日付:2018年5月18日 

 演出ノオト  ~吉本隆明「マス・イメージ論」より「喩法論」~ (2) 

 

故吉本隆明氏  

 

     「全体的な喩」とは、なにか? (2)
 
 
 
吉本 隆明  では、詩の言葉を産みだすことが、それ自体で全体的な暗喩とすればどんなことなのか? またそこでほ〈暗喩されるもの〉と〈暗喩するもの〉とはどうなっているか? これが現在、詩の審級にとって最後の問いにあたっている。いままでこだわってきたところに答えはふくまれているかどうか。というのは、若い現代詩の喩法の特質を、もっぱらボップ詩や歌謡詩と地続きなところで扱ってきたが、げんみつにいえば、それが若い現代詩のすべてへの緒口だかどうか、これだけではきめられないからだ。ただ誰でも出口と入口さえあれば、全体を暗喩できるような「言葉」を探しもとめているところでは、詩が現在はじめて獲得しはじめた外部への言葉の滲出力を特徴として信ずるほかにない。

まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている 妹は
濠ばたの きよらなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉蔭をしばし
打つ
 
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくっいている
 
夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
 
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金(はっきん)のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやす
いその飛沫。口語の時代はさむい。葉蔭のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか
見附に。
 
     ( 荒川洋治「見附のみどりに」 )

 この詩人はたぶん若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の詩人である。
 まずはじめに、暗喩は言葉の囲い込みの外側へ滲み出てしまったとわたしにはおもえる。わたしもひとびととおなじように、暗喩が言葉の外へ滲み出してしまったあとの光景に、不服をもたないことはない。ただあくまでも滲みだしたあとの光景であり、この詩人には責任はない。時代の光景が日常性いがいのものを非本質として卻けてしまった責任なのだ。この詩人以後わたしたちは、暗喩を言葉の技術の次元から解放するひとつの様式を獲得したことになる。言葉は詩の囲いを走りでてじかに、街にとびかっている会話や騒音や歌う声のなかにまぎれ込もうとする。そういう確かな素振りをみせるようになった。すると言葉は素朴なリアルな表出にかわってゆくとかんかえるのは現在にたいする錯誤である。そうかんがえるのはボピュリズム風の理念に先行されて、現在を喪失しているのだ。詩の言葉が詩の囲いを走りでて、街のなかにとびかう言葉に交わりはじめようとするとき、言葉は超現実的な様相を呈しはじめる。それが現在ということか、詩にあたえている全体的な暗喩の意味だとおもえる。
 逆行する記憶にのって江戸の濠ばた見附道を歩いている。「妹」が繁みに走り込んで、しゃがんだままさわやかな音を草の葉にたてて放尿して、駆けもどってくる。「わたし」はそこにみえないので「妹」は佇ちまよう。わたしは草が押したおされてつけられた路をとおって、エロスの情念に沿って立ち去っている。記憶からさめるとじぶんは現在、新宿の盛り場で、寂しく寒い現在の言葉と騒音がとびかう街中におかれている。易しい口語で詩を走り出ようとする言葉。そうすればするほど表出の様式が超現実に近づいてゆく。ひと通りの意味では、この詩はそんなふうに読める。
 そこで詩の言葉が記憶の逆行によって現在を超えるその部分で、全体的な暗喩を構成しているとみなすことがで書る。そしてこの詩のばあいでは<葉かげにしゃがんで放尿する妹>、<かけもどってくるとわたしの姿がない>という場面のイメージが、暗喩の全体性の核に当っていることがわかる。<葉かげで放尿する妹>というイメージが、一般的に現在を暗喩するのではない。またこの詩人の個性にひき寄せられたために、このイメージが現在を暗喩することになるのでもない。詩の暗楡という観念が、詩という囲いを走り出で、外側へ滲出してしまう勢いの全体性のなかで、はじめてこの<葉かげで放尿する妹>というイメージが、現在という時代の暗喩になっているのだ。わたしにはかなり鮮やかな達成のようにおもえる。言葉の高度な喩法が、言葉の囲いを走り出てそのままの姿で、街路にとびかう騒音や歌声や風俗に混じろうとする姿勢を、この詩に象徴される作品がはじめてやってみせている。それからどうするのだなどと問うても意味をなさない。
 何となくとうとうやりはじめたなという解放感をおぼえるだけだ。
 こういう全体的な暗喩が、詩が現在を超えようとするときの徴候であることは、言葉が街路にありながら、暗喩が詩の言葉の囲いのなかに閉じこめられた状態を想定してみればよい。そのような同種の詩はあるのだ。すぐれた詩は数すくないとしても、いわば普遍的な徴候としては無数に潜在して、現在を形づくっている。

あぶな坂を越えたところに
あたしは住んでいる
坂を越えてくる人たちは
みんなけがをしてくる
橋をこわした
おまえのせいと
口をそろえて
なじるけど
遠いふるさとで
傷ついた言いわけに
坂を落ちてくるのが
ここからは見える
 
     (中島みゆき「あぶな坂」)

 いうまでもなくこの詩では「遠いふるさと」というのが、全体的な暗喩にあたっている。だがこの全体的という慨念はこの一篇の詩の全体を覆うという意味をあまり出ない。もっともこの評価はメロディやリズムや音声の参加をカッコに入れてのことで、それらか参加して、言葉を詩の外へ、現代という時代の現在のなかへ連れ出しているのだ。言葉だけでは、たぶん言葉の囲いを出られない暗喩である。それが「遠いふるさと」という表現が、やや奇異で甘いと感じられる理由ともいえる。さきの<葉かげで放尿する妹>というイメージも、詩人にとって「遠いふるさと」である江戸時代になぞらえられたイメージである。だがこのイメージは、詩の言葉の囲いを超えて、現在というこの暗楡の全体性に参画している。
 
     (吉本隆明「マス・イメージ論」より「喩法論」 1984年6月福武書店刊)

 

   ☆この稿、つづく