日付:2020年5月6日 

 高村光太郎の言葉の重さ(1)~ 吉本隆明著『「新」死の位相学』より

 

高村光太郎の「老人の首」  

 

 
  高村光太郎の言葉の重さとテレビの体を張る言葉
 
 
    --- 言葉と物はイコール ---
 
 
高橋 康雄  吉本さんは旧版のインタビューの際に、光太郎のことでは課題を残されています。「戦中派の生き方」というテーマでしたが、「あとの文学者はみな解けます。小林秀雄も保田與重郎も。しかし、高村光太郎の戦後は、ぼく自身もう一面生きてみないと解らないとおもっています。その内面たるやどんなものだったか、そこがぼくなんかにはこれからとらえるべき課題だとおもっています」とおっしゃっています。戦中・戦後の戦争観みたいなことでお話いただいたわけですが、どういった意味であのように言われたのかうかがいたいとおもいます。
 
吉本 隆明  光太郎は、北川太一さんが、前の『高村光太郎全集』から現在までのあいだに発見された資料も含めて、新しい全集を編集しています。やはり筑摩書房からなんですが、もうすぐ最後の巻が終わって、完壁な資料を含めた全集ができあがります。ぼくらも本格的にやるなら、その全集をもとにしてやりなおししなければいけないということになります。
 いままでのところで光太郎の戦中・戦後の印象で、ぼくらがほんとうの意味で突きつめてかんがえないといけないなとおもうのは、この人の表現の重さとその責任の問題だろうとおもいます。フーコー流にいえば「言葉と物」の関係ということです。
 
 光太郎が言葉にたいして持たせた重さと、この人の生涯にわたった責任感をかんがえると、この人は言葉というものと、現実の物とか出来ごとはイコールとかんがえていたんじゃないか。それはいろいろな言い方があって、社会環境あるいは社会情勢的としてみてもいいし、また政治情勢とし てみてもいいし、日本近代全体の問題でいえば、天皇制という問題としてみてもいいんですが、その問題とじぶんの表現した言葉とはイコールである。光太郎の身の処し方をみていると、そうおもえるんです。
 
 ぼくらはそこが追求しきれていないんです。光太郎の表現をみていると、戦争中はこういう表現の仕方をしていて、戦後はこういう詩を書いた。戦前はこうだった、と。戦後はじぶんの「生き方」としてわざわざ地方に隠遁して、そこで人に迷惑をかけないように独居自炊していた。こういう生活をすることで、じぶんが戦争中にうかうかと軽みをもって表現をしてしまった言葉の責任をとる。こういうかたちで終始した。そのへんまではじぶんなりに追求したようにおもうんです。
 
 しかし、ほんとういうとそうじゃないんじゃないか。光太郎は、出来ごととか、社会的な現象とか、政治的な現象とか、あるいは伝統をもった民族性の象徴というか、いわゆる天皇制というものとイコールの重さで、じぶんの言葉の重さをかんがえていたんじゃないか。そこまでは、ぼくはじぶんで追求していない。言葉を戦争中にちょっと軽く使いすぎたから、これの償いはじぶんの残りの生活でしなければならないという意味あいでは、大変な身の処し方をした人だ。これはじぶんには及びがたい責任のとり方だとおもってきましたが、ほんとうはそうではない。そこの問題をもう一度、この人の詩と、彫刻も一種の言葉の表現とみるならば、彫刻の問題も含めて根本的に考え直さなければいけないんじゃないか。
 
 それから、光太郎は書も書いていて、ぼくらが見ると彫刻的な書だというのはおかしいんですが、彫刻的なかたちの書だなという気がするんです。その書もある程度本気になってやっていて、たとえば隠遁してからは書にそうとう夢中になってやっている。そして、字で書かないときにはいろり端で火箸で空に書いて練習しているんです。光太郎は良寛の書について、良寛という人は字を空で練習した人だと言っている。それはたぶん、じぶんの練習した体験からきているとおもうんです。それ自体に心の働きがあって、その表現として言葉があると解さないで、言葉というのはイコール物というか、出来ごととか制度とか、もっと日本の問題でいえば、伝統的な天皇制なら天皇制の問題、あるいは信仰の問題であるとか、そういうふうにかんがえたふしがあるとおもいます。
 
 そうしたら、光太郎の戦争中から戦後にかけてを、戦前と対比しながら、もう少し本格的にやらないといけないんじゃないかとおもうんです。そこがいままでいちばんできていない。ありきたりにしかできていないなとおもうところなんです。だけど、この人はもっと言葉を、実際に重さがあるというぐらいに、重たくかんがえていたんじゃないかとおもいます。そこのところを根本の問題として、光太郎の書いたものを検討し直さなければ、この人の戦争の責任のとり方はほんとうには解らないんじゃないか。そういう感じがしてしょうがないんです。
 
高橋 康雄  そういうえば昭和二十二年(1947年)に発表した「暗愚小伝」は天皇制の問題ともからんでくる長い詩ですが、伊東信吉がじぶんの精神史の「致命的摘発」を目ざしたと言っているのは、そうすると、ちょっとちがいますね。ちなみに詩を引用して持きます。
 
 
     土下座(憲法発布)
 
     誰かの背なかにおぶさつてゐた。
     上野の山は人で埋まり、
     そのあたまの上から私は見た。
     人払をしたまんなかの雪道に
     騎兵が二列に進んでくるのを。
     誰かは私をおぶつたまま、
     人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
     私は下におろされた。
     みんな土下座をするのである。
     騎馬巡査の馬の蹄(ひづめ)が、
     あたまの前で雪を蹴つた。
     箱馬車がいくつか通り、
     少しおいて、
     錦の御旗を立てた騎兵が見え、
     そのあとの馬車に
     人の姿が二人見えた。
     私のあたまはその時、
     誰かの手につよく押へつけられた。
     雪にぬれた砂利のにほひがした。
     -----眼がつぶれるぞ-----
 
 
 天皇には頭を下げるというのは、じぶんを揶揄した表現じゃないですよね。タイトルが「暗愚小伝」だから、ややもするとそういうふうになるのかなとおもうけれども、悪びれていない、なにか自然な振る舞いとしてとらえているようにおもいます。やはり揶揄じゃないですね。
 
吉本 隆明  そうじゃないです。本気です。それをかんがえると、日本の近代はなにもはっきりさせられていない。せいぜい、西欧の近代とくらべて日本の近代はこう遅れているということが言われているだけです。
左寄せの画像  たとえばぽくの小学校は、当時の京橋区、いまの中央区なんです。だから、動員がかかるんです。天皇が皇居を出て行幸に行くときには、京橋区の小学生は沿道に出て並んで送迎をさせられる。そういうときには、天皇が車に乗るときも、馬車に乗るときもおなじで、通り過ぎるまで頭を下げていなければいけない。顔を上げて見るということはぜんぜんできない。もちろん大人はそんなことはしませんが、小学生だから上目づかいにのぞいたり見たりするんですが、見つかったら大変です。
 
 もっというと、写真を一種の生き物のように考えて、式典があると、みんな講堂に集まって、なにはともあれ変な幕みたいなものを誰か係の先生が開けて、その幕がだんだん上がってきて、そこに天皇の写真が全部出てきて、それがやめられると、頭を下げていなければいけない。その幕を下ろすまでは顔を上げることができないんです。
 
 それから、そういうことをやらないときもありますが、教育勅語を校長が読む。それを読み終わるまでは頭を上げられない。読み終わると幕が下ろされて写真がなくなる。そうすると、こっちも頭も上げられる。これをほんとうにやっていたんだから、いくら戦争が終わって解放されたといわれても、じぶんにたいしても、「おまえ、そんなことを言って、すんだつもりになれるか」というと、とてもそれはなれないよとおもうんです。
 
 ぼくは逆向きに否定的な言葉ばかり発していますが、高村光太郎とおなじで、そういうふうになれない人が、お正月になると宮城前へ土下座して、参賀というかお参りする。元旦の式典に出て、天皇が手を振ったりするのをわざわざ行って見る。旗を振るだけの人もいますが、もっと丁寧な人はいまでもちゃんと砂利の上に坐って頭を下げているでしょう。そういうのを見ると、何ということをしているんだとはおもいますが、あれはほんとうにばかじゃないかとはぼくは言えないんです。じぶんだって戦争中まではそうやっていたんだから、している人の気持がわからないことは絶対にないんです。言葉ではぼくは否定的なことばかり言っていますが、そういう人がいても、それはばかだと言うわけにはいかないし、ばかだと言ってはいけないとおもうから、絶対にぼくは言わないんです。
 
 だから、それはちょっとおっかないことなんですが、高村光太郎のばあいは、言葉はそれぐらい重たくかんがえられたようにおもいます。そこで問い直すと、戦後の作品も、戦争中の作品も、戦前の作品も、ちょっとちがう解釈になるかもしれないという感じがします。それはどうしても心残りなところがありますし、幸いなことに新しい整った全集もまもなく終わりますから、余裕があったらもう一度読み直して、ちゃんと調べ直してみたいという気持をもっています。
 
 
    --- 光太郎的言葉の重さを考え直す ---
 
 
高橋 康雄  ですから、光太郎にあってそのへんの情況への発言がわりに厳しく出てくるのは、もう一方に言葉の重みを知らないで糾弾する側に回って発想する人たちを徹底して意識しているからなんでしようね。
 
吉本 隆明  そうなんです。新年の参賀で土下座なんかしているのは土人なんだと言うでしょう。それじゃあ、おまえは土人の息子なんだと言う以外にない。しかも、子どものときには土人とおなじように、頭を下げていた。目がつぶれるぞとか、頭を上げたらとんでもないぞ、かならずおまわりに引っ張られていってしまうと脅かされて、そういうふうにやってきた人間でしょう。だから、ぼくとしてはそれは他人事じゃないよとおもっているわけです。もし高村光太郎的に言葉の重さをかんがえるということを一度でもしていないと、これからでもしっぺ返しがもう一回くるときがあるかもしれないとおもっているところがあるんです。
 
 オウム事件も、ある程度そのしっぺ返しだとぼくはおもっています。ぼくなんかにとってはなおさらそうで、おまえは戦争中、一種の絶対感情として、天皇にたいして生き神とおなじような扱い方をしてきたじゃないか。そういう人間が、オウムの弟子の人たちを非難できるのか。
 麻原彰晃を生き神とおもっている人もいるし、脱会して沈黙する以外にないと言うお弟子さんもいる。あるいはぜんぜん正反対で、私はあんな人にだまされてばかでしたと言った人もいる。終戦後のぼくらの天皇への態度とおなじように、あんな麻原なんかにだまされて、それはじぶんのぬかりでしたと言って、検事の証人として出てくる。
 
 ぼくに言わせると、本格的な意味では全部非難できない。おまえだって天皇にたいしてそうだったじゃないか。言葉のうえで天皇制を否定するみたいなことを言っても、おまえだってそうだったじゃないか。おまえは逆に寝返りを打ったとおなじじゃないかと言われると、そうなんですね。ただ、これは理解する価値がある。なぜならば、これを追求しないで放っておけば、言葉にたいする重さというのが狂ってしまって、こういうことがまだこれからもありうるみたいな気がしてしようがないんです。だから、少なくともじぶんにはそういう意味の非難はできない。
 
 あとは、一個の思想として、じぶんなりに納得できるまで検討しなければいけない。とくに麻原彰晃という生き神が、どの程度の人で、どの程度の欠陥を持っているとか、そういうこともはっきりさせようじゃないかという気持はあるんです。これは天皇にたいしてもおなじで、ああいう生き神さまという概念になってくると、その人の人格がどうだということはあまり問題にならないんです。どれだけ利口であるかとか、ばかであるかとか、そんなことを言ってもしようがなくて、これを生き神さまとした人間にとっては関係ない。
 
 その問願があるから、ぼくとしては、これを非難してどうだということよりも、これを解明しないと、こういう問題はまた再びというか、三度起こりうる。おまえはいま気持よさそうに否定の言葉を吐いたり、非難の言葉を吐いているけれども、またなにか類似のことが起こったらそうなるんじゃないか。おまえはそんなに言葉を重く使っていないぞ。そう言われると、どうも納得せざるをえないところがあるんです。だから、もう少し高村光太郎についてもやってみたい。天皇制でやってみてもいいんですが、いくら調べていっても、あれはほんとうに近づけないところがありますから、調べきったということはできない。高村光太郎のばあいには、こんどの整った全集ができれば、ある程度はそれをやれるぞみたいなところがありますから、やってみたいです。
 
☆(「(追補)高村光太郎の言葉の重さ」より 吉本隆明著『「新」死の位相学』所収・春秋社1997年刊)
 
 
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