日付:2018年4月 

 高村光太郎の言葉の重さ(2)~ 「新」死の位相学より

 

高村光太郎の木彫「桃」  

 

 
 
    --- テレビの体を張る言葉 ---
 
 
高橋 康雄  ちょっとはずれるかもしれませんが、光太郎の言葉の重みといった点からいうと、身近なところにそれをかんがえることができる材料がいっぱいあります。光太郎を読み解く糸口があるようにおもいますので話をすすめたいとおもいます。
 吉本さんはよくテレビをご覧になっていて、テレビのキャスターの発言や登場の仕方についてけっこう厳しく接しておられます。テレビというのはメディアとして、取りすました発言はたたかれますね。新聞のばあいは少々取りすましたコメンティーターが出ても持つところがありますが、テレビの場合は、取りすまして登場できるメディアじゃないなという感じがするんです。
 
 猿岩石の話もどこかでふれられていましたね。ああいう知名度もぜんぜんなかった人が、いまやあらゆるメディアを席巻している。それぐらい彼らの出た番組は見られた。それはなぜかというと、体を張っている(傍点アリ・菅間)。そうすると、”頭を張っている”というのはダメなんじゃないか。それが視聴者に見られているんじゃないかとおもいます。光太郎の天皇制の問題もおなじようになんだかんだあげつらっても何も生まれない。発言している人間自身が天皇制的であったりして……。
 ただ、そのへんの事情は言われないとちょっと気づかないところがあって、おなじレベルの知識人のほうが無自覚で、一般視聴者というのは気がついているというか、ばかばかしいやとわかっている。タダで見る番組だからそれほど文句も出ないだけで、いいとは言って見ているわけではない。
 
 NHKが毎年行っている「好きなタレント調査」(朝日新聞」一九九七年一月十八日夕刊)でいうと、男では所ジョージが一番、明石家さんまが二番で、三番目がビートたけしなんですね。さらにダウンタウン、木村拓哉、タモリなどがつづく。たけし軍団なんかが、体を張って熱湯に入ったり、冷たい水に何分いるかみたいな、それこそオウムじゃないけれども、体術というか、ああいう肉体の限界に挑戦するようなものが望まれる要素がどこかにありますね。
 それから、吉本興業のタレントがわりと活躍するのも、社会がぎくしゃくしているのでやはり笑いというか、どこかで茶化さないとやってられねえぞとか、こんなのを真面目にやっていられるのかよというか、そのへんも介在しているような気もちょっとするんですよね。彼らお笑いタレント も体をこづかれたり、こけてみたり、知識的にいったらやっていられねえよというばかばかしいことも演じています。それも言葉のあり方とかかわるとおもうんです。
 
吉本 隆明  高橋さんはいいところに気づかれているとおもいます。つまりテレビというのは、もし知識的にかんがえられる問題をこのへんのところですまされてしまったら、ちょっとかなわんぜというところがある。弱点としていうとそうですね。
 だけど、その代わりといってはおかしいですが、その裏面でいえば、体の張り方というのを言葉でうまくできないと、テレビみたいな映像では通用しないよということがある。だから、ふつうにいう知識人とか文化人といわれる人たちがテレビに出ていくと、たいていはなんとなく場違いなところに出ているという感じがある。つぶされて場違いなところへ出てきて、ただ表面的なことをおしゃべりしているにすぎないというように見えてしまうんです。テレビのほんとうの意味の役者といえる人は、たとえばビートたけしは、もちろん体をこう張るんだみたいなことも死を材料にやってみせているでしょう。それから、じぶんがテレビの話芸に映像的に、語術的にどれだけ体を張っているかというのが、視聴者のほうにもわかるから、評判をとるわけでしょう。
 
 しかし、文化人というか、知識人というか、文学者でもいいんですが、そういう人がテレビに出てくるときには、それがわからないんだとおもうんです。つまりテレビというのは、ふつうにしゃべる代わりに、カメラを対象にしてしゃべればいい。しゃべることを変える必要はないんだよとお もって出てくるわけです。そうしたら、これは肉声よりも書いたほうがずっといいじゃないかということになってしまう。
 どうしてそうなってしまうかというと、この人たちはテレビの出方というのは大変なんだということがわからないで、一見すると、ただカメラが置いてあって、それに少し斜めに向かって何かしやべれば、ちゃんとカメラが撮ってくれるんだよぐらいにしかおもわないでテレビに出てくるから、そうなってしまう。
 あるいはテレビの映り方をちゃんと本格的にするには、単にじぶんのもっている知識だけではなくて、そういう映像について本格的な技術というか、いってみれば演技的な技術というか、そういうものが必要だとおもうんです。それをかんがえている知識人というのはなかなかいないから、やはりダメですよね。
 
 そういう意味あいでは、知識は企画にしか生かされない。つまり利点があるといえばそれだけが利点で、弱点としていえば、いま言ったみたいに、テレビ人が知的なことにかかわって何な言うと、あるいはちょっと本質的なことにかかわって何か言うと、この人たちはダメだということになる。オウムの事件でもいいし、薬害エイズでもいいんですが、そんなことで何か言うと、この人たちはちょっと見当がちがうよとか、解釈が薄すぎるよとおもえてしまうんです。それはけっきょく、知識というのはそんな簡単じゃないんだよということが、テレビ的な知識人にはあまりよくわかっていないんじゃないか。
 しかし視聴者は、高橋さんが言うように、心のなかではかなりの程度わかっている。テレビがこう言うと、そうなんだ、こうなんだとワーツと言葉では行くんですが、心のなかでも行っているのかなというと、そうではなくて、相当いろんなことがわかっているんじゃないかとおもえたりするんです。
 だから、テレビが言うことが世論だなんていっても、かならずしもそうとは言えない。それは、選挙をしてみればすぐわかるんです。そういうふうにかんがえると、テレビというメディアは、ちょっと怖い面と、知識人あるいは知識がこれをばかにしたらいけないということがあります。
 
左寄せの画像  その両方とも比較的によくできる人というのが、わりに人気のある人だとおもうんです。だけど、それじゃあ所ジョージはどうなんだというと、ぼくはそうじゃないような気がしてしようがないんです。たとえば遠くから見ていると、きれいな女優さんがいると、「ああ、きれいだな」とおもうじゃないですか。これは誰でもそうおもう。つまり所ジヨージはなにはともあれその次元におかれている。ほんとうに芸として見られているんじゃないぞ、というふうにぽくにはおもえるんです。
 だけど、ビートたけしとか、タモリとか、さんまというのは、あのすごく自然にしゃべっているように見えているけれども、カメラの前でしゃべるしゃべり方というのがちゃんと芸のなかに入っている。もちろん知識的にもわりによく勉強していて、そんなに変なことは言わないから人気がある。所ジョージというのはちょっとちがうんじゃないかなという気がするんです。
 
高橋 康雄  ある程度ツボは抑えているから、そういう人はテレビの映像の特徴をあらわしているんじゃないかなとおもうんです。だから、マラソンの好きな間寛平などは、天然ばかなのか、ばかを装っているのかとか、よく言われたりするでしょう。クイズでも、野々村真というのがいますね。有能な黒柳徹子や板東英二はすげ替えても、やはり天然ぼけ的な野々村的な人がいないとダメなんですね。女の子でもバンジージャンプをやる。それをクリアしてこないと、さっさの身体感覚でいうと、さっきの身体感覚でいうとテレビでは生き延びられないというところがありますね。
 
吉本 隆明  それは、よく気づかれましたね。おっしゃるとおりかもしれません。ぼくはあまり気づかないでいましたが、つまり間寛平とか、絵のうまいジミー大西というのは、ほんとうにボケているのか。あるいはボケ役を演じているのか、ちょっと疑問におもうときがあるんです。なぜかというと、ジミー大西の絵を見ると、これほどのものを描ける人が、おかしいからといって、ほんとうにボケだと言っていいのか。営業の面だけでそれを演じているのか。それはほんとうによくわからないんですよ。それはわからないだけで、そういうキャラクターなんだろうなというぐらいで、ぼくはすませていました。
 
 ただ、いまそういうことをはっきりしようとすると、ぼくは半意識的というか、半分だけ意識的で、半分は無意識かもしれないような気がするんです。無意識にほんとうにボケているのではなくて、そうかといってほんとうに演技しているというのでもなくて、両方ともよくできていて半々なんじゃないか。半分ずつ混合してもっている人なんだという感じがします。たしかに高橋さんの言われるようなことはあるとおもいます。
 間寛平などのばあいには、マラソンをちゃんとやっている。それ以上に百キロメートル走ったりしたでしょう。ぼくはああいうことによって、じぶんの映像についての抑圧感と知識についての抑圧感の両方を、ずいぶん解放しているというか、単なる抑圧感じゃないものに鍛え上げるというか、そこへ持っていこうということのひとつのやり方なんじゃないか。そういう感じがしないことはないんです。
 ジミー大西の絵も、専門家的なところがありますから、あんな絵がそんないい加減なやつにできるのかなとかんがえると、ぼくにはそうおもえないところがあります。だから、高橋さんの解釈が正当なんだという気がします。そういうことというのは問題にしていかないとダメではないかとおもいます。
 
高橋 康雄  かつてテレビが出始めて間もなく大宅壮一が「一億総白痴化」と言って、言ったか言わないうちに撤回しましたね。テレビの映像にはごまかしがきかないところがありますね。
 
吉本 隆明  そこの問題はほんとうに大きな問題を含んでいて、いままでもそうですが、テレビがこれからどういう役割を演じていくか。とくにインターネットに接続されるようになったら、どういう役割を演じていくかというのはそうとう大変なような気がします。そこはやはりかんがえどころがあるような気がします。そのうちにふつうの家というか、ぼくらの家でもインターネット型というのができるようになるとおもうんです。それはわりに普及が早いんじゃないかという気がしますが、それでいったいどういうことになるのか。ひとつは、テレビのもっている基本的性格の間題がありますね。
 
 それから時代的な問題でいうと、猿岩石のばあいもそれと類似に取り扱えるとおもいますが、湾岸戦争のときなども、曳光弾の仕掛けをしながらミサイルなんか飛ばしていくと、大きな花火をどんどん打ち上げているのとおなじように映像的に見られてしまう。その下で当たって爆発したら死んでいるんだぜという実感をむしろ奪われて、戦争映画の一場面を見ているみたいな感じにさせられるところがあるでしょう。ああいうのはものすごく怖いなという感じをもちますね。それがテレビの怖さの特徴だとおもいますが、それはこれからももっと出てくるんじゃないでしょうか。そのことはメディア共通の問題としてかんがえなければいけない問題のような気がします。そうすると、言葉の重さ、あるいは広さでもいいんですけど、そういうものはこれからもどんどんひろげていくということが必要になってくるということなのかもしれません。
 あるいは、これはわかりませんが、言葉はついに映像みたいな世界から剥離してしまって、どうにかなってしまうというか、別の世界になってしまうということになりうるのか、いろいろなことをかんがえますが、言葉の重さの問題、映像の問題と、現実の問題も含めて、そうとう大きく響いてくるんじゃないかなという気がします。
 
 
    --- せり上がってきた事実の強さ ---
 
 
高橋 康雄  怖さという点でいうと、そうそう怖いことが起こるわけでないので、番組が細工されているようにおもいます。クイズ番組がドキュメント化しているでしょう。要するに紀行作品だけだと間が持たないせいか、アマゾンならアマゾンヘ行って、アマゾンの部分をクイズにして臨場感を出そうとしている。そういうふうにドキュメント化している。それはうまくいっていて、おもしろくはなっていると言えるとおもいますが、そういうかたちはいまの吉本さんの言われた、ミサイルじゃないけれども、われわれに事実性というのが突きつけられてくる部分で、活用されるケースというのがありそうな感じがしますね。
 
吉本 隆明  そうなんですね。事実というものの強さというのが、すごくのし上がってくるというか、せり上がってきている。猿岩石もそのひとつでしょうし、ビートたけしが番組で弟子をお湯につけたり、氷につけたりというのをやったり、変なテレビゲームみたいなものを現実にして、壁みたいなものに体当たりしていく。あるいは、いろいろな障害のあるところを通って、渡るところで水のな かに落ちてしまったり、泥だらけになったり、そういうのがたけしの番組でありますね。
 あの人は鋭敏だから、そういうことにわりに気づいて、早めにそういうことを試みたりしていますが、猿岩石というと「電波少年」ですか。あの番組もそうだし、「筋肉番付」といって、跳び箱を十何段重ねて跳んだりしているのあるでしょう。それから「世界ウルルン滞在記」という、歌手でも誰でもいいんですが、そういう人たちを一人、フランスならフランスのブドウ酒づくりのところへ一週間なら一週間、いっしょに住まわせていろいろやらせるでしょう。ブドウ酒づくりを実際に手伝わせて、ある程度それに慣れてくる。だけど、親密感が増すから、別れるのがっらくてという感じでやっているでしょう。ああいうものも、事実の強さといったらいいんでしょうかね。事実の強さというのが映像を通じて出てくる。そうすると、映像でない現実と映像を通じての事実の強さが拮抗して、どちらがどちらといえないぐらいになる。
 
高橋 康雄  そうなってくると、事実の強さは倫理の肯定と結びつき、臓器移植を是認する勢いが強くなると、脳死の問題もどこかで都合のよい解釈でごまかす。おなじような問題になりますね。いずれ誰か犠牲者が出たり、ハプニングばかりねらうようになる。
 
吉本 隆明  猿岩石なんかやらせだと言われているでしょう。あるところは飛行機で行ったと言われている。たしかに一回行ったかもしれないけれども、それは間題にならない。事実としては、あれだけアルバイトをしたり、野宿をしたりしているということ自体を疑うことはできませんから、あれはちょっと大変だとおもいますよ。いってみれば山谷のホームレスを人工的に演出してつくってやらせてしまっている。それが逆に、日本では人びとを感心させてしまって、ワーッとおもわせたりしてしまう。
 高橋さんが言うように、いったいどこまでが冗談で、どこまでが笑いかというのが、なかなか区別できないぐらい難しくというか、微妙になってくる。ますますそうなってきて、これはメディアとして大変なんだろうなというのは、目に見えているような気がするんです。これから問題がそうとう出てくるんじゃないかなという気がします。
      (「(追補)高村光太郎の言葉の重さ」より 「新」死の位相学所収・春秋社1997年刊)
 
 
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