日付:2017年10 

  ~ 「テレビの話芸」から ~吉本隆明さんから聴く。

 

西日暮里の高台にある「諏訪神社」へ向かう急な坂道に咲いている水仙群  

 
   --- テレビはどこへゆくか  吉本隆明さんから聴く ---
 
 
 現在のテレビの主流は、旧いタイプの芸能人たちには忿懣やるかたないらしく、うっ積した不満の伏流卯が、ときにテレビの画面に噴出してきて、みっともない場面になる。八月三日の4チャンネル午後二時からの「東京・大阪爆笑くらべ」で、東京、大阪の芸のちがいよりも、新旧の漫才芸のちがいが、主な話題になっていた。横山やすしや内海好江たちは、いまの若い芸人には芸なんかなにもない。ほんの四分か五分漫才がつづけられればそれで通ってしまう。若い漫才師で三十分きっちり喋くれるものなどいないし、芸なんかなくてもどうってことはない。長い年月、師匠にどつかれて磨いた芸なんか、いらない世の中になってるんだ。また逆に四分か五分の切れ端みたいな芸はいやだといって出演を断ると、もうつぎから声がかからなくなる。嘆かわしい世の中になった。そうぼやきあっていた。
 
その前日にも三宅裕司が司会のトークとパフォーマンスの番組で、団しん也が芸なんか何もない素人の悪ふざけみたいなのが幅をきかして、ほんとの芸や芸人は、面白くもない芸をごりごりやっている馬鹿みたいにおもわれる時世になってしまった。そんな愚痴をこぼしていた。こういうのを旧来型の芸能人の内向的にうっ積した慨嘆やグチとすれば、以前に、とんねるず司会の番組で、日頃とんねるずがうめまくるのが面白くないと想っていた野坂昭如が、テレビ画面で暴力沙汰におよんで、視聴者に醜態の一端をさらけだした事件や、泉谷しげるがゲスト出演した夜半の番組で、若い司会者を困らせていたのは、旧来型の役者・テレビ人の忿懣の硬派な形を象徴している。
 
もっと範囲をひろげれば、金曜日の深夜一時から朝までやっている「朝まで生テレビ」で「角栄政治は終わったか」といったたぐいのつまらない床屋政談と論議を朝までやっている小田実、大島渚、田原総一朗といったたぐいの旧い型の進歩派にも、何てこともなくただ明るく軽くながれていってしまう世相への、おなじような忿懣の質があらわれいる。もちろんもとお範囲をひろげれば文学や芸術の分野、いいかえれば映像や話芸でなくて、文学や絵画のような、文字や色彩の表記の分野まで、この忿懣は普遍化できるといっていい。ここでもいまの若い作家や画家は、軽くて明るい節片があるだけで、一貫したモチーフも社会観もなくなっている、といったふるいタイプの作品や作家の批判が横行している。
 
 これらのふるい慨嘆人種たちは、現在では芸がすでに<自然芸から解体芸へ>といった流れに沿って走っていることをかんがえてみようとしないのだ。たしかに、十年かかってコマ廻しや皿廻しや特猫の鳴きまねを修行して、入神のワザに達したといったたぐいの芸は、ブラウン管の映像のスピードにはいらなくなってしまった。そんなものをゆっくり鑑賞しているほど、視聴者も暇など(この暇は心のゆとり)もてない。はやく片づけてつぎになってもらいたいのだ。こらえ性もなけれ思いれもない。コマ廻しや皿廻しや猫の鳴き声など、素人が二、三ヵ月かかってできる程度のでいっこうにかまわない。失敗してコマや皿をおとして、壊しても、そんなことはどうでもよい。かえってご愛敬になるというものだ。
 
 だが慨嘆人種たちは誤解する。視聴者は芸を鑑賞する能力がなくなったから、コマや皿を落としても、笑ってゆるされるのでhない。しくじる動作もまた芸の解体の表現だから、しくじったときの振舞いも方もまた、解体のなかに組み込まれ、しくじりを繰り返すごとに、その人の人の人柄や即興の表情をされけだすことも、解体芸のなかに繰りこまれてひろがってゆくのを知っているのだ。このひろがりがすべて、芸の解体の表現として芸のなかにふくまれ、核反応のように無限増殖されるというのが、解体芸の本質だ。ふるいたタイプの慨嘆芸人たちはそれがわからない。じぶんが年季を入れて身につけた、コマ廻し皿廻しや猫や人間の物まねや、芝居の演技力みたいなものだけが芸だとおもっている。
 
それはただの修練して蓄積された芸にすぎないので、それ自体は熟達すればするほどいいにきまっているが、ブラウン管の映像のうえでは、視聴者は蓄積された芸がどんなふうに、どれだけ解体されて(壊されて)いるかだけが芸だとおもっている。だがこの連中にはそれがわからなくなってしまっている。視聴者をあなどったり、素人と見まがうほど稚拙な話芸でありながら、堂々と悪びれずにのしている若い芸人たちを、ただ軽薄な流行にのっただけだとみなしている。ブラウン管のうえの画像が高度になり、無意識に全身の動きや表情を映すようになった。それもまた芸になかに組みいれられてしまい、こんなことが繰り返されて、芸と芸でないもの、芸の動きと芸でない動き、芸の表情と芸でない無意識の表情のあいだかが、区別や断絶もなくつながっていく。その全体の流れがしべて視聴者の眼にさらされることになる。視聴者はたんにコマ廻し皿廻しの技術だけを芸としてみるのではなく、失敗も成功も、そのときの表情や、動きや、服装から姿勢、笑いも悲しみの表情も、すべてを組みいれて全体を芸だとみるようになるのは当然だ。芸能家の方もそんなふうに芸の概念を変更せざるを得なくなっている。これもまた当然のことだ。
 
 こういう解体話芸のはじまりは萩本欽一の自然芸からであった。もっといえば萩本欽一と坂上五郎のコント55号からであった。そして現在、ビートたけし、タモリ、明石家さんまなども話芸は、それをどんどん解体して流れる芸にまでもっていった。この流れはとんねるずまでつながっている。この流れは芸自体の技術だけを芸だとおもっていた芸能人や、現在、芸の修練自体が芸になりうるとおもって疑わない芸能人には、たんに悪ふざけを喋っているだけで、芸にも何にもなっていないと、にがにがしくおもっているにちがいない。だがそれはまったくちがう。洞察力が足りないか、偏見と先入観のため、かれらの解体芸が微分できなくなっているのだ。透徹しなければならない観察眼がくもっているのだ。
 
「朝まで生テレビ!」で床屋政談の討論会をやっている小田実たち一党もおなじだ。わたしは小田実や筑紫哲也のように、何をやっても、いつまでたっても半人前で、そのときどきの世界党派の一方に同伴することでしか身がもてない理念にまったく興味がない。ここでいいたいのは、そんなことではない。テレビ映像技術とテレビ放映の現在の流れに照らして、旧い慨嘆芸人とおなじで、長年修練したり同伴したり、挫折したりして築きあげたじぶんの政治的な見識を、そのままぶつければテレビ討論になるとおもっているため、不発弾がくすぶっているような苛立たしい流れしか生み出せないでおわっている。そしてそのことに気がつかない。それがどうしようもないことだ。いちどでもじぶんの理念や見識を解体して(壊すように)喋ってみようとしないかぎり、たんに理念だけではなく、理念のスタイルも駄目になってゆくことは眼にみえている。テレビは怖いメディアだ。そのワイド化と映像技術の高度化は、ほとんど究極まで芸と理念と身体表情の意識的な、また無意識的な動きのつながりをこまかく写しだしてゆくにちがいない。
 
★(吉本隆明「情況としての画像 テレビはどこへゆくか 」高度資本主義化のテレビ 河出書房新社年刊)
 
 
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   --- テレビの話芸 ---
 
 
 
左寄せの画像  いまテレビ界の姿を象徴するテレビタレントは誰かと問われたら、いくらか個人差はあっても、萩本欽一、ビートたけし、タモリ、明石家さんま、「とんねるず」ということになるとおもう。(略)
 タモリの活動の姿はやはり、8チャンネルの正午から午後1時(毎週月曜~金曜)までやっている「笑っていいとも!」が中心だとおもう。この番組でのタモリの話芸の特色をならべてみる。
 
 (1)いつも変わらぬ表情と声の張りを維持していて、さり気なく即興的に流してやっていると視聴者に印象づけて、長い年月身体の節制と修練をつづけていることを視聴者に感づかせない見事さ。
 (2)このタレントの話芸を背後でささえている放棄の構造。いいかえれば持続して知識をつめこんだり、ひとつのことを考えつめ、それを蓄積したり、悩んで思いこんだり、理念をつくりあげたり、といったような、多少でも知的な人種が自己肯定的にやっているやり方を、いっさい放棄してやらない覚悟性。話芸の冴えとは、その瞬間その場に応じて、まったくの空白からやってくるのだという理念をもって実行していること。
 (3)タモリはほんらいは暗く、物事を悩んでかんがえ込み、社会通念にラジカルな反撥心を抱いているのに、、それを大衆の一般性を保つスレステのところで、通念にも妥協せず、さればといって半端な傾向性にも陥らずに維持していること。
 (4)ひとの良さでファン層をつかんでいるのではなく、劣情を平気で話芸のなかに吐きだし、吐きだしたことを誇ってみせもしないという印象で人気を保っていること。作為的にではなくじぶんを相手や視聴者に、さり気なく低くみせるという自己卑下を身につけている。
 
 タモリがときどき口にする、おれと鶴太郎は主婦が寝たいとおもわないタレントの一番手なんだというのは、このことを象徴する。男のもつえげつなさを隠しもしなければ誇張もしない、またエロスをいやらしくしてみせて、視聴者をおちょくる自己卑下を身につけている。
 
 
 
左寄せの画像  これにくらべて明石家さんまの特色を言ってみる。さんまの話芸はじぶんが主宰する深夜番組「さんまのまんま」(8チャンネル)にそれほどあらわれていない。むしろフリーランサーとしてタモリの番組「笑っていいとも!」などに客分として出てきて、タモリとフリー・トーキングなどするときに、特色があらわれている。さんまの話芸の特色を並べてみる。
 
 (1)たけしの「おれたちひょうきん族」のばあいもそうだが、番組の主宰者としてよりも、副主宰番組のときに自在さを発揮している。いいかえればさんまの話芸はソロの演技者の個性と自主性の強さではなく、反個性の人柄のよさがにじみだすギリギリの自在さにある。別の言い方をすれば、おれは思い通りに勝手なことを野放図に即興的にしゃべっても、視聴者に悪い感じをけっして与えないという自信を、あるとき身につけた。それがさんまの話芸だといえる。
 (2)さんまの話芸にも自己卑下の方法がある。だが相手にも視聴者にも気づかせないで本音の人柄と見まがう自己卑下に特色がある。瞋(いか)りや攻撃の演技すら自己卑下のあらわれだと気づかせないほどだ。
 (3)演技やしゃべり方の芸を、芸とおもわせないほど意識と無意識とじぶんの人柄をスムーズに結びつける方法を体得している。それがさんまの芸だとおもえる。
 
 もちろん時代性をいえば、タモリの暗さや毒を包みこんだうえのさり気ない話芸よりも、さんまの自在感をあたえ、打てば響くような淀みのない流れに、時代は加担しているようにみえる。だがソロ演技者としての彫りや刀の使い方をほんとうには持っていない。相手がさんまの話しぶりに乗ってくれないほどの個性やくせの強さをもっていると(たとえば忌野清志郎)、意外なほど自在感をなくして凡庸な話しぶりにおちこんでしまう。さんまには話芸の工夫と勉強はあっても、タモリのような放棄の決断がない。いいかえれば、話芸を磨こうとすこしでもおもったり、知識を獲ようと努力したり、時代を把もうと心がけたりしたら最後、天から降ってきたような即興の話芸などやってこないのだと覚悟をきめるようなことに、一度もぶつかったことはない。それがさんまをソロの演技者としては物足りなくしているのだとおもえる。
 
 
 
左寄せの画像  ひとがいうように、ビートたけしは、すでに過ぎたのであろうか。たしかに「フライデー」事件のあと、じぶん自身がのれない度合いに応じて、その分だけ過ぎたともいえる。辛辣さの迫力が減ってしまったイビリとギャグ、じぶんでじぶんの話芸を馬鹿馬鹿しくおもいはじめたためにでてきた気のぬけたような、芸としての骨おしみ。かつてのファン層を惹きつけるような意味の魅力は半減した。だがある意味からいえば、かつてのファン層(わたしなども含めて)に受けるか受けないかなどということは、話芸の問題としてはつまらないといえばつまらないことだった。ビートたけしはいまはじめて萩本欽一とおなじ芸の位置に立っていることに気づいたといえよう。その場所はラジカルでもなく鋭いなどということが自慢にもならず、イビリとギャグの質によって、じぶんの考えを突出させることもあまりたいした意味がない。平穏で甘くもあれば、すこしの苦み混じり、ただその場その場の或る時間だけ面白かったり愉しかったり、われを忘れていられれば、話芸に特別な感心を持続しない普通の老若男女の世界が対象なのだ。そこでビートたけしのいまの話芸の特色をあげれば、ただつぎの点に要約されよう。
 
 (1)「風雲!たけし城」(6チャンネル・午後8時~10時)や、こんど終わりになった「番組の途中ですが!再びたけしです」(4チャンネル・午後9時~10時)などによくあらわれているように、企画力と芸の新しさをいつも追求していること。「たけし城」は、コンピューター・ゲームが現実のゲーム場面(戦争・合戦・スポーツ試合・冒険など)を画像にしつらえることで、映像のシュミレーションを愉しむのと逆に、コンピューター・ゲームの映像のゲーム場面を、現実の広場や原っぱらに作り、じっさいに人間が、さまざまなゲーム場面をくぐり抜けたり、障害を越えたり、チャンバラしたりして演じ、上にたどりつけるかどうかのスリルを味わう競技の遊びにしている。これはテレビ画像でみているとコンピューター・ゲームをじっさいの人間が演じ、それをふたたび大型コンピューター・ゲームの画像にして視ているといった無類の面白さが湧く。そして視聴者が感情移入すると、まるで実際の人間が演じているコンピューター・ゲームのそれぞれの場面を、じぶんが操作しているような気分になれる。現実→映像という転換を、映像→現実→テレビ画像という逆の転換におきかえたもので、わたしはいつも見事なものだとおもってみてきた。「番組の途中ですが」でも、芸のうえでやっている。ストーリーと即興的なアドリブとがおなじ重さで混ぜあわされ、本筋なのか脇道なのかわからなくしてしまう話芸と演技の工夫がなされている。視聴者は、たけしやおなじ芸風の演者たちのギャグの面白さと、ストーリーと、即興のアドリブとが混同されてしまい、また分かれるという目まぐるしさのうちに、本筋か脇道かわからなくなる錯覚の面白さと、二重に味わうことになっている。この演技としての新しさは、高度なものだが、高度すぎていまのテレビ芸の段階ではうまく視聴者に通じるとはおもわない。それでも主題と語りのラジカリズムが身上だったビートたけしが、一歩さきへ話芸の演技を踏み込んでみせたものだといえよう。
 
 (2)たけしの演技の与える感性は過ぎつつある。これは東京下町の庶民感情が過ぎつつあるのとおなじことだ。当然気づいていなければいけない。
 
 
 
左寄せの画像  萩本欽一と「とんねるず」は、どういうことになっているのか。すこし触れてみたい。これは「欽ちゃんのどこまで笑うの!」(10チャンネル・正午~1時)と「ねるとん紅鯨団」」(8チャンネル・午後11~11時30分)とを比較してみれば、すぐにわかる。萩本欽一の話芸はもう新しいという意味では過ぎてしまい、過ぎてしまったことに焦燥してもいない。また得体の知れない時代の新しさを追いかけようともしていない。芸の老境に入ったら脇を演じろという風姿花伝書いらいの芸のジンクスに忠実に、すこし下りて流しながら淡々とやっている。型も定まっている。たとえばひとりの若い女性をはさんで二人の男性が出てきて、どちらがほんとの恋人かを、言葉や動作や表情のはしはしから当てるゲスト・クイズがあるとする。それは察知する勘のよさを競うただのクイズなのだ。また恋人とそうでない男女の言葉や動作や表情の微妙なちがいを、番組出場者や視聴者の場所から視ている愉しさや、面白さの感じが狙いなのだ。
 
 
 
左寄せの画像  だが「とんねるず」がおなじようなことをたとえば「彼のバイクで秋風を走ろう」というテーマでやったとする。それはいまのことろ異性のともだちがいない若い男女が、ある意味で本気で番組にやってきて、短い時間のあいだにじぶんの勘に感応した相手を択びだし、男が思いきめた女性のまえにやってきて、「付き合ってくれませんか」と問いかけ、女性はその瞬間にじぶんの思い決めたイメージと眼の前の男の姿とのズレが、許容できる範囲かそうでないかを決め、その場で「付き合う」かどうかを動作と表情で返答しなくてはならない。クイズとしても当事者のクイズだし、ゲームとしても場合によっては相互に傷つくかもしれない真剣なゲームだといえる。またただのゲームか、ほんとの男女の親和感か、境界を破られ、どちらかわからないほど融合しては、ときにより空しさに引き返すというスリルと短いドラマが、当事者によって演じられる。それをみている興味が番組の面白さなのだ。このばあい主宰し、あいだを取りもち、司会する「とんねるず」との二人の位置は、萩本欽一とまるでちがう。
 
萩本欽一は司会者という定位置を自在な話術と表情で演じているということなのだが、「とんねるず」はまったくちがう。相手を定めようと真剣になって演技する当事者の若い男女とおなじ次元に、おなじ表情でついている場所に位置している。またまったくかれらとおなじ方向をむいて「何とかいえよ」とか「困ったなあ」とか「なんだ泣いちゃったじゃねえか」とか言っているだけだ。この「とんねるず」の位置は、ここでいままであげたほかのタレントにもないものだ。つまり視聴者やゲストとして番組の応募してきたふつうの素人の演技者と、おなじ次元で、おなじ方向をむいて話芸を演技している。この新しさは「とんねるず」の素質でもあり、また時代の新しさに無意識のうちに遭遇している「とんねるず」の新しさでもある。
 ほんとは、この「とんねるず」の新しさは、コント55号の萩本欽一と坂上二郎が開拓し、たけし、さんま、タモリ、鶴太郎などによってそれぞれに展開されてきた解体の話芸だ。ただひとつ、かれらは視聴者や素人の出演者の方を向いて、おなじ次元まで自己解体して演技をしているのにたいし、「とんねるず」は視聴者や素人の出場者と同じ方向をむいて、何ものかに向かって演技している。この違いは、あきらかに「とんねるず」の開拓したもので「とんねるず」の手柄だ。ほかにどんな欠陥があろうともだ。
 
★(吉本隆明「情況としての画像 テレビはどこへゆくか 」高度資本主義化のテレビ 河出書房新社刊)
 
 
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