賞。劇団は1984年に第19回紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞。1988年解散。湘南台文化センター市民シアター(神奈川県藤沢市)の初代芸術監督、京都造形芸術大学芸術学部映像・舞台芸術学科教授、日本劇作家協会理事なども務めた。代表作に「水の駅」、「↑(やじるし)」など。 海外公演、共同プロジェクトなども盛んに行ない、また『飛翔と懸垂』(1975年)他、演劇論集も上梓。2007年、67歳で逝去。
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書かれるべきことが確かにじぶんの心のなかに存在し、その内容に強い確信をもち、かつ若い力が漲っているとき書かれた文章で、その文章は、故太田省吾さんの第一演劇評論集「飛翔と懸垂」のなかに「役者の背中(原題:劇の方法について)」という名で収められていた。わたしは20代の半ばから30代の中頃にかけて、彼の文章すべてとはいえないが、ほとんどの文章を何度も読み返し、頁、頁の余白にわたしの感想や疑問を書き込んでいる。
身体を他者の前に立てること、このことがあらわしてくる様相を退行とよんでみる。何が退行するのか。〈私〉が退行する、否、〈私〉の自他峻別性が退行する。そして相対的に、といっていいのだろうか、自他共同的側面が浮上することになる。「役者の背中」
彼の演劇評論のなかの要に相当する文章の意味を、正直にいって若いわたしには難解で、うまくとらえることができていなかった。むしろそれは逆だろう。《自他共同的側面が退行し、自他峻別性が浮上するものだろう》、と思っていた。
『飛翔と懸垂(1975年:而立書房刊)』、『裸形の劇場(1980年:而立書房刊)』のこの二冊の特異な演劇評論を時間をかけ再読し、メモをとり、太田さん粘り着くような特異の文章の根拠を探るように目つきで読み、その文章の意味がようやく朧気ながらわかってきたとき、わたしはあらためて、太田さんの演劇評論の要のメインフレームが、驚くほどとても長い射程をもっていることが少しずつわかってきた。
いま、太田さんの評論集を30年ぶりに思い出したように読み返してみた。太田さんは亡くなってしまったが、まだどこかに生きているような感じがしてならない。評論集の頁には、至る所にわたしの書き込みメモが余白に残されていて、彼の論理に対する対する疑問や賛同のメモが書き込まれていた。
彼の文章は、可能な範囲で、社会に氾濫する言葉(用語)の使用を避け、じぶんの心の傾斜の度合いに応じ生活の場面で、公的な言葉に異和を投げかけ、じぶんの心の奥底へ至る長い穴を掘り、彼独自の特有な曲がりくねざるを得なかった文体を作り出してきたのだ思う。
ここに挙げた「役者の背中(『飛翔と懸垂』所収)」という文章は、後に「自然と工作---現在的な断章(『裸形の劇場』:所収)」で結実する太田さんの劇理論の総論に至るまでの過程で編まれた力作で、わたしはこの文章を何度も読みかえした。文章の所々に彼特有のわたしには手の届かぬところもあるが、わたしにはとても黒く重い手触り感のある具体的な感じがした。
太田さんの演劇評論から約40年ほどの時間が経過してしまった。わたしたち読者の課題は、その40年後の、わたしたちの芝居が社会の現在からどのように怒濤のような変容を被ってきたのか、それを語るべき時間がきているように思う。
いま、わたしたちの世代は、太田さんの演劇論集からずいぶんと遠く離れてしまった淋しい場所に来てしまったような気がしている。(菅間)
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