日付:2019年6月 

 「<若い現代詩>について~1982年12月8日~」 (1)   吉本隆明著

JR西日暮里駅の横の高台にある「諏方神社」  

 
 
現在の詩のふたつの方向   吉本隆明  
 
 
 今日はそこらへんから延長線に入っていきたいのですが、そこから違う線を引き直します。そのときにおしゃべりした問題をそのまま延長していきますと、何の問題にぶつかるのでしょうか。僕は次のふたつの問題にぶつかるような気がします。ひとつは、街頭で瞬間的に飛び交っている言葉、あるいは瞬間的に出てきて、また瞬間的に消えてしまうかもしれない言葉はどういう意味を持っているのか。これには、単なる話し言葉で、会話の中で取り交わされている言葉だという意味合いしかないのか。それとも、もう少し違う意味を孕んでいるのではないか。その問題がすぐに延長線で出てくるような気がします。
 
 もちろん、話し言葉というのは、瞬間的に街頭で飛び交うものです。あるいはどこかの街角の看板にある言葉が書かれていて、瞬間的にフワッと目をかすめただけですぐに忘れてしまう。瞬間的に飛び交う言葉には、話レ言葉あるいは日常世界の中で飛び交っている言葉という意味合いと、もうひとつ発声状態の言葉という意味合いがあるような気がします。この発声状態にある言葉こそが、現在の詩の表現にまで引っ張っていく力なのではないか。つまり、発声状態にある言葉というのは、時間をおいてそれを固定して、文字にしてしまって、文字をあらためて眺め直すというふうにしてしまうと、その言葉の意味、あるいは倫理や生活の技術を語つたり、さまざまな伝達を語ったりということになってしまうかもしれませんが、取り交わされた瞬問にとらえられた発声状態での言葉という意味合いで、それを瞬間的にとらえることができれば、相当ラディカルな言葉になるのではないかという気がします。
 
 一見すると何でもないような言葉でありながら、しかもラディカルに何かを語っているというふうになりうる根拠は何かと考えていくと、発声状態の言葉というのはラディカルな面を持っているからではないか。このラディカルな状態での言葉をとらえるということは、現在の詩が当面している非常に大きな問題のように思えます。そのラディカル性ということが、現在街頭で取り交わされているようを言葉自体が、相当高度な詩にまで結晶しうることができる通路ができてきたということのひとつの証拠なのではないかという気がします。
 
 あのおしゃべりをしたあとに出された詩集から拾ってきているのですが、ちょっとそれを挙げながらお話ししてみましょう。次に挙げるのが、いま云った、街頭で瞬間的に飛び交っている言葉をそのままラディカルな状態でとらえようという姿勢でとらえられた作品です。下のほうに線を引っ張って書かれているのが、そうではなく、言葉だけの世界で、非常に厳密に言葉を眺めたり、動かしたりしながらつくられたものです。
 
 
  荒川洋治の言葉の使い方
 
 では、実際の作品をいくつか挙げながらお話していきましょう。たとえば荒川洋治さんの『針原』~思潮社、一九八二年~というごく最近出された詩集の中にいくつかいい詩があります。その一編ですが、これだけで全体を量ることができると思います。「薔薇色の食卓」という詩です。読んでみます。
 
 
     生きている祖母は
     母にとって
     しゅうとめというわけで、否応なく
     間に立つ父は感性のひととなる
     しゅうとめはそぼつ薔薇だ
     八十九歳のいまに至るまで
     よめのつくるおかずを一度として
     口にしたことはない
     八十九歳は家の隅に巣をつくり、対立的に
     くさいものをつくって
     孫の私に食べよという
     甘い手招きにとげがある
     父は母にかくれて
     それを食う
     「うまい」
     とはいわないが
     「ははは」といって食べる
     発声だけとは長年の知恵である
     食べるのではなく
     口先がつまむ
     私の学帽は深く
     一日、冬のなかにある
 
 
 いま読んだところは、全編の半分にもみたないぐらいなんですけど、この『針原』という詩集は一種の自伝的素材の詩であり、作者の幼児期の家庭体験が非常に煮詰まったかたちで物語化されて出てきているように思います。嫁と折り合いが悪く、嫁のつくったものはめったに食わないで、じぶんは隅っこのほうで意地悪に頑張って勝手につくったものを食べている。孫のじぶんを呼んで、じぶんがつくったものを「お前、食べないかい」などと云っている意地悪ばあさんみたいな姿が非常によく物語的に明瞭に浮かび上がってくる、非常にうまい詩だと思います。
 
 この『針原』という詩は、一種の自伝的な詩であり、また書き下ろしの詩集という試みで比較的短い期間に書かれたということもあるのですが、荒川さんはふだんとは異って言葉に向かう姿勢が非常に日常的だということがいえると思います。言葉を日常の事実という次元で捕まえようとしています。これは荒川さんの詩ではたぶん初めての場所です。初めてそういう場所で言葉を使っていると思います。
 
 こういう言葉の使い方をすると、荒川さんはよく僕らのことを老害詩人と云うんですけど、これは老害詩人とあまり違わない言葉の使い方になっています。この言葉の使い方をすると、事実以外の言葉をとらえること、必然的にひとつの物語をつくるためには、どうしても言葉の入口から入らなければいけない。言葉の門から入って、中へ進んでいって、玄関へ来て、玄関を上がって母屋へ行き、そこで何かあってまた外に出てくる。入口から入って、何かをしてまた出てくるという言葉の使い方をしなくては、どうしても成り立たないところがあります。このように事実の次元で言葉をとらえなければ、物語というのは成り立たないのです。荒川さんのふだんの詩ですと、いい詩は特にそうですが、いきなり言葉の母屋へ入ってしまっている。モチーフ自体も母屋の中へ入ってしまっているという言葉の使い方をして、僕らは驚くわけですが、そういう驚きはこの詩集にはあまりないと思います。
 
 皆さんがよくお分かりになるように、この中でそういう意味の驚きを感じるのは、終わりの二行だけです。「私の学帽は深く/一日、冬のなかにある」。これは事態の中枢にいきなり入っていっている言葉です。そのほかの言葉は、門があり、玄関があり、入口があってというふうに辿っていって捕まえられている言葉だと思います。終わりの二行だけが、ふだんの荒川さんらしい言葉だと云うこともできます。しかし、逆に荒川さんにとっては新しい境地、つまり新しい世界を開いてみせたと思っているかもしれない。そういう言い方もできると思います。それはどちらとも云えるわけで、どちらの意味も持っています。これは上手な詩ですが、たいへん平易を言葉で平易な事実を語りながら、たいへん物語的な場面を非常に巧みに表していると思います。荒川さんにしてみれば、幼児体験の中核に沈んでいる場面を詩の表現で捕まえた作品だと思います。
 
 この『針原』という詩集の中にはこういういい詩がいくつかあります。全体が自己体験的といいましょうか、私小説的なモチーフを含んだ詩集です。荒川さんは私小説的な体験を含んだ詩を書く場合でも、フィクションを基にして書きます。フィクションの妹とか、フィクションの母親とか、フィクションを基にして体験的な意味をとらえるのですが、この場合は事実としての私的体験の要素が表現されていると思います。
 
 
  日常語による詩
 
 もうひとつ同じような傾向の詩を見てみましょう。これは山本かずこさんの『渡月橋まで』~いちご舎、一九八二年~という詩集の中にある一編で、短いけれどすごくいい詩だと思います。
 
 
     暗い夜の海だ
     海を見ながら泣いているとどうしたのかと男がいう
     わけなどはじめからあるはずがない
     涙が勝手に流れるばかりだ
     そのとき
     何か得体の知れない大きなものが
     海の向こうからやってきて
     嫌がる男を連れ去ってしまった
     暗い夜の海だ
     海を見ながら泣いていると
     どうしたのかと別の男が言う (「桂浜」)
 
 
 これで一編全部です。これは、一見すると、中島みゆきなどが書く詩とほとんど変わりません。確かに、言葉に向かう姿勢はまったく違わないと云ってもいい。それでもなお違うところがある。どこが違うかというと、この「何か得体の知れない大きなものが/海の向こうからやってきて/ 嫌がる男を連れ去ってしまった」という三行が違うのです。もちろん、その三行がこの詩をたいへんいい詩にしているわけです。
 
  ここの意味を解釈するのは相当難しいと思いますが、つまりこうではないでしょうか。暗い海を見ながら泣いていると、どうしたのかと男が云う。そういう場面が事実であるか、フィクションであるかは分からないのですが、それはどちらでもいいのです。ただ、こういう場面が事実としてありうるのは、僕は男だからよく分かります。女の人は得体の知れない泣き方をすることがあるでしょう。もちろん女の人から見れば得体が知れていて何の不思議もないんでしょうが(笑)、男から見ると得体の知れない泣き方をされる体験がある。女性のほうからそれを語っていると思います。だから、この場面がフィクションであるかどうかということとはかかわりなく、こういうことは事実でなくても真実の体験、つまり体験的な真実だと思えるんです。つまり作者はここで、事実でもフィクションでもないひとつの体験的な真実を語っているわけです。
 
 では、「わけなどはじめからあるはずがない/涙が勝手に流れるばかりだ/そのとき/何か得体の知れない大きなものが/海の拘こうからやってきて/嫌がる男を連れ去ってしまった」というのは、どういう意味なのか。「どうしたの? なに泣いてるんだよ」と聞いている男の場所と泣いている自分の場所はあまりにもちぐはぐで、隔たっている。そういう情況の中で、女性の心の中に「こんな男なんか、いなくなっちまえ。いないほうがいい。邪魔だ」という感情が生まれた。そう言う体験的な真実のことを言っているのではないか。一通り意味は、僕はそう解釈するわけです。男にしてみればさおおあり事情が飲み込めないんたけど、自分はこの女から拒絶されているらしいということだけは分かる。その情況を女性の側から表現すると、「そのとき/何か得体の知れない大きなものが/海の向こうからやってきて/嫌がる男を連れ去ってしまった」という表現になります。「嫌がる」というところが重要だと思いますが、嫌がる男を連れ去ってしまうという、こういう表現になっていると思います。
 
 僕の解釈の仕方は間違っているかどうかわからないのですが、仮りにほぼ正鵠を射ているとするならば、これだけのことを日常飛び交っている言葉で表現するのはたいへんなことだと思います。これは中島みゆきにはまず無理でしょう。でも、中島みゆきは可能でない部分をメロディでちゃんと表現しています。メロディも併せてやることで彼女の詩的表現が完成するわけです。ただ、言葉だけとってきたら、中島みゆきの詩はこれだけの高度な表現はできていないと思います、
 
 現代詩というのが、詩自体として、つまり言葉の表現としてそれが完全にひとつの世界となりうるように表現され、しかもその世界を表現するのに、日常飛び交っているごくありふれな言葉の使い方しかしない、そういうことが可能だとしたら、こういう詩の表現の中でしか可能でないわけです。つまり、どんなに高度な体験的真実を表現する場合でも、こういう瞬間的に飛び交っているありふれな言葉遣いしか使ってはいけないわけで、またこういう言葉の使い方しかしないというかたちで、いかようにも高度な表現ができる可能性が生じてきたことが非常に重要だと思います。そのことは逆に云うと、現在書かれている現代詩とありふれた言葉の問にそういう通路ができたというのは、非常に重要なことのように思えます。いま書かれている若い詩人の詩は、こういう言葉に対する向かい方のほうが多いのです。つまり、主流を占めていると思います。
 
 
  詩と散文の接近  
 
 では、なぜこういう言葉の表現が詩たりうるのか、あるいは詩と呼びうるものになりうるのかというもうひとつの問題を出してくるために、もうひとつ例を挙げましょう。荒川さんの詩もそうですが、散文や小説とどこが違うのか。こういう詩の言葉の使い方をした場合には、詩とか散文というふうに区分けすること自体が無意味になるのではないか。また、行に分けること自体が以前考えられたほど絶対的な意味を持たないのではないか。そういう問題がもうひとっ出てくると思います。発声状態の言葉をとらえ、使おうとすればするほど、そういう問題が出てくるように思います。
 
 これは、かたちは散文です。ブローティガンの『東京モンタナ急行』~晶文社、一九八二年~という小説の中の「ハーレム」という小説の一章です。
 
 
 彼は東京の街をうろついて、美しい女たちの写真をとっているのだが、彼の姿はほとんど透明である。容貌も、風采も、あまりにも月並みで特徴がないから、彼がどのような男であるかは描写することさえできない。彼が目の前にいても、君は彼がそこにいることすら忘れてしまうほどだから、目の前から姿を消せば、彼は完全に忘れられてしまう。そういうたぐいの人物なのだ。
 美しい女たちは、彼が彼女たちの写真をとっていることにまったく気がつかない。もし気がついても、あっという間に忘れてしまう。
 彼は何千枚にものぼる、美しい女たちの写真をもっている。自分の暗室で現像し、等身大のプリントをつくる。彼の押入れには、何千本ものハンガーに、まるで洋服みたいに、写真が掛かっているのだ。
 さびしい気分になると、いつも彼は女を一人そこから取り出すのである。
 
 
 これは小説の一章全部です。この小説の一章と、こういう詩における言葉の向かい方とどこが違うのかということになると思うのです。その違いを云うことはできないのではないかと思えます。違いなどというのは考えられないのではないかという気がします。
 最初の「彼は東京の街をうろついて、美しい女たちの写真をとっているのだが、彼の姿はほとんど透明である」という部分を残して、それ以降を取ってしまうとするでしょう。そして、「美しい女たちは、彼が彼女たちの写真をとっていることにまったく気がつかない。もし気がついても、あつという問に忘れてしまう/彼は何千枚にものぼる、美しい女たちの写真をもっている。自分の暗室で現像し、等身大のプリントをつくる。彼の押入れには、何千本ものハンガーに、まるで洋服みたいに、写真が掛かっているのだ/さびしい気分になると、いつも彼は女を一人そこから取り出すのである」と続ける。そうすると、これは先ほどご紹介した詩とほとんど同じになる。詩という観点で見ても、違うところといったら、「自分の暗室で」の「自分の」はいらないとか、その程度のつまらないことしか残らない。ここはくどいから、この中間部分を取ってしまえば、現在書かれている詩人たちの詩とほとんど同じになるのではないかと思います。
 
 これはブローテイガンの小説の一章全部です。これが一章全部だということは、また違う非常に大きな問題を提起するような気がします。
 小説というのはすなわち、ある程度の構成を持った物語です。構成を持った長編としてまず浮かぶのは、トルストイの『戦争と平和』のような作品です。しかし今は、そういう確固とした構成を持った作品をつくるのが非常に難しくなってきています。もちろん、まったくつくれないというわけではありません。そうではなく、つくろうとするとどうしても、作者として欲していない物語をこしらえることになってしまう。創作の中に、そういう余分なものがどうしても入ってきてしまうわけです。だから使いたくない素材は使わない、つくりたくない物語は一切つくらない。じぶんが矢も楯もたまらずつくりたいと思うような物語でなければ、つくりたくない。そういう感情を突き詰めていきますと、少なくとも長編というのは容易に成立しないということがあるように思います。そこを無理につくれば、本当はつくりたくない物語を嫌々つくってしまったというかたちでしか物語が成立しにくいということがどうしてもあるような気がします。
 
 そうすると、ブローティガンみたいな小説の書き方、やり方というのは、ある意味で、現在の文学の中にどうしようもなく出てきてしまっている形式的な試みでもありますし、内容的な試みであり、なおかつ無視できないひとつの大きな流れとなっています。そうだとすれば、いま申しあげましたように、現在書かれている言葉の使い方・詩の書き方・言葉に対する面し方と区別がつかないというところにいってしまうと思います。
 
 ここ一年でこの問題にいちばん緊迫した姿勢で向き合ったのは、村上春樹の『羊をめぐる冒険」ともうひとつは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』~ともに講談社、一九八二年~で、こういう問題をとことんまでやってしまっているような気がします。やむをえずやってしまっているという気がします。小説において現代の作家が極めて意識的に取り組まざるをえない問題を、詩人はかなり自然にというか、無意識のうちにそれを克服しているのではないかと思います。作家にとってはたいへん意識的に、やむをえないからそうしている、そうするより仕方がないからそうしていると思えます。小説の解体にほかならない問題を、現代の詩人はかなり無意識にいともたやすく成し遂げてしまっている気がします。
 
 小説も詩も同時代ですから同じ問題に直面しているのですが、直面している問題に対する言葉の場所の取り方・位置取りが詩と小説で違うのはそういうところではないでしょうか。小説家が意識的、あるいはやむをえず必然的に取らざるをえなくなっている言葉の姿勢を、詩人のほうはかなり無意識のうちにやってしまっています。そういう言葉に対する場所の取り方の違いだけが違いとして残るので、当面している問題はほとんど同じです。その問題に対する場所の取り方が、詩と散文、小説と詩の作品との場所の違いということになるような気がしてしかたがありません。
 
 この問題をどこまで突き詰められるか、発声状態の言葉を瞬間的に捕まえるということは、どこまで可能かという問題を前にして、これから極限の場所まで発声状態での言葉を捕まえるという課題をじぶんに課していった場合、言葉はやがてどういうことに当面するだろうかということに、こういう言葉の使い方で現在の詩人たちがこれから当面する大きな問題があるのではないかという気がします。
 
 発声状態の言葉を瞬間的に捕まえるということは、どこまで可能か。詩人が、発声状態の言葉を捕まえることを自分に課していった場合、言葉はどこに行ってしまうのか。要するに、安心して言葉を使えないということですね。安心して捕まえようとしたら、捕まえきれない。発声状態における言葉は非常に不安定で、下手をすればすぐに消えてしまうかもしれない。けれどもそういう状態においてこそ、言葉を非常にラディカルなものとして捕まえることができるかもしれない。これこそが、現代の詩が必然的に今後突き当たっていく問題なのではないかと思います。
 
 もちろん、これは風俗の詩としてもいかようにでも拡張することができるわけですし、安直な詩としてもいかようにでも拡散することができます。しかし、そうではなくて瞬間的に日常飛び交っている言葉を発声状態でラディカルな表現として捕まえた場合、言葉がどうしても当面していくのはそこの問題のような気がします。そこの問題が詩をどこへ連れていってしまうのかということが、大きな課題としてあるような気がします。
 
 
  言葉を見つめるところから生まれる詩
 
 
 それとまったく対照的ですが、言葉というものをひとつの世界として見た場合、街頭に飛び交う言葉に耳を傾けるのと同じように、活字として定着されている字をじっと見つめると、字からさまざまなものが出てきます。つまり言葉だけで織りなされたものとして世界をとらえ、現実がついに消えてなくなってしまうまで言葉を凝視する。そうすると、そこから色や形・音・意味・光・影、あるいは動物などさまざまなものが出てくるわけですが、詩人はそれによってどのような世界をつくりあげていくのか。彼らは言葉を凝視することによって、いったいどこまで行けるのか。こういう試みはごく限られた少数者の実験的な試みなのですが、そういう試みがいったいどこまでいってしまうのか。現在の詩が当面してくる、もうひとつ大きな、反対の極にある問題だと思います。
 
 これは平出隆さんのいちばん新しい『胡桃の戦意のために』という詩集の中の一編です。読んでみましょう。
 
 
詩の形態にまつわる最終の謎は《行》という言葉に棲みついている。行を分ける、行を替える。行を跨ぐ、行を渡る。行を追うごとに、行の連なりはばらばらになる。《行》は道とはいえず、環をむすぶ修練でもない。それはなにか、かけらの影だ。なにかを二重に欠く場所だ。語れよ、字画と呼ばれる切れめたち、一行の途中の行と行間。それともこれはアルキメデススクリュー? 行為は死を食べて痩せる。
 
 
 これは詩について書かれた詩ということもできます。この一編でいちばん肝心なモチーフだと思えるところは、一行の詩が表現されるとき、普通はたとえば鉛筆や筆、ペン先で紙の上に字を書くことを思い浮かべる。しかし、この一編の詩のモチーフとなっているのは、黒いインクでも青いインクでもいいけど、一編の詩の一行が書かれたとき、書かれた一行が凸レンズの凸面ではなく、また表現ということでもなく、二重の意味で何かが欠落した場所だというふうに一行の詩をとらえているところだと思います。
 
 つまり、作者がペンを持って紙の上に書いて、そこに字が書かれている。そういう表現行為をしつつ、生産行為といいましょうか、産出行為といいましょうか、プロダクションみたいなことを考えず、二重の意味でそこに影を落とした。その二重の意味で影を落としたものが、この世界の中で何か欠けているものであり、その欠けたものを欠けたものとして意識することによって映し出されたのがこの一行の詩だというふうにとらえるとらえ方、それがこの一編の詩のモチーフのように思います。そういうふうにとらえた場合、詩の一行一行、あるいは行と行の間にあるものがどういう意味を持っのかということ。そういうモチーフで書かれている詩だと思います。
 
 そんなのは、ただの思いつきじゃないかと、皆さんはお考えになるかもしれませんが、僕はそう思いません。かなり強固な、詩というもの、あるいは言葉というものが人間にとって何なのか。言葉を発するとか、書くということはどういうことなのか。また、言葉を発するとか、書くということは、現実の行為とどういうふうに違うのか。また、現実の行為に対して、言葉を書くことが拮抗するというか、匹敵するだけの重さがありうるとすれば、それはどうしてなのだろうか。あるいは逆に、重さなど全然ないとすれば、どうしてないのだろうか。どういう意味でないのだろうか。そういうことについてよくよく考え尽くし、言葉を書くということは何なのか、詩を書くということは行動するということとどういうふうに比べられるべきなのかということを非常によく考え抜いていないと、書けない作品だと思います。思いつきで書けるか、思いつきで表現しうるかと考えると、僕にはそう思えません。思いつきではなかなか書けない詩です。
 
 確固とした一種の言葉の言語観といいましょうか、言葉についての考え方、世界についての考え方を持っていると思います。現実というものと言葉の世界はどう違うのか、あるいはどう違わないのか。現実のほうが重いと云う人もいるし、言葉のほうが重いと云う人もいる。また、行為というのは血が流れ、汗が流れ、涙が流れる。だけど、言葉というのは口先だけじゃないかという考え方など、この世界にはさまざまあるわけですが、そういうさまざまな問題に対して非常によく考えられていなければ、この詩のような表現はできないと思います。だけど、こういう表現は究極的にいえば言葉の世界から現実の世界が逆に成り立っている。言葉の世界のほうから見るから現実の世界が初めて成り立つ。どうしてもそこまで行くよりほかはない。そこまで行った時、詩の表現としてどういうことが出てくるか、どういうふうになってしまうかという問題が、平出さんの詩が孕んでいく非常に大きな問題だという気がします。
 
 
  現実を離れた言葉の世界の構築
 
 
 次の吉岡実さんの「薬玉」(『薬玉」書肆韓山田、一九八三年)というのも、同じように言葉の行為だと思います。ちょっと読んでみます。これも途中までなんですけど。
 
 
   菊の花薫る垣の内では
   祝宴がはじめられているようだ
   祖父が鶏の首を断ち
            三尺さがって
                 祖母がねずみを水漬けにする
   父はといえば先祖の霊をかかえ
                草むす河原へ
   声高に問え 母はみずからの意志で
                  何をかかえているか
   みんなは盗み見るんだ
            たしかに母は陽を浴びつつ
            大睾丸を召しかかえている
 
 
 吉岡さんの詩はおしなべてそうですが、この詩は言葉の場所が独特だと思います。言葉の場所が独特だということは、言葉の場所だけが独特だと云ってもいいと思います。言葉を言葉だけの世界として使っているのでも、イメージとして使っているのでもない。まな言葉を概念的な意味として使っているのでもない。それらのどの場所でもない、中間の場所といいましょうか、間の場所で言葉が使われるということです。
 
 皆さんさまざまでしょうけど、僕がこれだけの行で具体的なイメージを思い浮かべるとすれば、横溝正史の推理小説に出てくるような田舎の旧家で、祖父・祖母・父.母がいて、何かしらのお祝いの準備をしているという感じですかね。お祖父さんが祝宴の準備で庭で料理するために鶏の首をひねっている。お祖母さんはねずみ取りを桶か何かにつけているというようなところまではイメージが浮かびますが、それ以降の父・母について書かれた行を読んでも、あまり具体的なイメージが浮かんでこない。かなり概念的な暗喩、半分意味のある暗喩でもって言葉を使っていると思います。イメージとしてはあまり浮かびません。
 
 作者の中に父親や母親など近親に対するこだわりがあり、そのこだわりから必然的に出てくる概念のイメージ、一種の暗喩で言葉が成り立っていると思います。だから、「父はといえば先祖の霊をかかえ/草むす河原へ」というイメージとしての伝えられ方はない。これは概念です。そういう言葉で表現している意味が作者にとって重要で、そのあともそうです。「母はみずからの意志で/何をかかえているか/みんなは盗み見るんだ」「大睾丸を召しかかえている」というのも意味が重要であって、イメージが重要ではないように思います。吉岡さんに概念の中にあるこだわりがあって、そのこだわりの表現として重要なのです。だから、吉岡さんは、言葉をイメージと概念のちょうど中間のところで使っている。それが特徴だと思います。
 
 こういう言葉に対する向かい方がどこに行くかということは非常に重要だと思います。どこに行くかという問題は、言い換えると、どう解体するか、あるいはどう解体しないかという問題だと思います。これは作者にとって重要だというだけではなく、こういう言葉の使われ方自体の行方がどこにさまよってしまうか、どこに進んでいき、どういう問題を提起するのだろうかということがたいへん重要な問題のように思います。これは、いま書かれている詩が当面していく非常に大きな問題のように、僕には思えます。そこのところをうまく見極めができるかどうかというのが、これから詩を書く人にとって大きな問題になってくるのではないかという気がします。
 
 皆さんは詩を書かれているのでしょうが、そのときに当面していく問題は、かたちはそれぞれですし、言葉に向かう姿勢もそれぞれ異なるでしょうが、しかし同時代を生きているかぎり、言葉がどうしても突っかからざるをえない場所というのは、どういう表現の道を取ってもそんなに変わりがないのです。だから、皆さんが詩を書く問題として当面するのは同じなのではないかという気がします。その問題は、僕白身にとっても、じぶんが詩を書く場合にいつでも突っかかってくる問題のように思います。突っかかってきては、そんなにいつでも「うまくはいかないね」という溜息の繰り返しです。よく確かめていくと、どうしても最後にはそこに帰着するのではないかという気がします。
 
 今回は主に詩の形式についてお話し、内容についてはお話しませんでした。内容というのは個人によって違うもので、それぞれ個別に考えていかねばなりません。やはり、形式からとらえるほうが普遍的に語りやすいですから、そういう語り方をしたわけです。
 
 現在の詩が当面している問題は、今申しあげたふたつに要約されるような気がしてなりません。自分自身が詩を書いていて、何となく言葉が胡散臭いように感じる。そういう問題を突き詰めていくと、どうしてもそのふたつに帰着するのではないかと云う気がします。問題は、突き詰めていくとそういうところに帰前していくのではないかという気がしますいていただきます。いちおうこれで終わらせていただきます。
 
 
 ☆無限アカデミー現代詩講座・講演者:吉本隆明・講演日:一九八二年十二月八日)
 ☆筑摩書房・2015年刊:吉本隆明<未収録>講演集(8)・「詩はどこまできたか」より
 ☆『<若い現代詩>について』の講演を抜粋・転載させていただきました。
 
 
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