◆ 菅間馬鈴薯堂通信 第十七号
◎vol.28「鮭」☆公演パンフレット
◎発行日☆2011年11月15日
◎発行者☆菅間馬鈴薯堂
◎事務所☆東京都荒川区東尾久3の11の16
◎編集☆堀 暁子 ◎執筆☆稲川 実代子
◎挿絵☆惡猫 ◎頒価五拾円
(1)月の砂漠をはるばると 稲川 実代子
~「鮭」の舞台美術~
去年の暮れ、チヨさんが死んだ。一年と一ヶ月も眠り続け誰にも看取られず真夜中にひっそりと逝った。年が明け、チヨさんが逝ってから四十三日目、オキノさんが死んだ。三つ違いの姉を追いかけるように、突然思いついたみたいに大急ぎで逝った。よく晴れてきりきりと寒い二月の始め、オキノさんは満足そうに笑っていた。
チヨさんは脳梗塞で倒れる直前まで二本の脚で普通に歩き、自分の歯で白飯を普通に毎食一膳食べ、ライスカレーと即席ラーメンが大好きで、時々ベッドの上に立ち上がって、ゆらゆらと揺れながら窓のカーテンを閉めたりしていた。九十三才とは思えないほど物腰のしなやかなチヨさんだったが、時々、キレた。
東京都がやっている痴呆相談を頼んで、医師と看護師とケアマネージャーが来てくれた時のこと。
「ご苦労様です。どうぞおかけなさい(椅子に)。どうぞ召し上がって(お茶を)」などと、おみえになったお客様に普通にお愛想なんか言っていたが、全員が着席し一呼吸の静寂の後、
「これから簡単な質問をいくつかしますので、わかる範囲で答えてください。では、チヨさんからいきましょうか」
医師が語り始めると、テーブルの上にのせた自分の両手をみつめ黙っている。
「お名前と生年月日を教えてください」
「山口チヨ。……明治(メイジ)、四十三年、四月の二十日」
ちょくちょく聴かれることなので自信に満ち満ちて答える。生年月日は、明治(メイジ)が言えると最後まで言える。
「すごいですね。スラスラ言えましたね。では今度は、知っている野菜の名前を、思いつくままでいいですから、五つ、言ってみてください」
「ヤサイーィ? ……」
「はい。野菜」
「えーと、ニンジン……ホーレンソウ……」
「人参、ほうれん草。はい。他にもいろいろありますね、野菜」
「……」
「お昼には何を食べましたか?」
「……わからん!」
張り裂けるような大声で怒鳴りながらチヨさんはテーブルに両手をついて立 ち上がり、続けて更に大声で抗議する。
「これはいったい何の試験だあー! あんたたちは誰に頼まれて来たあー!
あたしゃ、何も知らん!」
オキノさんを除いて、居合わせた全員が「まずい」と判断し、鼻をふくらませ空を睨んでいるチヨさんをなだめる。オキノさんはこの時、またかというような顔で笑っていた。
「大っきい声だあ、ハッハッハッ」
この後オキノさんはお客様に嬉しそうに名前と生年月日を告げ、楽しく野菜の名前を思い出し、おまけに算数の問題まで解かせてもらって上機嫌だった。チヨさんはその間テーブルの木目を睨みながら黙ってお茶を飲んでいたが、医師たちが帰る時にはにこやかな笑顔でお見送りした。
「おかまいしませんで。気をつけてお帰りなさい。またいらっしゃい」
戦争中は満州に看護婦として従軍していたオキノさんだが、本人の話によると、胸を患って終戦前に帰国していたそうだ。残っているセピア色の写真の中で、オキノさんはほとんどいつも歯を見せて笑っている。負傷した兵隊と並んで白衣を着て歯を見せて。看護婦たちの集合写真で歯を見せて。写真に写る時くらい、幸せに笑っていたかったのかもしれない。それにしても当時の満州の野戦病院で、あれだけの量の写真を誰が撮ったのだろう。アカシアの並木路、湖、川、空、民家、病院、兵士たち、看護婦たち。日本が戦争に敗れることなど誰も考えなかった頃の写真が、分厚い三冊のアルバムに、糊でベタベタと、オキノさんらしい無秩序さで貼られて残っている。アルバムの中で野戦病院の人々は皆、悲しいこと辛いこと、苦しいことすべてをぐっと腹にとじ込めてしまったみたいに、どこか遠い目をしてカメラのレンズを見つめている。明日はもう生きていないかもしれないもの。そう言っているような目だ。そんな中でもオキノさんは口を開けて歯を見せて笑っている。そもそもオキノさんはなぜ従軍看護婦になろうと思ったのだろう。今ではもう確かめようもないが写真の笑顔を見れば、オキノさんの青春が満州にあった、そのことだけは事実といえそうだ。
南の島、天草の志岐村というところでチヨさんとオキノさんは生まれた。お父さんは自身で船を持っていた船乗りで、チヨさんが四才、オキノさんが一才の時に海で死んだ。お父さんが死んでしまった後は、チヨさんとオキノさんが笑いながらよく話していた[オニババア]というおばあさんが君臨し、お母さんをいじめにいじめ抜いた(らしい)。
「カラスの三日鳴かんごたあっても、マサジョ(お母さんの呼び名)の泣かん日は、一日もなかよ」
村のおばさんたちが同情してよく話していたそうだ。
「真夏に、すいか畑でおっかさんの手伝いしてると、おっかさんが音の良さそうなすいか、畑の中で割って食べさせてくれるんだぁ。家へ持って帰るとバサマにとりあげられるからここで食べろって。真夏のカンカン照りの畑で、おっかさんと三人でよく、アッツアッツのすいか食べたよなぁ、アハッハッ。アッツイすいかもうまかったけど、やっぱすいかはアッツクないのがうまいよなぁ、アハッ」
オキノさんは痴呆が始まってからもよくこの話をした。ちなみに、マサジョさんはお父さんの家に後妻に入りチヨさんとオキノさんを産んだ。そしてお父さんの死亡と同時に婚姻を解消され、それでも働き手として家に残された。――なんということだ――チヨさんとオキノさんの老いてからの会話の中にも、やさしかったおっかさんの話はたびたび登場した。
チヨさんとオキノさんが乙女の頃に、志岐村では若い男子が真夜中に若い女子を襲撃する[夜這い]という慣習があった。チヨさんもオキノさんも毎晩「今日か明日か」と怯え続け、とうとうふたりは決心する。
「こんな村はもういやだ。そうだ、東京へ行こう。東京へ行って勉強して、男なんかに負けない自立した女になろう」
と語り合い、励まし合って、頼るものもないのに乙女ふたりだけで上京した。昭和四~五年の頃のことだろう。オキノさんは神田にあったというナントカ看護女学校に入学し、勉強が嫌いだったチヨさんは妹の勉強を助けるために働いた。昭和の初めの東京で、田舎乙女のチヨさんとオキノさんはどんな暮らしをしていたのだろう。知らない土地へ希んで来てしまった姉妹。その場所でたったふたりで生きる。
天草を出てからずっと、オキノさんが満州でお国のためにと働いていた数年とそれぞれが所帯をもったばかりの数年を除いて、チヨさんとオキノさんは八十年を超える年月を共に過ごし、歩いた。
♪月の砂漠をはるばると
旅のらくだが行きました
金と銀との鞍置いて
ふたつ並んで行きました♪
病室でふと思い出し歌ってあげると、
「そんな淋しい歌きらい」
と言ってオキノさんは、ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」を歌い始める。必ず間違えるところが、
♪思い出します故郷の<友が>♪
というところで、
♪思い出します故郷の<空を>♪
と歌う。指摘すると、
「あそか。 ♪思い出します故郷の<空を>♪」 と歌い直す。全然きいてない。再び指摘すると、あそか、と言って同じことを何度もくり返す。同じ部屋のおばあさんたちも一緒に歌い出す。212号室はいつも歌声でいっぱいだった。食事がまったくとれなかったオキノさんは、他のおばあさんたちが食事中でも、褒められると思って大きな声で、
♪南国土佐をあとにしてー♪ と歌い続ける。その時ばかりはおばあさんたちも下を向いてオキノさんと目が合わないように、黙々と食事をとっていた。
「姉はどこへ行ったの?」
チヨさんが入院してから半年ぐらいは毎日のように聴かれた。
「とってもいいところにお泊まりしてるよ」
「エヘッ、いい旅館があったんだ。頭悪いのにお女中さんできるのかなあ」 「働いてるんじゃなくて、お客さんでお泊まりしてるの。頭悪くても大丈夫だよ」
「エヘッ、いいなぁ、いいとこなんだなぁ、よかったなぁ、ハマンチョー?」
「ハマンチョーじゃないよ。北区の温泉」
「アハッ、北区に温泉あんの?わたしはハマンチョーに帰りたいよ。ここから出たらおばちゃん(チヨさんのこと)とハマンチョーへ帰る」
何度も何度も天草の故郷の地名を言うオキノさん。骨折やら開腹手術やら点滴やらで、満身創痍の痛みに耐えながら、病室の窓から見える小さな空をみつめて嬉しそうに歌い出す。
♪南国土佐をあとにしてー
都へ来てから幾年ぞー
思い出します故郷の空をー
門出に歌ったよさほい節をー
トサノーコーチノハリマヤバーシデ
ボンサーンカンザーシカウヲミーター
アヨサホイヨサホイ♪
ひとりの悲しみはふたりの悲しみではない。ひとりの悲しみの質と深さはただひとりのものだ。夫や兄弟にさえうまく伝えられない。伯母と母と、共に過ごした濃密な年月は、わたしひとりの胸の中にまだ息づいている。それを思い出と呼ぶにはあらゆることが、あらゆるものが、まだまだ生々しい。時がいつか、思い出と呼べるものに変えてくれるだろう。
月の光に照らされて地上の砂漠をはるばると旅して歩いたチヨさんとオキノさんだが、今頃は本物の月の砂漠の上をふたりで手をつないで、うさぎみたいに跳ねているかもしれない。また会おうね。おばちゃん。おかあちゃん。
この春は、西日のあたる我が家の居間の窓辺にふたつのお骨が並んで、南側の小さな庭に咲いた満開の梅の花をみつめている。
「ストイケイオン18号」所収 平成17年7月12日刊
(2)もういいよ 稲川 実代子
前略
暖冬といわれたこの冬ですが、東京でも厳しい寒さが続いています。
そちらはいかがでしょうか。皆様、お元気でいらっしゃいますか。昨年は、ろいろお気遣いをいただき、本当にありがとうございました。遠い天草で、伯母のこと、母のことを憶えていてくださる方がいる。それだけで私は、ありがたく、嬉しかったのです。ありがとうございました。 先日、伯母と母の一周忌の法要を、子供と孫だけでささやかに営みました。連日の激しい雨もこの日だけは止み、よく晴れて、春のように暖かい一日でした。伯母も母も、きっと喜んでくれたのかな……と、思いました。
一周忌の法要が終わりましたので、生前の二人と約束したように、分骨したお骨を、天草へ連れて帰ってあげようと思います。毎日毎日、天草のことばかり話していた二人です。夢にまで見た故郷だったのでしょう。約束を守って、天草の海を見せてあげようと思います。
そこで、お願いなのですが、よろしければ、分骨した二人のお骨をそちらのお墓に、埋葬していただけないでしょうか。
当初は、てのひらにのるだけの、ほんの少しのお骨なので、海に散骨しようかと考えていましたが、強様から埋葬のお話をしていただき、あれからずっと考えてみました。せっかく故郷へ帰るのなら、そして、皆様に許していただけるのなら、懐かしい人々のそばで眠らせてあげる方が、伯母も母も幸せかもしれない……そう思うようになりました。それで、お言葉に甘えさせていただき、あつかましいお願いで本当に申し訳ありませんが、山口家のお墓に分骨した二人のお骨を埋葬していただきたく、よろしくお取りはからいくださいますよう、お願い申し上げる次第です。
三月十二日(日)頃から十四日(火)頃まで休暇がとれましたので、できれば、三月十二日(日)か、十三日(月)に、納骨をお願いできないでしょうか。
何もかも初めてのことなので失礼がありましたらどうぞお許しください。お寺さんや石屋さんへの依頼など、大変なご面倒をおかけすることと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。また細かいことは、後日私の方からご連絡いたしますので、相談にのってください。今日は、埋葬のお願いのため、お手数を書きました。
まだまだ寒い日が続きそうです。どうぞ皆様、くれぐれもお身体、ご自愛くださいませ。かしこ
平成十八年一月十九日ミヨコ
山口 強 様
「はい、おはよう」
と言って、普段着の作務衣姿でお坊さんが仏間に入ってきた。ちょっと前、玄関前にバイクを止める音がしていた。お坊さんだったのだ。 従兄の強さん、力さん、満久さん。強さんの奥さん、娘の浩美さん、息子の幸人さん。従姉の洋子さん、マツ子さん、マツ子さんのご主人の明男さん。そして、私と夫。ピタリと呼吸を合わせたように整然と座って、目の前で風呂敷包みを広げ着替えを始めたお坊さんの後姿を、伏し目がちにうかがう。質素な灰色の袈裟を着け、仏壇の前に置かれた小さな座卓の上にちんまりと座っているチヨさんとオキノさんの前に正座された。袖を正すように大きく両手を広げると、読経が始まった。天草の禅寺のお坊さんの、天草訛りのやさしい経音が、チヨさんとオキノさんの小さなお骨に霧のように滲みていく。皆はそれぞれにチヨさんとオキノさんを想い、目をつぶった。
「天草へ帰りたいなぁ……な、おばちゃん。アハッ、あんた、連れてって」
と、はしゃいで語るオキノさん。
「あたしゃ、天草なんか帰らん」
と、毅然と断言するチヨさん。
ふたりとも、私の反応をうかがうように、小さな目をこちらに向けて返事を待っている。
「あのネー、車椅子二つ押して、私ひとりでババ二人、飛行機に乗せられるわけないでしょ。ふたりが死んでお骨になったら、骨で連れて帰ってあげるから、それまで楽しみに待ってなネ。ヤクソク」
五秒位、ちょっと考える様子を見せて大笑いが始まった。
「アハハハー、やだよー。骨になったらなんも見えないじゃんか」
「そうだな。それにお前、天草のうまいもん、なんも食べられん」
「でも、マァ……骨でもいいかー。連れて帰って……、アハッ」
ふたりはそんなことを語りながら、何がそんなにおかしいのか、少女のように笑いこけた。
チヨさんとオキノさんが七十余年前、東京へ向かって辿った道を帰ってあげたかったが、わずか三~四日の日程ではそれは不可能だ。せめて長崎の茂木港から船で天草富岡港へ渡り、子供の頃遊んだであろう明神山や、この日賑わっているはずの志岐八幡宮のお祭りを見せてあげようと思った。ところが、この日に限って海が大荒れで、高速船がまさかの欠航。やっと辿り着いた茂木港で、高速船発着所の入口ドアに〈欠航〉とマジックで書かれた貼り紙を見た時、リュックに入れたチヨさんとオキノさんのお骨を胸に抱え、白波の立つ彼方を睨みながら私は途方に暮れた。もう午後二時を過ぎている。今日中に天草に渡れなければ明日の納骨式はできない。ああ……。
私の様子に夫が機転をきかせ、天草へ今日中に渡れる他のルートを事務所の人にきいてくれた。
「口之津からならフェリーの出とるかもしれんですよ」
私たちは大急ぎで長崎市内へ戻り、諫早を経由してバスで島原半島の南端、口之津港へ向かった。――あとで考えるとバカみたいだが、港の電話番号が観光パンフレットに載っていたのに確認の電話をかけることすら思いつかず、口之津港に着いてまた〈欠航〉と貼り紙がしてあったら今度こそどうしようかとか、港の周辺に宿はあるだろうかとか……バスに乗っている間中、ずっと気分は重かった。――そして夕暮れ時。ヤッター!天草鬼池港行きのフェリーが運航していた。
窓の外は靄がたちこめ何も見えない。日が暮れてもやはり波は荒く、フェリーは大きくゆんわらゆんわらと揺れながら天草鬼池港に到着した。スロープを降りて行くと、強い海風に煽られながら小柄な女性が震えるように立っていた。
(続く)
「ストイケイオン19号」所収 平成19年2月5日刊