日付:2017年10月 

 言葉が現実をひっ掻けなくなった?~ 「マス・イメージ論 詩語論」

蕎麦

京成線「新三河島」駅近くの、象さんのすべり台のある公園の夕景  

 
   詩 語 論
 
 
 じしんの詩的な体験から云ってみれば<現在>が現在にはいるにつれ、いつの間にかいままでの詩法にひっかかる現実がどこにも見あたらない。そういう思いにたどりついた。それでもじぶんの詩法に固執すると、どうも虚偽、自己欺臓の意識がつきまとう。じぶんの詩法でひっ掻ける世界が、実際どこにもなくなったのに、無理にひっ掻く所作の姿勢をつくることに、空虚さをおぼえてくる。これはじぶんの詩そのものが、現実から浮かされてしまったことなのだ。わたしは卻いて詩を固有の内的な窪地の営為にきりかえるか、あらたな詩の姿勢を模索するほかない。これはかなりかた苦しい考え方である。わたしはわたしを抜け出すこともできるし、べつの通路に出現することもできるはずだ。おまけにこの詩的な行き詰りは、ぜんぶ現実のせいにするわけにいかない。わたし自身が詩的な理念とモチーフを持ちこたえられなくなったにすぎないのかもしれぬ。ほんとはここのところで詩的な営為は中止さるべきなのだ。詩的な体験、詩語の現在との背離ということは、それ自体大切なテーマでありうる。その折にどう振舞うかも重要なテーマになりうる。言葉が世界からやってきて、それをどう受けとめ、どう振舞うかにほ、いわぱ不可避の契機ともいうべきものか加担しているはずなのだ。個々の存在がどうなるのかとおなじように、言葉はいったいどうなるのか。それを定めるものが主体にかかわらない側面が、確実にあるとおもえる。じぶんの体験だけをいえば、こういうとき、姿勢をつくることの空虚さというモチーフは、しつっこく固執されたほうがいいのだ。いままでの姿勢を固執するのではなく、その姿勢の空虚さに固執するということだ。
 
 この詩的な体験の空虚さはどこからくるのか? じぶん自身からか、それとも世界からか? それとも詩の言葉にやってくる世界を、じしんが誤解しているところからか? もうひとつある。詩語自体が空しい振舞い方をするからか? 内省的には最後の二つの問いがひとまず不毛さの回避につながる。そうといえないまでも空虚や不毛に詩的に固執することへの根拠をしめしてくれるようにおもえる。
 
 わたしたちが言葉の世界というとき、この世界という概念にはひとつの全体性といっしょに完備性、それだけで閉じた存在の概念が含まれている。言葉の世界などという世界はありうるのか。そのなかに領土もあれば国境や工場も商店を含む街路もあるというように存在しうるか。そしてその世界は、事実の世界とはまったく別個にあり、事実の世界との対応や類推やコピイを使わずに、独立した輪郭や意味慨念を産出できるのか。それができれば事実の世界を喪った詩的な体験は、まったく別次元の言葉の世界へ転入することができるはずだ。またじしんの体験にそっていえば、ひとつの時期、このありえないかもしれないテーマは、わたしにとっては大まじめに重要なものになった。
 
 言葉の世界が完備された世界として存在するかという問いは、それだけでは無意味にちかい。ただ言葉が完壁な世界として存在できる必須な条件は、すぐに指定できそうにおもえる。言葉を、それが指示しそうな実在物や事実から、たえず遠ざかるように行使すること。またおなじことだが言葉の秩序が事実の世界の意味の流れをつくりそうになったら、たえずその流れに逆らいつづけることである。低抗物を言葉でつくりあげて意味の流れを堰きとめ、それでも溢れでてくればその流れをまた言葉の低抗物で堰きとめる。そんな過程をどこまでも繰返しつづけることだ。
 
 何のためそんなことをしなくてはいけないのか? 詩的な体験が事実の世界をひっ掻けなくなったから、言葉の世界へ逃亡してきたのだ、そして逃亡してきた場所だから、できるだけ完壁な世界だということが望ましいだけだ。そういえばいちおうの答えにはなる。そしてこの答えにはひとつの現実的な条件が加担しているようにおもえる。
 
 現在わたしたちが<世界>という言葉を発することで喚び起こされるイメージと、事実の世界をくまなく体験し歩いて認知した<世界>の姿とは、あたうかぎり同等なものに近づいてきている。その根底には言葉や映像の伝播の規模と速度が、ほとんど瞬時に世界の全体性をつなぐという日常的な体験が横たわっている。そこではもはや世界という言葉は、世界という事実と等価でありうるのではないか。わたしが詩的な体験の力で、事実の世界から言葉だけで閉じられた世界へ移っても、これだけの条件かあれば同等なのだ。だがこれは、言葉の世界の完結性をたんに現在の時代的な構造に還元しただけの根拠だ。わたし自身のつまらぬ詩的な体験をたすけてはくれるかもしれぬが、一見するとたしからしくみえるだけだ。もっと悪いいい方をするとわたしの詩的な逃亡をたすげている消極的な理由づけにすぎないかもしれぬ。
 
 わたしたちの周辺にも、本来的な意味で、言葉の世界以外に世界は存在するはずがないという認知を固執して、なかなか難かしい詩的な営為をつづけている詩人はいる。それらの詩人たちには、外在的な根拠づけははじめから意味をなさないだろう。言葉は世界からくるものだから言葉の世界いがいに世界はありえない。そういうよりも言葉となる世界によって人間は世界になる。
 
 この世界は詩的な体験にやってくるかぎり、内在的でもなければ外在的でもない。また条件的ですらない。言葉が存在しうるときにだけ存在しうる人間とだけ共存する世界なのだ。わたしたちは以前にはこの世界の存在を、現在ほどに徹底的には認知できなかった。そこでは言葉は事実の世界から産みだされて事実の世界にかえるものとみなして大過なかった。いまでもそうにはちかいない。ただげんみつにいうと事実の世界に流れている<意味>に抗うときにだけ存在を垣問見せる世界があって、その世界はもしかすると言葉を不在という本質から統御しているかもしれない。そういう世界が、すっかり視えるようになってきたのだ。その世界はうれしそうな表情をつくる器官をもってないが、いったん捉えた詩人たちをた易く手ばなすとはおもえない。
 
 
     しなやかな涸渇を
     深く植える指の
     秘に呼び招く地下茎を鳥々は砕いている。
     いっしんな風が刷る
     壁画の遠くから
     はしごをのぼりつめてくる沼がある。
 
     おまえは沼の、その緻密の斜光のように
     被罪者。
     耀かしい、罪の生誕と
     乱雑な処刑に耐える森を読もうとも
     苦く採り集めた、紙片の部屋は
     襲われるのである。
 
 
 
     母を脱ぐ。
     わたくしのような虫たちの
     出逢う。
     ひらかれてここに、
     壁から沼へ
     わたくしの追っている
     骨の道程、くもる
     天啓の
     斜傾、飢餓は
     図のような間接項わたくしを
     散らして、かわく。
     (あるいはひとこと
     わたくしの飢餓は渇げといえば渇くその
     表記の、訓のこだわり)
       (『稲川方人詩集』より「しなやかな涸渇を」「母を脱ぐ」)
 
 
 わたしたちは現在、こういった詩的な営為を、往古の呪詞や諺とおなじものみたいに読むことができる。往古では呪詞や諺をのべたり、また解読したりできるものが、言葉のとびかうこの世界を司るものだった。まを言葉は神からでて人間にいたる直列した秩序をもっていたから、人びとは意味の流れをたどれなくとも、それをよく理解した。その理解の形式はいわば個を超えて溢れる部分での理解であった。言葉の秩序、そこにあたえられた詩的な組成がどうかを理解したというよりも、無意識を産みだしている言葉の部分が共有された。こういう詩にたいするわたしたちの理解の場所も、往古の人びとの場所とさして変らない。わたしたちは世界の分離が実現されるのを、こういう詩に読んでいる。
 
 こういう詩は、通常の意味がつくられ流れてゆくのを、つぎつぎにさまたげるように言葉がおかれている。しかも繰りだされてくる言葉は、その<語音><象形性><概念>などについてとくべつに思いいれが刻みこまれている。はじめの詩章ではかすかに、部屋のなかにおかれた一枚の画布のイメージが浮かんでくるが、それはこの詩に望まれたモチーフにはかかわりない。むしろその画布のイメージから脱出しようとしてこの詩はつくられている。意味の流れを、言葉を低抗物として布置してさまたげようと、つぎつぎに低抗となる言葉を繰り出してゆく作業は、事実の世界での行路難に似ている。行きくれるとか行き悩んでしか世界の通路がたしかめられないとおなじように、言葉の世界が言葉を低抗物として繰りだすことによって、たしかめられようとしている。こういう詩的な営為は、抜け道のない、そしてどこまでいっても達成感や安息感のやってこない果てしない作業におもえてくる。詩は意味を結ぼうとする言葉の意図と、意味を結ぶまいとして繰りだされる意外な言葉との角逐であり、また和解にならない和解であり、またあるばあいには混融になっている。わたしたちは言葉が使われるにつれて、言葉の<概念>や<音韻>や文字の<象形>が、長短の波長や周波数の高低になって、すこし流れたり渋滞したりしながら、繰りひろげられるのを感受する。そのあいだに瞬時に垣間見られる世界の匂いが、詩によってもとめられているものなのだ。
 
 ふつうの心づもりでは、この詩から意味をうけとることもなければ、価値に高められる情念を感受するのでもない。むしろ口ごもり、吃音を発しおわってしばらく流れては、意外な言葉に堰書とめられてまた澱むという苦しそうな渋滞感を全体性として印象づけられる。そして印象のあいだから意味づけられない長短強弱の波長や韻がかすかな音楽のようによりそってくるのを感ずる。それがたぶんこれらの詩を読んだことだとおもわれてくる。ようするにわたしたちは、ふつうの言葉の意味の流れから遠ざけられる作用こそが、詩の作用のはじまりだという場所に連れてゆかれる。詩人によって詩のなかに註記された註解(あるいはひとことわたくしの飢餓は渇けといえば渇く  その表記の、訓のこだわり)は自己省察に属していて大切な意味をもつようにおもえる。<渇く>と云えばほんとうに<渇く>ということが実現するという、言葉の世界と事実の世界との等価が宣明されるその場所に、<訓のこだわり>があることが云われているからだ。
 
 引用したのは長篇のふたつの任意の詩章にあたっている。起章も終末も定かでないし、また定かなことが必要でもない。いわばその中有の場面がこの詩の場眼絵にあたっている。下放する流れではなく、堰きとめられる流れによって、概念の壁画が描かれているのだ。だが現在これだけ持続の難かしい呪詞の説話性を、虚空の村里に語りつづけている詩人はあまりみつけだすことができない。
 
       (吉本隆明著 福武書店版「マス・イメージ論」の「詩語論」より)
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
   この稿、続く