日付:2016年4月25日 菅間 勇 著 (春秋社房刊)
中島みゆき論 その愛と歌の行方
はじめに/91夏
91年の夏の始めは信じられないほど暑かった。ほとんど毎日三十三度を超えていた。ぼくの妻はいつも夏になると麦藁帽子を買って頭にのせて歩いていた。今年は日傘まで買って麦藁帽子の上に日傘をさして歩いていた。その後姿は少しバカみたいに見えたが、本当のバカになってしまうよりましでしょといっていた。それくらい暑かったのだ。ぼくはなるべく風が入るようなブカブカの半ズボンとビーチサンダルも買ってもらって、出来るだけ日陰をフラフラ歩いた。真夏の道は、陽射しとクーラーの排出風でいまにも爆発しそうにふくれあがっていた。
ぼくは、日中の二時から四時頃まで紅屋という喫茶店で暑さを避けることにしていた。紅屋は、陰気で不思議な喫茶店だった。わりあいと店内は広く、照明もほどよく暗く、クーラーの具合もちょうどよかったが、客はいつも存在していなかった。『村八分』という名に変えた方がいいくらい客がいなかった。ひどいときには、日中の二時間、店内には痩せて眼鏡をかけたマスターとぼくしかいなかった。マスターはほとんど口をきかないひとだった。いつも黙って棚にしまわれたまま一生使用されることのないコップを静かに磨いていた。注文のとき 「何になさいます?」と、会計のときの 「ホットは、三百円です」としか口をきかなかった。コーヒーの代金三百円をテーブルの上に置いて黙って出て来てしまったときなど、何か悪いことをしたみたいに後暗かった。BGMも蚊の鳴くほどのボリュームで、流れていることさえ忘れてしまうほどだった。週刊誌も『女性自身』しか置いていなかった。この店に女性の客が来るなんて想像出来なかった。マスターの冗談かもしれなかった。壁にはポップなポスターが一枚飾ってあるだけだった。余計な心配だが、この店の収入ではマスターは家族を養っていけない。夏だというのにウエイトレスの女子高生のアルバイトさえいなかった。どんな店でもたいてい夏は、女子高生のアルバイトが店の雰囲気を華やかにしてくれるものだ。不思議な喫茶店だった。間違って見知らぬひとがひとりで、雪のクリスマスの夜にでも入ったら泣き出してしまいそうな店だった。でも、ぼくのうちの近所には喫茶店はこの紅屋しかなかったから仕方がなかったし、それにぼくはこの雰囲気が嫌いではなかった。
ぼくは、この陰気な喫茶店で彼女と始めて出会った。
91年八月一日、ぼくは、気違いみたいな暑さを避けるためにいつものように紅屋のドアを開けた。彼女は、ぼくのいつも座る席に姿勢よく黙って座っていた。とうとう来るべき日がやって来たのだ。彼女に何をいわれても仕方がない。だが、無闇に卑屈になり謝罪するのだけはやめよう。だって、ぼくは彼女に負債なんてないのだから。
まず挨拶からだ。ぼくは、彼女に静かに近づいた。
「……んちわ」
「……」
「……暑いですね」
「……」
「……」
……沈黙。
「どんなレコード持ってんの?」
「……?」
「レコード?」
少し恥かしかったが、正直に応えた。
「……石原裕次郎の映画の台詞入りが一枚。ダンチョネ節の入った小林旭が一枚。サザンが三枚。井上陽水のCDが一枚。古今亭志ん生の落語が二十三枚。円生始め彦六、文楽たちの古典落語のテープが百本以上。とっておきは彦六のバイノーラルの怪談噺「牡丹燈籠」。広沢虎造の「清水次郎長伝/石松と三十石船」。寿司喰いねえって奴。いしだあゆみの 「ブルーライト・ヨコハマ」が一枚。浅川マキが二枚。美空ひばりのテープが三本。トニー谷の復刻版が一枚。セルジオメンデスとブラジル66が三枚。長唄「鷺娘」。それにビートルズが六枚。ボブ・ディランが三枚。全国名寺名鐘音集、虫の音集が一枚づつ……」
「まとまりと中心がないのね」
妻の所有物だが、美空ひばりの『車屋さん』の入っているCDカラオケを一枚持っているというおうとしたがやめた。
「小学校の時、通信簿の家庭への連絡欄に『落ち着きに少し欠けます』と書かれなかった?」
「……」
「で、何枚持っているの?」
……三枚。
「聴こえないの」
「三枚」
「三枚?」 「『私の声が聞こえますか』・『生きていてもいいですか』・『はじめまして』」
「ありがと」
「……?」
「レコード買ってくれてありがと」
「……」
眼の前の彼女は、レコード・ジャケットの写真とぜんぜん似ていなかった。プロの写真家の腕は馬鹿にできない。
「レコード・ジャケットの写真、似てないでしょ?」
「……?」
彼女は読心術を会得していた。
「おやめなさい」
「……君じしんの書いた本が六冊。春秋社の編集者、小関さんに借りた評論集が三冊。じぶんで買った評論集が三冊。全部で本が十二冊。図書館、レンタルCD屋、友人から借りてきたCDが二十数枚。収録した曲数が約百十余曲。七月の猛暑のなか、約二週間でこれらを読み、聴き、収録したんだ。お陰で頭はスイカ。眼はサンマになって、左右違った方を見てる。心は油揚げみたいになっちゃったよ」
「便利じゃない。右眼でテレビの野球中継見れて、左眼で辞書ひけて」
ふッざけた奴。
「耳」
「耳?」
「君の曲を聴くこの耳」
「そう」
「それと、……ぼくの四十年の人生」
「自信あるんだ。あなた、じぶんの人生?」
「自信なんかないさ。これっぽっちも」
「書くことに決めたの、あたしのこと?」
正直なところ、ぼくは、明日、小関さんの会社へ行って断ろうと思っていた。この暑さと締切りまでの時間を考えると、とても三百枚など書けるわけはない。けれど、つい 「書くことに決めた」といってしまった。
「バカッ?」
彼女は笑って、手を一度叩いた。
「何を?」
編集者の小関さんは、『歌/メロディ/声/身体/スター性/魅力の原点/小説/DJの姿勢』、全部の要素を出来るだけ書けといってたけど、まるで鬼だ。それも二ヶ月でだ。
「書ける範囲に決まってるじゃないか」
「どんな風に?」
その質問は、そのまま君の現在の音楽活動そのものにお返しするよ。ぼくのいっている意味が解んなくちゃ、君は馬鹿さ。
「何故、また?」
君は、何故歌い続けるんだい? やめちゃえばいいじゃないか。同じことだよ。
「何故、また、あたしのことなんかこのクソ暑いなか書くことに決めたの?」
暑さ凌ぎに決まってるじゃないか。
「……」
「あたしの足ばっかり見てないで、ちゃんと応えなさい」
彼女の、木綿地のベージュのロングスカートのなかで組まれた足首が、テーブルの下から見えた。ちょうどよく細くちょっとセクシーだった。
「足は、ワリと細くてきれいなんですね」
「何バカなこといってんのよ。胸が小さいから、体重支えるのも楽だから細いのよ」
「どうしても、いわなくちゃいけないのかな?」
「できたら」
正直に言うから笑うなよ。
「笑わないでな」
「笑うわよ。可笑しかったら」
「……もうぼくのなかには、書くものなんかすべてなくなっちゃったんだ。これから何を書いていったらいいか解らない。八百屋で売ってる大根みたいに真白になっちゃったんだ。後はこの身をオロスしかないんだ。大根オロシになってもいい、書くという姿勢だけは崩したくないんだ。だから……、書くことに決めたんだ。……書くことがあるから、書くわけじゃない」 「じゃ、あたしのことじゃなくってもいいわけじゃないの」
「……」そういわれてみれば、そうだった。
「でも、本当に、『歌/声/身体/メロディ/リズム/詞』。どうやってそんなものを言葉にするつもり? みんな失敗してるじゃないの」
「うん」……まったくそうだった。みんな失敗していた。「出来れば、みんなだって、『歌/声/身体/メロディ/リズム/詞』。つまり歌を聴くということは、それらを瞬間に総合的に体験してるわけでしょ。だからそれらの様々な要素を統一的に綜合性としてとらえることの出来る、全体的な《視線》みたいなものが見つかればいいなと思って論じてるんだきっと。でも、なか
なかその全体的な《視線》を発見できない。ゆえに残念ながら現在のところは様々な要素に分解してしかとらえることが出来ないんだ。それで、みんな苦労しているんだ」
「出来ないことなら、わざわざそんなこと論じなくてもいいじゃない」
「いや違う。君は少しも解ってない。君が君の歌謡のなかで実現してしまったことは、つまりそれは、何故君に巨大なファンがいるのかということにも重なるんだけど、……たぶんぼくたちファンが心の底で望んでいたことや恐れていたこと、でもそれをぼくたちが上手く言葉に出来なかったこと、そういうぼくたちの心のなかの無意識の願望や恐れを、……君は歌謡として詩や歌にしてくれたんだ。ぼくたちの無意識を解放してくれた。……だから、君には、巨大なファンがついているんだよ。……君を論じるということは、そういうぼくたちじしんの底に眠っていた無意識の願望や恐れを、ぼくたちじしんの手で解放したいということなんだ」
「……」
「解ってくれる?」
「失敗を覚悟の上で論じるわけだ?」
「自信があって歌を発表したこと、君はあるか? それと同じだ」
「……」
「じゃ、改めてぼくの方から聞く。君は、何故歌うんだ。何故、歌い続けるんだい?」
ぼくは、何故だか解らなかったけど、解らない何かに向かって少し腹が立ってきた。眼の前にいる彼女に意地悪をしたい気持ちになっていた。
「ここ、空いてるのね。……まるで冬の水族館みたい」
「これでも大混雑さ。君がいるぶん」
「『落語についての一考察』でもやった方がましだったわね」
「落語や落語家を論ずることは、リュウグウノツカイの性生活を論ずることよりずっと難しい
ことなんだ」
「リュウグウノツカイ?」
「孔雀の羽を付けた鰻みたいな奴が深海で泳いでるんだ。そいつを捜し出すだけで大変な苦労なんだ。それくらい難しいことなんだ」
「あたしが、何のために歌い続けるのか……?」
彼女は、すっかり氷が溶けてコーヒーの層と水の層に分離してしまったゴブレットをずっとみていた。会ったときから較べると、とても静かな顔になっていた。
「広沢虎造って、面白い?」急に微笑んだ。
「君の歌と同じくらい面白い」無愛想にいった。
「どんなこと?」
「声の質感。ブレスの位置。つまり、休止のタイミング。身体への抑圧のかけ方。分節のできあがるがる過程」
「お寺の鐘を聴いてどうするの?」
「鐘の音から銅の含有率をいい当てるわけじゃない。ただ聴くだけだよ。秋の夜に聴くとじぶんが古今集のなかにいる人物みたいな気になれる。ちょっとの間、周囲のことが忘れられる」
「虫の音は、何がいちばん好き?」
「コオロギとマツムシ」
「コオロギって越冬するのよ」
「知ってる。実験したことあるもの。キュウリをあげ過ぎて失敗したけどね」
「何故、歌い続けるのか……?」
「……」
「北海道には、コオロギ、いないのよね」……ごめん。応える必要なんかないんだ。応えなくていいんだ。ごめん。
「何故、歌い続けるのか、か……?」
……みんな、そう、そうなんだから。
「…………?」
……俺、コオロギが水たまりで溺れているとこ、みたことあるよ。
「……」
店内は、いつものようにシーンとしていた。客は相変わらずぼくひとりだった。ぼくのアイス・コーヒーもすっかり氷が溶けて、水とコーヒーの層に分離していた。
もちろん、夢だ。中島みゆきとぼくが会えるわけなんかない。この史上最高という暑さにやられたんだ。
# # #
ぼくは、それ以来、夢の中で彼女と幻想の会話をするようになった。彼女は出て来る度にぼくの原稿のまずさを笑った。あるときなぞ、ぼくの原稿で紙ヒコーキを作ったり、折り紙にして兜や鶴や亀を作った。でも、ぼくは負けずに一生懸命『中島みゆきノオト』を作った。
この本は、ぼくの《中島みゆきノオト》と幻想のぼくと彼女の会話から成り立っている。
それからこの本には、ぼくと幻想の中島みゆき以外に三人の登場人物があらわれる。
1、春秋社の編集者小関さん/君の原稿は売り物にならない。密輸入した言葉や概念を使用して文章を書くな。じぶんのイメージと言葉で書け、という鬼編集者。
2、春秋社の編集者藤野さん/可憐な女性編集者、藤野さん。ぼくに淡いエロスと励ましをくれるひと。このひとがいるから、ぼくは、春秋社へ行く楽しみがある。
3、ぼくの妻/ぼく以上の中島みゆき通。いつでもぼくに、とんでもないアイディアを供出してくれる。そして、助詞及び仮名使いの矯正をしてくれるぼくの言葉の先生。
さてと、タイトルは、
タイトル 「中島みゆき、その愛と歌の行方」
【目 次】
はじめに/91夏
◆出会いは、こんな風に
1 出会い …… 「ホームにて」
2 歌いぶりから …… 「この空を飛べたら」
3 哀しい女たち …… 「元気ですか」
補章■…… 「ロウソクの女」
4 魂の灯しび …… 「髪」
◇つい、深入りしちゃって
5 言葉と映像 …… 「狼になりたい」
6 「エレーン」の不可解さ …… 「エレーン」
補章■…… 「世紀末ヒット・パレード」
7 察知の様式1 ……小説 「泣かないで」
8 察知の様式2 …… 「ファイト!」+「世情」
9 恋愛の成就 …… 「蕎麦屋」
補章■…… 「手紙」 …… 「夜風の中から」
◇もう、訣れなくちゃ
10 歌謡について
…… 「歌姫」+ 「おまえの家」+「あたいの夏休み」
補章■…… 「雨の不忍の池」
11 声の行方 …… 「傾斜」+「悪女」+「あり、か」
12 変容された自然
…… 「リンゴ追分」+「まつりばやし」+「夜をゆけ」
補章■……「さようなら、みゆき」
(年譜)
あとがき
1 出会い …… 「ホームにて」
中島みゆきへのひかれ方は、ひとさまざまであると思う。ぼくは、まず彼女の声にひかれていったように思う。歌のなかにあらわれた声は、言葉、つまり歌詞やメロディと不可分なものだけれど、ここでは歌詞とメロディに少し勘弁してもらって、声をそれらから切り離して幾分か独立した存在物みたいにあつかってみたい。
彼女の三番目のアルバム『あ・り・が・と・う』のなかに、 「ホームにて」と 「まつりばやし」という歌が入っている。ぼくの大好きな歌たちだ。 「ホームにて」をあげてみる。
●「ホームにて」 (新潮社刊 「愛が好きです」より。以下、歌詞の引用はこの本から行います。)
「ホームにて」と 「まつりばやし」の声には、実に似かよった特徴がある。それは、このふたつの歌の声が《普段着》なのだ。歌謡の声とは、外へ向かって、きらびやかな世界へ向かって、華やかな世界へ向かって出かけるものだ。そのきらびやかな世界を、華やかな声で歌うものだ、という固定観念をぼくは子供の頃から無意識にもっていた。だから歌謡の声は、華やかさを売
りものにする商品であり、いわば声の《外出着》だと思っていた。そして声を、きらびやかなもの、華やかなものにするために、歌い手は興行システムから過大な修練と、観客へのへつらいと迎合のウソさ加減を教え込まれるものだと思っていた。そういう声も嫌いではない。どちらかというと好きな方だ。聴き手のこちら側の気持ちを華やかにしてくれる歌謡の外出着の声も、大好きである。
中島みゆきの「ホームにて」と「まつりばやし」を聴いた。そこに存在した声は、きらびやかな世界へ出かけた声ではなく、華やかな衣装で着飾った声でもなく、素朴で普段着の声の姿であった。これは、ぼくには実に嬉しい邂逅であった。これには、中島みゆきの地の声がいいという他に、声は素朴で普段着のままでいいのだといった中島みゆきの声に対する認識と、声を素朴で普段着のままにしておくための修練が語られていた。違った風にいえば、じぶんの声を意識的に《素人》にしておくという彼女の隠されたモチーフが語られていた。
では、声が素朴で普段着のままであるとき、そこにはどんな世界があらわれるのだろうか。もちろん、きらびやかで華やかな世界はあらわれてこない。そのかわりに、その声の主の生活空間や生活感性が自然なかたちであらわれてくる。この声の主が、どんな裏通りを好んで歩き、どんな八百屋で野菜を買い、どんな夕食を作り、どんな洋服を好んで着て、どんなお店でお茶を飲み、友だちとどんな会話を楽しみ、どんな願いごとを胸に秘めているのか。そんな声の主の生活空間や生活感性、つまり《生活地誌》みたいなものが自然なかたちで声にあらわれてくる。だから「ホームにて」や「まつりばやし」を、ぼくたち観客の方からいわせれば、じぶんのよく知っている女友達が歌っているように聴いてしまう。何処かの友だちの家の居間や、学校の空教室でみんなで車座になってギターを抱えたり冗談をいいあったり、そんな風な光景のなかで友だちに歌って聴かせてくれているような親和感を抱いてしまう。もちろん、気分のよい錯覚である。けれども普段着の声は、そんな世界を現出してくれる。そこに、「ホームにて」や「まつりばやし」の声の意味と価値の場所があった。またそこに、初期中島みゆきの声に対する獲得された認識と努力とがあった。
中島みゆきは、じぶんの声を、興行のシステムの彼岸に追いやることで声の商売性の現在的な水準をたやすく入手できた筈だ。だが中島は、じぶんの声を、じぶんの生活意識の水準の此岸に繋ぎとめておくところに、じぶんの出発点を仮構した。これは破格の出発である。たぶんこの中島の声の普段着に自然に感応することが、中島みゆき的世界へのひとつの入信儀礼に当たっているような気がする。何故なら、ぼくがそんな《普段着》の世界に引き込まれたひとりであるからである。
結果として、歌謡は歌われる、聴かれる、という最後の表現の段階をイメージすれば、どうしても《声》、《歌唱》ということが問題となってくる。いわば結果として歌謡は、声と歌唱として成立している。歌詞よりも、声が歌謡の本姿であり《カタチ》である。けれどいま、歌謡は声よりも歌詞の内容で成立している。もちろん、両者は相互に助け合いながら歌を成立させてゆくものだ。そんなことは子供でも解っているし、その現在的理由も確かに存在する。けれどもどうしても、声が歌詞を凌駕してしまう、また声の凌駕を期待してしまう気持ちは誰にでも自然に存在する。もしいま、声や歌唱が歌詞を凌駕している歌謡に出会ったとしたら、本当は現在ではめったにお目にかかれないものに、稀有な光景にぼくたちは出会っているのだといっていい。
声には《カタチ》がある。色もある。湿気もある。光もある。風向もある。恐怖もある。歓楽もある。もし誰かがぼくに『声とは何か?』と問うたとしたら、声は、現に、ここに生きている人間の生命感そのもののひとつのあらわれ、人間という種のじぶんや自然に対する直接的な表現のあらわれとみなしていいと思う、と応えるだろう。とすれば歌詞とは、声の結果、残像に過ぎないのではないか。だがこれは極論だ。まだ中島みゆきノオトは、始まったばっかりだ。無用に結論をいそぐまい。《声》は、貯められ湛えられるもの。作りあげられてきたもの。だが、少しでも作りあげてきたその努力の形跡を、偉業のようにみせびらかした瞬間、声はたちまち無意味なものになってしまうもの。そこに歌謡の声の匙加減のむずかしさ、神技が存在する。だからぼくたちは、声をまるで人間の《人格》みたいなものだとみなしていることになる。
今度は、「ホームにて」の歌詞に肩入れしてみる。
……君は何故「ふるさと」へ帰らないんだ?帰ればいいじゃないか。「かざり荷物をふり捨てて」。君には「駅長」の声が「やさしい声」に聴こえる。汽車が「空色」にみえる。「灯りともる窓の中では帰りびとが笑」い、実に楽しそうにみえる。君にとって「ふるさと」は、そんな暖かいイメージなんだろう。ほら、まだ「ドア」は閉まっていない。「走り出せば間に合う」かもしれない。「ホームの果て」に「ふるさと」はあるんだろう。早く走り出せ。「街に挨拶を」して、早く走りだせよ。……何故、走り出さないんだ?「最終」の「空色の汽車は」はそろそろ「ふるさとへ」向かって走り出すぜ。何、ぐずぐずしてるんだ。それとも、いま居る処が君にとって居心地のよい処なのか。そんな筈はない。いま居る処が居心地がよい処なら、君の耳に駅長の声が「やさし」く聴こえる筈ない。君の眼に汽車が空色にみえるわけない。帰りびとが楽しそうにみえるわけないじゃないか。そうだろう。何よりも、この曲を歌う君の声は優しさとあこがれ、郷愁と悔恨に満ちている。メロディを弾くギターだって哀愁に満ちている。もちろん君の声は明るい。でも、その声が何よりの証拠だ。……さあ、帰ればいいじゃないか。
……帰りたいけど、帰れないんだ。帰ったら何かもかもが駄目になってしまうような、いま
帰ったらいけないような気がする。恥知らずのような気もする。いまぼくにできることは、「ネオンライトでは燃やせない/空色のキップ」を握りしめて、精いっぱいの「心」となって「今夜もホームにたたず」み、「ふるさと」の彼方を見続けることだけなんだ。もう「窓ガラス」さえ叩け
ない。……もうぼくは何処へも帰れない。
……ぼくたちは、みんな「ふるさと」からの《心》の逃亡者だ。でも、それは仕方のないことだ。誰でもみんな「ふるさと」と書かれた鉛でできている玉を一個飲み込んで生きている。天使だってその鉛の玉を飲み込まなければ、天使の鑑札を貰えないんだ。そして、誰もがその鉛の玉を消化できずに、そのままお腹のなかに保存して生きている。夜中に寝返りを打つと鉛の玉が、お腹のなかで聴こえないほど静かな音をたてて移動するのが解るだろう。みんな、そうして生きている。
この「ホームにて」には、書かれることのなかった、歌われることのなかった《前詞》が存在している。それは、中島みゆきによって直接書かれ、歌われることはなかった。けれどこの歌謡を聴いたひとりひとりがじぶんの心のなかで、その《前詞》をみえない書体で書き、聴こえない声で歌い、埋めていった。「ホームにて」は、ぼくたち誰もが青春前期に体験した人間の普遍的な訣別と出発との相克の劇の《後日譚》である。だからぼくたちはこの「ホームにて」を聴きながら、この歌詞の意味内容や言葉から直接に喚起される「駅長/汽車/ホーム/キップ/帰りびと/窓ガラス/ネオンライト等」の映像とともに、もうひとつじぶん固有の青春前期の《劇》の映像とを同時に喚起させられてしまっている。
ぼくたちは誰でもが、「ふるさと」やその肉親、近親との訣別の場面を所有している。「ふるさと」、肉親、近親との訣別を《ためらい感/恥/小さな裏切り》として身を削る思いで体験している。青春前期、ぼくたちは両親や近親をひとり残し、家を出る。家を出なければ、いや家を出ることによって、始めてじぶんの人生をじぶんの手で試すことができる、とそのときには信じられたからだ。ぼくたちは、両親や近親たちを残し、ひとり家を出る。出てしまえば、なかなか戻ることはできない。これが青春前期にとっての《未知の生への渇望の劇》、《子と親との葛藤の劇》である。そしてそれが、この「ホームにて」の書かれていない、歌われていない《前詞》なのである。
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券
涙の数 ため息の数 溜ってゆく空色のキップ
歌謡は、詩語の新しさや詩法の斬新さが第一番の売物ではない。歌い手と聴き手とのあいだに確かな情緒が瞬間でも成立すれば、まず歌謡は達成されたことになる。ぼくは、このフレーズたちの達成している情緒が、遥か遠くの中空にまで伸びていると思う。何故なら、これらのフレーズは、言葉の直接性による映像の喚起の他に、無数の青春前期の切実な《前詞》の劇の映像を潜在化していて、それらを同時に喚起する力があるからである。
中島みゆきは、ぼくの眼の前にこんな風な声と歌唱と歌詞をもって始めてあらわれてきた。ギターひとつであらわれてきた。この年、昭和五十二年(77)、中島みゆきは二十五歳、ぼくは二十七歳。巷では、石川さゆりの 「津軽海峡冬景色」が、レコード大賞を眼の前にして流行って
いた。
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