日付:2021年3月10日 

  「中也と道造の短歌」  吉本隆明氏の『写生の物語』を読む

「白木蓮」

2011年3月、5つほどの白木蓮の花が咲いた。  

 
 
 ●『ほぼ日刊イトイ新聞』の吉本隆明さんのフリーアアーカイブスで、
 『中原中也・立原道造──自然と恋愛』の講演とテキストを読むことができます。
  『ほぼ日刊イトイ新聞』様、ありがとうございます。
 
 
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  中 也 と 道 造 の 短 歌
 
 
 
   
 
 
 中原中也と立原道造は、昭和十年(一九三五)前後の時期の現代詩を代表する詩人だ。この詩人たちは、たぶん古典としてゆるぎない声価をもっている。その根拠はすぐに共通して幾つか挙げられる。ひとつは二詩人とも広い意味での自然詩人だということだ。そしてこのばあいの自然詩人というのは、草花や天然の現象を主題にした詩を書いた(書いたにはちがいないが)というよりも、自然を対象とするときに詩的凝縮を獲取したと言ってもいいし、詩的凝縮を遂げるモチーフで自然に向ったと言ってもいい。主題が自然であったという意味は従属的でしかない。
 
もうひとつの根拠は二詩人とも「私」小説という概念とおなじ意味で「私」詩人だったということだ。このばあいも私生活を主題としたというのは従属的な意味しかない。私感覚の探りあてる範囲を詩的凝縮のモチーフとしたという意味になる。この二詩人の相違点もまた、とても著しいと言える。その第一に挙げられるのは、中原中也の詩は生活感情の流れと生活感覚にまつわる感受性の濃度が格段に濃いことだ。第二に立原道造の詩を主体にして言えば、生活感覚や生活感情の流れは中也に比べて稀薄だが、自然にたいする感覚と感情の流れを、心理の微細な揺れにまでもってゆく繊細さがある。二詩人のこの共通点と相違とのあいだに、双方の初期の短歌作品があるといえる。
 
 
  珍しき小春日和よ縁に出て爪を摘むなり味気なき我
  籠見れば炭たゞ一つ残るあり冬の夜更の心寂しも
  友食へば嫌ひなものも食ひたくて食うてみるなり懶き日曜
  森に入る雪の細路に陽はさして今日は朝から行く人もなし
  二本のレール遠くに消ゆる其の辺陽炎淋しくたちてある哉
(中也「末黒野」温泉集)  
 
 
 これは中也が短歌のリズムの抑揚を比較的意識して作った作品のうちから取りだした。何が問題となりうるかといえば、どうしても短欣的な声調になりきれないところだとおもう。たとえば第一首目をとってみる。たまたま珍らしく晴れた秋の日和にさそわれて、縁側に出て爪をきっている。それは若者のふとした生活感情の流れをつくっている。だがポエジーを形成するには、何か別の素材の要素が加わらねばならないとおもえる。そこまででは色合いがポエジーにたいして〈中性〉だからだ。これは散文についてもいえる。いい散文の一節になるためにはおなじように何か素材の要素が加わらねばならないとおもえる。
 
わたしはすぐに漱石の『門』の書き出しのところを思い起こした。主人公宗助は縁側に出て秋日和を浴びて雑誌を読んでいる。細君のお米(よね)は障子の内側で針仕事をしている。この構図をいい散文にするために、もうひとつの素材の要素を加えている。それは宗助が肱枕でごろりと横になった姿勢でお米に「近来(きんらい)」の「近」の字はどう書いたっけと聞くところだ。お米は「近江のおうの字じゃなくって」と答える。その「おうの字」が分らないのだという宗助に、お米は物指の先で縁側に「近」の字を書いてみせる。これがいい散文にしている別の素材の要素を加えた個所だ。なぜかといえば、宗助とお米の光景の構図が、この要素を加えることで活字を読みなれた者が、誰でもふとその漢字がその漢字であることが疑わしくなることがある瞬問の、心理的な構図を日常の主婦の仕事に慣れた細君との問答の構図に変化させているからだ。
 
なぜこれがいい散文の要素かといえば、この要素を加えることで、散文の別な動きが始まるからだ。中也の短歌「珍しき小春日和よ縁に出て爪を摘むなり」という上句の意味が動くためには下句の七・七あるいはこのばあいのように終句の七が、別の素材の要素を加えなくてはならないはずだ。だが中也は終句の七で上句の全般の解説を企てているとしかおもえない。これは計用の第二首目でも、三首目でもおなじだ。どうしてだろうか。初期のころの未熟な歌だからポエジーにまで寄せきれなかったのだという答えが、専門歌人からすぐかえってきそうな気がする。だが未熟ととらずに資質的な特色ととらえればどういう解釈になるだろうか。わたしは中也の生活感情の直接性ともいうべきものが下句または終句になっているのだとおもう。「味気なき我」「心寂しも」「獺き日曜」「今日は朝から行く人もなし」「陽炎淋しくたちてある哉」。中也が言いたかったことは直接にはこういう生活感情のひと飽で、これは必ずしも短歌形式を必要としていない。自由な散文にちかい詩形式で自由に直接の情感をぶつけてゆけばいい。この欲求をたどれば遥かに中也の抒情詩の世界につながってゆく。
 
 
  細き山路通りかかれるこの我をよけてひとこといふ爺もあり
  枯草に寝て思ふまま息をせり秋空高く山紅かりき
  冬の夜一人ゐる間の淋しさよ銀の時計のいやに光るも
  汽車の窓幼き時に遊びたる饒(にぎつ)津神杜の遠くなりゆく
  この朝を竹伐りてあり百姓の霧の中よりほんのりみゆる
(「末黒野」温泉集)  
 
 
 これらの短歌はもう一つの中也の傾向性を象徴している。たぶんかれはこれらの作品でつとめて写実的であることを短歌的であると決定しようと試みた。しかしどうしても茂吉のいわゆる写生的な短歌にはならなかった。かれの生活感情が輪廓をはっきりともつことができなかったから、形象の固定が不可能だった。また三十一文字にしているのだが、それぞれの音数は起承も転結も構成できなかった。
 たとえば第一首目は、
 
 
   細い山路を通りかかると
    すれちがった老爺は、すれちがいざま
   路をよけてくれながら
    ひと言、言葉をかけてくれた

 
 
 そう叙述しているだけだ。これはどう考えても、先の引用歌とは違った意味で短歌にはならない。だがしかし詩の一行または数行にはなりうるものだ。いくら幼稚にみえても、中原中也の優れた詩は、修辞的にはこれ以上の形象もこれ以上の輪廓ももっていない。かれの天才的な詩の感銘がやってくる個所は、修辞の一貫した性格などにはない。日わく言い難いのだが、生活感情の深さが形象性も叙情性もあいまいなようにおもえるその修辞の不意打ちの表現に、肉付きの面のように喰い込んでいるところからくるともえる。わたしたちはこの肉付きの面の深さや強固さが、どうすれば言葉に喰い込んで離れないのか、またどんな詩的な修練がそれをもたらすかを、解明することができない。おぼろ気ながら、かれの修辞が洋風でありながら、わたしたちがまだ気付いていない日本語の伝統的な無意識の力を借りているに相違ないと言えるだけだ。
 
 
  吹雪夜の身をきる風を吹けとごと汽車は鳴りけり旅心わく
  犀川の冬の流れを清二郎も泣いてききしか僕の如くに
  一段と高きとこより凡人の愛みて瞳ふ我が悪魔心
  猫をいだきやゝにひさしく撫でやりぬすべての自信萎びゆきし日
  暗の中に銀色の目せる幻の少女あるごとし冬の夜目開けば
(「未刊詩集」)    
  タタミの目 時計の音 .一切が地に落ちた
   だが圧力はありません
(倦怠者の持つ意志)    
  扇子と香水-----君、新聞紙を
  絹風呂敷には包みましたか
(「初夏」)    
  筆が折れる それは程足りた心があるか
  だつて折れない筆がありますか?
(「迷つてゐます」)  
 
 
 前半の短歌は、啄木の歌の自由さを改めて学び直して作られた、中也のいちばん短歌らしい短歌だ。しかし内容的にはすでに短歌的形式がいらないのに、強いて短歌的な声調を固守してみせている。修辞は自由だが短歌形式としては決して自由ではない。引用の後半は、ダダ風に修辞を不意打ちに使うことで短歌的な声調を解体しながら、なお短歌的な余韻を曳きずっていることを示すために、詩篇の一部を短歌的な一行に改行してみせたものだ。この二つは年数としても接続している。中也の短歌が詩の方に引き継がれる様子は、ほとんど風の吹き変りのように自然で必然のようにおもえてくる。
 
 
 
   
 
 
 立原道造の短歌作品に感じる特徴で、中原中也と共通な、そしてとても目立つ点がある。それは音数で短歌的な定型を固守しようとしているのに、どうしても声調が短歌を構成しないといえば、いちばん当っている。
 
 
  誰かが
  調子外れな大声で
  僕の知つてるうたをうたつてる。
  一週間もつづいた雨がやんだので
  空の青さが目にしみるんだ
  一匹では淋しくないか
  垣の上に、ぢつととんぼがとまつてゐるが。
  三つまたの道では
  梨の花だけがもう散つてゐる。
  白い花だが。-----
  梨の花が白く咲いてたつけなあ。
  さうさう
  鳥小屋のそばだったけなあ。

 
 
 中也の短歌とおなじように、ひとつは短歌的な声調にまで凝縮できずに中途で表現が放棄されているとおもえる。この見方からすれば形式的な自由と、もう少しの行数があればポエジーを構成できるのに、ただの叙述だけの切断におわってしまっている。別の言い方をすればポエジーの構成の仕方が手に入っていないのだと言ってもいいかも知れない。しかし全く反対の言い方をすれば、立原道造の後年の詩は表現の修辞的な意味内容からすればこれ以上のことにはなっていない気がする。たぶん道は二つの方向にたどられている。ひとつは短歌的な声調を獲得するまで凝縮度を濃くすること。もうひとつは修辞的に詩の方向に開いてゆくことだ。もちろんこの開き方は立原道造のばあい心理的なニュアンスが修辞のあいだに微妙にひだを開くことにあたっている。これは中原中也の修辞的に生活感情の深い融和がなされる方向と異なっている。
 
 
  そよろ吹く風に
  日の光もゆらぐやう
  大覚寺道の静かな晝さがり
  枯草の混つた原つぱに
  疎開したときに、
  ひとり頭の上で、太陽は孤独(ひとり)だつた
  眼の奥までつづく
  町の灯の点々
  いつかの夜もこんな気がした
  くつきり、舗道に暑い陰影が映つてゐる
  すゞかけのかげとにんげんのかげ

 
 
 これらの歌は短歌的な凝縮がすすんでいる例だといえる。ここではいいかわるいかという言い方をしないとすれば、短歌としてのポエジーは成り立っている。それとともにしだいに心理的な一瞬の陰影をとらえようとする触手も感じられてくる。
 
 
  何といふ寂莫! これが、親友と向ひあつてる気持?
  口をきけば直ちに憎悪の言葉とならう、
   友の横顔をみまいとする
  「お修身」があなたに手紙をうけいれさせなかつた、僕は悪い人ださうです
  振り返ってみた。あの低い杜のかげを路は曲ってゐたっけ
(知歌雑誌「討歌」所載)  
 
 
 この例は、心理の遠近法がまだ定まらないときの心理描写の短歌作品だ。もうすでに短歌的な声調へ向おうとする凝縮感ははじめから捨てられている。短詩とかエピグラムになった寸言のように受けとった方がいい。ここまでくれば『萱草に寄す』の詩篇はもう地続きだといっても言い過ぎではない気がする。またここまでくれば短歌的な声調を求めようとすれば、すぐに求められるにちがいない。だが立原道造は自然詠に心理の微細なひだを融和させる方向に駈けていった。立原道造の作品に意義が大きいのにたくさん触れられていないところがあるとすれば、短詩とも散文的なエピグラムとも言える作品群だが、これは深入りできなかった。
 
 
 
 
(★ 栗色の彩色は菅間)   ★ 吉本隆明著『写生の物語』2000年講談社刊。「中也と道造の短歌」より抜粋させていただきました。

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