日付:2020年4月17日 

 吉本隆明著『写生の物語』の「遊びとしての『百人一首』」ノオト(1)

 
 
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▼以下、継続中です。
 
 
 (1) なぜ、古代(初期)の和歌(短歌)は、作者は、じぶんの心を直接に述べたいのに、なぜ叙景・叙事というかたちを採らざるを得なかったのだろうか?
 
 吉本隆明著『初期歌謡論』の「Ⅲ 枕詞」の章は、次のようにはじまる。

 
 藤原公任(ふじわらの きんとう)は、平安時代中期の公卿・歌人。)の「新撰髄脳」に
 
 「歌のありさま三十一字惣じて五句あり。上の三句をぱ本といひ、下の二句をば末といふ。」とか「古の人多く本に歌枕をおきて末に思ふ心をあらはす。」
 
 という言葉がみえている。このばあいの「歌枕」とは、事物についての客観的な描写というほどの意味に、うけとるのがよさそうだ。すると「枕」という言葉は〈枕詞〉という意味ではなく、心を表現するための〈前提〉と広義にかんがえられてよい。あるいは歌全体の〈支え〉と解してもよい。この〈支え〉は、〈もの〉でも〈こと〉でもよいがどうしても具象的でなければならなかった。そのあとにつづくものが眼に見えない〈心〉をあらわすかぎり、〈支え〉は〈心〉を眼に見えるものに繋げる働きがなければ、歌の〈支え〉とはならなかったのである。公任の「新撰髄脳」の成立を寛弘七年(一〇一〇)として、すでにこの時期には〈歌〉が事物(主として自然物)を描写しながら、何らかの形でその描写を〈心〉の表現に結びつけて成り立つことが、直感的に把まれていた。これは歌の由来を考えてみればうなずける。『記』『紀』の初期の歌謡を構成的にみてゆけば、〈もの〉や〈こと〉を描写する詩句、スタンザ(詩の「連」)としてあって、これに構造的に同型な心をのべた詩句が前置または後置されて、はじめて歌は全体をととのえている。この骨格は『万葉集』の初期の短歌謡(五・七・五・七・七形式)でもひきつづきまもられている。公任の「髄脳」は、その時代からすでに三世紀ほど隔たっているから「古の人」の歌のことだとおもわれただろうが、伝本や実作の流れからそうかんがえる根拠はあった。
 
 なぜ〈歌〉は直裁に〈心〉の表現で始まりく心〉の表現で終るところに成立しなかったのだろうか? なぜ自然(事物)をまず人間化して〈心〉のほうに引き寄せ、つぎに〈心〉の表現と結びつけるという、一見すると迂遠な方法がとられたのだろうか? 公任はそこまで思いいたったわけではない。いま、こういう疑問をもちだすとすれぼ、応えはおおよそ二つありうる。もともと歌の成立には、発生のときから事物(自然)の描写が本質的になけれぼならないものだった、というのが、ひとつの応えである。かれらには自然もまた依り代(しろ)として〈心〉の一部とかんがえられていたのであった。もうひとつの応えは、古代人(あるいはもっと遡って未開人)は、〈心〉を心によって直接に表わせなかったので、まず眼に触れる事物(自然)の手ごたえからはじめて、しだいにじぶんの〈心〉の表わし方を納得してゆくよりほかなかった、とかんがえることである。やや後者に近いところに折口信夫はちかづいていった。
 
 
 「だが、今一方に、發想法の上から來る理由がある。其は、古代の律文が豫め計畫を以て發想せられるのではなく、行き当たりばったりに語をつけて、或長さの文章をはこぶうちに、氣分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に觸れるものからまづ語を起して、決して豫期を以てする表現ではなかつたのである。
 
  神風の 伊勢の海の大石に 這ひ廻ろふ細螺の い這ひ廻り伐ちてしやまむ
 (神武天皇-記)      
 主題の「伐ちてしやまむ」に達する爲に、修辞効果を豫想して、細螺(シタダミ)の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巖を言ふ中に「はひ廻(モトホ)ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した處から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出し、そこから「伐ちてし止まむ」に到著したのである。」
    ●折口信夫『叙景詩の發生』全集第一巻所収
 
 
 あと幾つかの歌が例として示されているが、主旨を理解するのにはこれだけで充分である。触目の事物をあげつらっているうちに〈心〉の表現に到達するという発想法は、「氣分が統一」するために不可欠であり、またやむをえないものだとみなされている。公任のいう「上の三句をば本といひ」とか「古の人多く本に歌枕をおきて」の意味は、少くとも触目の事物(自然物)をあげつらうことが歌にとって本質的なものであるという、もう一つの解釈をゆるすことはうたがいない。「本」というのはかんがえ方によっては、はじめというより重要さという意味をふくめることができる。すると、触目やの事物やききつたえられた事物から歌を起こすことは不可欠であったとみなされる。そこで歌は、まず客観的な事物(自然)を表現することからはじまり、あとに〈心〉の表現がつづくという形式がひとつ定型として成立する。この定型で事物(自然)を表現である「本」の句と〈心〉の表現である「末」の句とのあいだには、質的なちがいと結びつきのがあらわれ、この〈関係〉がどういう構造をもつかに、歌の核心があったといっていい。さらに〈もの〉と〈こと〉をあらわす「本」の句を、内在的な構造としてみようとするとき、枕詞と拡張された枕詞にもたとえられた序詞の問題があらわれる。
吉本隆明著『初期歌謡論』の「Ⅲ 枕詞」の冒頭の文章章      

 『なぜ〈歌〉は直裁に〈心〉の表現で始まりく心〉の表現で終るところに成立しなかったのだろうか?』。
 この問題について、吉本隆明氏は、講演『詩的喩の起源について』で、さらに深く言及し、易しい言葉で語っている。
講演『詩的喩の起源について』は、「ほぼ日刊イトイ新聞」の「吉本隆明の183の講演」のなかに入っていて、だれでもが吉本さんの講演を無料で聴き、読むことができる。
 講演『詩的喩の起源について』は、遙か遠いところまでたどり着いていて、「(8)現代詩と詩的喩の起源」の章では、「詩」固有の問題でありながら、芝居の課題へと架橋できる類推を許してくれている場所を探ることができる。抜粋、引用させていただきます。

  (2) 短歌の独自性
 
 
 
 もし、俳句を、たとえば、つくっていた人がいると、その俳句をつくっていた人が、たとえば、あるときから詩を書き始めた、つまり、詩を書き始めたっていうのは、おかしい言い方ですけど、いわば、現在詩を書き始めたっていうふうな体験があるとします。そうしますと、おそらく、それ以前に、たとえば、俳句を書いていたってことが、かならず、現代詩を書くっていう場合に、役立つっていうことがあります。
 
 それから、現代詩を書いていた人が、あるときから、小説を書くようになった、そうしますと、おそらく、その小説を書くに際して、現代詩をつくっていたという体験は、かならず、役立つだろうというふうに、ぼくには思われます。
 ところで、ここに短歌を書いていたっていう、つまり、歌人であったっていう人がいたとします。で、歌人であった人が、たとえば、小説を書くとか、あるいは、現代詩を書くっていう場合に、短歌を書いていたっていうことが、役立つかどうか、つまり、なんらかの意味で役立つかどうかって考えた場合に、ぼくの考えでは、おそらく、役立たないだろうというふうに思われます。
 
 それは、おそらく、短歌っていうものが、非常に独特な、つまり、独自な、詩としての展開の仕方をしているので、そのために、どうも、ぼくの考えでは、俳句とも、いわゆる現代詩とも、違うものだと思いますし、また、一種の詩的迷路といいますか、そういうものが、短歌のなかにはあるので、だから、ある意味で、独自な詩形式だけれど、しかし、それが、ほかの、つまり、現代詩とか、小説とか、そういうものを書く場合に、役立つということはないだろうというふうに思われます。
 
 それから、もうひとつは、ある一定の水準まで、短歌の、つまり、歌人として達したと、そういう、その達したという以降が、たいへん、短歌の場合にはむずかしいんじゃないかっていうふうに思います。つまり、これは、たいへんな迷路があって、たいへんむずかしいところなんじゃないかっていうふうに思われます。これは、ほかの詩形式ってものと、おそらくは、ちょっと、短歌の場合には、違った点だっていうふうに考えます。
 
 
  (3) 虚詩-無意味な表現の例
 
 
 ところで、そういう意味合いで、独自な詩形式なんですけど、われわれが、たとえば、現代詩における、つまり、比喩ですけど、つまり、暗喩とか、直喩とか、そういうものを考えていく場合に、その起源っていうものは、どこからくるかっていうことを、つまり、日本語における喩の起源っていうものは、どこからくるかっていうふうに考える場合に、いちばん考えやすいのは、俳句とか、現代詩とかってことじゃなくて、おそらくは、短歌のなかに求めやすいのではないかっていうふうに考えます。
 その問題を、非常に具体的に、すこし、申し述べてみますと、ここに3つばかり書いておきましたけれど、一等最初に書いたのと、二番目に書いたのは、万葉の東歌っていわれているものです。
 
 東歌っていうのは、なにかっていいますと、詩の形式として、あるいは、短歌の形式として、わりあいに、古いかたちを、つまり、起源にあるかたちを保存しているものです。いまの言葉でいえば、非常に、民謡に近いものです。
 
 ただ、古いかたちを保存しているってことは、時代的に古いかどうかってこととは、一応かかわりはありません。つまり、表現的に古いかたちを保存しているっていうふうに考えます。
 で、二番目の、たとえば、
 
 
    ま愛しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の
    美奈の瀬河に 潮満つむなか
 
 
 っていう、これは東歌ですけど、こういう短歌があります。
 これは、どういうことかっていいますと、つまり、愛しい恋人と一緒に寝る為に自分は行くと、行くというのが、一首の、ひとつの作品としての意味です。つまり、作品としての意味は、それだけのことなわけです。
 そのあとの、「鎌倉の 美奈の瀬河に 潮満つむなか」っていうのは、まったく、一首の意味とは関係ない言葉です。関係ないってことは、いわば、ナンセンスってこと、ノンセンスってことです。つまり、無意味ってことです。
 
 無意味ってことは何かっていいますと、愛しい恋人と一緒に寝にいくっていうような、そういうこととは、何のかかわりもない言葉であるわけなんです。
 これを、たとえば、現代の和歌の研究家とか、学者とかに解釈させますと、そうじゃないんだと、つまり、この場合には下句ですけど、下句の言葉、つまり、これは、ある意味でいって、風景の描写なんですけど、風景の描写ってものが、上句の「ま愛しみ」ってことの、いわば、序詞ですね。イントロダクションってものになっているっていうのが、現代の研究者ってものの解釈です。
 もっといいのは、そのはじめなんですけど、
 
 
    筑波嶺の をてもこてもに 守部すゑ
    母い守れども 魂ぞ逢ひにける
 
 
 っていう、これも東歌です。
 この場合には、一首、つまり、一篇の詩としての意味は、まったく、下句にあるわけです。つまり、母親が監視しているけども、自分と恋人との仲っていうのは、魂が通っているんだっていうことを言いたいわけです。
 
 その場合に、上句の、「筑波嶺の をてもこてもに 守部すゑ」っていう上句っていうのは、まったく意味がない描写であるわけです。これも、現代の和歌、あるいは、短歌の研究者、学者、あるいは、歌人っていうものにいわせると、これは、下句の、母親が守っていても、自分たちの間を妨げることができないと、魂が通うんだっていう、そういう言葉をおびきだすためのイントロダクションだっていうのが、そういう解釈の仕方をするわけです。
 しかし、ぼくは、そうは思いません。つまり、そうではないので、まったく、下句と上句とは関係のない言葉だ、関係がない表現だっていうふうに考えます。
 
 もちろん、みなさんは、よく勉強しておられるから、意味はおわかりでしょうけど、あの場合、筑波山のあちらの山際、こちらの山の面、そういうところに、「守部すゑ」っていうのは、つまり、守備の兵士たち、防人たちっていうことでしょうが、そういうものがいて、敵がないかってことを見守っている、そういう意味になります。
 それで、その「守部すゑ」っていうのが、「母い守れども」っていうのとひっかかってくる、つまり、「母い守れども」にひっかけるために、上句があるんだっていう、上句は、そのイントロダクションだっていうのが、現代の研究者の、一般的にとっている考え方です。
 
 しかし、ぼくは、そう思わないわけです。全然、これは、関係のない言葉であって、これをイントロダクションということはできないので、むしろ、虚詞といいましょうか、つまり、虚実の虚ですね、つまり、ぜんぜん虚しい、無意味な言葉だっていうふうに、表現だっていうふうに考えます。
 
 この無意味な表現っていうものが、非常に、たとえば、重要なことなので、これを無意味な表現といっても、それから、序詞っていっても、つまり、イントロダクションだといっても、おんなじじゃないかってお考えかもしれませんけど、そこが、非常に微妙なところでして、微妙な違いがあるのでして、つまり、これをイントロダクションだっていうふうに考えていきますと、たとえば、一番目でいえば、上句ですね、二番目でいえば、下句ですけど、下句っていうものは、いわば、上句の、喩の起源っていうことになるわけなんです。
 
 しかし、これをイントロダクションではなくて、ナンセンスだ、つまり、無意味だ、つまり、虚詞であると、つまり、無意味な表現であるというふうに考えた場合には、これは、上句または下句が、喩にはならないわけなんです。まったく、無意味な、あるいは、つながりのない、下句、または、上句と、つながりのない景物表現ということになります。そこのところは、非常に微妙ですけれど、それは、たいへん違う、重要な違いなんだっていうふうに考えられます。
 
 
  (4) なぜ無意味な表現をしなければならなかったのか
 
 
 たとえば、明治以降でも、万葉集復興みたいのが、たとえば、アララギの歌人ってものを主体にしてでてきたわけですけども、その場合に、アララギの歌人たちが、一様に誤解したのは、どういうことかっていいますと、いま言いましたように、一番目でいえば上句、二番目でいえば下句の、景物表現とみえるものを、一種のイントロダクション、いわば、詩の言葉、現代詩の言葉でいえば、喩であるというふうに理解したところに、たいへんな誤解ってものがあるわけです。その誤解が、おそらく、アララギの歌、アララギ派の短歌ってものがもっているくだらなさってものに通ずる、そういうことになるというふうに思います。
 
 そのことは、非常に、ぼくには重要なことのように思われます。つまり、考えてみますと、これは、日本語における喩の起源ってものを考えていきますと、最初に、喩になりきらない、あるいは、喩になることができない、無意味な表現ってものが、一種の詩の形式のなかに、必要であったってこと、その必要であったってことが、非常に重要だっていうふうなところに、たとえば、喩の起源っていうものをたどる場合の、大きな問題がかかわっているっていうふうに考えられます。
 
 これを、イントロダクションであるとか、比喩であるとかいうふうに考えるのと、非常に、ある意味でおんなじように、お考えになるかもしれないけど、たいへん違うことだってことが、重要だというふうに思います。
 つまり、なぜ、たとえば、日本における詩形式の、わりあいに古いかたちってものをたどっていった場合に、詩形式の、約半分を使って、無意味な表現をしなければならなかったか、あるいは、逆にいいますと、有意義な表現っていうものは、ほんのちょっぴりしかないっていうふうになければならなかったってことが、日本の詩ってものを考える場合に、あるいは、詩の喩ってものを考える場合に、非常に重要なことだっていうふうに思います。
 
 そうだとすれば、たとえば、ほんとうの意味で、第一首目でいえば、「筑波嶺の をてもこてもに 守部すゑ」っていうのは、それならば、これは景物の、風景の、写実的な表現であろうかっていうふうに考えてみましょう。それから、二番目の「鎌倉の 美奈の瀬河に 潮満つむなか」っていうのは、それは、景物の、つまり、写実的な表現であるかっていうふうに、考えてみましょう。
 そうすると、アララギ派の考え方でいえば、それは、実相観入とかいうことになりまして、ある程度、そういうところから、写実っていう、茂吉の言葉でいえば、実相観入なんですけど、つまり、写実主義っていうものがでてきたわけです。
 
 しかし、ほんとうは、これは、景物の表現でありますけど、写実でもなんでもないのです。この場合の景物は、筑波嶺のうんぬんもそうですけど、この鎌倉の美奈の瀬河っていうのは、いま、稲瀬川っていってる川です。それから、この水無瀬河っていうのは、どこにでもあるものです。京都のほうにもあります。つまり、水無瀬川って、水の無い川と書いて、水無瀬川っていうふうに読ませている川があります。
 つまり、そういう川っていうのは、そういう川の名前っていうのは、いたるところにあるわけですけど、そういうふうに、いたるところにあるってことが、ひとつの重要なポイントになるわけですけど、この場合には、景物の写実的表現というよりも、景物自体が、これは、ぼくの言葉でいえば、ようするに、共同幻想なんですけど、つまり、ある共同体の観念的な象徴という意味合いで、使われている景物なのです。
 これは、筑波山もそうです。これは、関東地区における、たいへん、集落、あるいは、村落の共同体にとって、非常になんらかの進歩的にか、なんらかの意味で、非常に象徴的なもの、そういうものが、ここに景物表現のごとく存在して、一首のなかに、無意味な表現としてでてきているわけです。
 
 だから、それは、けっして、写実でもなければ、いわば、われわれが現在、考えるような景物描写、風景描写ってものとも違うわけなんです。そういうことを、よく理解し、よく考えないと、そこから、写実化、しかも、景物に対する写実化っていうようなものが、非常に微細にわたって追及されてくるっていうのは、そういう短歌の形式っていうのは、近代以降においても、おこなわれてきているわけですけども、おそらくは、それは、まったく違うので、そういう人たちの、万葉の解釈の仕方っていうのは、どこかが違うのです。
 どこかが違うってことは、いま言いましたように、虚詞としてみるか、つまり、無意味な表現としてみるか、あるいは、なにか一首の詩の心の在りどころってものをおびきだすためのイントロダクションとしてみるかっていう、そういう微妙な違いってものが、それを写実としてみるか、あるいは、共同の観念、宗教的にか、あるいは、生活的にか、そういうものが集まるところの景物ってものが、いわば、そういうものとして、無意味であるけども、そういうものとして、そこにだされてきたかっていうことの解釈の、非常に微妙な違いのなかに、問題がでてくるわけです。
 
 そういうふうに考えていきますと、日本の短歌形式というものの、起源の独自さってものが、おのずからはっきりしてくるわけで、その独自さと、いわば、迷路ってものが、非常にはっきりしてくるわけで、そこのところで、おそらく、日本語の言葉で書かれる詩の問題ってものが、大きく、問題の発端として、でてくるというふうに考えられます。
 
 
  (5) 日本語の迷路
 
 
 それから、もうひとつの問題は、非常に、今度は、言語学上の問題になってしまうわけですけど、たとえば、日本語と、日本語周辺にある、たとえば、地域との言語年代的な比較をやると、そうすると、だいたい、どこにも類似の言葉がないっていうようなことが、現在のところでてきているところなんですけど。
 つまり、日本語と、なんらかのかたちで共通性があるらしいとみられうるのは、まず、琉球沖縄では、3,4千年くらい以前には、同じ祖語から分かれたであろうということが、おおよそ言えるということ、それから、もうひとつは、7千年から1万年くらいさかのぼりますと、日本語と朝鮮語っていうのが、あるいは、同じ祖語に、つまり、元の言葉にぶち当たるのではないかってことが、なんとなく言えそうだってところが、現在の言語年代的な到達点であるわけですけど。
 
 しかし、考えてみまして、周辺の領地と、まったく関係のない、類推がきかないような言語っていうのは、言葉の本来的な性質からしてありえないのであって、もし、それだけのことしかいえない、つまり、日本語っていうのが、どこにも周辺に類推する基盤がない、あるいは、類似の言葉が見つからないってことは、どういうことを意味しているかっていうと、大変な誤解がどこかにあるに違いないと。
 その誤解の主な部分は、たとえば、漢字の音でもって置き換えていったと、それで、置き換えていきますと、はじめは、表音的っていいますか、音を借りるために、漢字を借りてきたわけですけど、終いには、それが年代を経ていきますと、漢字自体の一語一語に意味がそれぞれありますから、だんだん意味があるものとして、変わってきてしまうってことがありうるわけです。
 
 だから、たとえば、二番目のあれでいいますと、美奈の瀬河っていうふうにあるでしょ、そうすると、あの美奈っていう字を、みなさんご覧になりますと、なんとなく、きれいでおっとりしたっていいますか、そういう感じがするでしょ、つまり、そういう意味合いがあるみたいな感じがするでしょ、しかし、そこが迷路のはじまりでして、そんなことは、ぜんぜん関係ないのです。
 だから、それとおんなじことなんですけど、たとえば、水無瀬川っていう、水無しの瀬の川って書く、水無瀬川っていうのが、たとえば、京都のほうにいきますとありますけど、そうすると、なんか水があんまり無くて、川の瀬がいっぱいでているっていうような、そういう印象を、自然に受けてしまうでしょう、しかし、そんなことは何の意味もないです。
 そういうふう字をあてますと、ひとりでに、字が意味をあたえてしまうってことで、変わってきてしまうのです。つまり、その種の迷路ってものは、日本語の古典語から振り分けたうえでないと、言語年代学的な比較というのはきかないということがあるのです。
 
 つまり、そういうことを、言語学者っていうのは、より分ける方法っていうものをつかまないかぎりは、やはり、日本語っていうのは、わりあいに、孤立語であると、つまり、周辺の領域に共通の言語っていうのはみつからない、あるいは、共通の祖語にいきあたるだろう、つまり、共通の元の言葉にいきあたるだろうっていうような言葉にいきつかないってことがでてくるのです。
 それは、そういうことは、たいへんおかしいことであって、そういうことは、本来的にいえば、ありえないことなんですけども、おそらくは、そのもとは、その種の、美奈瀬河っていうふうに、ああいう字を書けば、なんとなく美しいような、やさしいような川みたいな感じになります。それから、水の無い瀬の川っていうふうに書けば、なんか浅くて、川の瀬がいっぱいでているっていうふうな、そういう川っていうふうに、だんだん年代をくううちに、そういうふうに考えていってしまうっていうような、性質が漢字にはありますから、そういうふうにして、ぜんぜん、まったく違うものに変わってしまうってことが、違う意味に変わってしまうってことがあるのです。
 そういうことを、方法的に選り分けられなければ、おそらくは、言語年代学っていうのは、比較をやっても意味がないというふうに、ぼくには思われます。それが、おそらく、日本語を、たとえば、非常に孤立語だっていうふうに思わせてくる、非常に重要なポイントだっていうふうに思われます。

 吉本隆明氏は『初期歌謡論』のなかで同じようなことを、違ういい方で述べている。

 上代の和語の本性にもうすこし近づく尽く方法は、ひとつだけありそうにおもわれる。言葉はけっして古層のままとはいいえないが、和語のいいまわしを純粋に保存しているわが南島の歌謡をみてみることである。このばあい『おもろさうし』よりも、八重山のような南方の辺境の歌謡のほうが適切であろうとおもわれる。干魃になるとこれら南辺の島の村落では、あげて〈雨乞い〉の祈願をやった。それぞれの村落の水主(ミジイヌシイ)と司女たちが、まず御嶽で雨乞いをした。それでも雨がないと村人たちが全部で、御嶽の庭前に浜の白砂を播いて降雨を願った。それでも雨がふらないと村の七歳以上の男女が全部で降雨を祈った。それでも降雨がないと役人たちが全部あげて祈り、ききとどけられないと最後に竜宮祭を挙行した。水主や司女たちは、御嶽の前で〈雨乞い歌〉を唄った。(喜舎場永玽『八重山古謡』上)
 
 
    原歌
 
   南七(パイナーラ)ヌ島カラ    パイナーラの島から
   水本()ヌ島カラ        水本の島から
   石雨()戸ユ          石の戸を
   ハネアケ           はね開け
   金雨(カニアトウ)戸ユ      鉄の戸を
   キリアケ           切りあけ
   黒ミヤガリ          黒き雲
   給ボウラレ          給われ
   白ミヤカリ          白き雲
   給ボウラレ          給われ
   海ナラシ           海鳴らし
   給ボウラレ          給われ
   山ナラシ           山鳴らし
   給ボウラレ          給われ
   バガ島ヌ           我が島の
   上ナカ            すべて
   親島ヌ            親島の
   チイヂイナガ          頭のうえ
●原歌のみ喜舎場永玽「八重山古謡」上より引用   
 
 
 大石垣御嶽の雨乞い歌のひとつである。この農耕祈願の行事にうたわれた歌は、すこしも上代語とはおもわれないが、わが古代歌謡よりも古いとおもわれる語法のあとがある。それは「黒き雲 給われ 白き雲 給われ 海鳴らし 給われ 山鳴らし 給われ」というような箇所によくあらわれている。喜舎場永玽によれば、ここは〈黒い雨雲(よ)(雨を恵み)給え 白き叢雲(よ)(水を)給わる(ように) 海鳴りのする(程の)(大雨を)恵まる(ように)山鳴りする(程の)(豪雨を)給わる(ように)という意味になる。ここでの助詞のつかい方、切りつめ方は詩的省略の限度をこえている。これは構文の本性に根ざしているように推定される。たぶん和語の基層のところでは、名詞と名詞の重ねとおなじように主語と述意の言葉があれば、助詞が存在しなくとも文脈にのっとっての適切な意味をたどれるものであった。そのためには主語の接尾形ある異いがあった。そういう時間を想像することができるかもしれない。灌漑水、東南アジアから南中国のどこかにある想像上のパイナーラの島に水元があり、天にかかった石の戸をあけ鉄の戸をあけると雨が天から降ってくると、八重山の村落人たちは信仰していた。八重山の「古謡」に、和語の未明であった時間の基層が面影をのこしているとすれば、この基層は、おなじように未明の共同体の村落人が参加した農耕神事のおもかげをのこしていよう。この〈雨乞い〉のばあいも、かつて上古では神事にくわわった村落人たちは、集団の愚依状態ににた体験をもったにちがいない。この「雨乞歌(チイジイ)」も、水主や司女に先導されて村落人の誦えたものであったろう。
 
 未明の村落共同体のひとびとは〈あからしまかぜ〉が「暴風」と表記され、〈はやさめ〉が「暴雨」とかかれ、〈ちかきさと〉が「隣里」と記され、〈かむがかりす〉を「顕神明之憑談す」とかかれ、神事のための集り〈かんつどへにつどへて〉を、たんに「会へて」と表記されたとき、和語の意識と漢語とのすさまじい落差を覚えたにちがいたかった。できあがった漢語を読みくだすときの和語とのあいだの距離の凄じさは、たぶん公けにつかわれた言葉と、村落の生活のあいだにつかわれた言葉との落差を象徴するものであった。そしてまた、漢文化をはやくから摂取できた共同体の首長の周辺と、和語の意識に埋もれて生活していた村落の人々のあいだのそごを象徴するものでもあった。「暴風」と書きあらわして〈あからしまかぜ〉と読ませる意識は、現在のわたしたちにはまったく不可解といってよい。「暴風」という言葉を〈荒れ狂う大風〉というようにすぐに受けとる意識はあっても、〈あからしまかぜ〉とうけとる意識のないところで、わたしたちは『記』や『紀』からこれらの言葉をとりあげている。しかし当時では、まったく異っていたはずである。まず〈あから=しまかぜ〉という畳み入れの言葉とそれに対応する概念があり、それに適応する漢語を大陸文化のなかから探しもとめた。〈暴風〉の漢語をあてたときどういう矛盾を覚えたのだろうか。この矛盾はなによりも村落のひとびとが、首長とその周辺によって掌握された宗教的象徴や祭儀や文化の規範にたいして抱いた距離感であった。つまり和語を表意文字であらわす抽象性にたいする距離感は、それを掌握している共同体の首長とその周辺にたいする距離感として感じられるものであった。
 これは、成語や成文になるほどひろがる一方であった。(略)

 さらに『詩的喩の起源について』を聴いてみる。

  (6) 序詞と虚詞の違い
 
 
 そうしますと、三番目の短歌、歌になりますけど、今度は、
 
 
    見渡せば 明石の浦に ともす火の
    秀にぞ出でぬる 妹に恋ふらく
 
 
 っていう場合には、この場合でも、一首の意味は、まったく下の句にあるわけで、つまり、自分たちの恋っていうのが、他人になんとなくわかるようになっちゃったというふうなのが、この一首の意味であります。
 そうしますと、今度は上句ですけど、この場合の上句になりますと、あきらかに今度は、比喩、暗喩になります。つまり、「見渡せば 明石の浦に ともす火の(あるいは、ともす炎)」っていう、つまり、それは、暗喩でして、それは、おそらく、研究者がいう、序詞ですか、イントロダクションっていうふうに考えていいものです。
 それから、現代詩的な概念でいえば、暗喩っていうふうに考えてよろしいものです。で、この四番目に並べてある短歌もそうなんですけど、
 
 
    辛人の 衣染むとふ 紫の
    情に染みて 念ほゆるかも
 
 
 っていう場合に、この一首の詩の意味は下句にあります。つまり、心に染み入るように、こいつのことを想うっていう、それが、一首の意味です。
 そうしますと、上句っていうのは、なにかといいますと、この一首の意味を導き出すためのイントロダクションです。この場合には、現在の言葉でいえば、詩的暗喩であるというふうにいえると思います。
 そうしますと、なにが、たとえば、前のふたつと、後のふたつとは、なにが違うのであろうかっていいますと、つまり、上句、または、下句っていうものが、暗喩の短歌形式のなかで、暗喩ってものの起源となりえているということです。それだから、暗喩ですから、暗喩としての意味はありますけど、一首のほんとうの意味は、もちろん、三番目、四番目でも、下句にあるわけなんです。上句は、まったく暗喩であるっていうふうになります。
 しかし、さきほどいいましたように、一番目と二番目の場合の、上句、または、下句っていうものは、これは、暗喩ではありません。つまり、これは、暗喩ではなくて、まったく無意味な言葉です。つまり、無意味な表現です。だから、むしろ虚詞といいましょうか、ノンセンスといいましょうか、そういうものにほかならないっていうふうにいえるのです。
これは、非常に微妙ですけども、これは、終わり二番目の短歌と、それから、はじめ二番目の短歌とは、微妙に違うっていうのは、そういうところです。
 
 そうしますと、どういうことが考えられるかっていいますと、おそらく、最初と次の短歌っていうのは、表現として古いかたちというものを保存しているので、つまり、この古いかたちっていうのは、どういう意味合いをもつかっていいますと、これは、たとえば、短歌を黙ってつくるっていう、黙って書いてつくるっていう段階に、もちろん、あるわけですけれど、なお、それ以前に、たとえば、つまり、集団的な歌垣みたいなところですね、あるいは、祭りの集まりみたいなところで、誰かが、言葉で上句に該当することをいうとか、下句に該当することをいう、そうすると、また、男、または、つまり、異性が、たとえば、フッと、即興的に、下句または上句に該当することを、その連想からヒュッと出してきたというような、つまり、そういう音声を出して、掛け合いをやったっていうような、そういう場面っていうものの、音声言語っていうものを、ある程度、保存した表現だっていうふうに、お考えになるほうがよろしいと思います。
 
 だから、けっして、比喩ではなくて、あるいは、喩ではなくて、いわば、ひとりが、上句または下句に該当することを言ったと、そうすると、なんかそれからフッと触発されて、次の誰かが、下句または上句に該当する言葉を、ヒュッと掛け合いで、言葉で出していくっていう、それが、音声でもって、そういう、現実に言葉の掛け合いをやったと、それが、かなりうまくいけば、恋愛が成立するっていうような、つまり、気心があいつはわかっているってことで、恋愛が成立するっていうような、そういう情況っていうものを、状態っていうものを、ある程度、保存しているっていうふうに、一番目、二番目の東歌の場合には考えることができます。
 
 しかし、そうはいっても、そんなに古い表現ではありません。つまり、古い表現ではありませんっていいますと、つまり、日本語で最も古い詩の表現だっていう、たとえば、『古事記』とか『日本書紀』とかに書いてある、入れてある詩とか、あるいは、『万葉集』のこういう東歌みたいな、つまり、当時でいえば、辺ぴなところで歌われた民謡的な歌ですけど、そういうものが、いくら古いといっても、ほんとうは、ものすごく新しいものであるわけです。
 だから、ほんとうに、日本語の詩の起源とか、日本語の、言葉の言いまわしの起源っていうものにたどり着くためには、たくさんのことをより分けないと、そういう類推をきかすことができないっていうことが、非常に、本筋であろうというふうに考えられます。
 
 
  (7) 詩のなかに意味を込めることのむずかしさ
 
 
 そうしますと、こういうことから、詩的な喩として、喩の起源として考えられることは、つまり、導き出せることは、一篇の詩というものが、つまり、詩形式のすべてをつかって、すべてをもちいて、つまり、主観的な感情をあらわすっていうふうに、詩の表現っていうのは可能でなかったってこと、それは、おそらく、日本語の性格っていうこともありましょうし、また、日本人の生活の仕方っていうもの、現実的な生活の仕方っていうのにもかかわりましょうし、さまざまな要因にかかわりましょうけども、すくなくとも、日本の詩が、わりあいに、古いかたちで、つまり、発生を起源に、わりあいに古いところで保存しているものから、われわれが現在、類推できるところによれば、日本の詩っていうやつは、どういう次第かはわかりませんけども、詩のなかに意味を込めるってことが、大変むずかしいってこと、つまり、意味を込めるところには、詩の問題っていうのは、ほんとうはあまりなかったんじゃないかってことがいえるということ。
 
 それから、もうひとつ、違う意味でいいますと、一般的に風景の描写だとか、日本的な自然美っていうふうにいわれているものは、まったくの、ほんとうは錯覚であって、ほんとうに起源のところで、たとえば、景物っていうものが、詩の表現でいわれている場合には、その景物は、けっして、写実的な意味での景物、あるいは、自然っていうことを意味しないのであって、それは、むしろ、宗教的に、あるいは、自然信仰の段階において、ある村落なら村落、あるいは、共同体なら共同体が、共通の象徴として、つまり、そう言えば、筑波嶺っていえば、もうアッていうふうにわかってしまうっていうふうな、そういう意味合いで、筑波嶺なら筑波嶺って言葉は使われていますし、美奈の瀬河っていう場合にも、水無瀬川っていえば、アッていうふうに、なんだっていうふうにわかってしまうっていうような、そういうような意味合いで、観念の、しかも、個人の観念じゃなくて、共同の観念が象徴的に寄り集まるところとして、たとえば、自然っていうものが、当初に詩の表現のなかに存在したってことがいえると思います。
 
 しかし、近代におけるさまざまな研究、あるいは、さまざまな歌人、あるいは、学者っていうものの、研究の仕方っていうのは、知らず知らずのうちに、たとえば、現代の詩の段階をもって、過去の詩の段階を推し量るっていうような、そういうところに、知らず知らずに陥るために、もともとノンセンスな、つまり、ノンセンスな虚詞にすぎないっていうものを、イントロダクションであるというふうに理解したり、また、暗喩であるとか、比喩であるとかいうふうに理解したりしたというところに、おそらく、近代以降の短歌の問題があるというふうに考えます。
 
 それは、おそらくは、短歌の問題だけではなくて、「おまえは歌人か。」、「ああ、そうだ。」と、「おまえは俳人か。」、「ああ、そうだ。」と、で、「おまえは詩人か。」、「はい、そうだ」と、しかし、おそらくは、ぜんぶ詩人であるわけです。だけども、いちいち、「俳人か、おまえは。」、あるいは、「おまえは歌人か。」とか、「おまえは現代詩人か。」というふうに、断らなければならない問題っていうものが、近代以降、現代にいたるまで、生じているわけですけど、しかし、おそらくは、それは、なんらかの意味合いで、日本語における詩の起源に対する、なんらかの意味合いでの誤解にもとづくっていうふうに、ぼくには考えられます。
 
 古典っていうものは、これは、理解するのは、たいへんむずかしいわけです。これは、もちろん言葉のむずかしさってこともあるのでしょうけど、しかし、言葉のむずかしさってものは、いずれにせよ、蓄積された業績がありますから、それは、いずれにせよ、たいしたものではないように思われます。もし、手間暇さえかければ、たいした問題ではないように思われます。
 それよりも、詩とは何かっていうような、非常に本質的な問題のところで、なにか、もし、錯覚があるならば、たいへんわかりにくい迷路のなかに入ってしまうってことが、日本の詩の表現の場合には、現在に至っても、依然としてあるというふうに、ぼくは考えます。そこの問題が、おそらくは、ほんとうにむずかしいので、これは、詩の表現ごとに、詩の比喩の表現として、つまり、喩の表現として、問題があるばかりでなく、おそらくは、言語学上の問題ってものが、そのなかに、たくさん含まれているだろうというふうに思われます。
 
 つまり、こういう迷路ってものは、非常に、現代の段階では不可能に近いのですけど、しかし、やがてそれが、非常にうまくっていいますか、積み重なって解かれていった場合には、おそらく、日本語の現代における詩を、現代詩であるとか、俳句であるとか、あるいは、短歌であるとか、そういうふうな、いちいち断り書きをしなければ、詩っていうことについて、なにもいえないっていうような、そういう馬鹿げたっていいますか、情況っていうものは、追々なくなっていくだろう、つまり、追々、解消していくだろう、つまり、消えていくだろうというふうに思われます。
 しかし、残念なことに、現在の段階では、そういうところに、いろいろな意味で到達できていない、つまり、それは、言語学的にも到達できていない、それから、詩の表現としても、あるいは、詩形式の問題としても、到達できていないっていうところで、問題がさまざまに起こってくるってことがありうると思います。
 つまり、そこいらへんのところを解くのは、一朝一夕には不可能ですし、また、個人がいくら頑張ってもできないだろうというふうに、簡単にはできないだろうというふうに思われますが、徐々に、そういうことは、謎解きのように、徐々に、徐々に、つまり、薄紙を剥ぐようにといいましょうか、そういうふうにして、徐々に、徐々にはっきりしていくだろうというふうに思われます。
 そういうところで、おそらく、日本の詩っていうもの、あるいは、詩の、非常に本質的な問題である喩の問題、比喩の問題、あるいは、暗喩の問題っていうものが、非常に本格的なものになっていくだろうというふうに思われます。
 
 残念なことに、たとえば、わたくしは、こういうふうなことを、ここで申し上げましても、そういうようなこと以上のことは、いまのところ、どうすることもできないっていいましょうか、確定的に指摘することができない状態っていうふうにあります。これは、ぼくなら、ぼく以外の人が、それをやっても、いまのところでは、どうすることもできないというふうに思います。
 しかし、問題の所在ってものは、いま申し上げましたようなところにあるのではないかってところが、現在、ぼくらが、そういう問題について到達している到達点です。これを、たとえば、学者、研究者、古典学者、あるいは、研究者のかたが、これを認める、認めないとか、あるいは、現代詩人たちが、認める、認めないとかいうことは、おのずから別問題なんですけど、しかし、問題の所在は、おそらく、この辺のところにあるのではないかっていうふうに、ぼくには思われます。
 だから、そこの問題のところで、たとえば、現代詩、あるいは、近代以降における日本の詩の問題ってものを、多く考えられなければならないところがあると思います。
 
 
  (8) 現代詩と詩的喩の起源
 
 
 今日、さまざまな問題になっております、たとえば、西脇さんの詩も、詩論も、いわば、詩というのはなにか、それは、ナンセンスであると、つまり、意味がないのだと、人はいかに生くべきかとか、人生はなんであるとか、そういうことはナンセンスであるってことが、西脇さんの主張でして、それは、いまの西脇さんの詩の表現も、現在でも変わらないと思います。ただ、変わっているのは、色つやといいますか、そういうものは、歳とともに変わりますから、そういう意味合いでは変わっているでしょうけど、詩の表現がナンセンスであるというふうな、そういうことは、おそらく、現在でも、変わっていないだろうというふうに思われます。
 
 このことのなかには、現代詩における詩の表現というものは、ナンセンスであるということの、つまり、ナンセンスでありさえすればいいのだ、つまり、ナンセンスこそは、現代詩における非常に本質的な問題なんだっていう、そういう問題は、ある意味で、非常に本質的な問題でして、これは、明治以降、さまざまな人が、さまざまなように、詩というものはナンセンスじゃないというふうに頑張ったのですけど、それはどうすることもできないことがあるのです。
 それは、なぜ、そうかといいますと、それは、日本語の詩の表現の起源というもの、あるいは、日本語における詩的喩っていうものの起源の問題から考えても、いま申し上げましたとおり、大部分がナンセンスであるわけです。非常に簡単なことがちょっといってあるっていうような、それが、まず、非常に本格的なっていいますか、本質的な詩の問題であったわけです。
 その問題ってものは、現在でも、おそらく続いているのであって、だから、詩というものはナンセンスであるっていうようなことのなかには、それは、一個の詩人としての主張とか、詩的方法とかいう問題を超えて、非常に重要な問題が含まれているように思われます。わたくしには、詩がナンセンスであろうと、そんなことは、どうでもいいように思います。
 そういうことのなかに、争うべき、あるいは、競うべき問題なんていうのはないのであって、それよりも、詩というものはナンセンスであればいいんだと、あるいは、言葉であればいいんだっていうような、そういう問題の出され方っていうものが、どこからきたのかっていうことが問題なのです。
 
 それが、現在の世界どこでも、世界全体どこを数えても、詩の問題の本質がそんなところにあるっていうところから、そういう言われ方がしたのならば、そういう言われ方っていうのは、おそらくは、そんなに根底はないのであって、もし、詩っていうのはナンセンスであればいいのだっていうような、現代詩っていうのは、徹頭徹尾、ナンセンスであればいいのだっていうような、そういう主張のされ方が、いま申し上げましたとおり、日本語の詩的な起源とか、喩の起源、あるいは、日本の非常に本質的な問題、そういうところから、もし、根底的にでてくるならば、それは、たいへん重要な問題であろうというふうに、ぼくには思われます。
 しかし、現代の段階では、残念なことに、詩の表現がナンセンスであるということ、あるいは、それは有意味であるっていうような主張も、いずれにしても、それは、現代詩の場合には、それはどこかからでてきているでしょう、つまり、どこかからきているということが問題なのであって、どこかからでてきてもいいのですけど、どこかからでてきていることを、あたかも、本質的であるかのごとく語るってことが問題なのであって、それは、現代詩における、たいへん大きな問題として、でてくるだろうというふうに思われます。
 
 その問題も、早急に解決できない問題ですけど、しかし、さまざまな人による、徐々に、実作、及び、検討といいますか、検討の積み重ねのなかから、おそらくは、段々、そういうことも、薄紙を剥ぐように、はっきりしていくだろうというふうに、ぼくには思われます。
 だから、詩は意味がなければ、それでいいのだという言い方も、言われ方も、また、詩は意味がなければならない、ハートでなければならないという言われ方も、いずれにせよ、いまのところ、非常に根底をもって、なんぴとによっても主張されたり、あるいは、実作されたりできないというところに、おそらく、現代における日本語の詩の問題ってものの、非常に本質的な問題ってものが、存在するかのごとく、ぼくには思われます。
 
 持ち時間の制約のなかで、ぼくがいえたことは、いま言いましたとおり、そういうところが、どうもすこし錯覚らしいとか、迷路がここにあるらしいということだけにすぎないので、それに対する、なんら解決っていうもの、あるいは、解決の示唆っていうものは、申し述べることができないのですけど、しかし、問題の所在は、おそらく、そこであろうっていうことがいえれば、ぼくは、現在のところ十分だっていうふうに考えております。
 あるいは、これからの実作、あるいは、詩論の展開のなかで、それは、徐々に、徐々に解かれていくだろうと思いますし、あるいは、それを解かれていくっていう課題は、みなさんのほうにゆだねられるのかもしれません。つまり、そこの問題が指摘できれば、ぼくにとっては、甚だ満足というべきだというふうに考えております。簡単ですけども、これで終わらせていただきます。
 
 
★「ほぼ日刊イトイ新聞」さんの「吉本隆明の183の講演」の『詩的喩の起源について』の引用・転載をさせていただきました。ありがとうございます。

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     ★ 「ほぼ日刊イトイ新聞」さんの「吉本隆明の183の講演」の
      『詩的喩の起源について』のサイトへ。

      「ほぼ日刊イトイ新聞」さん、ありがとうございます!
      大変に勉強になりました。感謝、感謝!