◆ 菅間馬鈴薯堂通信 第十九号
◎vol.29「春待草 ひとりでは淋しすぎて・Ⅵ
旅立ち篇」☆公演パンフレット
◎発行日☆平成二十四年三月七日
◎発行者☆菅間馬鈴薯堂
◎事務所☆東京都荒川区東尾久三の十一の十六
◎執筆☆菅間 勇 ◎挿絵☆惡猫
◎頒価五拾円
(1)「静かな海」……元祖演劇の素いき座 豊かな<老人力>
劇団民芸に大滝秀治さんという看板俳優さんがいる。
老境に達した大滝さんの最近の演技をテレビなどで見るのはとても面白い。どこが面白いのか。大滝さんの演技がほとんど予想、追跡が不可能なところだ。映像の中の大滝さんは、突如としてワケのわからないままトランス状態に入り、その状態に入ると無闇に声が甲高くなり無呼吸に近くなり、そろそろ呼吸しないと脳や身体に酸素がいかなくなって死んじゃいますヨっていうくらい危なっかしい。そんな大滝さんの独特な演技風貌の雰囲気や不可思議さに揺さぶられることが面白い。ひとは外側からではとても計り知ることのできない心と身体との独自な連結の回路をもっている。いや当のご本人(わたしたち自身)さえも把握し難い心と身体との固有の連結の回路をもっていて、観客はそんな心と身体との想像的な表出である演技表現の不可思議さに戸惑いと感銘を受けているのかもしれない。観客は鏡を見るように、大滝さんの演技にじぶんの生活の中の振る舞いを重ね合わせいるのかも知れない。
大滝さんのあの甲高い声音の不可思議さや独自な呼吸の停止法から、演劇はいくつかの大切な暗示を受けている。
演劇が現在どんな窮屈な場所に立たされているかということだ。これは「観劇」体験として現実的にあらわれてくる。
もうひとつは、声音(声の高低、太さ細さ、展しと縮め、早さと遅さ)と呼吸の意識的な停止は、言語表現の<意味>と<価値>とが構成される以前の<原意味>と<原価値>というものにさっと触れているのではないのだろうか。言葉は他者との交通の必要という側面と、じぶんとの交通の必要の側面をもっている。<意味>や<価値>が構成される以前の<原意味>と<原価値>とは、他者と関わるよりじぶんの心と深く関わろうとする欲求に根ざしている行為に由来している。
大滝さんの声音や呼吸法、興奮状態、いわば意識的な頓挫の仕方を面白がっているぼくたちの感想を、クソまじめな演劇者は「そんなことは些末な問題で、演劇にはもっと大事なことがあるじゃないか」と怒り出すにちがいない。「お前たちは病んでいる」と。
病んでいないとはいわないが、ぼくたち(観客)はいま、演劇(作品)の余りに任意過ぎる物語性から意識的に遠ざかりたいという願望を心の底に秘めながら芝居を鑑賞している。演劇という概念と物語という概念とが、すでに分離してしまっていることに気づきはじめているからだ。演劇(舞台)の中で展開される物語(性)は、演劇(とは何か)を、語ることはもはやできないし、試みることさえもできない。ぼくたちのこうした現在の演劇に抱いている感覚的な投げやりな諦念、追いつめられたなけなしの気分は、だが正当的な根拠をもっている。理由の一端は、ぼくたちの「観劇」の体験の歴史にある。社会的な主題が織り込まれた世にいう優れた演劇がいかに空疎でつまらなく説教臭いものであったのかを充分に知らされてきたし、また逆に面白い物語を内在している舞台を見てもその舞台から演劇性(ひとが演じることの根拠)の薄弱さをいやというほど思い知らされているからだ。
物語から遠ざかろうとする逃避行はもはや観客だけの問題ではない。演者たちも巻き込んでいるきわめて現在的な演劇の課題だ。観客が舞台作品からなにを見て取りたいと願っているのか、それは作り手が舞台でなにを実現したいと願っているのかという問いと交差するのは必然だからだ。
演劇ももちろん「現在」を深く病んでいる。演劇が、演劇自身の内部の物語の理念を、ヒューマニズ(反ヒューマニズム)や現在の社会を支える倫理(反倫理)から脱出する途をみいだせない限り、<劇>と<物語>とは「現在」という時間軸に沿って乖離していかざるをえない。なぜなら、ぼくたちは現在、ヒューマニズ(反ヒューマニズム)や現在の社会を支える倫理(反倫理)の中では生きてはいないし、とても生きてはいけないからだ。
久しぶりに、元祖演劇の素いき座の土井通肇さんの芝居「静かな海」を見た。
土井さんの演技表現も大滝秀治さんに似たある種の声音の計り知れなさと呼吸の面白さで、優れた<老人力>をもっていて、そこが実に楽しかった。
土井通肇さんの演技史は長く、新劇期、アングラ期、アングラ以後、持続的な演劇活動している。土井さんにはじめて接したのは1971年の頃の早稲田小劇場の「劇的なるものをめぐって」のシリーズで、兵隊服を身に着けた長身の土井さんが舞台で岡潔の文章を科白として喋っていて、舞台全体のなけなしの前衛的な試みと土井さんの演技姿の奇観さが相乗して、二十歳を超えたばかりの演劇学徒であったぼくはたちまち早稲田小劇場の虜になってしまい、よせばいいのに早稲田小劇場の門をつい叩いてしまった。
後年、早稲田小劇場を離れた土井さんは<走狗>という集団でフランス革命のロベス・ピエール役などを溌剌として演じていたと記憶している。
三十有余年の歳月が流れた。すでに老境の域に達しつつある土井さんの演技の特徴は、土井さんはもはや<劇>性のなかに存在しているというより、非<劇>性のなかにいて、<動>から<静>へ、<往路>から<還路>への道筋に佇んでいる(そんなことをいうと土井さんにきっと怒られるな)ように思える。
「静かな海」の土井さんの日常的な会話の声音と呼吸はとても豊潤で伸びがあった。喋りにまつわる流麗さが素晴らしかったというのではない。むしろ逆で、喋りにまつわる頓挫や渋滞感を決して隠さずにあらわしていて、そこが実にいいし、自然な感じがした。科白(言葉)が出てくる前の「ええっと」とか「あのっ」とか「ううっ」とかいった困惑しきった声音「それ、もしかしたら土井さん、ただ科白を忘れて思い出せないだけなんじゃないんですか?」といった感じの躓きの声音、つまりは舞台で困り果てている土井さんの姿が実におかしいし、土井さんがじぶん自身に躓くときの表情の方が「静かな海」の物語的主題を越えて人間についてより多くを語っていると思った。
こうした芝居の見方は確かに逸脱だ。だがぼくたち観客は「静かな海」の物語的な主題を問うことなどホントは諦めていて、そういうつまらない探索から早く逃げ出し、じぶん一人だけの<劇>を探りあてたいと願っている。観客は、舞台「静かな海」(舞台一般といってもいいと思うが)の面白さと切実さは、作者や演出の考える物語的な主題を越えて存在していることを<既知>の事実みたいに知ってしまっているから、科白に躓いている土井さんという俳優(人間)のエロスを湛えた表情の方が面白いと感じ、それに触れることができたとき、ぼくたちはどんづまりに息も絶え絶えに棲息している劇の「現在」に触れることができ、じぶん一人だけの<劇>を発見して楽しんでいるのだ。
思うに、土井さんは、じぶんの演技表現の根拠を生活者としてのじぶんの生活の足下に求めること、表現者として科白表現の演劇的技術の工夫を無限に探求すること、その両者の間に横たわる埋めることの決してできない<溝>を熟知していて、その<溝>に流れる河を自由に泳ぎながら往還すること、それがいまのじぶんにできる、いまの演劇にできる最大限の良心なんじゃないか、そう考えているのではないだろうか。
演劇においては、渋滞のないきれいな科白の滑走が生む意味や価値、また物語の華麗な流れを、躓きや渋滞さの世界の上位に置く理由をぼくたちはいま見喪ってしまっている。科白の声音そのもの、渋滞する喋り、いい淀み、呼吸の意識的な停止を、明るく面白いといい放すぼくたち観客は、演劇創作者たちも含めて、いまどん詰まりの場所へ向かって歩いて行く演劇の目撃者であり当事者なのだ。
写真は、舞台上の土井通肇さん。 01/02-2003(未発表)
※大滝秀治さんは平成24年10月2日にご逝去なされました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(2)チェーホフの科白は、なぜ長いのか?
以前、「チェーホフのブローチ」という小品の台本を書いたとき、ぼくもひとなみにチェーホフの作品を何本か読み返してみた。そのときにも強く感じたことだが、なぜチェーホフの科白(セリフ)はこんなに長いのだろうか。こんな文庫本一頁を越える並外れた長大な科白、いまどきどんな優れた俳優さんだってとても喋れるもんじゃない。なぜ、チェーホフはこんな長い科白を書いたんだろうか。それがどうしても不思議でならなかった。だがチェーホフにはこの長さがどうしても必要であり、書く必然があったのだ。だとしたら、どんな必要や必然だったのだろうか。ぜひ知りたいとおもった。
普通にかんがえれば、われわれ日本人には想像もできない<喋る>ということにまつわるロシア人気質の特性みたいなものを想定するしか理解のしようがない。もしそうなら、それは研究者に任せる問題で、ぼくのような素人にはちょっと手が出ないと諦めるほか仕方がないとおもっていた。
ところが最近その秘密を解き明かしてくれる文章を発見したので、ここに引用させていただきます。それは、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されている糸井重里さんと吉本隆明さんとの対談「まかないめし(第14回)」で、抜粋して掲載しちゃいます。(勝手な掲載、乞うご海容!)
吉本隆明 僕に一番、例えばロシアって、ソビエトですね、ソビエトから今のロシアっていうのにかけて、一番鮮やかなイメージを与えてくれたのは、内村さんという人なんですよ。内村剛介って人なんです。この人は、文学で言うと、ロシア文学っていうのがあって、それはまあ、ドストエフスキーとかトルストイとかって、こう偉大なっていいますかね、世界的な文学者という小説家がいて、そうすると、この人たち、この小説というのは、確かに、もう、すごいなっていうふうに思うけれどもね、退屈だなって思うところもあるんですよね。あの、何ていったらいいんでしょう、繰り返しでもないんですけどね、あの、何かここまでこういうことを、ごてごて言わんでもいいじゃないのっていう。
糸井重里 神様との関係とかですね。
吉本隆明 そう、そう。それで、小説だからね、もうもっとすらすらと読みいいように、流れがあったほうがいいじゃないかと思うでしょう。それで、何でこんなに、小説の中でお説教しちゃったり、信仰問答しちゃったりね。何だあ、これはっていうふうに思いながら、まあ、読んでくるわけですね。読んできたわけですよ。そうすると、内村剛介は鮮やかに、そのイメージを言ってくれたんですよ。つまり、ロシア人っていうのは、例えば地下鉄なら地下鉄に乗るとする。そして、地下鉄に乗って、まあ、日本で言うとさ、定期券でさ、キセルやってやれと思ってさ、やってね、それで見つかったときと、見つからないときがある。僕は見つかったことありますけど。見つかると、三カ月分金取られちゃうんですよ。金取ってね。それで、しかも、どういう金を取るかというと、僕、学校行ってるとき、見つかったんですけど、目蒲線というのがあってね、目蒲線の大岡山でしょう。それで、それなのに、何か田園調布のほう回って渋谷のほうに出た、その料金で、三カ月分取るわけですよ。それで、返してくれないのかって、定期を見せたら、いや、これは少し預かりますとか言われてね。金は取られるしね、おれ、こっちから行ってんだから、こっちの金じゃだめなのかって言ったら、そうじゃないんだと。規定だからね、遠回り、田園調布を回って、こう行くね、中目黒も回って、渋谷へ行く、その料金だって。こんなばかなのあるかと思って。そういうことありましたけどね。内村剛介が言うには、そういうキセルをやってね。地下鉄でキセルをやってとか、インチキして見つかっちゃった。そういう場合に、日本と違うところは、日本人と違うところは、とにかく、へ理屈をこねるというんですよね。へ理屈をこねて、そのへ理屈が通っちゃったら、いいって、許してくれるんだっていうんですよ。要するに、よろしいって言うんだって。そのへ理屈が通っちゃうというところが、ロシア人だっていうんですよね。それで、おれは、トルストイの『戦争と平和』とかさ、戦争論みたいな、こんなに長くやっているのに、ばかじゃねえかと思うぐらい、余計なことじゃねえかって思うんだけどさ、やってるでしょう。あれは、私は初めてわかりましたよね、そう言われて。理屈が通っちゃったらね、理屈が通っちゃったら、全部、もうインチキってわかってたっていいんだって。わかってたって、理屈、へ理屈でね、とにかく、あれしちゃってね、もう納得させちゃったら、そしたら、いいです、いいんだっていうふうに言ってくれるんだって。それは、やっぱり、ロシア人だよって。ロシア人っていうのは、そうなんだっていう。それで、おれは初めてトルストイとか、ドストエフスキーの、あのしち面倒なという、言わんでもいいようなことをたくさん書いてあるんで、それは初めて、ほおーっ、わかったなって思いましたね。
内村剛介さんは、シベリヤ抑留を体験されたロシア文学者だ。右の会話を読んだとき、ロシア人気質というか、チェーホフの科白がなぜ長いのか、なんとなくぼんやりだが少し解ったような気がした。身体が動くうちにチェーホフの芝居をなんとか舞台化してみたいと思っているが、あの長大な科白をどう処理したらいいのか、ぼくにはもう少し熟成時間が必要かもしれない。
(3)石関善治郎さんの「吉本隆明の東京」を読む 「昭和」という時代を生き抜いたわが父祖世代への鎮魂歌
昭和二十年八月十五日の敗戦後まもない頃、わが墨田区寺島の町内では、婦女子を除いてそれなりに体力を保持していてまだなんとか身体を動かせ働ける男子はすぐに地元警察署に集まるように、と急な呼び出しが町内全域にかけられた。警察署へ行ってみると、警察署が厳重に保管していた日本刀や懐剣、槍が集まった彼らの前に差し出され「もし、アメリカ兵が、わが町内を跋扈し、婦女子に淫らな狼藉をはたらくようなことあれば、これらの武器を使用して適わずといえどもアメリカ兵に一矢報いるように」と切願してきたという。いまから考えるとそんなバカなことあるワケないじゃないとしかいいようのない、とんでもないことが敗戦当時は起こったんだ、こんなメチャクチャな話を父親から聞いたことを石関善治郎さんの「吉本隆明の東京」を読んでいたら思い出し た。この著作は、読者にそういう家族内だけで受け継がれてきた家族の時代や社会との関わり合いの伝承譚みたいなものを思い出させる開放感のある、まるで小説みたいな読みものだ。
「吉本隆明の東京」は、表題通りわが国を代表する世界的な思想家であり、詩人である東京在住の吉本隆明さんの一生活者としての生活史を、編集者として名の知れた石関善治郎さんが永い時間をかけて丹念に描きあげたものだ。
石関さんは、まず吉本さんの膨大な著作の中から生活史にまつわる事柄を時間軸に沿ってまるで切り絵を貼り合わせるように収拾し、時間的にみて欠落している部分は、ご本人をはじめ往時を憶えているひとたちを訪ね歩き訊きとめる。それでも埋まりきらない部分や納得のいかない箇所が出てきたら、その間隙を埋める資料を探し求めるために文字通り眼と足と手とを惜しみなく使い、幾たびもの探索行の上に、まるで一幅の屏風絵を描くようにひとりの人間の生活史の全体像を書き溜めた。この労作は、石関さんの吉本さんの人柄とその思想に対する並々ならぬ愛着の深さと、強力粉みたいな粘り強い石関足腰から生み出されたといってよい。
著作は、大正十三年、吉本一家が熊本県天草から上京し、東京の佃島近辺に居を定め(その年に隆明が生まれる)、佃島で小さな造船業と貸しボート屋を営みはじめるところからはじまり、
(1)吉本家の詳細な地縁・血縁図、隆明の子供時代の黄金期を過ごした佃島の地誌が詳細に描かれ、
(2)戦争へと至る時代に過ごした隆明の多感な青少年期(今氏塾との出会い)、
(3)戦争によって被った吉本家の変貌(お花茶屋への引っ越し、疎開、次兄・権平の戦死)、
(4)敗戦の混乱期(姉・政枝の死と学業と就職)、
(5)田端、駒込、千駄木への引っ越しと家族の誕生、そして住居の購入、
(6)そして現在に至るまで吉本隆明の生活史を周密に記録している。
実はぼくは、この著作を読みながら勝手な連想ばかりしていた。吉本の次兄 ・権平の戦死の箇所では、ぼくは祖父から聞いた三月十日の東京大空襲の夜にみた陰惨な光景の話や、栃木に疎開した家族にゴムの固まりの堅いタイヤの自転車で食料を運んだ話を思い出していたし、吉本の父の「廃油回収」の箇所では、傾いていく商売をなんとか立て直そうとして玉の井で「釜飯屋」を再開業した最後の祖父の頑張りを、吉本の姉「政枝」の死では、早世にしたぼくの母や叔父の ことを。田尻ノブさんと西川千代さんの引き取りの箇所では、そういえば子供の頃、近所のほとんどが親戚たちを抱えて小さい家屋に沢山のひとが住んでいたことなどをも思い出していた。こういう自由な連想をこの著作が許容してくれるからだ。
でもこの著作に対して疑問が起こらなかったかというと、そうではない。この著作は、石関にとってどのような必然があったのだろうか、と。吉本隆明の資料なら石関じしんが書いているように川上春雄の詳細な「吉本隆明年譜」があるではないか。もちろん石関に直接訊けば、心身ともに深い影響を受けた吉本隆明の生活像を、じぶんの手足で描いてみたかったのだというだろう。
この著作にはもうひとつ、石関の明確なモチーフがあったのではないだろうか。昭和という時代をとにかくも頑張って生き抜いてきた無名の一生活者として石関の父親世代への石関なりの鎮魂歌を描こうとしたのではないだろうか。その思いをなんとか実現したいという内なる力と必然が、吉本隆明の生活史に関する第一級の研究資料(最上級の研究資料には違いない)という水準を超えて、ぼくたち読者を惹き込みながら、自由で気ままな連想を許してくれる開放感をそなえた不思議な魅力ととなってこの書物にあらわれてきているのではないか。
吉本隆明の生活史を周密に描くことが、昭和という時代とその過酷な時代に翻弄されながら何度も何度も躓きながらも立ち上がり体勢を立て直し、子を産み、育て、老いていった無名の一生活者としてのわが父親世代の生活史の象徴としての暗喩となってあらわれている。
たとえば、どんな文学者の自伝にあらわれた父性像や家族像にも、必ず一種の由緒がみえる。それは書くもの
が来歴を美化するためか、ほんとうにそうなのかわからない。しかし由緒のない父性像や家族像や、それに見合っ
た自分の像を描けたらという願望を失うことができない。(略)それは文章たりえるか? この疑問に近づこうとするモ
チーフがあるときだけが文章たりうるとおもえた。 (吉本隆明著「父の像」)
はじめから心がけていたことがある。「生活史」の地平で語り、文学や思想といった領域に入り込まないこと。
(「吉本隆明の東京」あとがき)
まったくの想像だが、この著作を編むにあたって石関は、江藤淳の「漱石とその時代」や吉本の「マルクス伝」が頭をかすめたのではないか。石関は、江藤淳みたいに身を乗り出すような高いポテンシャルでの「ナレター」の文体を選ばなかった。可能な限りポテンシャルを低くし、思想家吉本隆明を、無名の一生活者へと解放すること、その文体を模索し作り上げていくことが、この著作のもうひとつ意味だと思われる。石関善治郎さんの「吉本隆明の東京」は、大変に楽しい連想を沢山誘ってくれた書物で、とても面白かった。 (作品社刊) (詩の雑誌「midonight press」31号所収)