日付:2020年4月7日 

  江戸期の歌(3)  吉本隆明氏の『写生の物語』を読む (4)

  江 戸 期 の 歌 <3>
 
 
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 子規が江戸期の歌とくに、江戸後期になるほど目立ってきた和歌の特色と感じたものは、ひとつは日常茶飯の町人杜会の生活がいやおうなく歌の表現のなかに詠み込まれてくることだった。これは歌格も歌の主題も身近なものになったことを意味する。花鳥風月のあわれを詠むとしても内心の抒情を理想的に詠むというより、日常の生活のあいだに出会う自然の風物の動きを即物的に詠むというようになった。子規にはそれが歌格のうえからは平安堂上の歌人たちに比べて卑近な日常化に変化したものとみえた。別の言い方をすれば和歌の声調の解体とみえたといっていい。それとともに日常の生活で出会う事実の重さが内心の抒情にうち克っていくものとおもわれた。この二つの必然的ともいえる近世和歌の変化をうけ入れて和歌の新時代をかんがえるとすれば、ますます事実(事物)の描写をおしすすめることで、ますます歌の表現を身辺にするほかはない。これが子規にとっての写生の根にあるモチーフだった。つまりそれ以外に和歌が新時代に生き延び存続してゆく方向はかんがえられなかった。これは和歌の伝統的な歴史に即していえば、内心の抒情よりも事実(事物)の描写に重きをおいている『万葉』のほうが、堂上歌人たちの抒情である『古今』よりも尊重されなくてはならないという考えに導かれた。ほんとうは『万葉』は子規がかんがえるほど写生に適い、写生を心がけた和歌だというわけではない。ただ叙事詩が内心の抒情詩よりもいつも先行し、初期にあるものだという詩歌の通則にしたがって事実(事物)の描写に即して表現されているというだけだ。だが子規にとって万葉調の方が古今調よりも事実(事物)描写がおおくみえるということでよかったのだ。
 
 万葉調の意義を子規のように解すれば、堂上歌学から離脱して子規のいう意味の万葉調の歌人は、実朝と曙覧しか残らないことになった。事実(事物)を介して和歌表現をすすめる方法をとる以外に、和歌が明治の新時代(近代)に生き残るすべはないとかんがえた。万葉調の強調をおし出すかぎり、中世から近世にかけての和歌の推移から実朝と曙覧しか拾い出せないとする子規の極論はやむをえないものといえた。
 
 子規の敷いた万葉調の写生や事実(事物)表現の強調を踏襲した斎藤茂吉は、事実(事物)表現を必然的な和歌生き残りの血路とかんがえた上での万葉調の強調を、写生(写実)の理念にまでこしらえ上げようとした。当然茂吉がやろうとしたことは、一つは子規が極論したところを補完して、近世の和歌史の、個々の歌人たちの作品から、万葉調とみてよい作品だけを択び、脈絡を稠密にして万葉調が作品の流れとして細々ながら各歌人の作品の一部に詠み出されていて、決してと絶えていないことを、丹念に拾いあげて、実朝と曙覧にしか万葉調がないわけではないことを示した。茂吉がとりあげた万葉調の例を二、三あげてみると、
 
 
  日盛のわら屋の庭は鳥も来ず山繭かふこ薄(うす)ねぶりして
  岡越の切とほしたるつくりみち卯の花咲けり右にひだりに  井上文雄
  相模のやよろぎの磯はうまし磯きよき渚の大いそ小いそ  丸山作楽
  かぞふれば我も老いたりははそはの母の年より四年老ひたり  僧愚庵
  打むかふむかひの岡の一つ松爾(なれ)も古りたり我も旧りたり  福本日南
 
 
 これらの歌を万葉調というとすれば、これらの歌人たちは、ある時は万葉調あるときは古今調というように、そのときどきの気分でいずれの声調を歌にすることもできたにちがいない。だが茂吉は子規の極論を、万葉調といえば江戸期では橘曙覧だけしか残らないという評価を修正した。どの歌人たちもそれぞれの度合で万葉調といってもよい歌を残していると言いたかったにちがいない。実朝の『金槐和歌集』の影響をうけた田安宗武も万葉調であり、賀茂真淵や荷田春満のような国学者もまた万葉調の歌を実作した。こう考えていけば良寛も万葉調の歌を詠んでいる。これらをすべて拾いあげることで、歌人ではなく、和歌作品について万葉調という概念を言いかえることになった。
 
 もう一つは、子規のように事実(事物)に沿って歌を表現するよりほか新時代の和歌のあるべき姿は描けないから、それを万葉調と呼んだというのではなく、和歌における写実とか写生とかいう概念を積極的に造り出すことが欲求された。茂吉自身が言っているように子規が万葉調という言葉で示唆した実作が、いちばんじぶんに適うようにおもえたから、『赤光』の作風で作品を支えただけだった。だが同時に歌の理論家として写実とか写生とかいう概念を、じぶんの実作と実感を包括するものとして作りあげることを強いられた形になった。茂吉は実感をまじえて、じぶんにとって子規の歌風が入口となったことを、つぎのように述懐している。
 
 
 『木のもとに臥せる佛をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ」といふ歌は、佛涅槃圖を寫生したもので浬繋會雑者のすべてをば、『象蛇どもの泣き居るところ』であらはした。この歌は寫生を心がけて居つてもそれに徹せねば出來ようとは思はれない程の歌である。予は稚い頃から涅槃圖に親しんでゐたが、竹の里人の此歌を読む讀んだ時、無限の驚嘆をした。そして歌を稽古しようと決心するに至つたのである。その頃は未だ寫生などといふことを知らなかつたのであるが、今おもへば、子規の寫生能力に驚いたのであつただらう。かういふ能力は竹の里人は俳諸の方から悟入したので、元祿あたりの俳人でも、實に敏く看て確かに寫生してゐるのがある。この歌の、『木のもとに臥せる佛をうちかこみ』までは誰でもいふ。『象蛇どもの』になると、さう容易には出來ない。寫生を心がけて謙遜してゐるものでなければ出来ない。その象蛇から、直ぐ、『泣き居るところ』と績けたのは寫生の行きどころで、かく直接に行くのが寫生の一つの特徴である。
(斎藤茂吉「短歌に於ける寫生の説」)   

 
 わたしには実作に則した実感がないから、「象蛇どもの泣き居るところ」という表現が、子規が写生に徹底していたからできたのだといういい方はできない。しかしこの表現が和歌としてまったく新しい表現で、絶妙なものだということはわかる。わたしには子規が写生に徹していたからこんな表現が可能だったのだという茂吉の言い方も納得し難いところがある。茂吉はこの子規の歌を読んで「無限の驚嘆をした」と評価し、それがじぶんが短歌の実作に入る契機になったといっている。わたしは読者あるいは鑑賞者としてやはり茂吉のように「象蛇どもの泣き居るところ」にたいし「無限の驚嘆」を禁じえない。なぜそうおもうのか、一口に言ってみれば仏陀の涅槃圖図を徹底的に写生しているからだとはおもわない。この下句の転換の仕方に象徴される作者子規の死にたいする無限の悲哀のおもいが「泣き居るところ」という静的な体言止めによって、かえってなまじの主情的な表現よりも深いところから浮びでてくるからだとおもう。いいかえれば徹底的な写生の客観描写としてこの短歌を読むからではなく一見客観描写のようにみえるこの表現が、死にまつわる作者の無量のおもいを浮び上らせるからだとおもえるのだ。
 
 
 この微妙な思い込み方の違いの問題はもっと引き延ばしてみることができる。
 茂吉は「写生の成就」のなかでこういうことを言っている。
 萬葉集の上等な歌になると、これは日本語の存績するかぎり不滅だと謂つていいだらうとおもふが、さてそんならどういふ點が不滅的でどういふ點が亡滅的だかといふことになると、どう解明していいか僕なんかにはよく分からない。
 ただ僕がつとめていふなら、萬葉集の秀歌は、ごまかしのない「寫生」が成就せられてゐるためだらうといふことになる。ここに寫生といふのは實地に當つて生を寫すといふことだから、その實行が出來てゐたら、人類のゐるかぎり誰かの生に共鳴するところがあらねばならぬのである。
(斎藤茂吉「寫生の成就」)   

 
 よくわからないが無理矢理に言ってみれば、『万葉』のいい歌は「写生」をごまかしなくできているから、日本語があるかぎり不滅なのだと茂吉はいう。その理由は「写生」というは「実地に当って生を写す」ということだから、それが実際にできているかぎり、人間の生に共鳴するところがあるはずだといわれている。わたしには茂吉の言い分のうち「よく分からない」という方が正確におもえる。『万葉』の歌は「写生」をよくしているからいい作品だなどということは結果から作りあげた見解としても、違う気がする。「写生」ができているからというくらいなら、詩歌としての〈初源〉あるいは〈原型〉的な性格が、音数、リズム、意味の融合性として〈完備〉しているから、いい作品になっているとでもいった方がいいとおもう。いま勝手にひらいた頁から子規や茂吉のいう「写生」にできるだけ叶った不作為の作品をあげてみる。
 
 
  193 畑子(はたこ)らが夜昼と言はず行く道をわれはことごと宮路にぞする
  945 風吹けば波か立たむとさもらひに都太(つだ)の細江に浦隠りをり
『万葉集』   
 
 
 はじめの(193)は農家の人が夜昼となく畑仕事にゆく道を、じぶんは宮仕への道にしているといっている。(945)の方は、風が吹いてきて波が荒くなるというので、せまい水路に船を避難させているという作品だ。これが『万葉』のなかで秀歌であるかどうかは確にはいえない。だが万葉調の「写生」歌だということは確かだ。「写生」だからいい作品だというのなら、この作品はいい作品だと文句なくいえるはずだ。そういうとすればどこかに同感できないものが残る。それよりも「写生」であることと作品のよしあしとは『万葉』のなかでも関わりが少いといった方がいいとおもえる。茂吉の言い方には、いやこれらの作品は写実的(事実を写す)であっても事実の核心(「生」)を写しているとはいえないという弁明が成り立つところがあるとしても、それではよく作られた歌はいい歌だという同義反復にしかならない。
 
 実際問題として、これらの作品がポエジーとして成立っていることは、誰もが認めうることに違いない。しかしなぜただ事実そのままを述意としているだけでポエジーが成立っているのかは、茂吉の言葉を借りて「僕なんかにはよく分からない」といった方が正当だとおもえる。そして強いてその根拠をあげなければならないとしたら、いくつかあげられる。一つは音数律とリズムとがそうなった(五七五七七になった)必然性が意味の外の意味と音数とリズム外のリズム効果を与えているからだということになる。敢てもう一つあげれば、こういう事実を選択して詠んだということ自体に、現在のわたしたちに何でもない事実の述意とおもえるところにもポエジーの要素があるというべきかもしれない。だがどうかんがえても茂吉のいうように「写生」とかかわる理由をみつけることはできないとおもえる。
 
 わたしは何を言いたいのか。
 子規は、やむをえず事実(事物)に即して和歌を表現するという方法は、古典初期の詩歌の手法として無意識の初源にあり、次第に抒情詩的な自然詠に転移していったが、江戸期の日常生活の素材を歌う歌人、橘曙覧などによって、歌を卑近な日常生活の事実(事物)に引き寄せた流れを、万葉調というように言い直せば、明治近代の和歌はその延長の写実性にもとめなければならないとして、『万葉』復興の矢を放った。茂吉は子規が江戸期の歌人に与えた評価、いいかえれば橘曙覧だけしか残らない極論を補完して、江戸期のどんな歌人も詠草のなかにそれぞれの度合で万葉調の和歌があることを掘り出して、近世和歌史の体裁を調え、それと一緒に子規がその場その場で無雑作につかった万葉調とか「写生」「写実」という言葉に積極的な短歌理念を与えようとした。それによって近代短歌の「写生」や「写実」の概念がはじめて確立されたといってよい。茂吉の「写生」説は、子規の写実や写生にたいして深さの概念をつけくわえた。これが近代散文におけるリアリズム作品と同列なところに、短歌表現をもっていった。芥川龍之介の『赤光』にたいする高い評価は、散文家(小説家)のなかにある詩歌観が『古今集』を出ないか芭蕉の近世俳句を出ない常識に衝撃を与えたからである。だが同時に『万葉集』を「写生」や「写実」の概念で理解しようとするアララギ系統の誤解もまた歌人たちのあいだに普遍化していったといいうる。たとえば長塚節の晩年の傑作「鍼の如く」の作品は、この系統の「写生」や「写実」の極致であるようにおもえるが、同時に『万葉集』の「写生」や「写実」にはない空しさ、空白さを感じないわけにはいかない。この誤差はたぶん子規や茂吉が万葉調を「写生」や「写実」に結びつけたことの誤差を象徴するものになっている。
 
 
 
★ 吉本隆明著『写生の物語』の「江戸期の3」より抜粋させていただきました。

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      ★ この稿、続く。       ★ aboutの頁へ戻る。