日付:2020年5月1日 

 ~ 吉本隆明氏の「詩的な喩の問題」を聴く ~

 
     「 詩 的 な 喩 の 問 題 」
 
 
     1、 素朴な疑問から
 
 
 今日は標題を「詩的な喩の問題」としてお話しすることになっています。「短歌的な喩の問題」としても同じで、できるだけ短歌に即して話してみたいと思います。
 ただいま『言語にとって美とはなにか』の話がでましたが、ぼくはそこで短歌的表現ということをとりあげました。でも自分でとりあげてみながら、ひじょうに素朴な疑問がまだ残っておりました。その素朴な疑問ということからはいっていきたいと思います。それはどういうことか、短歌的表現の例をあげてみましょう。
 
 
近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古へ念ほゆ
柿本人麻呂『万葉集』(巻三の二六六)   
 
 
があります。この歌はどなたが読んでもいい作品だというと思います。それはなぜかということを思いつくまま申しますと、上句の「近江の海 夕波千鳥」はマ行音の「ミ」の重ねがあって、それがいかにものびのびとした感じを与えることがひとつあると思います。それからもうひとつ下句の「心もしのに 古へ念ほゆ」はサ行音の「シ」の響きが強くて、サ行音というのは半分音声を呑んでしまいますから、内にこもった感じを与えるその音韻が、とても大きな要素としてここにあると思います。それと意味の方からいいますと、上句客観描写と、下句における内省的な主観描写の対照性が、意味の対照性としてたいへんいい感じ与えます。ということは意識の流れが外部から内部へ、つまり上句と下句のところですぱっと折れるといいましょうか。そこが読むものにいい刺激を与える理由ではないでしょうか。
 
 なぜ疑問かということをもうすこしいってみます。「近江の海」だから琵琶湖ですが、その琵琶湖の夕暮れに波が立っていて、千鳥がとんでいる、あるいは鳴いているとき昔のことが思われる、という単純な叙景と連想、意味的にはそれだけいっているのに、なぜいい歌なのかという疑問を、ぼくは『言語にとって美とはなにか』で「視線」だというふうに解いた思います。単純そうにみえるけど、よく考えてみると、表現されるものと表現するものとが対応性をもっているところで「視線」の転換が複雑にやられているんだというふうに、ぼくは解ったような顔をしてくぎりをつけたように思います。しかしほんとうはそれだけでは疑問なのです。
 
 
  自転車の うへの氷を 忽(たちまち)ちに 鋸(のこぎり)もちて 挽(ひ)きはじめたり
( 斎藤茂吉『寒雲』 )   
 
 
という歌があります。この歌でいいますと、自転車のうえに氷があって、ただそれを挽きはじめたといっているだけなのにどうしてこれがいい歌なのか、という素朴な疑問がここにもあって、どこまでもひっかかってきます。
 
 
  ここの屋上より 隅田川が見え 家屋が見え 舗道が その右に見ゆ
( 佐藤佐太郎『歩道』 )   
 
 
という歌です。これも、ここの屋上から隅田川がみえて、そして家がみえる、さらに舗道がその右側にみえる、といっいるだけなのにどうしてこれがいい歌なのだろうか、疑問が生まれてきます。つまりさっきもいいましたように、『言語にてっと美とはなにか』では、「視線」の転換が複雑になされていて、だからこれが美をつくり、芸術になっているのだという言い方をしました。この理解ではほんとうはまだ疑問が残るのです。もうすこしそこのところをおし進めて考えてみたいと思います。
 
 さきほど申しあげました柿本人麻呂の歌で、客観描写と主観描写が上句と下句で折れ曲がっているために彫りが深くなり感銘をうける、そのうえ音韻の問題も大切な要素となってこの歌をいいものにしているといました。つまりこの歌の枠組みを保証している音韻の連鎖のリズム化(韻律化)されたもの、あるいは音韻それ自体は、あるなにかの解らない表現「X」のメタフォア(暗喩)になっているのではないか、ということが主な問題となるわけです。そのメタフォアのもとになっているあるなにか、そのなにかがいえないかということまで、今日は考えをひっぱっていきたいと思います。
 
 そこでふりかえって、短歌的表現の祖形となっている『古事記』歌謡の問答歌をみましょう。それは大久米命(おおくめのみこと)の入墨をみて伊須気余理比賣(いすけよりひめ)が、
 
 
胡鷰鶺鴒(あめつつ) 千鳥ま鵐(しとと) 何(な)ど開(さ)ける利目(とめ)
( 歌謡番号十七 )   
 
とうたうのに対し、大久米命がおなじように、
 
 
嬢子(をとめ)に 直(ただ)に逢(あ)はむと 我が開ける利目
( 歌謡番号十八 )   
 
 
と答えるわけです。これは四・七・七となっていますが、五・七・七に収斂してくる表現です。なにをいっているかといいますと、最初の歌は、鶺鴒か千鳥かよく解りませんが、いずれにしろ小鳥のなかで目のところに模様があり、目が裂けているかにみえる鳥のように、あなたの目尻はどうして裂けているような入墨があるのだろうか、といっていると思います。つぎの受ける形の歌は、おとめであるあなたに逢おうとして、目を張ってきらきらさせているので目が裂けてしまったんだよ、と自分の入墨をうたっているのでしょう。賀茂真淵(かものまぶち)、折口信夫(おりくちしのぶ)両家にならって、これが短歌的表現のもっとも古いものだとぼくは理解しています。ぼくが朗読してもあまりいい歌には聞こえないかもしれませんが、なかなかいい歌です。これはもともとふたりの問答歌ですが、あえてひとりが両方をうたっていると考えても見事な歌です。しかしこんな単純なことをいっているだけなのになぜいい歌なのか、という疑問がさっきと同じようにまたひろがってくると思います。
 
 その場合、ここでは音数律が役割を演じています。音数律とはなにかといいますと、言葉の音韻の韻律化ということだと思います。音韻はあるひとつの必然の積み重なりを意味しているときは、それは意味無き意味ということで、それをぼくの『言語にてっと美とはなにか』の言葉でいいますと指示表出以前の指示性を与えることになります。それから音韻を韻律化するということは、自己表出以前の自己表出をつくることを意味しています。さらにいえば指示表出以前の指示表出をなお自己表出化することです。つまり自己表現として表現することは、すでにそこに韻律が含まれていますから美を形成するわけです。くり返しますと、意味としてはすこぶる単純ですが、それにもかかわらずとても豊かな美を形成するのはそのためだというふうに理解しています。もちろんここでも「あめつつ」とか「ちどりましとと」には、「ツ」「チ」「ト」というようなタ行音の重なりが、こもるような内部の積み重なりの印象を与える大きな理由になっているかもしれません。さまざまな理由が考えられましょうが、要するに言葉の意味と切りはなして考えてもなおかつ美が形成されるということは、日本語自体の音韻にその必然性があって韻律化がなされているからだということでしょう。ぼくはそんなふうに理解するのがいいかなと思ってきました。
 
 ここで考え方をもう一歩すすめるために問題を整理してみますと、短歌的表現がなぜ感銘を与え美や芸術を形成するか、ということをいうのに音韻の韻律化が大切な要素となっている、とさっきからいってきました。しかし、その音韻のリズム化(韻律化)や、さらには音韻自体がなにかある解らないもののメタフォアを形成しているということを解けば、もっと短歌的表現の解明に近づきうると思います。つまり音韻のリズム化は喩をなす、音韻は喩である、という方向でもうすこし論議を進めてみましょう。つけ加えますと、この音韻は喩である、つまり音喩ということに関して深い考察をしたのは、このあいだ亡くなられました菅谷規矩雄さんでした。この問題をとても遠くまで理論的に進めておられました。ぼくもすこし別のところから考えてきたわけです。
 
 
 
  2、 擬音と乳児語について
 
 
  (1) 擬音の世界
 
 
 ぼくは短歌的喩-音韻がリズム化されたもの-の問題に近づくために、意味とは別に意味するように思える世界を考えたわけです。ひとつは擬音の世界ですが、この擬音の世界については、菅谷さんも考えておられましたし、ぼくも『宮澤賢治論』で述べています。またもうひとつは、まだ幼児にならない乳児語の世界です。このふたつのことを媒介として考えていけばもうすこし問題の奥の方までいけるんではないか、とそう思いました。 
 
 擬音の世界について、その使い方に感心するのは宮沢賢治です。例をあげてみましょうか。たとえば「鎌」が冷たく光っているさまを「シンシンシン」と表現していますが、イメージとしてもあざやかに鎌の刃先のひかりが浮んでくる気がします。それから、いまの方は知っているかどうか解りませんが、昔風の木製の脱穀機がまわっているさまを「のんのんのんのん」というふうに擬音で表現しています。こんなふうな擬音でいままで誰も見事に表現したひとはありません。そしてもうひとつあげてみますと、これはまったくの空想の世界ですが、彗星が空をよぎってゆくさまを「ギイギイギイフウ、ギイギイフウ」というふうに形容しています。彗星の動きがイメージとしてもよく浮んでくると思います。つまり擬音の世界というのは、意味のない音、音韻だけでもって現実の事象や対象に対し、あるいはイメージに対し、どのくらい近づきうるかということが根本的なモチーフとなります。
 
 
 
  (2) 乳児語の世界
 
 
 ところで、もうひとつ胎児語というわけにはいきませんから乳児語の世界について言ってみます。これは一歳ないし一歳半までの乳児の言葉ということになるのですが、しかしこの場合、乳児自体が発するというより、母親が発することが多いわけです。たとえば、乳児があるきっかけで笑うでしょ。そうしますと母親がそのきっかけとなった音を、むにゃむにゃでも、くちゃくちで笑うでしょ。そうしますと母親がそのきっかけとなった音を、むにゃむにゃでも、くちゃくちゃでもいいんですが、ともかく意味のない言葉を発すると乳児のなにかが喚起されてまた笑うということをみなさんも経験していると思います。この場合、意味なんかなにもないし、また意味なんか通ずるわけもないので、母親と乳児以外のコミュニケーションの普遍性もないわけです。しかし母親が発する音はすくなくとも乳児に通じているということを意味します。つまり音だけでもって作る世界、しかもその世界は母親と乳児だけが通用する世界、それは一種の言葉ですが、母親と乳児だけで成立する言葉でもあると思います。
 
こういうことはありうるんでしょうか。言葉というのはふつう意味が作られなければ通じないことが常識になっています。しかしただ音の連鎖、アトランダムな音の連鎖だけで笑うとか泣くとかいうふうに通じてしまうことが、乳児と母親の問では成り立ってしまいます。これは擬音の世界とはすこしちがいまして、擬音の世界はある対象となる物や事象に対して、できるだけ近づかなければ成立しません。しかし乳児語の世界は対象を指そうが指すまいが、かかわりなく音の連鎖だけで成立する世界です。乳児と母親だけ、つまり特定のひとだけに通ずる世界は、いってみればオカルト的な世界のようですが、しかし動物などにもありうる世界で、かなり根本的な意味をもっていると思います。それは言葉の音韻にまで分節化されない以前の音声が、意味以前の意味として、また自己表現以前の自己表現たりうるということですりつまりかなり本質的で、起源にある音喩というふうに理解されます。
 
 ここまできてぼくにとってだけではないかもしれませんが、『言語にとって美とはなにか』以来もっていた素朴な疑問、短歌的表現が単調で、複雑な意味の表現をしていないにもかかわらず、なぜ芸術的感銘を与えるのかという疑問に、もう一歩ふみ込んですこし解けてきたような気がします。
 
 
 
  3、 音韻のリズム化(韻律化)の世界
 
 
 これからすこし皆さんのやってこられた短歌の業績のなかで、これがどういうふうになされているかを例をあげて申しあげてみたいと思います。
 
 
  鼠の巣片、づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」
斎藤茂吉『寒雲』   
 
 
 この短歌はいい作品だと思います。めずらしさのよさという稀少性ということももちろんあるわけですが、だれかわからない者が鼠の巣を片づけながら、鼻歌で「ああそれなのにそれなのにねえ」とうたっている、そのイメージの鮮明さがあると思います。短歌の世界、音韻のリズム化の世界からすれば、「ああそれなのにそれなのにねえ」(ふしをっけてうたう。笑声)というのは、流行歌の歌詞で、ぼくらの年代ではとても流行し、また人口に膾炙にした唄です。音声で表現しているわけではないのですが、黙読するだけでメロデイまで浮んでくる作品です。つまりこれは一種の音声語、しかも楽音の世界を下句に使っているとみることができます。
 つぎに楽音の世界ではなく、音声語の世界をとりあげてみましょう。
 
 
「塩壺には塩をみたして置きたいね」父の怒りも遠くなりたり
山崎方代『迦葉』   
 
 
 ぼくの解釈はあっていると思うのですが、「塩壺には塩をみたして置きたいね」と父親がいうのを聞いて、ああ、おやじは怒っていたけれども、その怒りも遠くなったんだなあ、そういっているのだと思います。つまり上句は単に音韻だけではなく、音声としても受けとれるわけで、それがいい作品だという大きな要因になっていると思います。これは音声を導入した表現ですが、擬音を導入した作品もあります。
 
 
ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し
土屋文明『山下水』   
 
 
 この歌は、山鳩が鳴くのを、ふつうは「ほうほう」という擬音で表現するのですが、それが「ツチヤクンクウフク」つまり「土屋くん空腹」と聞えたというのだと思います。一種の擬音の世界ですが、さきほどから申しあげている乳児語の世界もそうで、この種の試みは幼稚めき機知めいてみえる、あるいはウイットやユーモアというふうにみえます。それは本質的には擬音の世界も乳児語の世界も同じものであるわけで、人間を幼くさせる要素をもっているということでしょう。今日の主題から考えますと、音は意味から離れて暗喩たりうるか、という根本的な問題に対するたいへん見事で大切な試みを提起していると理解されます。遊びのようにみえながら貴重な試みだということができます。
 もうひとつ音声語の世界を導入した知歌をご紹介します。
 
 
おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は
斎藤史『ひたくれなゐ』   
 
 
「おいとまをいただきます」という上句ですが、受けとる方からいいますと、これは音韻ではなく音声です。こういうふうにみてきますと、音の占める位置、あるいは音による交通というものがどれだけたくさん導入されているかということが解ります。ふつう短歌や詩の世界は黙読する以外にないのですが、そのなかでこんなにもおもしろい試みがなされています。
 さてその種の試みが意識的でもあり、もうすこしはっきりしたモチーフでなされている例をあ
げてみましょう。
 
 
  錐・蠍・旱・雁・掬摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵
塚本邦雄『感幻樂』   
 
 
 この歌の場合は実験的な意図があるわけですが、ラ行音の「リ」の連鎖でもって歌全体がつらぬかれています。これは擬音の連鎖ですが、もうひとつ漢字からくる意味の形象ということもあります。漢字は視覚的にいいますと象形文字ですから、その象形文字の大転換が「錐」「蠍」「旱」「雁」というふうになされているおもしろさがあります。この種の試みは遊びといえば遊びですが、しかし音とはなにものかのメタフォアであるという観点からいえばたいへん貴重な試みをやっているとぼくは思います。
 こんどはもうすこし若い作者で、
 
 
  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
寺山修司『田園に死す』   
 
 
というたいへんいい歌があります。ここには「町」という音の連鎖と、「町」は「巷(ちまた)」ですがそういう意味の連鎖もあります。この音や意味という両方の連鎖のほかに、機知やウイットやさらに実験的ということも含まれていていい作品です。
 
 こういうふうにたくさんの例をあげてきましたが、これらの作品は意味とのかかわりのなかで作られていて、意味と音は完全には分離していません。したがって、その音というのは完全に擬音の世界でもないし、ましてや乳児語の世界でもありません。音韻と韻律とを異化し、目立たたしめることを意図的にやっていることが解ります。しかし全体的にいえば一種の幼さの表情があります。試みとしていえば理知的で、しかも意図的にあるいは無意識的にやられていることを、ぼくはもっとさきの方までひっぱっていきたいというふうに考えます。つまり、完全に音は音として、音韻であろうが、音声であろうが、音の連鎖であろうが、それ自体が喩を形成し、美や芸術を形成するということまで徹底して考えたほうが、韻律ある世界の創造に対していいんではないかと思います。つまりそういうところまで艦をもう一歩進めてみたいわけです。
 
 
 
  4、 音韻を合んだ短歌(詩的喩)
 
 
 例をあげてみましょう。
 
 
  アナロナビクナビ睡たく桐咲きて峡に瘧のやまひつたはる
  ナビクナビアリナリ赤き幡もちて草の峠を越ゆる母たち
  ナリトナリアナロ御堂のうすあかり毘沙門像に味噌たてまつる
  アナロナビクナビ踏まるゝ天の邪鬼四方につゝどり鳴きどよむなり
宮沢賢治「祭日」(二)   
 
 
 これは宮沢賢治のわりあい晩年の短歌です。上句の「アナロナビクナビ」などはいずれも法華経のなかの陀羅尼の呪文になっています。これはぼくらには意味が解りませんから、いずれにしろ意味がまったくない言葉ということになります。意味をもってこの上句を理解し、下句につなげようとしても宮沢賢治白身そういう気はなかったと思います。そうしますとこれはなになのでしょうか。むにゃむにゃという乳児語の世界と同じで、母親が乳児に対してわけの解らない言葉をいうと、乳児の方は反応して笑うという世界とまったく同じだといっていいと思います。下句の方は完全に解ります。そしてこの上句は、意味がない、あるいは不明にもかかわらず下句の喩を形成していることは、皆さんの方が専門家だからよくお解りになるでしょう。喩を形成しているという意味は、今日のお話で考えてきたことに添っていえば、極限まで音喩の表現がやられていることを意味しています。つまり音喩でもない、もちろん意味でもない音のめちゃくちゃな連鎖が、なおかつ喩を形成しているということができますし、それはなにものかの喩であるということを、これほど見事に表現しているものはないと思います。それではなにの喩になっているかということをいってみたいのですが、ぼくの鑑賞力があてになるかどうか解りません。ともかくこの法華経の陀羅尼の呪文をもってきているということは、宮沢賢治の宗教的というか、心境的な意識みたいなもののメタフォアになっていることは理解できます。つまり学問的に解説しろということになればそういうことになるでしょう。しかしぼくはすこしだけちがうような気がします。どういったらいいのか、薄暗い、あまり人間のいるイメージのしない、ひっそりとした田舎のほこらの、いやだなあと思っているかどうか解りませんが、そんな色合いの感じがあります。そういう感じのメタフォアになっているのではないかとぼくは思います。皆さんが解釈されたらもっといいなにかのメタフォアだということになるかもしれません。これは短歌の理解の本質にかかわってきますから、ぼくはさしあたってこの解釈にしますが、けっして固執するものではありません。ともかくもなにかのメタフォアになっていることは理解できます。この歌は宮沢賢治の初期の歌とはくらべものにならないほど成熟したすばらしい作品です。単なる機知である、乳児語の世界である、擬音の世界、そして一種の実験的作品であるといってしまえばそれまでですが、そんないい方をこえた本格的な感じと感動があって、しかも短歌芸術の本質にかかわるところのものが表現できていると思います。

 ところでこの種の試みがもうひとつあります。
 
 
  寂かなる高きより来てわれを射る労働の弓 ラム、ラム、ララム
  しりぞきてゆく幻の軍団は ラムラム、ララム だむだむ、ララム
  いづこより凍れる雷(らい)のラムララム だむだむ ララムラムララムラム
岡井隆『天河庭園集』   
 
 
 この作品もたいへん見事です。擬音といえばいえないこともないのですが、むしろアトランダムな音の連鎖というのが、喩をなして走るんだということを証明するとてもいい作晶の例だと思います。これは宮沢賢治の試みとともにたいへん貴重な試みです。ここで岡井さんがやっていることは、音数律を崩す試みと、音が喩を形成するという二種類の試みであり、それはたいへん大きな試みだと思います。

 こういうふうに音は、意味をはなれて喩を形成するのだということを強調しますと、歌人の皆さんは、実験とか、機知とか、ユーモアならいいけど、こんなものをいいといってもらったら短歌というのはたつ瀬がないんだといわれるかもしれません。そしてわたしにもそういうのを作れっていうのか。そしたら短歌ってのはやめにして、上句も下何も「ラララ」というふうにやってしまえ(笑声)、そんなふうにぼくはいっているのではないつもりです。ただ音は意味を離れて、メタフォアを形成しうる、というふうに徹底的に考えないと短歌の良さが解らないので、その解らない疑問からはじまってこういうことをいっているわけです。
 
 それではこれを強調するために、もうすこしだけさきへいきたいと思います。
 さきにちょっと触れました菅谷さんは、若くして亡くなられたわけですが、亡くなられる二、三年前から「やったな」という感じをぼくらはもった時期がありました。菅谷さんは、もちろん理論的にも音韻、韻律を含めてとてもよくまた深く考察された方ですが、実作品のうえでも、亡くなる二年くらい前にすごいところまできたな、というふうにぼくらは感じました。こんなことをいうと詩人の方は、またこれを書けといっているように思われると困りますが、でもすごいなという実作品をここにあげて、今日お語した問題をもうすこしさきまで皆さんにお伝えしたいと思います。
 
 
  つぼ ウツホ ひとつ 地にこもり
  けものめくむなさわぎの
  石にみちみちミツもの
  名あるゆえの、モノ、もののけ、
  ツボみ

   タマシイに、さわりたい、ヨ。

  うちのタマ いなくなった
  つかのまのタマばなれ
  サキタマ・ところざわ めぐり
  川こえてウマ肥えて コマ いるま タマ
菅谷規矩雄「METS84(Part1)部分   
 
 
 これは意味をたどることはまったくできませんが、一種の類音の連鎖の持続として読むことができます。しかし短歌的表現でやられていることとどこかちがいます。たとえば一行目の「つぼウツホひとつ地にこもりツボみ」の「つぼ」を、意味としてとらないで音韻としてとりましょう。そう、音韻なんですよ。「つが」から連想される「ウツボ」というのは靫(ゆぎ・うつぼ)ですから意味としてとれます。「ひとつ」これも意味です。「地にこもり」も意味、「ツボみ」は音の連想です。つまり音韻、意味、意味、意味、音韻というふうに、この一行のなかで音韻としてとれるものと、言葉の意味としてとれるものとがアトランダムにつらなってやってきます。これはシュールレアリスムと同じで、無意識の音からくる連想、つまり「音想」と、無意識の表現、それが詩を成立させているということが解ります。短歌の場合よりはるかに意味と、音韻と、意味にも音韻にもならない音の連鎖と、そうかと思うと「タマシイに、さわりたい、ヨ。」というような深刻な一行がパッとでてきたりして、そうとう複雑な転換がなされているわけです。しかし、こういう詩をナンセンスだという見解ももちろんありうるでしょう。そのひとのもってきた宿命的な無意識的な連想が、この詩に結晶していてたいへんいい詩だとぼくは思います。つまり菅谷さんの場合、自分の宿命的な無意識と、音韻に対する理論、音がメタフォアになりうるという根本にある認識とがあいまってこういういい詩になったと思います。ぼくたちにとっても、もちろん菅谷さんにとっても最終の達成だと思うし、日本の近代詩以降の現代詩にとってもひとつの頂点をなす表現だと思います。これは詩一般より、短歌的表現の場合もっと考えられていいことですが、菅谷さんはその根本にある問題を、理論の面でも実作の面でもさきの方まで進めていったとぼくは考えています。

 もうすこしいいますと、いまソ連とか東欧とかの社会主義が崩壊したとか、クウェート問題がどうとか、テレビや新聞でいわれていますでしょう。それにっいてさまざまな意見があって、重々しい意味のある言葉が満ち満ちています。しかしほんとうのことや、本音はどうもあいまいで、なにを言うつもりなのか解らない言説に満ちています。そういうときに菅谷さんのこの詩を読んでごらんなさい。はるかにこのほうが切実でほんとうのことをいっているということが解ると思います(笑声。)すくなくともぼくにとっては、意味のない音の連鎖が喩をなしうるということのほうが、逆説的ですが切実な間題で、菅谷さんの試みはそれほどに重要な意味をもっていると思います。

 音韻を韻律化すればなにかの喩たりうるか、そのなにかとはなにか、これは短歌的表現を離れてみても今後のほくに問いかけられている問題かと思います。今日はこれで終らせていただきます。
 
 
★テキスト化協力:ぱんつさま  
★一九九〇年十月十四日、歌人集団・中の会十周年記念における講演  
★吉本隆明著「詩はどこまできたか」筑摩書房:2015刊。  
★写真:吉本隆明氏  
 
★「ほぼ日刊イトイ新聞」さんの「吉本隆明の183の講演」の『詩的な喩の問題』の引用・転載をさせていただきました。ありがとうございます。
 
     ★ 「ほぼ日刊イトイ新聞」さんの「吉本隆明の183の講演」の
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      「ほぼ日刊イトイ新聞」さん、ありがとうございます!
      大変に勉強になりました。感謝、感謝!