◆菅間馬鈴薯堂通信 第二号
◎vol.20「Coin Laundry」☆公演パンフレット
◎発行日☆平成十九年十月二十日
◎発行者☆菅間馬鈴薯堂
◎事務所☆荒川区東尾久三の十一十六
◎執筆☆菅間 勇 挿絵☆悪猫
◎頒価☆五拾円
楽屋口にて
太田省吾さんが亡くなられた。
享年六十七歳、平成十九年七月十三日、肺癌であったという。
太田さんにはじめてお会いしたのはずいぶんと昔で、いまから三十年ほど前、ぼくが学生演劇をやっていた頃で、当時全共闘運動が激しく大学側のロックアウトで学内で芝居を発表する場がなく、学外に発表の場を探していたとき、赤坂のTBS裏の坂下の二階建てのアパートの一階にあった転形劇場を格安で「使ってもいいよ」と提供してくれたひとが太田省吾さんだった。以来、太田さんの無口で優しい人柄に惹かれて、三十余年、太田演劇を見続けてきたことになる。
おまえは、数多い太田演劇のなかでどれがいちばん好きかと訊かれたら、「小町風伝」も好きだが、それ以前の三、四の作品、そして故中村伸郎さんと故岸田今日子さんが出演した「午後の光」だと応える。方法的な演劇者の貌ではなく、太田さんの生活感のなかの人間や人生に対する希望や諦めみたいなものが素朴に舞台にあらわれていて好きだ。太田演劇の前衛性の背後には、こうした彼の資質の彷徨と通俗性とが埋まっていると考えると太田演劇は格段に分厚く、豊かで、楽しくなると思える。ぼくたちは、太田作品をもうみることはできない。
ぼくがじぶんのHPに書いた「ヤジルシ」についての雑文を、新国立劇場の楽屋口で「太田さん、こんなものを書きました」と直接原稿を手渡したとき、太田さんは「ずいぶんと分厚いね」と微笑んで受け取ってくださった。
最後の会話となった。
・11/14-2002
「物語」と「反物語」ということ 国立劇場にて太田省吾さんの「ヤジルシ」をみる
じぶんの芝居創りについてなにか考える方途や手がかりがないものか。そんなことをたえず思いながら芝居をみているわけではないが、芝居をみながら難解で不可解な場面にぶつかると、この場面はいったいなんだろう、ここにはどういう演出的な意図や工夫が織り込まれているのだろう。そんなことを想い巡らしながら客席に坐っているじぶんが確かにいる。今度の太田省吾さんの「ヤジルシ」もそうだった。とても手放しでおもしろい作品とはいえないけれども、この作品にはひとを惹きつけるなにかがある。じぶんの関心にそっていえば、「物語」と「反物語」との熱い確執と軋轢とが存在していて、そこに興味を抱いた。
まず、身勝手なからかい半分の冗談から。
すぐにあげられる印象でいえば、太田さんの壮大なこの作品の上演には新国立劇場の小(中)劇場は小さ過ぎたんじゃないんだろうか。日本人の西洋に対するコンプレックスが見事に表現されている、金ピカの巨大なオペラハウスみたいな大劇場で「ヤジルシ」をやってもらいたかった。観客としては、その方が太田演劇の醍醐味をより堪能できたのではないだろうか。
作品「ヤジルシ」は、被爆によって半壊した巨大なオペラハウスが主舞台となり、ハウスの大きさを逆手にとって、人間(俳優)の存在とその演技などほとんど見えないくらい小さくして、俳優の演技なんかに少しも期待を寄せずもっと過激に無慈悲に俳優を突き放して欲しかった。効果音楽は実際のパイプ・オルガンを使ってもおもしろい。小汚い礼服に身を包んだオッサン(品川徹さん)がわけもなくあらわれ、オルガンにしがみつき狂ったようにシューベルトの「鱒」とか童謡「カラスなぜ泣くの」でも演奏し、出演者全員の合唱が加われば、ほんとになんだかよくわからないのだけれど無意味で楽しく、誰でもが闊達に笑える作品となったのではないか。観劇後、帰路についた観客は、太田演劇特有の透明感溢れる空虚にハタと気づかされるのではないだろうか。どこへももって行き場のない孤独、を。
でも、笑われる作品なんか、太田さんはイヤなんだろうな……、
いま<前衛>劇など、この国のどこを探してもみつからない。
「声」というイメージをたよりに、太田さんの今回の芝居「ヤジルシ」の試みに臨んでみる。だれでもが感じたであろう具体的なわからなさ(疑問)からだ。
1、セリフの〈声〉が大き過ぎやしないか?
舞台で、俳優さんたちがみんな、怒鳴ってばかりいるようにみえた。
①小(中)劇場といえども、容器としての劇場はやはりそれなりに大きいから、声を大きくして、セリフを観客に聞こえやすいようにした。
②俳優の演技の技量(上手・下手)の問題が存在した。
①と②との現実的な疑問は、ここでは捨ていい。
③「作者」か、「演出」か、そのどちらかが演技者の声を大きくしたかった。
④では、俳優の大声の表現によって、「作者」、あるいは「演出」は、なにを獲得しようと考えていたのか?
セリフの意味(戯曲)内容の総和を上層の意昧層と考えれば、そのセリフがいかに表現として喋られているかという演技者の心的・身体的演技表現の総和は下層の意味層となる。観客は、上層の意味層を物語の進行を示すものとして、下層の演技表現を人間の感性的表現として、そのふたつの総和を同時にひとつの舞台(演技)表現から感受している。そして上層性と下層性と特異な連結の仕方に、俳優や演出、作家の固有の資質と思想が存在するとぼくたちは考えてきた。スムーズな連結もあり、ちぐはぐな連結もあり、またたぐいまれな乖離もある。
熱烈に愛し合った男女が、いま舞台で笑いながらじぶんたちの恋愛の破局としての訣れ話をしている、とする。ぼくたちは、その当人(俳優)たちの話している内容から察して、いま二人は訣れ話をしているんだなという意味(上層性)と、他方、二人にとって訣れ話は悲しいはずなのに、なぜこの二人は互いの訣れを笑いながら話しているのだろうか、と疑問を抱きながら二人の演技者の状態(下層性)をぼくたちはみている。こうした連結不可能な二つのまったく違ったイメージを見事に連結していく、そこが表現者たちの固有の手腕の見せ処となっている。
イ……はじめの方の場面で、主人公夫婦(大杉漣さんと、故金久美子さん)が、なんだかよくわからないのだけど、太声でケンカみたいなのをしている。
ロ……中程の「ムチャクチャ・タンゴ」で、二人はまたじぶんたちの夫婦生活を大声で述懐をする。
ハ……学校のシーンのところで、先生(谷川清美さん)とその恋人(金井良信さん)らしき人物がじぶんたちの恋愛にまつわる悶着を大声で怒鳴りあう。
まだまだ大声のシーンはたくさんあった。
観客は、これらの「大声」のシーンの重畳を、これはなんだか変だ、おかしい。語られている会話の意味の流れからいって、なぜこんなに大声が必要なんだろうかと考えながみている。やがて観客は会話内容がどうあれ、「作者」か「演出」か、そのどちらかが俳優に大声で会話をさせたいんだと見当をつける。そして大声で会話をさせる隠された意図がどこにあるのか類推をはじめる。ぼくもそうして作品「ヤジルシ」をみていた。
普通の声の大きさで話せば他者にセリフ(言葉)の意味は通じるし理解してもらえる。なのにケンカでもするみたいに過分に声を荒げて話をする。こんな状態をじぶんの日常生活にあてはめて、こうした振る舞いをしている状態を想像してみる。「深酒したときのあんたがそう。そういう状態。しつこくて何度も同じことばかり喋ってる」。ぼくの奥方に尋ねれば、きっとこんな応えが返ってくる。眼の前に話すべき相手がいながら心的には相手の存在を見喪っていて、自己が自己に憑いた状態で、じぶんひとりしかみえていない状態なのだ。じぶんの作り出した幻想の相手に向かって喋り続けているのだ。
イ、口、ハの場面は、物語の語り手としての演出と物語の制作者としての作者が分裂している場面だ。
語り手としての演出は、登場人物たちに作者が書いた「夫婦の生活の風物誌」を与え、無難に物語を進行し、早く幕を降ろし役目を果たしたいのに、作者は物語が演出によってスムーズに成就されることを禁忌している場面なのだ。いくら作者が物語を嫌がっても、舞台では舞台時間の推移なかで作者が設定した物語構造とその枠組みは実現されていく。だが作者は、物語が成就されることでやってくる安堵感と安定感が虚妄であることを熟知しているから、どうしても物語の成立を阻止したいのだ。イ、口、ハの場面は、語り手を超えて作者が力ずくで物語の破戒を試みている場面なのだ。なぜなら物語の成立を阻止することだけがかろうじて現在許されている「作品」創造の意味だし、倫理であると信じられているからだ。作品のなかで朗らかになりたがっている語り手とくらべると、作者は惨めでケチ臭いものとしてしか映らない。けれどもこの矛盾と苦汁を引き受ける以外に、作者もまた<作者>という概念を獲得できないことも現在では自明なことだ。
作品「ヤジルシ」は、声が必要以上に大きかったと感じられる、それは、太田省吾という「作者」から直接やってきた意図で、太田さんの演劇が<現在>へ果敢に突入していくときの生み出される太田さんの「孤独感・いらだち・混迷」の表出だと考えてもいいし、物語を壊そうとしている太田さんの倫理をみてもいい。
(「ヤジルシ」のパンフレツトのなかで太田じしんが語っているように、現行の演劇の趨勢が「社会物語」ばやりだからそれに苛立った太田の「否」の態度として「大声」を使ったなどとバカげたことをぼくはいっているのではない)。
作品「ヤジルシ」の重量感溢れる全体感や存在感は、作者と語り手の軋轢と衝突で醸し出されるエネルギーが源となっていて、同時に、ここに「ヤジルシ」の破減点が存在してる。
舞台上の「大声」による演技表現が、作品の質的な上向にどれだけ関与したか、「大声」が作品「ヤジルシ」にとって不可欠だったかといいなおしてもよいが、ぼくはわからないとしかいいようがない。ぼくもふくめた一般観客の作品へ分け入ろうとする観劇努力がなんとなく遠避けられ、門前払いに似た感じを抱いたことも否めないからだ。ぼくみたいな芸能大好き派からみれば、「大声」は、俳優のエロスの横溢感の表出というより、太田の理知・知性の喩であり、そのぶん舞台は消化不良を起こし客席から遠のいてしまったというのが本音の感想だ。でもアタマが良くて理知大好き派のひとは、たぶんぼくとはまったく逆なことを考え、拍手を送っているんだろうと思う。
ことさら考えてみなくとも、この社会に演劇などなくてもいいものだ。なくてもいいものをあえて創っているのだから、観客にただ迎合するような芝居など創らない方がいいに決まっている。観客も創り手も、じしんのうちの「孤独感・いらだち・混迷」を、舞台という幻想の場を借りて静かに白熱化させたいという気持ちを抱いている。一方は観客席に、他方は舞台に。
2、物語性の排除、あるいは「欝」ということ。
作品「ヤジルシ」も、いままでの太田作品と同じように、これといった物語というかストリー(?)、筋はあまり存在しない。では舞台に物語の原型がないかといえばそうではない。貴(卑)種の部分を取り除いた「貴(卑)種流離譚」の変形で、ただの「流離譚」だとおもえばいいし、現在のわが国ではみんな中流になっちゃって「貴」種も「卑」種もどこにも存在しないから、これが「貴(卑)種流離譚」の現在の一般的な形だと考えてもいいかもしれない。
天井にあらわれたシミ=ヤジルシに誘われて流離する女、それを追う男、その両者が流離の旅路で出会う様々な人びと。これだけが作品「ヤジルシ」の眼にみえる起伏だ。だがこれだけの枠組みと進行の方向性が存在すれば、太田演劇には必要で充分すぎる条件が揃っているはずで、以前から太田さんはの物語の奇抜な展開に力点をおいて芝居を作ってこなかったし、むしろ過少ともおもえるほどのプロットで芝居を作ってきた演劇者だからだ。
<物語>とは、時間的な序列に沿いながら起伏と展開を幾度となく重ね意味を特定していく運動であり、作業のことだ。入口より出口を狭くすることで徐々に「意味」は特定されていく。したがって「意味」の特定には、時間の自然的な推移、現実の秩序とその形式、それらとの事前の和解が絶対必要条件だ。だがこの世界に芝居などなくてもよいものだという考え方からすれば、現実の時間構成や秩序とその形式を母数とする<物語構造>を先験的に容認し受け入れる必要など少しもない。たぶんこれが太田さんの芝居作りの理念だし、今回の作品「ヤジルシ」もまたそのように作られていた。
素朴にいって「声」の大きさと同じように、俳優さんたちがいちように前を向き過ぎて喋っていたように思えて仕方がなかった。声を前に押し出し過ぎている。なぜ、前を向き声を前へ押し出すのだろうか? その理由はなんだろうか?
理由はふたつ考えられる。
一つは、だれにでもわかることだが、舞台の現実・技術上の力学の問題で、もともと任意すぎる場面どうしの連結を物語の援助を受けずに接木しようとするものだからバラバラになってしまいうまく連結できないのだ。俳優の演技表現も同じで、舞台上で向かうべき方向を見喪ってそれぞれに違った方向へ霧散してしまう。それらを繋ぎ止める接着剤の役目を与えられている。
もう一つは太田作品の特徴で、登場人物たちはいつもなにか眼にみえない、姿のないものから被害を被っていると感じていたり、正体のわからないなにかから追われていると思い込んでいる。太田さんは、これらの登場人物たちの被害妄想や追跡妄想を、明確に異常の帯域に入っているものとしては描いていないが、いつでも正常と異常をいききできるものとして描いていて、登場人物たちはいつでもちょっとした「追いつめられた・欝」の状態として設定されている。「ヤジルシ」の登場人物たちも、こうした太田特有の性格付けがおこなわれていた。
登場人物たちが必要以上に前を向いたり、声を押し出したりしているのは、太田さんの最後の「倫理」の場所の表現なのかな、そう思ってみていた。在所不明な加害者や追跡者から「追いつめられた・欝」に対して、登場人物たちと太田さんの共同の異議申し立ての行動なのかもしれない。
今度の「ヤジルシ」の出演俳優さんたちは、とんでもない要求を太田さんから与えられ、みんな頑張ってそれによく応じていた。太田さんの演出的意向を、演じることの体験のなかで繰り返し繰り返し確認し、それでもなおよくわからなかったのではないだろうか。苦しみ、考え、よく耐えた。少なくともかれらは、なにものをも<再現>などしていなかった。俳優は、じぶんの現実感をバネにした想像力にそってしか演じるべき対象をイメージ化することはできない。だがそのイメージも演じることが不可能な宿命を背負わされている。イメージは、蒸留された観念体そのものだからだ。俳優は、稽古場でじぶんが作りだしたイメージヘの変身を試みる。だがその試みは、じぶんの抱いたイメージを裏切ることになる。演技するとは、じぶんの力ではどうすることもできない<じぶんという生身の現実体>を繰り返し再体験する冪乗(繰り返し)性のことだからだ。これは台本を「書く」とか、「演出」をするということにまつわる一般的な誤解と同じで、「書く」とはじぶんの抱いたイメージを画面や紙の上に文字として再現することではないし、「演出」するとは演出家のイメージを俳優に押しつけ演出イメージの再現を狙うことではない。「書く」とは記述する現実体験そのものだし、「演出」とは俳優という現実(体)を稽古場で体験として強いられることだ。
「声」というイメージから「ヤジルシ」をみてきた。「声と表情」は、いまだにだれからも言葉が与えられていない悠久、かつ緊急な演劇の最大の課題だからだ。
太田さんは相変わらずソフトじゃないなァ、ハードだなァと思った。だが物語を超えていくためには、いまなにが必要充分条件なのか、それは太田さんひとりが背負うべき課題ではなく、現在の演劇が未知から問われている切実で本質的な課題であり、物語を越えていこうと考えているぼくたち演劇者の共通の緊急な課題である。「物語」と「反物語」の確執を、太田さんはよく耐えていたように思う。
<演劇にはもともと主題もモチーフも存在しないのだという徹底した理念のもとに作品の構造化がいかに可能か>。たぶんこれが作品「ヤジルシ」の底に流れている太田省吾の、そして最後の自問の声ではなかったか。ぼくにはそう思われた。
3、余談、ひとつ
「ヤジルシ」とは直接関係はないが、太田省吾の舞台におけるエロス的(生命感)の表現の背景について少しふれてみたい。太田さんというと「小町風伝」、「水の駅」とかの演劇的方法のうえに立っている作品ばかりをみんなが論じたがるから、ぼくは少し違うことをこの場を借りていってみたい。太田省吾+「転形劇場」が意識的に創ろうとおもって創ったものではなく、身体の奥深く眠っていた無意識が作動して実現してしまった舞台のこと、をだ。
もういつの頃か忘れてしまったが(転形劇場の中期の作品群)、転形劇場と太田さんの作品にふれたとき、ああこの舞台作品には昭和三十年代にかけて太田さん(七才くらいから十五才くらいの時)が眺めたであろう東京の山の手の生活の匂いがある。東京の山の手に住んでいるひとたちの心的な行動のパターンや立ち居振る舞いの情緒が肉感(エロス)性も豊か舞台に具現されていた。この作品群の方が太田省吾の本質的な表現なんじゃないか、そう思えたほどだ。黒澤映画「七人の侍」や「野良犬」の映像は、ヒューマニスト黒澤のそれではなく、リアリスト黒澤だ。かれによって秩序化される以前のかれの心象風景を、かれが容赦なく執拗に描き出してくるから、ぼくたちの心に迫ってくるし、面白いと感じられるのだ。
ぼくの貧しい演劇体験からだが、こういう奇妙な資質をもった演劇者にいままでに三人しか出会っていない。かれらほど東京地誌とそこに現に住んでいるひとたちの習俗文化のなかでの暮らしぶりを肉感豊かにあざやかに具現できる演出家は、日本中どこを捜してもちょっといないんじゃないのだろうか。でもこういうぼくのいいぶんをかれらはきっと信じない。かれらはじぶんの演劇理念をもっているひとかどの演劇者で、意識的な場面では知的な仮面を付けてしまうからだ。しかしかれらが実現した舞台は、かれらの意志を超えて、むしろ反してかれらの身体の奥底から発せられたかれらじしんの心と身体との生活の地勢の匂い立つようなエロスがいつもかれらの意識的なテーマを超えて横溢している。
①太田省吾の「東京物語」は、昭和三十年代、「戦後」も少しは落ち着き、高度成長期に入った東京の山の手の生活……じぶんの子供たちに個室を与えるほどの裕福さはまだないが、それなりに親の眼がゆきとどいていて安定した生活が蘇ってきて、「父権」がまだ少しだが残っている時代の感性だ。
②金杉忠男の「東京物語」は、やはり昭和三十年代前半くらいの東京の下町の生活……まだまだ生活は貧乏だが、周囲には爆撃で焼け野原となった荒地に原っぱが自然が蘇っていて、それなりに自足した生活。悪ガキが眺めた東京物語だ。
③平田オリザの「東京物語」は、昭和五十年代の東京の山の手の生活……じぶんの子供たちになんとか個室を与えるほどになった生活で、子供の自立性をそれなりに親たちが尊重してはじめた生活である。
各年代、各地勢のそれぞれの雰囲気を抱えた登場人物たちが舞台で生き生きと呼吸している。これはかれらの芝居をみるときのぼくだけの楽しみ方で、演出の本来の仕事はこれだけで充分なんじゃないか、そう思いながらかれらの仕事ぶりをみてきた。俳優を単なる記号としてではなく、一個の独立したエロスとして対応しようという演出なしには、こうした素敵な「東京物語」は生まれない。
平成の作品「ヤジルシ」も、ぼくにはいつものように少しだけ太田省吾の「昭和の東京物語」であったように思われた。
11/14-2002