日付:2017年12月 

  ~観客は、どこにいるか~  吉本隆明著「中野重治」より~

 

猫の額ほどの広さもない裏庭に咲いた白木蓮  

 
 
ときどき思いだしたように読み返す文章がある。吉本隆明の「中野重治」も、そのひとつで、
 
 
 
   ★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★
 
 
 
     顔の黄色いのがゐる
     眼鏡がゐる
     羽織
     るぱしか (注・ロシアの民族服の一つ。詰め襟・長袖・左前開き)
     釦の直径が一寸もある外套がゐる
     乞食のようなのもゐる
     そして銀座をあるく
     酔ふと卑しいお国言葉をわざとつかう
     学問の蘊奥 (注・うんおう。学問・技芸などの奥義。極意)
     人格の陶治 (注・とうや。人の性質・能力を円満に育てること)
     そして
     「苦悶の象徴はちょっと読ませるね」
     へどだ
     そして正門あたりをぞろぞろと歩いてゐる
     ふつとぼおるばかり蹴ってゐるのもゐる   (「東京帝国大学生」)
 
 
 いったい、何が、反吐なのかさっぱりわからない。一般的にいって、他人である学生が、フットボールばかり蹴っていようと、厨川白村を愛読しようと、酔って卑しいお国言葉をわざとつかおうと、この種のことは、人間の快・不快原則を刺戟することがらではない。しかるに、なぜ、反吐がでるのか。それは、中野の快・不快原則が、つねにじぶん自身にたいする快・不快原則ときりはなされたところにうまれ、べつべつに消失するたぐいであることを意味している。この資質は、おそらく、快・不快よりも生活の事実に強いられて生きてきた生活者の意識にねざしている。ここには、中野重治の脆い素朴があるようにみえる。
 
 
     その煙草屋はお寺のとなりにある
     美しい神さんがゐて
     煙草の差し出し方が大そうよい
     上品な姉と弟の子供がゐて
     何時かなぞはオルガンを奏でてゐた
     それに
     顔つきのおとなしい血色のいゝ主人がゐる
     もっと立派な煙草屋は千軒もあろう
     そしておれも煙草を
     いつもいつもよその店で買ってしまふ
     しかしおれは
     そのお寺のとなりの煙草屋を愛している
     その小さな店に
     おれのさぶしい好意を寄せている   (「煙草屋」)
 
 
 なぜ、好意は、好意ではなく、さぶしい好意でなければならないのか。
 なぜ、煙草の差し出し方に善し悪しをつけねばならないのか。これは、すべて感覚的な論理の短絡である。この短絡は、すべて自己の行為というものを、ほかと睨みあわせてすることを強いられて生きてきた生活者の感覚に根ざしている。
 中野重治のうち、すぐれた作品は、かならずこのような資質上の根が深くからみついている。一般的に善でも悪でもなく、美でも醜でもないモチーフが、独自にねじれあって、いわば、しかたのない美を形成している。「東京帝国大学生」にあらわれた憎悪感も、「煙草屋」にあらわれた劣等感もかならずしもぶざまなものではない。それは、一般に下層の庶民が生活の事実から強いられて手にいれた心情を象徴するものでありえている。しかし、つぎのような作品になると、ほとんど、生活者の意識の問題をはなれて心理の問題に転化してしまう。
 
 
     わたしの心はかなしいのに
     ひろい運動場には白い線がひかれ
     あかるい娘たちがとびはねている
     わたしの心はかなしいのに
     娘たちはみなふつくらと肥えてゐて
     手足の色は
     白くあるひはあはあはしい栗色をしてゐる
     そのきやしやな踵なぞは
     ちょうど鹿のやうだ   (「あかるい娘ら」)
 
 
 おそらく、中野重治は、これらの作品をすべていやな作品と呼んだ。だが自分にもいやだから、人にもいやにちがいないというのは中野の独断にすぎない。わたしのかんがえでは、中野の詩からこの種の「いや」な作品をとりのぞいたとしたら、なおそのあとに政治詩人としての中野はのこるかもしれないが、詩集の価値は、半減してしまうのである。
 
       (勁草書房版「吉本隆明全著作集7 作家論Ⅰ」の「中野重治」より)
 
 
   ★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★
 
 
 たぶん、わたし(たち)読者も、中野の詩が一行のフレーズが思わずテーマ性や詩の全体感を踏み越えてしまうその飛翔力に、中野重治の愉しさをみている。
 
 
   ★ この稿、続く