日付:2020年4月7日 

  江戸期の歌(2)  吉本隆明氏の『写生の物語』を読む (3)

    江 戸 期 の 歌 <2>
 
 
      (1)
 
 
 正岡子規が江戸期の歌人でただ一人抜群の評価を与えたのは、橘曙覧(たちばな あけみ 越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。 文化9年(1812年)5月~慶応4年8月28日(1868年10月13日)だったことはよく知られている。子規の言い分はこうだ。
 
 ある歌人から俊頼の『散木奇歌集』と井上文雄の『調鶴集』と橘曙覧の『志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集』をすすめられた。読んでみたが俊頼や井上文雄の歌は何の特色もない平凡なものだったが、橘曙覧の歌集にきてはじめて凡庸でない感じをもった。
 
 さらに子規はどこを評価するかに立ち入っている。曙覧は、わたしなどの感想では田安宗武と良寛とともに江戸期の歌人の象徴であり、また同時に江戸末期の歌人だから、子規の評価は、連続する後代の歌人からの江戸期の歌人の評価になっている。子規の曙覧評価を要約してコメントしてみる。
 
 (一)曙覧の歌は『万葉』に学んでいながら、『万葉』とちがっている。さ細な日常の出来ごとをとらえて、縦横に歌っているが、そのことがかえって高雅という意味をあたえている。とくにその主題を自然の風月を高雅で飾ろうとして、かえって月並な俗気に堕している古今・新古今調と逆になっている。これは古今・新古今調が四季の自然の風雅を主題としながら、俗気に充ちているのと裏腹だと言えよう。
 
 ここでコメントをさしはさめば、子規にとって、古今・新古今調は排すべき俗調であり、万葉調だけが短歌の復興に寄与するものだというのは固定観念にちかかった。そしてこの固定観念を作りあげた子規の想念とは、『万葉集』は事実の生を写した雑歌の性格をもち、古今・新古今調は自然の四季の変化に美をみつけだす風雅の美学を装いとしながらほとんどは題詠歌や歌枕を名所とする空想歌であり、自然美の写実とは似つかぬものだという観点があった。曙覧の歌はこの観点からいえば、万葉以後で実朝をのぞけば空前絶後の万葉調の歌ということになった。
 
 
  たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時
  たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食う時
  たのしみは木芽にやして大きなる饅頭を一つほほばりしとき
 
 
 子規がいう曙覧の万葉調とは典型的にこういう歌をさしている。これは子規のように万葉調という言い方をしなくても、掛値なしにいい歌だといえる。そしてこれらの歌がいい作品だという根拠を、子規は一つはこれがじぶんの推奨する万葉調の再来であること、二つには一見すると俗な生活を詠んでいるようにみえながら、歌としての志は高雅だということにもとめた。これは古今・新古今調が白然の四季の美を風雅に詠んでいるようにみえて、俗気たっぷりな題詠の空虚さを本質とするのと、ちょうど逆だというのが子規の言い分であった。子規の曙覧評価が妥当かどうかを別にして、この洞察には子規の卓見が含まれているとおもう。
 
 子規の曙覧への評価は現在の観点からみれば誇張されていてやや狂っているとおもえる。子規はむき出しの生活感情や事実の描写、写生の単純な復活のほかに古今・新古今調の形骸化を超えて和歌が復活存続できるとは信じられなかった。この根底から子規は写実・写生の原型をもった『万葉集』に眼をそそぎ、この単純であるがままの写実である(ようにみえる)万葉調の復興をかんがえたのだ。わたしは『万葉集』に写実の特徴をみつけたり、写生の率直さをもとめたりする子規のかんがえ方は、詩歌のもつ母型としての全方法性を無視した、脱思想的な考え方だとおもう。子規に思想性を求めるのは無理だったとしても、子規の万葉理解は茂吉の実相観入まで尾をひいてしまう。
 
 子規の脱思想的な写生の説は、曙覧評価のなかにあらわれる。曙覧はなぜ事実の導入をさけないで、じつにリアルで身近な生活の雑詠を優れた作品として実現したのか。子規はその理由を、曙覧が赤貧でありながら高雅な生活の士であり、好学のこころを保持してやまなかったからだというところに求めている。子規は松平春嶽の「橘曙覧の家にいたる詞」を引用して「壁が落ちかかり、障子はやぶれ、畳はきれ、雨がもってくる」住居の有様を記し、かたちはこの通りだが、その心は雅びに満ちている有様も忘れずにつけ加えている。じぶんは大名として大厦高楼に住んでいるが、心のなかには万巻の書物のたくわえもなく、心は寒く貧しい。これからは曙覧の心の雅びを学んでいきたい。これは参議正四位上大蔵大輔源朝臣慶永(松平春嶽のこと)が言うことだという「春嶽自記」の言葉を記している。
 
 
  膝いるるばかりもあらぬ草屋を竹にとられて身をすぼめをり
  米の泉(ぜに)なほたらずけり歌をよみ文をつくりて売りありけども
  たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれしとき
  たのしみは物をかかせて善き価惜みげもなく人のくれし時
 
 
 子規はこれらの歌を曙覧の清貧を如実に語る作品として挙げている。しかしそれは歌の表皮にたまっている主題的な意味だけにすぎない。もはや歌学は堂上はもちろんのこと、武家や町人層の感性の生活のところにもなく、貧しい詩人(歌人)の物語の内面にしかない和歌(国歌)の状態を語っているだけで、清貧とは主題の意味の表皮にあるだけだということがわかる。曙覧のこれらの歌の特徴は声調からわかるように、この歌学の外の環境からやってきた崩壊と、その崩壊を内在的に心の持ち方で支えている短歌の姿だとおもえる。清貧という意味は詩歌としての声調の深層には、まったく見られない。 (★ 緑の彩色は菅間)
 
 
      2
 
 
 子規は西行も良寛も評価しなかった。それはこの二人とも自作の骨組を古今・新古今風の風雅においたからだ。西行は自身が『新古今』に採用歌がいちばん多い歌人だったから、それからはみだした歌の例をあげて、万葉調の歌も、写実の歌もあるといっても、子規の評価は変らなかったとおもえる。子規が万葉的というとき、たんに声調を言っているのではなく、生活の感情、道具、振舞いなどが即物的な事物と事象の表現でなくてはならなかった。子規流にいえば「趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌」に限られるといってよかったのである。そしてその背後にはこれ以外のやり方で明治の新時代に和歌が復興する道はないという子規の強固な思い入れがあった。
 
 
  たのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時
  たのしみは鈴屋大人の後に生れその御諭をうくる思ふ時
  こぼれ糸さでにつくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす  (橘曙覧)
 
  手毬唄ひふみよいむなこゝのとをとをと納めてまた始まるを
  鳥と思ひ手な打ちたまひそ御園生の海巣の実を啄みに来し我を
  同くはあらぬ世までも共にせむ日ハ限りあり言ハ尽きせじ
  さきくてよ塩法坂を越えて来む木々の梢に花咲く春は  (良寛)
 
 
 橘曙覧のこれらの短歌が『万葉』の直系だというのならこれらの良寛の作品もそうだといわなければ短歌声調の上から不都合だろう。また日常生活の写実をいうのなら庶民ぐらしに材をとった曙覧の歌と、野僧のくらしに材をとった良寛の歌は等価だというほかなない。だが子規の評価では良寛の歌は古今調を脱していないことになり、の直系ということになっている。
 
 
  濡しこし妹が袖干(そでひ)の井の水の湧出るばかりうれしかりける
  筧かけとる呑水にうち浸しければ白露手にこぼれくる
  ともすれば沈む灯火かきかきて苧(お)をうむ窓に霰うつ声
  そとの浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上(すなのうえ)の月  (橘曙覧)
 
  み山べの山のたをりにうちなびく尾花眺めてたどりつき来し
  虫は鳴く千草は咲きぬこの宿に今宵は借らむ月いづるまで
  風は清し月はさやけしいざ共に踊り明かさむ老の名残りに
  忘れてはわが住む庵と思ふかな松の嵐のたえずし吹けば
  いまよりはふるさと人の音(おと)もあらじ峰にも尾にも雪の積もれば  (良寛)
 
 
 わたしには曙覧の歌も良寛の歌も自然詠の風雅を叙した古今・新古今調の作品におもえる。どこも声調や風雅にちがいはないとしかいえない。また生活の断片のちがいは隠棲の村里と衆庶の街住まいのちがいとしかおもえない。子規がいうのは、数の割合のちがいで、曙覧よりも良寛の方が古今・新古今調の歌の割合がおおいということだろうか。わたしにはそんなことをあげるのは無意味だとおもえる。子規の言い方には、はじめからずっと無理があるような気がしてきた。
 
 
 わたしは良寛も曙覧も、(そして子規も)江戸期の歌人(その後継者)として、おなじように古今・新古今調をもとにしているとかんがえるのが無理がないとおもえる。ただこの古今・新古今調は中世末とはちがっていた。担い手の武家や僧侶や町衆の生活感性がおのずから町人風にかわっていた。この町人風が歌学を形成できるとすれば俳諸の世界だけだった。支考も芭蕉も、実作と一緒に俳論も手に持つことができた。歌人たちは歌学をつくるほどの規範の世界をもたないといってよかった。もっとちがう言い方をすれば、歌学は解体してそれぞれの歌人たちの心の内部にそれぞれが抱くほかないほどになっていた。それほど生活感性は似たりよったりでも、それぞれは心のなかに歌の道理をもって、それを守るのが精いっぱいだった。
 
 
 どうすれば短歌(和歌)は近代に生きのびることができるのか。幾分か偏頗(へんぱ)で強引であっても古今・新古今調が短歌(和歌)の普遍的な声調だとおもわれてきた中世以後の習慣的な流れを全否定して、生活写実、事物写生の、ある意味で平板な唯物素材感で、この全否定を象徴させるほかなかったのだとおもえる。この子規の『万葉』にたいする偏頗な理解は、歌学なき江戸期の短歌(和歌)を、明治近代に蘇生させるキイ・ワードとなった。写生、写実、生活事実の強調を万葉という言葉におきかえたのだといってよい。そのために子規の願望に叶う歌人は、中世以後、実朝と曙覧しかのこらずに、あとは全否定の対象になってしまった。
 
 
  引用歌
  曙覧の歌は子規の「曙覧の歌」の引例歌(『歌よみに与ふる書』岩波文庫)
  良寛の歌は東郷豊治編著『良寛全集』(東京創元杜刊)
 
 
  ★ 吉本隆明著『写生の物語』の「江戸期の2」より抜粋させていただきました。   ★ 上の写真は良寛の直筆のコピーです。「天地」と書いてあるそうです。

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      ★ この稿、続く。       ★ aboutの頁へ戻る。