日付:2018年1月 

 vol.36 「光合成クラブ・Ⅱ」の挨拶文について

稲川実代子

・36回公演「光合成クラブ・Ⅱ」の「吉野屋襲撃」を演じている稲川実代子  

 

 
 見果てぬ夢
 
 
 本日は、ご来場ありがとうございます。
 ぼくは、4~5本に1本の間隔でまったく意味不明の作品を作る男といわれています。今回の「光合成クラブ・Ⅱ ~男のいない女たち~」もそんな意味不明の作品です。作品内容は、NHKの「ドキュメント72」みたいに、東京タワーの見える名もない小さな公園の、夜の10時から1時間ほど、いわばカメラを一箇所に据え、公園内での風物を映し出した(作り出した)ものです。
 もちろん、頭も尻尾もないこんなものは芝居ではないといわれるでしょう。それはよくわかっていますが、でも、ほんとをいうと、芝居にもならないこんな非・芝居を作りたくて、4本か5本に1本作ってきました。なぜ、そういう芝居を作りたいとおもっているのか。
 ぼくは、言葉としての「物語」を書く力はありません。かろうじてぼくに書きとめることができるものは、それは一般の生活者のだれでもが日々の生活のなかで脳裏に書きとめているものと同じで、生活の場面で瞬間に生成し次の瞬間には消滅してまう、生活のなかのごくありふれた小さな幸せであったり、悔恨の暗い心であったり、そんな心のうちで束の間泡立ち、そして消えてゆくだけで、言葉以前の痕跡はのこるけれど、言葉にはとどめえないものたちばかりです。
 また、ぼくの無知な思い込みを率直にいえば、重なり合ったもう2つの理由があります。芝居は「物語」の風下にいつまで立っていなければならないのか、という孤立感。いま劇は「詩」に近づきたがっているという表象(演技)の純化へのあこがれ。もちろんこの重なり合った課題はぼく固有の妄想に過ぎませんが、そんな心の底から湧き昇ってくる妄想(未知へと向かう芝居へのぼくの哀しい見果てぬ夢)をかなぐり捨てて芝居らしい芝居を作っても、ぼくには芝居を作ったことにはなりません。
 今回も、ぼくの力不足で、芝居にまったくなっていないとの感想のあることは充分に承知していますが、それでも力一杯、観客のみなさまに楽しんでいただけるよう頑張って作りました。
        ●馬鈴薯堂36回公演「光合成クラブ・Ⅱ」菅間勇による挨拶文・パンフレットに掲載 

 

 
Subject: DVD拝領 ← Mです
 
To: 菅間馬鈴薯堂 
 
--------
菅間さん
 
お久しぶりです。
当方、元気でなんとかやっていますので(^_-;)/
目下、遅筆ながら「カミオカンデの神さま」(仮題)という児童読み物に挑戦中で、夏までにはと老骨に鞭打っています♪   (脱稿するまで舞台見物を断って、と思っておりまして ──)
 
「踊り子」「光合成クラブⅡ」2編のDVD、ありがとうございました。
確実に舞台活動が続いている様子を見せて頂き、とても励みになりました。ありがとうございます。
 
「踊り子」はノスタルジーシリーズ(ポテト堂ファンの勝手なイメージ)の川端版と受け取りつつ楽しみましたが、踊り子と学生の2人より、旅芸人たちのほうに魅力があって、こちらをもっと掘り下げたら、ポテト堂らしい脱線になるのでは、 と思いました。
 
兵士ふたりは(原作に出てくるか記憶がないのですが)、最近のご時世への小さな発言でしょうか、それとも旅劇団のレパートリーか!? ──いずれにしても踊り子の流れの中では意外な取り合わせで印象に残りました。
 
なお、女踊りのうまさは(いつも)なかなかのもので、もっと観たいと思う客はたくさんいたのではないでしょうか。次回にはもっとゆっくりたっぷりサービスして下さい。ただし、何か仕掛けとか落ちがあるサービスの場にして ──
 
また、短い1場でしたが提灯を片手に歩きながら語り合うところは、ポテト堂の舞台でよく使われる設定ですね。今回も男女が何げなく語りつつ歩く場面は短編小説のようで、観たあともイメージに残っています。
 
あの提灯と下駄の場も、ポテト堂芝居のキモというか、息抜きの場 ── 幕間ではない幕間として、むしろ唐突にある、というのが楽しいのではないでしょうか。
 
光合成クラブは不思議なリアリティがありました。
 
年齢を経た女たちの集まりはありがちかもしれないのですが、とにかく人工的な光で光合成するという発想が謎めいていて、そうであれば彼女たちは裏世界で何をやっても良いし、普通のオモテ社会では、ただじーっと何もしないで居るだけで良い、(その代わりに周りが気狂いのように動くわけで)、そんな展開も可能じゃないのか、と思わせる発想なのです。
 
つぎ、「光合成クラブⅢ」を楽しみに ── 健闘を祈っています♪
 
┌───┐
 mより
└───┘