23年4月15日
再録:台詞の背景(1) 津田さんの不思議な演技の育み方
★「水辺にて」のダ君とツ君の遊びの場面。左・ツ君(津田タカシゲ)、右・ダ君(大間剛志)
以下の文章は、去年(2022年11月頃)の「水辺にて」の稽古中に、現場の俳優さんへ、演技表現についてわたしの気が付いたことをLineで送ったものを再録したものです。意味内容の変更はありません。誤字脱字、意味が通りづらい箇所をできるだけ読み易くしたものです。新しく加筆した箇所もあります。
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津田さんへ……、
芝居の台詞について2、3のわたしの趣味嗜好の思いを書きました。そんなこと判ってるわいと笑いながら読んで下さい。
(1)「四景:風の歌い手」の場面の二人の台詞の掛け合いの箇所ですが、登場人物として相手方の大間さんの「ダ君」の台詞がなければ、津田さんの「ツ君」の台詞が出せない箇所、同様に逆の場合もあります。そういうのって台本上に沢山ありますよね。
例えば「突然、怒り出すんだから」という台詞は、登場人物としての「ツ君」(津田さん)と「ダ君」(大間さん)との抜き差しならないの関係のなかから、「ツ君」の本音がふと独り言のように湧いて出た感じのイメージの声ですが、でも、その台詞をリアル(心理的)にとって小さな声で表現する必要はないと思います。わたしの台詞には、そんな修練・努力は不要で、津田さんが本来もっている普通の声でOKです。笑ってもOKです。
芝居の場合の他者とは、大間さん一人ではなく、観客という大前提の他者を含むものとして考えて下さい。大間さんと観客にも聞こえる適度な声であればOKで、これは芝居(有観客である)の形態上の矛盾の一つです。
(2)台詞のリズムとメロディの問題
「声にオレらの人生体験貼りついてっから……渋い!」という導入部の台詞は、声の強弱や流れ、唐突な声(発言)から、やがてやってくる二人の「なぜ(強調)、(「お客さんに」)受けない!」というオチを誘き出すための助走だと簡単に考えてくれるとありがたいです。それらの台詞も心理的な解釈も不必要です。この箇所は、短い導入部と<落としどころ=ツメ>との部分から成り立っていて、オチの場所へどう向かっていくか、<遊び>としての掛け合いに集中すれば面白くなると思います。
俳優の声によって喋られる台詞には、不可避的に声音(呼吸)によりリズムとメロディとが発生・付着してきます。
台詞の要素は、(A)指示表出(台詞の伝達的意味と観客への喚起作用)と(B)自己表出(観客の笑いや拍手を求めない、観客の見返りを求めない俳優の無償の価値の表出)、その二つの要素から成り立っています。自己(価値)表出は、演じて手だけが解っていれば、それでいいのだと思います。演者(俳優)だけにしかわからない表現への達成感(対自作用)が出てくればOKです。お客さんも、そういう俳優の独自な演技(「この俳優の演技表現はオレにしか解らない)」という表現が見たいのだと思います。
(3)二人で川に向かって同時に叫ぶ台詞ですが、二人の台詞がシンクロしないのであれば、「オーイ」と「そっちはどうだ」という台詞を壊して、一人一人に分けてしまってはどうでしょうか。それくらいに気楽に考えて下さい。
(4)津田さんと大間さんが埋めていないところを一つだけ挙げれば、ト書きの<遊びの泳ぎを止め、真剣な顔になる>の箇所ですが、心理的に真剣に考えても詰まらないものなってしまうと思いますので、身体の空しい動きの遊びだぜ、と愉しみながら作って下さい。
■津田さんの不思議な演技の育み方
わたしのほとんど見当違いに違いないが、稽古場で素朴に感じていたことを書きます。
(1) ダ君 三橋美智也さんの「達者でな」、星野源さん、唄ったら、どうなる?
ツ君 (笑い、やるがやれない)……星野源さん、唄わないしょ、
(2) ダ君 宮中とかでさ、天皇陛下とかが年始に歌会始めとかやるでしょ。畏まった歌い方……、
ツ君 (なんとかやる)「東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花……」
ダ君 「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。俵万智さん、
ツ君 「この味がいいね」と君が言ったから七月。……いつまでやらせるの、
(3) ダ君 ……じき五十。……五十年、オレ、何してきたんだろう……、
ツ君 (踊り)……ナーバス、ダメ。……突然、怒りだすんだから。
(4) ツ君 人生に成功したヤツなんてみんな嘘つき。でしょ? そう思おう。ダメモトで、コツコツやろう。年下兄貴が、チャラ男の希望!
(1)~(3)の稽古場で始めて津田さんのダンスもどきの遊びの表現を見とき、津田さんのダンスにはすでに要の構成がすでにできあがっていて、一分間ほどの時間だったけど、完璧に近い津田さん独自の遊び方を堪能した。わたしは、なぜそんなことが、いきなりできるのだろうか、津田さんの演技に対する発想がまったく未知のようなもの、この人は月よりの使者の「月光仮面」じゃないのか、そんな驚きの感じで見ていた。
また(4)の台詞は、津田さんは普通の声で発語していたのを、いまでも感心しながら聴いてたのを覚えている。
二年ほど前、シゲキ君がトイレの掃除の稽古をしていたとき、津田さんにシゲキ君のトイレ掃除の演出をお願いした。津田さんは、じぶんのトイレ掃除に関してこだわりを二、三、クローズアップして、それをコラージュふうに演じていた。津田さんは、清掃の場面を切り貼りして、表現提出時には必要・不必要の作業を終えていた。シゲキ君は、掃除の全体を丁寧に演じていたように思う。良い悪いは別にして、どっちが見ている側に強い印象を与えるのか、すでに決まっていた。
津田さんの演技の育て方について感想を述べてみたいのだが、言葉が無い。曰く言い難い。思うに、津田さんは、じぶんの演技を大空高く飛ばし、演技の高度化を狙う(志向)なんてことはあまりしてなくて、運動靴を脱ぎ、裸足で足が汚れるのも気にせず、地べたを子供が楽しそうにリズムを踏んで遊んでいる感じがした。その遊びの大きな要は、一見日常的に見えるが、やはり彼によって構成された演技の風貌をすでに携えていて、舞台(俳優さん)と日常(普通の小父さん)との境界を自由に往還することができるような仕組みを身につけている。ああ、これは、津田さんでしか育むことができない演技の遊び方のように見え、わたしはちょっと驚いてみていた。
俳優は、だれでも演技が上手くなりたいと考える。けれども津田さんは場合、演技は上手くならなくともOKで(上手くなることができるのなら、それにこしたことはないが、でも)、その瞬間に心をよぎった<心理>の状態を(じぶんが浮かされ、戯けていく感じを)大切にし、子供のように遊べれば、観客は<オレも、子供の頃、そういう遊びをやったことあるよ、足をどろんこまみれにして、あとで親にこっぴどく叱られたけど>という共感を得ることができる、そんな感じで表現に向かっているのではないか。
でも、こんなわたしの言葉はインチキで、そんなこと、本当にできるだろうか。わたしには、ここまでしか解らないが、津田さんの不思議な演技の育み方に脱帽し、その謎が宿題のように残っていて、なんとか解いてみたいと思った。
たぶん、津田さんは、ごじぶんの日常の生活層への独特な深い愛着(哀惜)の仕方やこだわりがあって、その特異さが<遊び>の再現性とその構成力を生んでいるのだと思う。それくらいなことしか、いまのところ解らない。いちばん心の柔らかい箇所の問題であり、ご当人も、じぶんの演技システムを自覚化しているわけではないと思う。
津田さんは珍しい演技者であり、またいつかご一緒してみたいと思っています。
今回は、津田さんのことを書きましたが、多分、津田さんと大間さん、大変に面白いです。いろいろ勝手をいいましたが、勘弁して下さい。
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