2023年7月24日 

 台詞の背景(2) 《声》の不思議について

 

中央

「水辺にて」。左から稲川実代子、舘智子、西山竜一    
 
 

 「水辺にて」で始めて行った終演後の「トーク・ショウ」のなかで市川さんから、今回の台本の台詞の中でいちばん好きな台詞は何んですかと訊かれ「まぶだち」と応えた。「まぶだち」という言葉のどこに惹かれ、好きになったんです、教えて下さいと訊かれたら、わたしはきっと言葉に窮していただろう。その台詞には、わたしの任意すぎるたわいもない懐旧のイメージがあるだけで、他になにもないからだ。
 
 「まぶだち(本当の友だち)」という言葉は、台本を書き上げる直前近くに思い出した言葉で、作品に形態感を与えたかったのだ。夕方から夜の「水辺」に登場するさまざまな人びとのすれ違いと共棲との関係の総体を、「まぶだち」という言葉で象徴したかった。
「……普通の生活から落ち零れて、水(川)辺での生活をはじめ、苦しく貧しく危ない環境だけど、出世なんてしなくてもいいと思い決めると、心がほんの少しだけ楽になった。明るくなろうとする心は、いつも暗い心に呑み込まれてしまい、落ち込んでしまうときの方が多いのだけど、じぶんは最下等の人間であると思い定めれば、川の草はらもそれなりの居心地がえられ、そこが棲家だと思っている。……それじゃ、明日生きていたらまた逢おう。今夜はお休み、さようなら……」。
 こういう解説的な言葉を遣えば、作品の体裁は若干保てるかもしれないが、観客には必ず見破られてしまい、作品は崩れてしまう。それで「まぶだち」という言葉を選択した。
 
 たぶん「まぶだち」という言葉は、落語家の古今亭志ん生の廓噺のレーコドから学び、憶えたのだと思う。「真夫(本当に好きな人)」という言葉に「友だち」という言葉を加えて使用した。
 「真夫」という言葉は江戸時代後期の吉原の「花魁」言葉らしい。どこか古い匂いが温存されていて、遊郭の座敷の狭い男女間の、明るい青い空さえも失った言葉で、いじけていて淋しい気分もあり、こっちの方がいいとや思って、「まぶ=真夫」を選んだ。夜の水辺に遊びにくる人、やむを得ず水辺に棲む人、彼らは明るくなることもできず、さればといって暗くなることもできないという顔で挨拶を交わす、その程度の意味で遣うのなら「真夫だち」の方がいいと思った。
 そんなこともあって、市川さんには幕尻に近いところで「まぶだち!」と大きな声で怒鳴って下さいとお願いした。
 
 こういう任意すぎる私的な楽しみを、わたしは台本のなかにいっぱい書いていると思う。しかし、それらの台詞がまったく予期しない状態を巻き起こし稽古場を突然楽しくしてくれる場合もあれば、作者が俳優さんの演技表現によって窮地に追い込まれる場合もある。
 
 たとえば、「三景」の最後の「断酒のできない断酒会」の場面で、館智子さん演じる「友子」の大衆食堂の「女性店員さん」に擬した声で、「男性客=北山:西山」さんの注文を厨房へ伝えるため、また「男性客にも、注文の品に間違いないですね」と確認をとるため」、それなりの大きな声と調子で厨房とお客さんへ伝える台詞がある。
 
友子 ビール一本、生姜焼定食、ご飯小盛。シラス奴半丁。イカの塩辛。お願いします!
友子 「大関」大徳利、熱燗、コップ。湯豆腐、半熟目玉焼き定食ご飯半分、めんたいこ!
 
 わたしはこの台詞を楽しみで書いた。でも、この台詞の、どこの、なにが、どういう風に愉しいのか、お客さんには不明で、台詞の伝達機能という意味の痕跡しか残らないと思う。また喋っている「館さん」も、なぜこんな意味のないリフレインの台詞がこの場所に書かれているんだろうか、と心のなかで疑問に感じていたのではないだろうか。
 なぜ、そういう私的な愉しみをあえて描くのかと観客に問い詰められたら、書き手たちが言葉(活字)による治癒を求めているからだ、そう応えるしかない。少なくともわたしの場合はそうだ。けれどもその応え方では、お客さんは納得してくれるとは思えない。大きな物語を書き上げることを目的とし頑張っている書き手さんたちは別にして、物語を書くことに空々しさや白々しさを感じ、すれ違いを感じているとすれば、その物書きたちは、細く小さくあまり沸騰していない場所を探して一度は逃げ込んでいくだろう。
 
 わたしの子供の頃、家(両親はいなく、祖父母と叔母たちがわたしを育ててくれた)は呑み屋をやっていて(実は現在でも営業している)、家は貧しかったが、年に一度か二度くらい、墨田区寺島町玉の井いろは通りの町場の少しばかり客が入れる大きい蕎麦屋へ出かけて家族揃ってそばを親たちが食べに連れて行ってくれた。わたしたちの注文は、もりそば、きつねそば、たぬきそばの類の安価なものだった。祖母が子供たちの食べたいものを女性店員さんに注文すると、注文を受けた女性店員さんが厨房へ、元気な声で注文品をリフレインし、厨房の方でも女性店員さんへ「アイヨォ!」と大きな声で簡単な言葉を返す。その女性店員さんの声が店内によく響き渡り、安価な蕎麦を注文しても、なんとなくお客に<晴れ>の気分を醸し出してくれるようで、子供心にもお姐さんの声を聴いて嬉しかったことを憶えている。そういう明るく元気であっけらかんとした開けっぴろげなお姐さん風の女性店員さんが場末の下町の蕎麦屋さんにはいた。
 
 そんな子供時代にわたしが聴いたお蕎麦屋さんの女性店員さんの声音を俳優さんに再現(創造)してもらいたくてこの台詞を書いた。もちろん、私的な小さな愉しみについて稽古場の俳優さんたちにはひと言も喋ってはいない(と思う)。またお客さんがこの台詞をどんな風に受けとってもいいと思った。
 
 「ビール一本、生姜焼定食、ご飯小盛。シラス奴半丁。イカの塩辛。お願いします!」のただ名詞を連ねただけの台詞が、二ヶ月に及ぶ稽古の後半で、この台詞に「友子」の声音にたどたどしいが歌の《調べ》のような響きが付着してきた感じがしてきて、わたしはじぶんの耳を疑った。なぜ、名詞を連ねた言葉だけの無味乾燥な言葉に、歌のような《調べ》が感じられるようになってきたのだろうか。それが不思議でならなかった。
 こうした現象は、重いコロナ感染を経て頭の中が混乱していた時期で、わたしだけが感じていたのもので、稽古場で稽古を見ている俳優さんには感じられなかったのではないだろうか。
 
 「友子」さんの台詞は「友子=ビール一本、生姜焼定食、ご飯小盛。シラス奴半丁。イカの塩辛。お願いします!」等の、名詞そのものがもつイメージをはっきり声音として明示しているのに、ある境を超えると、台詞がただの符丁みたいに聞こえてきて、同時に入れ替わるようにして、「友子」さんの口から発される声音には、たどたどしい《調べ》のようなものが、二重に同時に聴こえてきたのだ。
 
 だが台本全体の流れから類推してみれば、この場面の三人<実子:稲川・友子:舘・北山:西山>の「語り」のフィクションの流れに、「友子」の符丁の声と歌のような《調べ》の声とが、二重に聞こえてくる仕組みは存在していた。「友子」と「北山」との中年の男女の出会いの場面という淡い恋愛の物語性があり、「友子」は「北山」に向かって、楽しく発語することができる自由度の余地(俳優の遊びの表現時間)の可能性は存在していたからだ。
 
 そう考えると、俳優さんが、ただの名詞を連ねた注文確認の台詞の、個々の順番を忘れないように頑張る過程で、その順番を間違いなく喋ることの完備がなされた以降、俳優さんは、この台詞の用途性(意味性=厨房と男性客への注文の確認)から解放され、じぶんの自然な声音で発語する自由度を稽古場内で獲得していくことは可能であったはずだ。
 
 <用途性>からの解放は、わたしの僅かな俳優体験からいうと、台詞を暗記した後、稽古場で練習したとき、必ずその台詞を喋っていたときのじぶんの身体の動き(動勢)と、声音の音質(質量感)をそれなりに記憶していたと思う。つまり、台詞の用途性(意味性)は、その身体の動きと声音の音質に必然的に幾分か内在化されていくものだ。
 たとえば「ダ君」が「ツ君」にいきなり怒鳴る「おれがいつ起こった!」の場面も同じで、大間さんは身体の動きと声音の音質のなかに、その台詞の用途性(意味性)はすでに内在化させていて、用途性は消失したのではなく、俳優の意識下に内在化されているのだ。
 
 
      
 
 
 <声が二重に聞こえてきた>わたしの幻聴の理由を、演技表現の単独性から理解しようとする態度ではなく、台本を支えている台詞等の感性の問題も含めて改めて考えてみる必用があるのではないか。
 
 先に書いた文章の、
●『わたしたちの注文は、もりそば、きつねそば、たぬきそばの類の安価なものだった』、
●「北山」の『ビール一本、生姜焼定食ご飯小盛。シラス奴半丁。イカの塩辛』、
●「豚君」の『(帰りかけながら)……おれの、まぶだちだ!』、
●「ツ君」の『人生に成功したヤツなんてみんな嘘つき。でしょ? そう思おう。ダメモトで、コツコツやろう。年下兄貴が、チャラ男の希望!』、
●「父」の『……いまから、ここ、房総の御宿の砂浜です。灼熱の太陽が照り、砂浜は熱く燃え、貨物船の汽笛、蝉の声。オレ、こんなだから、夏の海辺、一度も連れてってあげたことなかったもんね。ごめんな』、
 これらの台詞は、作者の日々の貧しい生活からくる劣勢の感性の水準の同値性によって支えられている台詞ではないのか。
 
 「子供たち」は、なぜ一年に一、二回の家族総出で愉しんだそば屋で『天ぷら蕎麦・天ざる・カツカレー』と言わなかったのだろうか。言えばよかったのだ。だが言えなかった。なぜ「北山」は『ビフテキの上』とは言わず、総額二千円ほどの注文品としたのだろうか。「豚君」は『じぶんは最下等の人間であると思い定めれば、川の草はらもそれなりの居心地がえられ、そこが棲家だと思っている』と言わず『まぶだち』と応えたのだろうか。
 上に挙げたいくつかの台詞たちは、物語の主題にはなれないが、主題を支えいてる作者の主感性なのだ。また「友子」の『ビール一本、生姜焼定食、ご飯小盛。シラス奴半丁。イカの塩辛。お願いします!』も作品を支えている主感性なのではないのか。
 そして「友子」の台詞は、ただの名詞の連なりという無味乾燥な点において、なによりも背後の作者の感性のあり処を暗喩している詩、詩にまったくなっていない作者の名詞の連なりの駄作の詩への姿ではなかったか。
 
 作者は、物語性の喪失と引き替えに、なにを企てようとしているのだろう。
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 もし、わたしが学者風を装うなら、「友子」さんの歌のような《調べ》を、言語の本質から、《韻律》の表れ、あるいは《主観》の表れ、というだろう。韻律は、意味以前の意味、「韻律がふくんでいるこの指示性の根源を、指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきた《言語にとって美とはなにかⅠ---吉本隆明》」というかもしれない。
 
 わたしは学者ではないし、「友子」さんの喋る台詞は詩(の韻律)の問題はなく、三人が演じるフィクションとしての「語り」の物語性の流れから類推しようと思う。
 「友子=智子」さんの場合、符丁の声と歌のような《調べ》の声とが、二重に聞こえてくる根拠は、女優さんの演技表現じしんにある。女優さん自身がじぶんの女性性のエロスを外の世界に向けて素直に解放することができていたから、彼女の声はとてもよく<晴れ>ていて、たどたどしい歌のような《調べ》を微かに引き連れるようになったのではないか、というように。
 わたしの少ない体験からいえば、現在のような社会のなかで、女優さんがごじぶんのエロスを外に向かって解放することは大変に難しいことだと思う。ただ名詞を連ねただけの注文品のリフレインの台詞で、「友子=智子」さんは、表現上の得難いなにかを獲得し、とても上質な芝居をわたしたちに見せてくれたのだと思う。
 わたしの舌足らずの解説では不十分だが、「友子=智子」さんが実現した演技の差異線は芝居において、決定的な差異をもつ。それだけはわたしにも言えるような気がする。
 
 この稿、続く。(西山さんと館さんの場面へ)
 
 
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 以下の文章は、故吉本隆明さんの難解な少し長い文章を引用するが、引用の文章は何回か読めばそれほど難解ではなく、なんとなく書かれていることが素直に心に入ってきて、これは解るみたいな感じがしてくる文章で、台本を書くとき、あるいは演技の初発のイメージのきっかけの発想と、どこか似ているのではないかと思ってあげてみた。この小文章を、『短歌』の勉強というのではなく、わたしたち(作者・演出・俳優)の意識・無意識が芝居の表現についての展開を考えていこうとする途次に生じてくる心の揺れ動きについての、一瞬の緩和剤になるのではないか。そう考えて、Upしてみた。時間のあるときに読んでみて下さい。

 なぜ〈歌〉は直裁に〈心〉の表現で始まり〈心〉の表現で終るところに成立しなかったのだろうか? なぜ自然(事物)をまず人間化して〈心〉のほうに引き寄せ、つぎに〈心〉の表現と結びつけるという、一見すると迂遠な方法がとられたのだろうか? 公任(藤原公任・ふじわら のきんとう)はそこまで思いいたったわけではない。いま、こういう疑問をもちだすとすれぼ、応えはおおよそ二つありうる。もともと歌の成立には、発生のときから事物(自然)の描写が本質的になければならないものだった、というのが、ひとつの応えである。かれらには自然もまた依り代(しろ)として〈心〉の一部とかんがえられていたのであった。もうひとつの応えは、古代人(あるいはもっと遡って未開人)は、〈心〉を心によって直接に表わせなかったので、まず眼に触れる事物(自然)の手ごたえからはじめて、しだいにじぶんの〈心〉の表わし方を納得してゆくよりほかなかった、とかんがえることである。やや後者に近いところに折口信夫はちかづいていった。
 
『だが、今一方に、發想法の上から來る理由がある。其は、古代の律文が豫め計畫を以て發想せられるのではなく、行き当たりばったりに語をつけて、或長さの文章をはこぶうちに、氣分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に觸れるものからまづ語を起して、決して豫期を以てする表現ではなかつたのである。
 
  神風の 伊勢の海の大石に 這ひ廻ろふ細螺の い這ひ廻り 伐ちてしやまむ
● 神武天皇-記    
 主題の「伐ちてしやまむ」に達する爲に、修辞救果を豫想して、細螺(シタダミ)の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巖を言ふ中に「はひ廻(モトホ)ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した處から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出し、そこから「伐ちてし止まむ」に到著したのである。』
● 折口信夫「叙景詩の襲生」全集第一巻所収    
 あと幾つかの歌が例として示されているが、主旨を理解するのにはこれだけで充分である。触目の事物をあげつらっているうちに〈心〉の表現に到達するという発想法は、「氣分が統一」するために不可欠であり、またやむをえないものだとみなされている。公任のいう「上の三句をば本といひ」とか「古の人多く本に歌枕をおきて」の意味は、少くとも触目の事物(自然物)をあげつらうことが歌にとって本質的なものであるという、もう一つの解釈をゆるすことはうたがいない。「本」というのはかんがえ方によっては、はじめというより重要さという意味をふくめることができる。すると、触目や事物のききつたえられた事物から歌を起こすことは不可欠であったとみなされる。そこで歌は、まず客観的な事物(自然)を表現することからはじまり、あとに〈心〉の表現がつづくという形式がひとつ定型として成立する。この定型で事物(自然)の表現である「本」の句と〈心〉の表現である「末」の句とのあいだには、質的なちがいと結びつきのがあらわれ、この〈関係〉がどういう構造をもつかに、歌の核心があったといっていい。さらに〈もの〉と〈こと〉をあらわす「本」の句を、内在的な構造としてみようとするとき、枕詞と拡張された枕詞にもたとえられた序詞の問題があらわれる。
 現在、詩にかかわるものが、枕詞に関心をもつことは、まずかんがえられない。どんな意味からも現在では詩から追放されてしまっているからである。遠い昔には、ある事物をさす語を、「本」の句につかったとき、かくべつ意味の流れにはかかわらないとおもえる語が、そのうえに冠せられていることがあった。後になると、慣用句のように、ある事物をさす語をつかうときには、声調をととのえるため、そのうえに特定の語を意識的に冠してつかうようになった。そしてもっと後になると意味の流れにかかわらない語として捨てられた。逆に、その無意味さが駄じゃれのようにつかわれたこともあった。これが枕詞の性格を語るすべてである。もうすこしひろく、事物を描写した「本」の句の全体をかんがえてもおなじことがあった。〈もの〉や〈こと〉を表現する「本」の句は、自然にべったりと纏わりつき、手触りでたしかめ、痛覚で身につまされるような、〈もの〉や〈こと〉の描写というよりも、むしろ自然と合一したという幻想をともなうほどに、重要な意味をもっていた。つぎにこの「本」の句は、〈こころ〉の在り方を探りあてたいための不可欠な当たりようにかんがえられる時期がやってきた。もっと後世にたると「本」の句は、歌の全体のなかに四散してしまった。枕詞的なものに〈もの〉や〈こと〉の描写以上の呪力がこめられていた時期から、まったく消減してしまうまでの歌の歴史は、ある意味で、枕詞的の在り方に凝結されているといってよい。
 ひろく枕詞的なものには、歌謡が自然描写の詩句と叙心の詩句との対比から成立っているとき、自然描写の詩句の部分をふくめることができる。つぎに上句と下句から成立っている短歌謡が、〈もの〉や〈こと〉を描写する詩句と、〈こころ〉を描写する詩句との対比から成立っているとき、〈もの〉や〈こと〉を描写している詩句のほうを、枕詞的なものとよぶことができる。これらについては、すでにとりあげてきた。なおのこされているのは、どんな成句や慣用の言葉が枕詞にまでゆきっくのか、そして枕詞はどういう構造と変化をこうむるものか、という問題である。ここには、たくさんのわからなさとともに歌謡の本質的な問題が凝縮されている。
● 吉本隆明著『初期歌謡論-枕詞論』p147  

 ここで吉本さんがいわれていることは、古代の人びとは、じぶんの心を直截に伝える言葉、たとえば「愛」とか「好きだ」という言葉(抽象度の高い言葉)をまだ持っていなかったので、自然の事物や事物の関わる共同体のなかに存在する大岩や大木の言い伝えを借用して書いていくうちに、自然物の依り代の言い伝えに寄り添うように、その影にじぶんの心をありようを付け加え、古代・初期歌謡を試みた。わたしには、それくらいなことしか解らないし、それだけ解ればいいと思う。
 
 
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