日付:2018年2月 

 no.35「踊り子」からno.36「光合成クラブ・Ⅱ」へのダイアローグ

 

蕎麦

写真は、「踊り子」の「桃」役の鬼束桃子 

 

イメージ⑭ 桃の深夜の稽古
 
     ※夜中の桃の「踊り」の一人っきりの練習。
     ○山口百恵「伊豆の踊子」、流れる。(選曲、未定)
     桃、舞台中央で眼をつぶり、四つ竹を持ち、踊る。
 
  1  通り雨往く 峠の茶屋に
     晴れて道連れ 旅の空
     可愛い踊子 太鼓を提げて
     步く路すじ 白い花
桃  (じぶんの「踊り」に)……違う! これじゃない!
  2  今日の泊まりは いで湯の宿か
     白い湯舟に 染まる肌
     可愛い踊子 お座敷めぐり
     三味と太鼓の 障子窓
 
イメージ⑮ 菊の夢
 
     菊、顔を真っ赤にして出て……、
     桃、舞台袖へ隠れる。
 
菊  ……あたし、置いてかないで!
桃  ……?
菊  ……何度も、同じ夢、見る。遠くに富士山みたいな高い山があって、ずっと遠い処まで続くススキの原で、ビュー・ビュー風が吹いてて、あたしら五人で、風が吹いてるススキの原、太鼓、三味線、担いで旅してる。先に歩いてるあたしが振りかえると、千代母さん、みんな、消えてて、ビュー・ビュー風吹いてるススキの原、あたし一人で歩いてる。みんなのこと何度も呼ぶんだ。でも、返事がない。歩いた道も見つかん ない。怖くなって……、
     桃、舞台袖から出る。
菊  踊り、桃姉さんから、ちゃんと習って、上手くなって、キレ
   イになる。置いてかないで。お願い!
菊  ワァーッ!
桃  置いてかないよ、いつもみんな一緒、
菊  置いてかないで!
桃  置いていくわけないじゃん。みんなで旅するから、一座が廻ってるんだもの。菊ちゃん、いなくなったら、一座は廻らない。踊り、上手くなったじゃん。……とてもキレイ。すごく
   キレイ!
菊  ウソだ!
桃  ウソじゃない、
菊  桃さん、十一貫、くびれ有り、顔面偏差値50。あたし、どう? 十六貫、ずんどう、顔面偏差値30。……キレイ?
桃  ひとは、見場や顔だけじゃない、心……、
菊  ウソだ! そんな言葉で慰められたら、たまんない!
桃  もう子供じゃないんだから、ダダこねない!
菊  ……
桃  ……水、呑みに行こう、
菊  (うなずく)……水、
     菊、桃、消える。

●第35回公演「踊り子」の台本より 「イメージ⑭桃の深夜の稽古」と「イメージ⑮菊の夢」 

 

 

 聞き手  君は、「踊り子」の稽古の後半、稽古を大変に面白がっていたじゃないか、
 
 菅 間  そうだね、手放しで面白がっていたわけじゃないけど、あの場面、この場面、いろいろ、どうしようかなって思い悩んでいたけど、後半になってどういうわけか俳優の芝居がとても面白くなってきたと思ったのは事実だ。今回は川端康成の「伊豆の踊子」を選んだんだけど、はじめのうちは「踊り子」をどのような感じで演出したらよいのか、まったくわからなかったから、
 
 聞き手  「はじめのうちは「踊り子」をどのような感じで演出したらよいのか、まったくわからなかった」とは、では、どういう思いでテキストとして「踊り子」をあなたは今回選ばれたんですか? それと前半と後半の稽古方針の違いは、どういうふうにものなんですか?
 
 菅 間  テキストの選択は厳密な意味でいってぼくには考えはあまりないの。ぼくにあるのは、消極的な消去法だけかな。
 
 聞き手  「消極的な消去法」、それはどういうことですか?
 
 菅 間  一般的にね、というか、昔風の旧い云い方のほうがぼくにはすっきりくるから、そういう云い方でいうと、<主題の積極性>論という言葉のほうが初期高齢者のぼくには馴染みが深くて、そしていつでもそいつに首根っこ把まえられている感じがして重い課題で、それから逃走する方便として「消極的な消去法」といっているんです。
 
 聞き手  「<主題の積極性>論から逃走」とは?
 
 菅 間  昔の新劇なんか、「戦争反対」、「戦争の非人間性を裁く」、「基本的人権を守れ」、とか、そういうテキストばっかでさ、テーマ性というかメッセージ性が強かった。で、演技表現はというと、テキストのテーマ性の陰に隠れるようなお粗末な演技で、ぼくに限っていえば、ぼくが見た新劇は芝居として面白くなかったし、あの妙な静まりかえったお勉強をしていますという雰囲気がとてもイヤだった。
 戦後まもなくという時代だからしょうがないという意見もあるけど、でも、いまでも、若いひとたちの芝居なんか見ていると、実は同じ構造なんだ。「戦争反対」が「○×」に代わっただけでさ、芝居人が考えなければいけない表現の問題ってたくさんあるのに<主題の積極性>、テーマ性やメッセージ性の陰に隠れていて、芝居表現の固有の課題を置き去りにしている。ああ、昔と同じことをしてるなってね。
 つまり、だれだって、いつだって戦争反対です、戦争なんか、だれでも、みんなそう思ってますよ、戦争なんかしたくない、と。だから、そんなこと舞台でセリフとしていう必要がないじゃんと思ってるわけ。
 床屋的政談だけど、いまの北朝鮮の問題だってそうでしょう。戦前、アメリカが日本にしたように、北朝鮮の人びとの生活必需品や基本的なの産業に必要な石油、鉄鉱石、ゴム等の禁輸をして日本を困らせたように、いまアメリカを中心とした国際的なシバリで北朝鮮を追いつめてる。もちろん、追いつめられることをやっていいますよ北朝鮮も。でも、日本の一般国民は、昔ながらのちっとも変わらないそんなアメリカの姑息なやり方をちゃんと見抜いてます。そんなアメリカに代表されるやり方はもうダメなんです。もちろん、そういうアメリカの尻馬に乗って、他の方法を頑張って考えない日本をどうしようもないとも思ってます。
 話がちょっと跳んじゃったんだけど、<主題の積極性>論は、ぼくはバカだったから、いまでもバカだけど、世代の問題としてけっこうぼくは長い時間困らせられて時間をムダに消費しちゃったんだ。
 そんなだれでも解ってるようなこと時代の表面的な問題を、芝居(舞台)でやったって、俳優さんに舞台でそういう喋らせたってもうなんの有効性もないことを解りきっていて、それは芝居を見ている現在の一般のお客さんがいちばん解っています。
 
 聞き手  北朝鮮問題は、今度聞くこととして、ちょっと話が……、
 
 菅 間  そうだね、無見識のぼくがそんなこと喋ったって、だれも相手してくれないもんね。
 ここ十数年見てないけど、青年団の平田オリザさんなんかは、そういう時代の問題というか課題をちゃんと心得て彼なりに超えていったひとで、もうすこし以前の芝居人ならいまはもう芝居をおやめになったんだろうけど、、劇団斜光社や秘法零番館をつくって頑張ってた結竹内銃一郎さんなんかも、そのあたりの問題を書き手として固有に超えたひとたちです。もちろん転形劇場の故太田省吾さん、中村座の故金杉忠男さん、柏在住の錬肉工房の岡本章さん、劇作家なら別役実さんとかね。
 
 聞き手  それらの方々が「固有に超えた」とは、どういう?
 
 菅 間  俳優さんがテキストのテーマなんか舞台でセリフとしてわざわざ喋らなくとも、見ている観客は芝居の全体をちゃんと見ているから、表現の主体者が、なにがいいたいのか解るし、伝わる、そいう芝居をどう書くかという問題をそのお四人さんは固有に考えていったと思います。つまり、<主題の積極性>論なんか振り回さなれくとも、お客さんに伝わるし、解ってもらえる、そういう芝居ができたら、その芝居は「現在」に少しは参画していることになるんです。
 
 聞き手  では、<主題の積極性>という時代の看板から逃走したそのあと、どういう方法を考えだしたんですか?
 
 菅 間  かれらが、もちろんぼくも考えたのは、<自由度>とその自由度を成立させための<枠組み>の問題を考えたんだと思います。かなり頑張って闘ってきたひとだと思います。
 ここからはぼくの主観な大きく入るんだけど、ぼくはさ、先のお四人の原則的な表現の方法は、「言わない」ということに決めたことだとおもう。そういう解りきったことは「表現しない」とい覚悟性から出発して、では芝居の表現を現在という条件のなかで成立させために、かれらは「マクロ(大情況)」から「ミクロ(小情況)」へ、「センターからローカル」へ場所をひそかに孤独に移動させていったんだと思う。
 みずから進んで、というかやむをえず路地裏の「細道」へ入っていった。他人からみれば、ごくつまんないことのなかで、なんとか舞台表現の<自由度>の可能性を、舞台としての言葉(演技)の可能性を固有にみつけていった。
 そこで、言葉を大文字で書かないことで、言葉を浮かせないこと、言葉を沈めることを目指したんだと思います。そこで、どうしたら他者に振り向いてもらえるほんとの言葉が書けるか、他者に、「ああ、そうだ、その感じ、解る」と肯いてもらえる言葉がどうしたら可能なのか。
 「消極的な消去法」っていう意味はね、上にあげた四人さんもそうだけど、かれらの資質の問題やその資質が独自に展開していった表現方法がそれぞれ違うから、資質の問題は個別の表現論は除いて、じゃあ、かれらが好きこのんで「大通り」から路地裏の「細道」に分け入ったのかというと、そうじゃないと思ってます。かれらじしんの、じぶんの言葉や表現の<自由度>を模索するための<枠組み>探している過程で、かれらは路地裏の「細道」へこの現実世界から追いやられたんだ、とぼくは思ってますね。
 いい方を換えれば、芝居とはなんであるか。それぞれの資質において、その課題を守ろうとして、路地裏へ入って行かざるを得なかった、そう思います。
 
 聞き手  そろそろ、今夜の本題でもある、「踊り子」に戻って、「踊り子」話を聴かせて下さい。川端康成の小説「踊り子」の時代設定を、なぜ、昭和初年頃から昭和18年頃の学徒動員の時代に移したんですか? それこそ、戦争に反対しますという<主題の積極性>論を芝居のなかに大胆に取り入れたことを意味するんじゃありませんか?
 
 菅 間  そうだね。そう思われても仕方がないね。でも、うちに出演してくれる俳優の構成上「踊り子」を若い男女の恋愛劇にすることは不可能だった。だから、構図として年老いた踊り子と彼女たちが宿泊する木賃宿、軍部と学徒動員の万年学生という変化をさせました。でも、稽古場では、反戦演劇をつくっているんじゃないといい続けましたが……、
 
 聞き手  でも、お客さんは、そう観なかったと思いますよ。馬鈴薯堂が反戦芝居をつくったって……、
 
 菅 間  それに日露戦争に参加した亡霊が出てきたりするし……、そこは力不足だから、そう観られても仕方がないね、
 
 聞き手  そうです、そうです。
 
 菅 間  そこは力不足だから、そう観られても仕方がないね、
 
 聞き手  「踊り子」で、なにを作ろうと考えたんです?
 
 菅 間  できたか、できないか、じぶんの口では言えないけど、近代劇の解体をじぶんなりに目指して作りたいと思って、だれでも知っている「踊り子」にしたの。
 
 聞き手  具体的に聴かせて下さい。
 
 菅 間  いまさらそんな30年前の古証文をもちだすことはないだろうといわれちゃいそうだけど、特にというわけではないんだけど、印象に残っている数々の故吉本隆明さん文章のうち、村上春樹さん等が活躍しはじめた頃の吉本さんの「情況への発言」はなぜかよく憶えていて、その文章を引用させてもらいたいの。その吉本さんのその当時の文章から「消極性」、あるいは「解体性」という言葉をじぶんで考えるようになったから。またじぶんの拙い喋り言葉の足らずの部分を補ってくれると思いますから。
 
 以下、故吉本隆明さん「情況への発言」を引用させていただきます。
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
(主)  君のいうとおりだ。大江(健三郎)は第一次戦後派文学やじぶんの文学理念が「未来の人間性への契機」をはらんでいるつもりになって、村上春樹を次のように批判している。
 
 さきにあげた戦後文学者たちの、多様な、しかも同時代の問題点をすくいあげる主題性の明確さに対して、この新世代を代表する作家は、自分には主題というものに関心はない。ただ、よく書く技術のみが大切なのだとも語っています。もっともかれらの文学は、その作家としての自覚を越えて、世界、社会に対して能動的な姿勢に立つ視点 ---つまり主題--- を失っている同時代人という、もうひとつのレヴェルの主題をよく表現している点で、今日の若い読者たちを広くとらえているのです。いかなる能動的な姿勢も持たぬ人間が、富める消費生活の都市環境で、どのように愉快にスマートに生きてゆくか? そのモデルをいくばくかの澄んだ悲哀の感情とともに---それは同時代の世界、社会からさす淡い影を、しかしくっきり反映している感情です。提示しているのが村上春樹の文学です。
 しかしそれが若い世代への風俗影響を越えて、わが国の広い意味での知識層に向けて、今日から明日にかけての日本、日本人のモデルを提示するものであるかといえば、そうではないのではないでしょうか?
 太平洋戦争の敗北をを契機に、日本の知的地平を作りかえる作業に文学の側から参加した、戦後文学者たちとその同行者としての読者たちとの時代から、はっきり様かわりした文学的状況のうちに、つまり窮境に、今日の僕らはたっているのです。
          (大江健三郎「戦後文学から今日の窮境まで」『世界』一九八六年三月号)
 
 村上春樹の文学的感性が「同時代の世界、社会からさす淡い影を、しかしくっきり反映している感情」だというのは、大江の批評眼がぼけていないことを証明している箇所だ。だがあとは駄目だ。第一次戦後派の文学や大江の文学が「未来への人間性への契機」をはらんでいるなどという自己評価が前提としての駄目だ。それはロシア・マルクス主義(レーニンースターリン主義)とその知識的同伴という「過去の人間性(ヒューマニズム)」の影を重苦しく背負った文学と文学理念にすぎないよ。それはナチスよりも日本の軍国主義よりもひどい反人間的なものだったことが白日の下にさらされてしまって、とうてい「未来」などへもっていける「人間性の契機」なんかないよ。
 だから大江の村上春樹の評価もまったく逆だ。ロシア・マルクス主義が提起した問題が、日本の社会では(一般に先進資本主義社会では)、すでに一般論的には解決されてしまったことを、村上春樹の作品はきわめてオーソドックスに象徴しえている。これが村上春樹の作品がもっている<消極性>というものの重要な現在的な意味だよ。大江も第一次戦後派もそれを勘違いして逆だと思っているんだ。はっきりしてもらいていもんだ。労働者も一般大衆も知識人も、いまの日本社会の文化、生活、強制力よりも解放されたいい条件がロシア・マルクス主義の支配権力の国家へ行ったらえられると本気でおもっているのか? 大江はこれだけでもいいから、よくよく調べたうえでロシア製「反核」運動に同調するのか決定すべきだよ。
 そうしたら米ソ共同=対立=共犯体制を解体する方向以外の「未来の人間性の契機」なんかありえないことがすぐに理解できるはずだよ。村上春樹の作品は、少なくとも大江や第一次戦後派が陥っている迷妄や嘘からは自由だという理念の無意識的な表明になっている。
     吉本隆明著「情況へ」より「情況への発言」(一九八六年一一月「海路の日和」より)
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
 聞き手  かなり旧い文章ですね、
 
 菅 間  うん、ちょっと旧い文章だけどさ、吉本さんの<舌>はまったくいまでも狂っていないヨ。
 
 聞き手  

 

 

蕎麦

写真は、「踊り子」の「お菊」役のシゲキマナミ