日付:2018年5月18日 

 演出ノオト  ~吉本隆明著「詩的な喩の問題」から~ 

 

書斎の吉本隆明氏  

 

     「全体的な喩」とは、なにか? (1)
 
 故吉本隆明さんの著作の全文の引用にちかくなってしまうが、日頃、抱いている素朴な疑問からはじめてみたい。
 
 「完全な叙景の歌謡が、ある異変(心)の象徴でありうる」とは、どういうことか? どうしてなのか?
 自然の山川草木を詩に詠みこまれた短歌が、人びとの心に潜んでいるなにか伝えたいものの象徴になりえる、それは、どういう構造なのだろうか?
 
 現在のわたしたちの生活空間のなかで、じぶんの気持ちを他者に伝達しがたい思いを誰もが感じているに違いない。言葉の直接的な意味の指示性とその伝達機能方法が、いま限りなく薄くなっている(薄弱化)しているのではないかと、だれでもがじぶんの言葉に自信を喪失しはじめている。
 そんな不自由な思いは、現在、生活空間のなかで感じている人びとのあいだだけではなく、表現活動を行おうとしている人びとにとっても存在し、それをくぐり抜ける方法や打開策とまではいわないでも、その原因を一端は知りたいと考えている。
 つまり、現在、「言葉とはなにか」、そのはじめの問いに触れている問題であるといえる。
 

 (1)素朴な疑問から

 今日は標題を「詩的な喩の問題」としてお話しすることになっています。「短歌的な喩の問題」としても同じで、できるだけ短歌に即して話してみたいと思います。
 ただいま『言語にてっと美とはなにか』の話がでましたが、ぼくはそこで短歌的表現ということをとりあげました。でも自分でとりあげてみながら、ひじょうに素朴な疑問がまだ残っておりました。その素朴な疑問ということからはいっていきたいと思います。それはどういうことか、短歌的表現の例をあげてみましょう。

近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古へ念ほゆ

柿本人麻呂『万葉集』(巻三の二六六)   

があります。この歌はどなたが読んでもいい作品だというと思います。それはなぜかということを思いつくまま申しますと、上句の「近江の海 夕波千鳥」はマ行音の「ミ」の重ねがあって、それがいかにものびのびとした感じを与えることがひとつあると思います。それからもうひとつ下句の「心もしのに 古へ念ほゆ」はサ行音の「シ」の響きが強くて、サ行音というのは半分音声を呑んでしまいますから、内にこもった感じを与えるその音韻が、とても大きな要素としてここにあると思います。それと意味の方からいいますと、上句客観描写と、下句における内省的な主観描写の対照性が、意味の対照性としてたいへんいい感じ与えます。ということは意識の流れが外部から内部へ、つまり上句と下句のところですぱっと折れるといいましょうか。そこが読むものにいい刺激を与える理由ではないでしょうか。
 なぜ疑問かということをもうすこしいってみます。「近江の海」だから琵琶湖ですが、その琵琶湖の夕暮れに波が立っていて、千鳥がとんでいる、あるいは鳴いているとき昔のことが思われる、という単純な叙景と連想、意味的にはそれだけいっているのに、なぜいい歌なのかという疑問を、ぼくは『言語にてっと美とはなにか』で「視線」だというふうに解いた思います」。単純そうにみえるけど、よく考えてみると、表現されるものと表現するものとが対応性をもっているところで「視線」の転換が複雑にやられているんだというふうに、ぼくは解ったような顔をしてくぎりをつけたように思います。しかしほんとうはそれだけでは疑問なのです。

自転車の うへの氷を 忽(たちまち)ちに 鋸(のこぎり)もちて 挽(ひ)きはじめたり

( 斎藤茂吉『寒雲』 )   

という歌があります。この歌でいいますと、自転車のうえに氷があって、ただそれを挽きはじめたといっているだけなのにどうしてこれがいい歌なのか、という素朴な疑問がここにもあって、どこまでもひっかかってきます。

ここの屋上より 隅田川が見え 家屋が見え 舗道が その右に見ゆ

( 佐藤佐太郎『歩道』 )   

という歌です。これも、ここの屋上から隅田川がみえて、そして家がみえる、さらに舗道がその右側にみえる、といっいるだけなのにどうしてこれがいい歌なのだろうか、疑問が生まれてきます。つまりさっきもいいましたように、『言語にてっと美とはなにか』では、「視線」の転換が複雑になされていて、だからこれが美をつくり、芸術になっているのだという言い方をしました。この理解ではほんとうはまだ疑問が残るのです。もうすこしそこのところをおし進めて考えてみたいと思います。
 さきほど申しあげました柿本人麻呂の歌で、客観描写と主観描写が上句と下句で折れ曲がっているために彫りが深くなり感銘をうける、そのうえ音韻の問題も大切な要素となってこの歌をいいものにしているといました。つまりこの歌の枠組みを保証している音韻の連鎖のリズム化(韻律化)されたもの、あるいは音韻それ自体は、あるなにかの解らない表現「X」のメタフォア(暗喩)になっているのではないか、ということが主な問題となるわけです。そのメタフォアのもとになっているあるなにか、そのなにかがいえないかということまで、今日は考えをひっぱっていきたいと思います。
 
 そこでふりかえって、短歌的表現の祖形となっている『古事記』歌謡の問答歌をみましょう。それは大久米命(おおくめのみこと)の入墨をみて伊須気余理比賣(いすけよりひめ)が、

故鷰鶺鴒(あめつつ) 千鳥ま鵐(しとと) 何(な)ど開(さ)ける利目(とめ)

( 歌謡番号十七 )   

とうたうのに対し、大久米命がおなじように、

嬢子(をとめ)に 直(ただ)に逢(あ)はむと 我が開ける利目

( 歌謡番号十八 )   

と答えるわけです。これは四・七・七となっていますが、五・七・七に収斂してくる表現です。なにをいっているかといいますと、最初の歌は、鶺鴒か千鳥かよく解りませんが、いずれにしろ小鳥のなかで目のところに模様があり、目が裂けているかにみえる鳥のように、あなたの目尻はどうして裂けているような入墨があるのだろうか、といっていると思います。つぎの受ける形の歌は、おとめであるあなたに逢おうとして、目を張ってきらきらさせているので目が裂けてしまったんだよ、と自分の入墨をうたっているのでしょう。賀茂真淵(かものまぶち)、折口信夫(おりくちしのぶ)両家にならって、これが短歌的表現のもっとも古いものだとぼくは理解しています。ぼくが朗読してもあまりいい歌には聞こえないかもしれませんが、なかなかいい歌です。これはもともとふたりの問答歌ですが、あえてひとりが両方をうたっていると考えても見事な歌です。しかしこんな単純なことをいっているだけなのになぜいい歌なのか、という疑問がさっきと同じようにまたひろがってくると思います。
 その場合、ここでは音数律が役割を演じています。音数律とはなにかといいますと、言葉の音韻の韻律化ということだと思います。音韻はあるひとつの必然の積み重なりを意味しているときは、それは意味無き意味ということで、それをぼくの『言語にてっと美とはなにか』の言葉でいいますと指示表出以前の指示性を与えることになります。それから音韻を韻律化するということは、自己表出以前の自己表出をつくることを意味しています。さらにいえば指示表出以前の指示表出をなお自己表出化することです。つまり自己表現として表現することは、すでにそこに韻律が含まれていますから美を形成するわけです。くり返しますと、意味としてはすこぶる単純ですが、それにもかかわらずとても豊かな美を形成するのはそのためだというふうに理解しています。もちろんここでも「あめつつ」とか「ちどりましとと」には、「ツ」「チ」「ト」というようなタ行音の重なりが、こもるような内部の積み重なりの印象を与える大きな理由になっているかもしれません。さまざまな理由が考えられましょうが、要するに言葉の意味と切りはなして考えてもなおかつ美が形成されるということは、日本語自体の音韻にその必然性があって韻律化がなされているからだということでしょう。ぼくはそんなふうに理解するのがいいかなと思ってきました。
 
 ここで考え方をもう一歩すすめるために問題を整理してみますと、短歌的表現がなぜ感銘を与え美や芸術を形成するか、ということをいうのに音韻の韻律化が大切な要素となっている、とさっきからいってきました。しかし、その音韻のリズム化(韻律化)や、さらには音韻自体がなにかある解らないもののメタフォアを形成しているということを解けば、もっと短歌的表現の解明に近づきうると思います。つまり音韻のリズム化は喩をなす、音韻は喩である、という方向でもうすこし論議を進めてみましょう。つけ加えますと、この音韻は喩である、つまり音喩ということに関して深い考察をしたのは、このあいだ亡くなられました菅谷規矩雄さんでした。この問題をとても遠くまで理論的に進めておられました。ぼくもすこし別のところから考えてきたわけです。(後略)

(一九九〇年十月十四日、歌人集団・中の会十周年記念における公演)  

 

『初期歌謡論』より

 

  歌謡の祖形(4)

 

左寄せの画像  和歌形式が定着したあとで、和歌形式にならなかったらけっしてあらわれなかったはずの<喩>が、内在的にあらわれた。内在的にという意味は、上句と下句の関係からではなく、表現の構造自体からという意味であった。これは、和歌形式がすでに作者たちにとって先験的なものとみなされたために、形式の内部にあらわれた結瘤ににている。形式が先験的なものとおもわれたとき、詠むことの自在さが、特有の喩法うみだした。うみだしたことがはじめにあって、解釈することはあとからやってくる。そういういい方ができるのは、和歌形式がつくるものの内部に定着した証拠のようなものであった。すくなくとも『万葉集』の短歌謡は、ここまでの作品を摂取することができていた。(中略)

( d ) 葛飾の真間の浦廻(うらみ)を榜(こ)ぐ船の船人騒ぐ波立つらしも

( 『万葉集』巻十四・三三四九 )   

( e ) 信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く聲きけば時すぎにけり

( 『万葉集』巻十四・三三五二 )   

 表現されたところだけみれば、誰にもたんなる叙景あるいは叙事の歌謡とよめるものであった。そして、たしかにある意味ではそう理解してさしつかえなかった。ところが、この類型は謎がおおく一筋縄ではいかない。初期の「アララギ派」の歌人たちは、万葉復興をとなえたとき、散文における写生文とおなじように、これらの短歌謡に、客観描写の<声調>の卓抜さを読みとった。そして写生を、もっと微細にし彫りを巧みにしていった。たとえば、長塚節が「馬追(うまおい)虫の髭のそよろに来る秋は眼(まなこ)を閉じて思ひしるべし」とうたったとき、馬追虫の長い髭をかすかにふるえさせながら吹く秋の風という描写に、細密画をみるような巧みさを表現した。しかし、この微細な名人芸のような叙物の歌が、何ともいえない精神の空白と、空虚さを感じさせた理由はあった。馬追虫の髭をふるわせて吹く秋風というような、微細な虚構にまでつきつめながら、一首の背後にかくされているはずの叙心の生々しさが、うち捨てられているからである。たぶん初期のアララギ派の歌人たちは、万葉集の短歌謡のうち、本来的には<全体喩>とみなすべき表現を、たんなる叙景や叙事の客観描写として読んだ。多少の危惧は感じるが、この種の作品は客観描写の歌謡とみなすべきではなく、一首の全体を<喩>とすることで、意味の中心を表現の背後に移してしまった作品ではなかったか。
 (d)の歌謡から、<葛飾の真間の入江をこいでゆく船の船人たちがせわしげに動きまわり、声をあげて騒いでいるのがきこえる。きっと高波がはげしいからだろう>という大意をうけとれば、叙景あるいは叙事の歌謡であった。しかし、この歌謡はたぶん、そんな光景を客観描写しているのではない。作者は、そういう着眼の仕方そのものによって、荒びたじぶんの心を叙している。けっして象徴としてではなく、直に荒びたじぶんのこころを描いている。ただ、なぜ作者は心をあらげているのか、その具体的な理由を知るすべがなくなっているというだけだ。
 (e)の歌謡でも、<信濃の須賀の荒野にほととぎすが鳴いている。その声をきくと時がすぎて夏となった(あれからずいぶんとたってしまった)>ということではないような気がする。ありのままの叙事のようにみえるこの短歌謡の背後には、過ぎてはならぬ生々しい心があり、一首の表現はその潜在した心の<喩>であったのだ。この心はすでに具体的にどういうことかさぐる手がかりがない。そのためこの種の短歌謡は、客観的な叙景や叙事のように解釈された。
 おなじ問題を提供しているのは『古事記』歌謡・二〇、二一のような作品だ。
 
   狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす
 
   畝傍山 晝(ひる)は雲とゐ  夕されば 風吹かんとそ 木の葉さやげる
 
 『古事記』の地の文では、神武天皇が死んだあと、庶兄(まま あに)・当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、嫡后(おほ ぎさき)・伊須気余理比賣(いすけよりひめ)の三人の子たちを殺そうとするたくらみがあり、それを子供たちに知らせようとして嫡后が詠んだ歌としてあげられている。うわべだけでは難のない叙景歌謡で、しかも音数律も声調もととのっているので、かなり新しい時代の作とみられる。じじつそのような解釈がとられているものもある。相磯貞三『記紀歌謡全注解』は、「或る時代に或る人がこの歌を詠んだ。そして彼等の大多数の人人は、この歌を聞いて、歌の表面以外に、何か変わった内容を感じ求めたに違いない。誰いうとなく、この歌が、人人の間に拡まって行くにつれて、右の日常生活の経験から、心に畏怖を感じつつ、己が身を慎むようになって行ったのである。最初、ただの叙景の歌だったのが、人人の口誦のうちに、畏怖すべき神の意志を認め出したので、こういう伝説が生まれたと見られるからである。」と述べられている。土橋寛はおなじことを、まったく逆むきから「狭井川の方から雨雲が湧いて来て、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹くだろう、の意で、大事件の到来を諷している。事件を風刺する歌として創作された物語歌であろう」「前の歌と同時に作られた物語歌であろう」(土橋寛、小西甚一校注『古代歌謡集』岩波版日本古典文学大系3)と解した。
 わたしたちは、はじめからこういう考えがでてこないまったく異なった見方をしてきた。
 いま意味をとってみると、
 
  <三輪山から流れ下る狭井川よ そこから雲が立ちのぼって 畝傍山に 気の枝葉がさやいでいる 風が吹きつけようとしているのだ>
 
  <畝傍山には 昼のあいだ 雲が去来し 夕べになると 風が吹こうとしてか 木の葉がさやいでいる>
 
 なんでもない叙景歌謡でしかも<喩>が無いので、全体は起句から終句までなめらかな曲線律でおわっている。したがって、わたしたちの考えからは新しい時期の歌としなけばならない。もっと推測をたくましくすれば、作為をもってつくられた叙景歌だったかもしれなかった。
 これがなぜ『記』の本文のように、伊須気余理比賣が子供たちに身にかかわる異変を知らせる<喩>として挿入されているか。物語歌や伝承歌として位置ずけることを拒否すれば、完全な叙景の歌謡が、ある異変の象徴でありうることを熟知していたとみてよかった。もとより自然の異変が人事の異変の象徴であるという未開の心性のあらわれではない。雲がおこり、風が騒ぎ、木の葉が揺れるといった自然の描写が、不安な、まがまがしい事件の象徴としてつかえるという識知にたっていた。そのため、<喩>のない叙景の歌とみえるものは、一首の背後に歌の中心を潜ませた<全体的な喩>の表出とみなされた。そしてここで<全体的な喩>とかんがえているものが、<喩>の消滅、いいかえれば和歌形式の短歌謡のおわり、いいかえれば<やまとうた>としての和歌の成立とはちがうことは明白であった。(後略)

(吉本隆明「初期歌謡論」 昭和五二年河出書房新社刊)   

 

   ☆この稿、つづく