日付:2020年5月7日 

  江戸期の歌(1)  吉本隆明氏の『写生の物語』を読む (2)

 
 
 わたしには『現代詩』はもとより『短歌』などいっこうにわらないまったく無縁なものだが、しかし「江戸期の歌」を何度か読んでいるうちに、とても興味がわいてきた。

   94 わらはべの手をのがれこし蝶ならむ
     はね破ても飛がかなしさ

 
 
 これを和歌の口語化とみれば、すぐにわかるように古今調では決してあらわれないような日常の生活のなかに見えかくれする弱点が、そのまま率直に詠まれているところに、まずあらわれている。第一首目は蝶が草花を伝わるさまの美しさとか可憐さとかが詠まれているのではない。子どもたちにつかまって羽を破られて鱗粉を削されてとんでいるさまが歌われている。べつに江戸期だから子どもが蝶をつかまえて乱暴するようになったわけではない。それは古今時代にもあったことにちがいないのだが、美学がそこに着眼することを許さなかったのだ。

 という文章や、

   380 山風のさかおろしなる谷の道われより先にゆくこのはかな
 
 
 これはたしかに自然詠にちがいない。しかし伝統の主題という意味は形骸だけだと言っていい。自然の花や木が美しいかどうかが歌われるのではなく、自然物とじぶんとの関わりあう有様が歌われている。谷間の道を歩いていると木の葉が嵐に吹かれて、じぶんの行くさきざきに舞ってきて、まるで先を歩いているようだ(第一首)。
 
 
   930 なれかねてつな引あがく猫の子も手玉にとれる庭の落栗
   933 いづくにかわが身きぬるとおもふらむ市にまろべるなだの蛤
 
 
 この二首で象徴されるものは、和歌的な目くばりの拡大といえるものだ。
 古今調の伝統的な修辞に固執し捉えられているかぎりは、庭で紐をひきずってもがいていた猫が落ち栗のいがを手玉にじゃれはじめた光景を、和歌形式に詠むことはできなかったにちがいない。またそれ以前に、庭でじゃれている猫の子の有様が和歌的な表現にのるものかどうか、疑問とされていたかも知れない。なぜなら、写生的な意味があっても物語的な意味はないとおもわれていたかも知れない。これは二首目の蛤の歌でもおなじだ。市場でざるに入れて賊られている蛤を対象にして、蛤自身が磯辺からどんなところまで来てしまったのだろうかとおもっているにちがいないという物語をつくって、和歌の表現にすることなど、古今伝授の世界のなかにあっては不可能だったに違いない。これは和歌的(国歌的)世界の変貌を意味する有力な徴候かも知れなかった。すくなくともたんに主題あるいは素材の拡大、いいかえれば好奇心の拡張を意味するだけだとはおもわれない。
 

 短歌表現の内部で無数の作者たちによって試行されてきた心の置き方、きざみ方、言葉の問題は、わたしたちの芝居の中で考え、もがき苦しみ、とても言葉にする力はないのだが、試みようとしてしている心の置き方やきざみ方の作業と同質のように思われて、判らないのだけれど読んでいる。
 わたしの力では、吉本隆明さんの『写生の物語』など解読できるわけはないが、愉しみながらやってみた。吉本隆明さんはいっている。「作品は批評とが同じくらいの比重にならなければつまらない」、と。
 
 
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  江 戸 期 の 歌 <1>
 
 
      (1)
 
 
 江戸期の歌人ということになれば、田安宗武、良寛、橘曙覧で象徴させればいいのかもしれない。この象徴にゆきつくために、言うべきことがあるとすれば、堂上歌学の影響はまだ強くのこっていても、それを教養として身につけた人々のあいだから、和歌を詠む人士を見つけだすのはなかなか難しい風潮になっていた。
 
 儒学が武家階級の公用倫理であり、漢学は公用語の世界になっていた。ちょうど平安朝期に私的な女性語の世界に伴って物語(歌)や和歌が興隆をむかえたのとおなじように、江戸期の和歌が公的な儒学の世間の隙間から、私的な教養であるかのように、こぽれ落ちてきたものに喩えられる。その担い手は町家の裕福な子弟、医者や商人などのうちの教養人など、いわば非武家的な層が主体だった。この層の感性的な世界に理解をしめし、本来ならば堂上の教養圏にあるはずの僧侶、儒家が、古典の掘りかえしからはじめて、この町家の興隆してきた和風の学問(国学)に関心を強くして、その背骨をつくることに寄与したといえる。
 
 契沖や真淵などの国歌八論にまつわる論議は、この背骨を支えた儒学から国学へ転換の筋道をつけた学者たちの動きをよく象徴している。負の場所から裏返していえば、町家の教養人の世界では、すでになぜ和歌形式は五・七・五・七・七の音数が守られているのかが、よくわからなくなっていたとも言えよう。詩歌の音数として五・七・五は理解できるとしても、どうして終りの二句が七・七となるかは分明でない。連歌は町人層の教養として俳諸の形で大衆化することができる。しかし和歌形式を狂歌によって大衆化するには、韻律の操作だけでなく、まとまった理念を必要とする。この理念は物語を構成するような詩歌外の能力だといっていい。
 
 賀茂真淵によって提起された国歌の論議は、和歌形式の起源はどこにあるのかを、伝説と神話から解放してつきつめようとするはじめての試みであるとともに、既にわからなくなってしまった和歌(国歌)の音数的な根拠を解明しようとするモチーフをもっていた。具体的にいえば、平安朝期の堂上歌学では、和歌の起源は伝承と神話そのままに「八雲立ついづも八重垣」が形式的な起源だとする記述が疑われずに過ぎてきた。賀茂真淵らの和歌(国歌)の起源についての論議は、この神話伝承的な記述自体に根本的な疑問を提出した。いわば神話的記述のなかから人文論理をはじめて宣揚した画期的なものだといってもいい。
 
 またもうひとつ、江戸期の和歌形式の起源についての論議の特徴は、伝承の記述自体を疑問とし、否定する論議をはじめて公然と展開したことだ。この問題については、わたしの『初期歌謡論』が詳述しているからここでは触れない。結論だけをいえば、和歌形式が五・七・五・七・七のヘテロな音数律に集約されてきた根拠は、片歌形式(五・五・七・四・四・七あるいはそのヴァリェーシヨン)での複数の人のあいだの掛け合いが、ひとりの作者によって集約されたために産まれた形式だということになる。
 
 この論議が提起され、一応の結論が真淵を中心にして成立したことは、江戸期の和歌の性格とはるかに呼応することになる。ひと口に江戸期の和歌(国歌)を総括するとすれば、ひとつは堂上歌学の特徴ともいうべき、『古今集』をもとにして詠むという態度の変りなさだといえる。もちろんこの態度は、明治の正岡子規にいたるまで、ひき継がれたといってよかった。子規もまた、まず『古今集』をもとにして歌作をはじめ、そこからいわば擬万葉調ともいうべき実朝の歌に心を寄せて、万葉調に開眼してゆき、それを写実性として組み直す道をたどったと言ってよい。
 
 もうひとつ江戸期の和歌(国歌)の特徴は、言葉(用語)の身近への引き寄せだったと言ってよい。これは現在から近代化のあらわれとしてみれば、口語化といってもよい。ようするに町家の生活的な感性を導入することで、日常の生活情緒を必然的に詠歌のなかにとり入れることになったともいいうる。
 
 因みに大隈言道(おおくま ことみち 寛政10年(1798年)~慶応4年7月29日(1868年9月15日))の『草径集』を例にしてみる。
 
 
    94 わらはべの手をのがれこし蝶ならむはね破ても飛がかなしさ
    43 ともしびとわれとははかなよひよひにものもえいはぬわざくらべして
   343 たれかきていつ帰りけむおもほえずわがいねぶりのはても無間(なきま)に
 
 
 これを和歌の口語化とみれば、すぐにわかるように古今調では決してあらわれないような日常の生活のなかに見えかくれする弱点が、そのまま率直に詠まれているところに、まずあらわれている。第一首目は蝶が草花を伝わるさまの美しさとか可憐さとかが詠まれているのではない。子どもたちにつかまって羽を破られて鱗粉を削されてとんでいるさまが歌われている。べつに江戸期だから子どもが蝶をつかまえて乱暴するようになったわけではない。それは古今時代にもあったことにちがいないのだが、美学がそこに着眼することを許さなかったのだ。第二首目でいえば、灯の下で母おやとじぶんとが遊戯に夢中になって毎晩のように遊んでいるさまが歌われている。気取ることなくそのさまが歌われる。第三首目では昼問居眠りしているあいだに、気ごころ知れた訪客が来て帰ってしまったさまが、おのずから捉えられている。美意識だとすればこの表現は醜の美意識だし、美学よりも生活の率直な表現の方が大切だというのなら、作者の生活意識が歌の核心に移っていることを意味しているとおもえる。
 
 
   380 山風のさかおろしなる谷の道われより先にゆくこのはかな
   486 いづこにかさけると見れど花もなしこころの香なる梅にや在らむ
   522 ちかく見てとほく見てまた桜花いかさまにてもあはれなるかな
 
 
 これはたしかに自然詠にちがいない。しかし伝統の主題という意味は形骸だけだと言っていい。自然の花や木が美しいかどうかが歌われるのではなく、自然物とじぶんとの関わりあう有様が歌われている。谷間の道を歩いていると木の葉が嵐に吹かれて、じぶんの行くさきざきに舞ってきて、まるで先を歩いているようだ(第一首)。また桜は遠くで咲くのを見ても近くの花を見ても、またどんな視線で見てもあわれに美しい(第三首)。生活詠ではなく自然詠なのにもかかわらず、自然の花や木が美しいと述懐されているのではなく、じぶんが自然の花や木をどんな風に見ているかという概念を述べることが、和歌(国歌)になっている。わたしには言道の個性がそうだというよりも、江戸期の町家の感性がいやおうなく自然詠にあらわれているもののようにおもえる。
 
 第二首目はたぶん和歌史上では最初にあらわれた花の香りの表現にちがいない。幻臭の歌とみてもよいし、梅の香り(花の香り)に執着するあまり、どこにも近くに梅の花が咲いていないのに、おもわず香りが流れてくるような気がしたというように、伝統の花の香りの歌をひろげた表現とみることもできよう。いずれにしても「心の香」が現実の梅の花をイメージさせたという思いを歌っていることは確かだ。
 
 花の香りという主題はこの言道の歌ではじめて内在化された。香りの意味を修辞的に、光と影とか気配とかの意味に内在化することは古くから試みられたが、「心の香」のように内在化されることはなかったのだ。ここまできて江戸期の歌は、『古今集』をもとにして作られるという神話的伝承からほんとうに飛躍したことを象徴するようになる。
 
 
 
      (2)
 
 
 和歌(国歌)の形式的な根拠は、真淵らの解明を背骨にして根底的に神話的伝承を断ち切ったが、このことは同時に和歌(国歌)の実作のこころが、どこへゆくのかまったく予測できないものとなったことを意味している。江戸期の代表的な歌人であるかどうかは疑問としても、大隆言道の作品から、そのいくつかの方向性や可能性を象徴させることはできる。
 
 
   930 なれかねてつな引(ひき)あがく猫の子も手玉にとれる庭の落栗
   933 いづくにかわが身きぬるとおもふらむ市にまろべるなだの蛤
 
 
 この二首で象徴されるものは、和歌的な目くばりの拡大といえるものだ。
 古今調の伝統的な修辞に固執し捉えられているかぎりは、庭で紐をひきずってもがいていた猫が落ち栗のいがを手玉にじゃれはじめた光景を、和歌形式に詠むことはできなかったにちがいない。またそれ以前に、庭でじゃれている猫の子の有様が和歌的な表現にのるものかどうか、疑問とされていたかも知れない。なぜなら、写生的な意味があっても物語的な意味はないとおもわれていたかも知れない。これは二首目の蛤の歌でもおなじだ。市場でざるに入れて販られている蛤を対象にして、蛤自身が磯辺からどんなところまで来てしまったのだろうかとおもっているにちがいないという物語をつくって、和歌の表現にすることなど、古今伝授の世界のなかにあっては不可能だったに違いない。これは和歌的(国歌的)世界の変貌を意味する有力な徴候かも知れなかった。すくなくともたんに主題あるいは素材の拡大、いいかえれば好奇心の拡張を意味するだけだとはおもわれない。
 
 
  100 やまぶきのひとへにさくをめで乍(ながら)やへなるみればやへぞ増(まさ)れる
  152 いもが背にねぶるわらはのうつつなき手にさへめぐる風車かな
  224 衾(ふすま)さへいとおもげなる老の身のぬるがうへにもぬるねこまかな
  299 まなくちるこのはかつぎて山路より出くるうしのすごき夕ぐれ
 
 
 第一首目などは、明治の正岡子規の短歌革新の方向性をさきがけて暗示している。もっと極端に子規の歌集に入れてもすこしも不自然でない。三首目は、掛け蒲団さえ重たいとおもっている老のわが身なのに、そのうえに猫がまた寝にきて重たくて仕方がないという意味だとおもえる。
 
 こういう写生の眼のつけ方は何を意味するかといえば、対象となった事物の自然に歴史の伝承を重ねることができないため、光景に由緒を与えることができなくなっていることを意味している。光景はその視えたとおりの事物の配置として写しとられるほかない。子規はこの自然や風景に歴史をみることができなくなったところで、事物の写実性をそのまま和歌的表現の特徴とするほかなかったに相違ない。第二首目は、この写生が稀に情緒の流れやリズムと一致したいい作品になっている。これは子規系統ほど写生に徹しなかった明治以後の短歌の成功作(たとえば前田夕暮や木下利玄の作品のような)にしばしばあらわれている。第四首目は、山鳩の声の「凄さ」を歌った西行の本歌とくらべればわかるように、西行の「凄さ」が歴史感情が自然の夕景にあたえている「凄さ」であるのに、言道の歌は、牛が落葉を背中いっぱいにくっつけながら突然山路からあらわれてきて、びっくりしたという「ああおっかない」という「凄さ」にしかなっていないことを比べれば、江戸期の和歌(国歌)がどこへ行ったのかの方向は、おのずから知られる。
 
 もうひとつ言道の作品が象徴している短歌的な傾向をとり出すことができる。例でいえば、
 
 
   337 人なげにめのまへをしもゆきかひてちりさへわれをかろめつる哉
   338 はらへども立まふちりのさりやらでただおきどころかふるなりけり
 
 
 たぶんこれは歌人言道が、意図して和歌(国歌)的な伝承に逆らうように、主題と素材とを故意に卑小に選び、卑小に歌ったものだ。いってみれば、どうだこれでも短歌的な表現は成り立つだろうと主張しているようにおもえる。そしてたしかに江戸期の歌が新時代の平民社会につながる方向の一つが、ここにあった。
 
 
★ 吉本隆明著『写生の物語』の「江戸期の1」より抜粋させていただきました。
★ 上の写真は、正岡子規。

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      ★ この稿、続く。       ★ aboutの頁へ戻る。