日付:2020年4月17日 

  遊びとしての『百人一首』  吉本隆明氏の『写生の物語』を読む (1)

 
 わたくしごとから入らせてもらえば、高校は商業高校へ進んだので、商業科は商業簿記、そろばん、商業実務や商業文書の作成のとかの授業がたくさんあり、『古文』の授業はあまりなかった。で、というのもおかしいが、『万葉集』は授業で習ったような気もするが記憶にまったくなく、諳んじているのはたった一首だ。
 
  東(ひむかしの野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
  かへり見すれば月傾きぬ (柿本人麻呂)
 
 この和歌の背後には政治的な暗い事件があったらしいことは授業で習ったような気がするが、その詳細はすっかり忘れてしまっている。でもその事件があったからこの和歌を憶えていたのかというと、この和歌は、そんな事件がなくとも、単独で哀しい調べというかメロディをもっている気がして、その暗さゆえ憶えていたとったほうがいい気がする。けれども、それもどうも怪しい気がする。後年どこかで再読して憶えたのかもしれない。
 
 この一首の和歌を文字にしてみると、明治期につくられた和歌をいくつか思いだした。啄木は除いた。
 
  (1) 亀井戸の藤も終りと雨の日をからかささしてひとり見に来し (伊藤左千夫)
  (2) 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり (正岡子規)
  (3) のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
(斎藤茂吉)   
 
 正直に白状すれば、上の三首を諳んじていたわけではなく、和歌の上五七五や下七七の言葉の端々が少しは頭にのこっていて、ネットで確認しながら並べてみた。
 
 (1)は、わたしが生まれたのは東京の墨田区の玉の井で、亀戸へは東武線の玉の井駅から浅草行きに乗り、曳舟駅で乗り換えれば遊びに行ける。運河沿い長い路を亀戸までとぼとぼととひとりで歩いて遊びに行ったことを憶えている。「亀戸天神」は、「藤の花」、「たいこ橋」、「うそ鳥」が下町でも有名で子供たちでも知っていた。「雨の日」と「からかささしてひとり見に来し」をうろ覚えに記憶しており、また作者の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』を高校の頃読んでいたので、それに高校が地理的に京成線の「高砂駅」と「金町駅」の中間辺りにあり、小説にでてくる「矢切の渡し」は部活でのマラソン・コースだった。
 (2)は、なぜこの和歌(短歌)が秀歌なんだろうか。子規の「写生」ということは授業でも習ったような気がするが、作者の陰が登場し、作者の手元の動きと視線との順番だけを丁寧に追っただけで作った歌ったじゃないか、この歌が「秀歌」だというのなら、和歌(短歌)はやはりかなり特異なもんなんだんだ、そんな感じを抱いた。「たたみの上にとどかざりけり」の下句の七七は憶えていた。いまなら少しは違う解釈もできるように思う。
 (3)は、「のど赤き玄鳥(つばくらめ)」とを「母は死」を憶えていてネットで確認して並べた。この歌はどこか張りつめたような緊張感と哀しい調べをもっていて、巧みな構成力が目立つように思う。別格の和歌(短歌)だと思う。
 
 2020年の4月に入ってから、『写生の物語』(吉本隆明著)を再読しはじめた。外出もひかえなければいけない、仕事もほとんどなくなってしまった、夫婦揃って散歩しながら買い物をするか、家でじっとしているしかないので、理解がまったくできなかった本を棚から下ろし読みはじめた。
 感染が終息するまでは長い時間になりそうな予感がするので、可能なら芝居の台本を書くヒントになればよいと思ってメモをとりはじめた。帰り路を忘れて、現実(演劇)の場所へ還れず迷子になってしまう気もするが、なんとかやってみたい。
 
 現在の社会や時代から、わたしたちの作業はどんな隅へ追いやられようとしているのだろうか。あるいは、どんな未知の自由を手にしようとしているのか。演劇の表現の内部(台本書き、演出、俳優、各技術者等)では、どのような変容を不可避に強いられているのだろうか。そんなそれぞれの位置でが抱えている切実な課題に少しでも近づければと思っている。
 
 
 
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  遊 び と し て の 『 百 人 一 首 』
 
 
 ここでいう『百人一首』は、子どものときから大ざっぱな音読の理解でなじんできた『小倉百人一首』のことだ。大ざっぱな音読の理解は、たとえば「あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」(謙徳公)という歌を、わたしの父親や隣家のおばさんは「思ほえで」か「思ほえて」かわからないようにしか音読してくれなかった。もちろんのこと、それを耳できいて札をさがすわたしはどちらかわからずにいた。意味としては正反対なはずなのに、正月の札とり遊びの段階では、あまり影響もなかったし、つきつめて考えもしなかった。それでたのしかったから。
 
 いまでもわたしはこの一首の意味がよくわからない。そして嫌味をいうようだが、この和歌体をいきなり眼のまえにおかれたり、音読されたりして<あわれ恋にやつれているなとじぶんのことを言ってくれそうなひとは思いうかばないうちに、わが身はこの世を終えることになってしまうのだろうか>というほどの意味だと理解できるひとが、そんなにたくさんいるとはおもえない。いいかえれば「思ほえで」が正しくて「思ほえて」は間違いだということになる。この一首のような種類と質のわからなさが『百人一首』の精髄だということになるとおもう。たしかめるためにもうすこしこの種のわからなさに立ち入ってみたい。
 
 
 (1) かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける (中納言家持)
 (2) わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ (元良親王)
 (3) 住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ (藤原敏行朝臣)
 (4) 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな (三条右大臣)
 (5) 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに (藤原興風)
 (6) 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな (右近)
 (7) 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは (清原元輔)
 (8) かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを
(藤原実方朝臣)     (9) 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ (大納言公任)
 (10) 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ (周防内侍)
 (11) 心にもあらでうき世にながらえば 恋しかるべき夜半の月かな(三条院)
 (12) 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ
(祐子内親王家紀伊)     (13) 憂かりける人を初瀬の山おろし はげしかれとは祈らぬものを (源俊頼朝臣)
 (14) 長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき
 (藤原清輔朝臣)   
 
 
 意味がよくわからない難解歌は、ほとんど挙げたつもりだ。難解の種類はふた色しかない。ひとつは一首を流れる意味に不明なところはひとつもないのに、その背景になっている情緒や事実がよくわからないために生れてくる難解さだ。たとえば(1)の、
 
 
  かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける (中納言家持)
 
 
 「かささぎの渡せる橋」というのは、七月七日の七夕の夜に、天の川にかささぎが群れをそろえて橋をわたし、そこを牽牛と織女がわたって出会うという説話を知っていれば、どこにも難解なところはなさそうにおもえる。夏の夜の銀河の星の群れが「かささぎの渡せる橋」の意味ととれる。そこに霜が置くというのは初冬になって冴えわたった天の川の星の群れの明りで、地上においた霜が白くひかってみえる。そんな霜月のころの夜半のころだということだろう。ただの叙景歌にみえるが、誰も「かささぎの渡せる橋」に「霜」が置いたという伝説の夏の七夕の天の川と、霜がその橋に置いたという叙景の継ぎ目にひっかかってしまう。後世のおおくは、幻のこの橋が白くみえる雲がかかっている景物のようにおもった。そしてかささぎの橋と雲とを結びつける類歌が詠まれた。だがこの「かささぎの渡せる橋」は中天の銀河の星の群れの明るさの比喩とみれば、地上に置いた霜がその光で白くみえるよという意味になりそうだ。「かささぎの渡せる橋」を雲と結びつけることはいらないようにおもえる。なぜこの歌が難解になるかは、「かささぎの渡せる橋」という中国産の七夕伝説を中世の頃の歌人たちに、どんな受けとり方の重さと質で、どの程度ひろく流布されていたかが、わたしたちに難解だからだとおもえる。もうひとつとりだしてみれば、もっとよくわかる気がする。(10)の作品、
 
 
  春の夜の夢ばかりなる手(た)枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ (周防内侍)
 
 
 この歌が難解だとすれば「手枕」という語の中世的な重さ、質、流布のされ方が、わたしたちに切実に実感できないからだ。わたしは子どものときから、春の夜に独りじぶんの腕枕で恋を夢みているだけなのに、恋人と伴寝をしたという評判がたってしまって口惜しいというほどに解釈してすましていた。だが注解や『千載集』の「前詞」をみると、みんなと語りつかれて内侍周防が枕が欲しいと小さな声でそっとつぶやくと、大納言忠家が、これを枕にしてくださいとみすの下から腕(かいな)をさしいれたので詠んだと書いてあるから、話はちがってくる。「手枕」がじぶん自身のものでなく、男の腕を意味しているのだ。情緒の背景がどうしても違ってしまうところから難解さがやってきている。
 
 どうしてこうなるのか。わたしの古典にたいする理解力がたりないからだと言いたいところだが(そうに違いないのだが)、そうではないと言いくるめたいわけだ。つまり歌人たちは(おおく『千載集』の歌人といえば時代を指定したことになるが)、この時期に何ごとかを企てはじめているのだが、その方途がわからない過渡にあるために難解が生じているのだといいたいのだ。これをもっとつきつめてゆくと、もう一種類のちがった難解さにであう。たとえば(12)だ。
 
 
  音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ (祐子内親王家紀伊)
 
 
 ここでもひとつは「音に聞く高師の浜」というのがどれほど名高い歌枕だったのかの実感がないために、「あだ波」をひきだすのにどうして「高師の浜」をもってくるのかがわからない。そしてもうひとつの難解さにつながってゆく。その「あだ波」である空しい恋にひき入れられて袖をぬらして泣くような失恋のうき目にあうまいというのか(つまり「かけじや」か)、またはその「あだ波」のような空しい恋にひき入れられて、袖をぬらして泣くことになったよ(つまり「かけしや」)ということか、すくなくとも音読からは判断できない。おなじことは(3)の歌の「人目よくらむ」と「人目よぐらむ」とのあいだにもおこる。また(4)の「人に知られ」と「人に知られ」のあいだにもある。(4)の「誓ひてし」と「誓ひして」のあいだにも(6)の「またこのごろや」と「まだこのごろや」のあいだにもおこる。これらは音読で清音と濁音とを読みちがえたり、分別できなかったりしただけで、意味は正反対になってしまう。この危うい音読のさいの聴きとりの困難がもたらす重要な意味の変更がなぜ、音韻が生命である朗詠をどこかで勘定にいれている歌の表現にあらわれているのだろうか。それは歌人たち、とくに専門歌人とでもいいたいような名だたる歌人たちが、歌の表現を変更しようとする過渡にあったからだとおもえる。この変更は音韻の重点から意味の重点への変更だとおもえてくる。たとえば(7)の歌と(8)の歌とを比べてみる。
 
 
  契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは (清原元輔)
  かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを (藤原実方朝臣)
 
 
 前の歌は失敗作だとおもう。なぜなら互いに恋を失った嘆きはけっしてすまいと誓ったというのは、まったく明瞭な表現だが、「末の松山波越さじとは」の歌枕としての重さと質がどれだけあったのか、そしてその地形はどうなっていたか、そして波がそこを越えるというのはどんな条件なのか判らないかぎりは、唐突な比喩でしかないからだ。これは『古今和歌集』以来の習慣になった和歌の言いまわし方にたいして、より複雑な意味をうち出したい欲求を、表現のうえで処理しきれないためにあらわれている唐突さや中途半端さが難解にしているとおもえる。もっと極端な例は(2)の歌だ。
 
 
  わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ (元良親王)
 
 
 この歌を<恋のうわさで悄気ているいまとなっては同じことだから「難波の澪標(みおつくし)」のようにこの身をささげてどうなってもいいからあのひとにあいたいとおもう>というほどの意味にとるのは、不可能にちかいとおもえる。理由は和歌体で思いも及ばないような複雑なことを、複雑に言いまわしてやろうとしているからだ。元良親王もまた当時のプロの歌人といえるほどの力量をもっていた。そして力量のある歌人がいちように和歌表現を叙景から心意の表現に変えようと必死で試みているようにおもえる。

 この視点からみてゆくと後にあげた実方の歌「かくとだにえやはいぶきの」は『百人一首』のなかで指おりの成功した作品だとおもえる。難解な言いまわしだが、すこしもあいまいさがないからだ。<こんなふうにあなたを恋しているといえないでいるのだから、伊吹山のさしも草(よもぎ)のように、さしものことにあなたはわたしの燃えるようなおもいを知らないでしょう>という意味は、一義的に通じる。しかも比喩の使い方や織りまぜ方も見事だし、音韻もあいまいな誤解をはさむ余地はない。伊吹山にさしも草(よもぎ)がたくさん自生していたことも、無理なく伝わってくる。

 わたしの理解では難解歌の音韻的な由来と意味上の由来を一通り尋ねあてたら、『小倉百人一首』の遊びにまつわる問題点は大半いいつくしたといっていいとおもう。それ以上の詮議は国文学の研究上のことにかかわってくるだけだ。それでは『百人一首』の秀歌はどんなことになっているのか。
 
 
 (1) 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき (猿丸大夫)
 (2) 小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ (貞信公)
 (3) みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ (中納言兼輔)
 (4) 人はいざ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける (紀貫之)
 (5) あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
(和泉式部)   
 
 
 秀歌とする理由はふたつだ。意味の流れが明瞭で、音韻の流れや同音・類音の重ね具合が心持よいことだ。文字の表現に即していえば、意味の表現と比喩のイメージとが調和がとれていて巧みだということになる。ほんとうに秀歌であるかどうかを問うためには、音読のあらわれと文字表現のあらわれとの微妙なちがいをとりだしてみなければならないとおもえる。ここで秀歌として挙げたいくつかの歌は、文字表現の歌という観点からは、叙景と叙情の結びつきの意味が単純すぎるということになるかもしれない。しかしわたしの脳裏には、たえず子どものとき近所の子たちが集まって、一年に一度やった悪遊びではない、すこし改まった感じの遊びのイメージにあって、そこを判断の原点にしている。この秀歌という意味をもうすこしはっきりさせるには、純叙景歌といえるものをとりだしてみればいいとおもう。
 
 
 (1) 大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立 (小式都内侍)
 (2) 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木 (権中麹言定頼)
 (3) 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり (能因法師)
 (4) 高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ (権中納言匡房)
 (5) 秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ (左京大夫顕輔)
 (6) 村雨の露もまだひぬ槙の葉に 霧たちのぼる秋の夕暮 (寂蓮法師)
 
 
 純叙景歌といったが、ほんとはそうでない。(1)でいえば「道の遠ければ」とか「まだふみもみず」とかいう表現で、ひとりの作者の影ともいうべき存在が叙情したくおもっていることがわかる。また(2)では「川霧たえだえに」とか「あらはれわたる」とかいう言いまわしで、たんに叙景でなく、叙景したがっている一人の人間も叙景一首のなかに含まれていて、存在を主張したがっていることがわかる。そうするとさきにあげた秀歌は、叙景の奥にひそんだひとりの作者の存在感の主張がしだいに叙情にまで延びてきているか、その逆の過程で、均衡がとてもいい形になっているものだということがわかる。いやもうひとつ特色をつけ加えれば、これらの秀歌は恋歌の主題だということになる。わたしの好きな秀歌で恋歌になっていないのは、つぎの一首だけのような気がする。
 
 
  世の中は常にもがもな渚漕ぐ あまの小舟の綱手かなしも (鎌倉右大臣)
 
 
 この無常観の表白は、釈教的ではなく、存在の無常観になっていて、作者の心の色が鋼色にみえている。
 
 
 ★ 引用歌 有吉保『百人一首』講談杜学術文庫
 
 
★ 吉本隆明著『写生の物語』の「遊びとしての『百人一首』」を抜粋させていただきました。  

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 和歌(短歌)についてなにも知らない素人だから勝手な願望をいわせてもらえば、なによりもはじめに教えてもらいたいことが三つある。博識のひとたちからは嘲笑されてしまうに違いないが、その三つは素人にとって、和歌(短歌)のわからなさの根本にかかわる問題だし、わたしやだれでもが短歌を敬遠してしまう雰囲気を短歌じしんが漂わせている場所だからだ。ここを入り口にするのは大変なことはわかっているが、正確さなど求めてもえられないことはわかっているから、じぶんなりの納得をえて、<現実>への還り路をなんとか見いだしたい。
 
 (1) なぜ、古代(初期)の和歌(短歌)は、作者は、じぶんの心を直接に述べたいのに、なぜ叙景・叙事というかたちを採らざるを得なかったのだろうか?
 (2) 古代(初期)の和歌(短歌)の五七五七七は、どのような凝縮の時間のなかで形態化されていったのだろうか? また、時代や社会のなかで、短歌はどのような変容を不可避に受け入れてきたのだろうか?
 (3) 『枕詞』とは、なんだろうか? あるいは『虚詞』とは、なんだろうか?
 
 この三つの疑問に少しでも触れることで短歌の本来を知りたいという願望は、当然わたしのような無知なものには不可能なことだ。でも、それはわたしの遠望の課題の半分でしかない。和歌(短歌)の本来のイメージを、それが素人の貧しい短絡やとんでもない誤解であったとしても、じぶんのなかでイメージを作りあげることで、それを、どうのようにしたら演劇の現在の問題へ繋げたられるのか、その遠望を遂げたいのだ。<短歌>とわたしたちの<現在の演劇の困惑>をうまく繋げられるかまったくわからないが、じぶんとしては、そんな迂遠な方法を採るらざるをえないのから、仕方がない。
 なんでそんな問題を取り上げたいのかというと、素人判断だが、とりわけ(1)の問題に内在される自然な感性<じぶんの心を直接に述べたいのに、なぜ叙景・叙事というかたちを採る>は芝居のなかにも遺制として残っている気がしてならないからだ。
 
 時間はたっぷりあるので、ゆっくり少しずつメモをとっていきたい。
 
 
      ★ この稿、続く。       ★ aboutの頁へ戻る。