日付:2018年10月29日 

 夜中にLineで失礼します!  (1)

 

・「光合成クラブ・Ⅱ」の本番前の打ち合わせ。劇団一の会 One's studioにて。  

 

 「光合成クラブ・Ⅱ」の稽古現場の言葉の記録 ~(1)
 
 じぶんたちの芝居でさえ、どこへ向けて作ったらよいのか、オレたちじしんにもわからない!

 
 
 携帯をガラ系からスマホに換えて「LINE」の使い方を呆れられたり怒られたりしながら教えてもらった。2年が経つが、なんとか少し使いこなせるようになったとはいえないまでも、馴れたには馴れたので、その日の芝居の稽古場で俳優さんの演技について具体的に出したダメの背景を支えている芝居や演技についてのじぶんなりの基本的なイメージを伝えて、稽古場で出したダメを補完をしたいと願い「LINE」をはじめて使ってダメの解説を試みた。
 少し工夫はした。稽古場で使用(通用)する喋り言葉ではなく、書き言葉と喋り言葉を混在させながら、可能なら二つを足して二で割ったような解りやすい言葉をつくって、現在の演劇~というよりじぶんたちの稽古場が、と言い直した方が正確だ~が追い込まれている情況などを踏まえながら、じぶんなりに考えている現在の演劇表現の課題の場所を「LINE」で俳優さんたちに送ろうと思ったのだ。
 
 だが俳優さんは、そんな試みに驚き、困惑し、おおいに呆れたにちがいない。すまないことをした。
 稽古場では、少人数だが10人前後の俳優さんたちがじぶんの出番を待っている。なるべく均等に稽古時間が各俳優さんに配分されるようにと心がけてはいるが(オレの演出のいけないクセで、往々にして一日の稽古場で場面が一場面しか稽古ができない日は多々あり)、時間に追われている稽古場では、なかなか個々の俳優さんたちの演技を、演技している側、それをみている側、その全体感的な俯瞰図(その俯瞰図をお客さんは見ている)、それらをすべてを稽古場ではとてもいい尽くせない。可能な範囲でその日のうちにその俳優さんにダメの解説とともにその思いを伝えたいと思い「LINE」を使用したのだ。
 
 稽古場での喋り言葉としてのダメは、舞台で演じている俳優さんに「顎を上げない、顎をなるべく引くように」、「セリフをもっとゆっくり喋って、なにを喋ってるかじぶんに解るようにさ」、「相手役に渡す意味を含めたセリフでも、なるべくセリフは相手に渡さないセリフにしてみる工夫を考えてみたら」、「登場の仕方は、オレ(俳優)の出番だぞという感じをお客さんに与えないように。普段通りに歩き登場する。その方がよいに決まってる」、「セリフのブレスの位置を決めるようにする。じぶんのためにも相手役のためにもね。相手はセリフの意味ではなく、君の呼吸を記憶するのだから」、「声の出し方は、三通りある」、「これが演技ですなんて最低の演技だからね。そんな演技はしちゃダメ」等々。これらの具体的なダメは、いわばその現場の場面とつるんでいるときに吐き出された言葉で、その場でのみ意義をもち、稽古中の場面、俳優、雰囲気とダメは不可分なものだ。稽古現場で場面とつるんでいるダメの言葉を稽古場から一度引き剥がして、もっと一般化して広場に出たほうが、俳優、演出の相互によいと思ったのかもしれない。
 
 また、「LINE」を使ってダメの解説をした理由のもう半分をいえば、俳優さんへのみ解説を試みたわけではない。じぶんの演出方法の不確かさ、根拠のなさ加減をじぶんで確認するためにじぶんへ解説を試みたかったのだ。
 じぶんのダメ出しの言葉や、演劇を取り巻く情況への認識に、じぶんでも、やはり「ほんとかね?」「オレ、違うんじゃないか?」とじぶんを疑いながらダメを出しているのは事実だ。じぶんには理念も自信も少しもない。ただ経験的な<勘>だけをを頼りにして吐きだしている言葉にすぎない。そんな思いを反省から「LINE」で解説を試みたのだと思う。
 
 個人的な事情を話せば、じぶんは、40代から60代のはじめに煮詰めなくてはならない演劇の表現に関わる分析的な仕事から演劇表現の過程的構造への理解を深める努力まったくしていなかった。ボーと怠惰にただ過ごしていたという反省があるからだ。
 昔の話しかできなくて申しわけないが、たぶん20年以上も前、劇団「転位・21」の山崎哲さんが時代の表舞台で元気に活躍されていた頃、山崎哲さんと故吉本隆明さんの対談があり、そのなかで吉本さんが山崎さんに芝居や芝居の稽古について質問していことがある。吉本さんは「演出家や俳優さんは、セリフや動きがはいったあと、稽古場でなにを稽古をするんですか?」、「セリフと動きが決まってしまえば、稽古なんかするが必要ないじゃないですか? なにを稽古するのか、教えて下さい」、そんな意味の質問をしていたことを憶えている。
 たぶん山崎さんは吉本さんのその質問に、誠実に応えたであろうが、どうしても山崎さんの応えは思い出せない。
 吉本さんは山崎さんから、ほんとうはどのようなことを応えとして聞きだしたかったのだろうか。
 
 「稽古場は、いったいなにを稽古するところなのだろうか?」
 
 当時のじぶんは「稽古場は、文章で言えば<推敲>の時間でしょう」、それぐらい漠然とした思いしかもっていなかった。
 
 吉本さんが山崎さんに質問した事がらに似たような質問を、これももう40年くらいも前の話になるが、大崎で劇場を構えていた頃のとても元気だった中村座の故金杉忠男さんに、
 
 どうして台本のなかに登場する<書かれた人物>や舞台上の俳優さんの<存在感>は、実際に生きて生活している俳優(呼吸する人間としての自然な存在感=非表現的存在)よりどうして小さくみえてしまうのですか?
 
 唐突であまりに幼いこの質問に、金杉さんも可笑しそうにぼくの顔をみて「そうですね~」と、金杉さんを困らせてしまったことがある。でも、いまでもこの自問にオレは明快な応えをみいだしているわけではない。
 まだある。金杉さんに、ひとつの役を、(A)と(B)という俳優に演じてもらって、その両者の演技をわたし(たち)が見て評価したとして、仮に(A)は(B)の演技表現より面白かったし、優秀であると思ったとすれば、それは見るものの単なる主観的な一過的な判断に過ぎないものなのか、それとも演技表現を評価する普遍的・客観的な基準概念(未熟で、言葉を持っていなかったが)が存在するのか。存在するとすれば、それはどのような言葉で語ることができる価値基準の概念なのか。もしあるとすれば演技表現に<価値の序列化>のイメージを与えることが可能になる。演技の質的な上向への方法的イメージを把かめることになる。
 演技表現の評価の方法やその考え方をじぶんでもいろいろ考えあぐねていたので、無遠慮に金杉さんに質問をしてしまったのだ。そのときの金杉さんの表情を憶えていないが、あの金杉忠男さんなら、きっと笑顔で「ぼくをそんなに困らすんじゃありません」といってのけたことだろう。
 
 以下、馬鈴薯堂の稽古現場のダメ出しの解説・注解の言葉だが、どんな言葉で語り出せばいいのだろうか。
 
(★) 印以下の文章はLineで送った文章です。誤字脱字、意味が通り難い箇所は訂正しました。
(➤) 印以下の文章は今回の解説・注解の試みです。
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
  ★ 2017年6月2日 ~ Lineにて
 村田さんへ。とても良い文章だと思います。文章の全体の主旨もいいですが、(1)よりいも、(2)の方がずんと文章として素晴らしいと思いました。なにより村田さんの地の文章の呼吸がとてもいいからです。ゆっくり歩いているようで、隙がないのではなく、どこからでも斬りかかって下さいといった考えられた自然体で、これ、なかなか余人のマネのできないものです。こういう文章を、もういくつか書いて下さい。期待しています。
 馬鈴薯堂通信への掲載をお薦めしますが、イヤならボタタナ通信でも作って、発表したらいいと思います。
 
  ➤➤➤2018年10月29日 Lineへの注解~
 村田与志行さんの文章は、ご本人のボタタナエラーのHPのノートの頁に掲載されています。
 また馬鈴薯堂通信の第22号に、(1)台詞表現について (2)芝居について、として掲載させていただいています。
 
 生活のなかでこういうものを作って食べたいとイメージしている事柄でもいいし、また日頃思い巡らしている芝居についての具体的な<イメージ>でもいい。その<イメージ=心のなかの思い>を筆記用具を使用して<記述=表現>しようとしたとき、いつでもその両者のあいだには遠く深い断絶がある。<記述>するという体験のなかではじめて<記述>することの(<表現>することの)超えがたい困難さを体験する。
 俳優は、じぶんの考えた演技イメージを舞台で練習する。だが、かれが考えたようにはたぶん上手くいかないだろう。
 以前に書いた文章で、俳優が最初にぶつかる困難さについて、オレはこんなふうに書いている。
 はじめにぶつかる困難さの正体は、じぶんの<呼吸する身体>という自然としての身体だ。俳優が考えてきた演技イメージは<呼吸を詰めて、あるいは無呼吸で考え抜いたイメージ>、深夜のイメージだが、わたしたちは<呼吸しなければ死んでしまう身体という自然>もっている。つまり考える力を与えてくれているところの基底にあるじぶんの自然としての身体だ、と。
 この超えがたい差異をわたしたちがじしんが覚醒する以外に、稽古場での演技の練習は表現として力価は生じないだろう。
 
 でも、身体感覚の所在の現在への感想は少し違う。
 パソコン・ゲームのモニターの映像のなかの登場人物のように、身軽に死ねて、そして何度でもリセットして生き返ることができる。現実にはそんなことはあり得ないことを十分に知っているのに、そんなイメージのなかに生きているわたしたち……、
 
 
  ★ 9月14日 ~
 チラシと台本について。馬鈴薯堂のチラシの印刷に取りかかります。以前にチラシの折り込みの可能性があるひとはお知らせ下さいとLineをしましたが、各自思い当たるひとは18日(月)までに報せていただけませんか。よろしくお願いします。チラシは、単色印刷です。予算が無いので簡便して下さい。
 なお、台本ですが、書き始めました。というか、1995年にぼくが書きました「光合成クラブ」という小さい芝居ですが、それを新しく書き直しています。1995年版は男性版の話ですが、今回は女性版の話にしています。
 1時間20分くらいの話です。無構造の台本で、頭も尻尾もなく物語も在りません。現在のぼくに書けるものはそれくらいなので、頑張って書いています。初演の「光合成クラブ」は、馬鈴薯堂のHPに載っていますので、時間がある人は読んで下さい。
 以上、チラシの折り込み部数が判ったひとは教えて下さい!
 
  ➤➤➤
 なぜ、頭も尻尾もなく物語もない「光合成クラブ」をテキストに選んだかというと、閾値(しきいち・しきち)が低いということが理由です。物語の枠組みが淡く、薄く、閾値(しきいち)が低い、難易度が低いということで「光合成クラブ」を選びました。
 この場合、閾値(しきいち・しきち)とは、それほど難易度がなく難しくない表現か、それとも難易度が高く難しい表現か、あるいは観客にとって気軽に見やすい構えずに見ることのできる、いわば<広い間口>をもった舞台表現か、そうではなく高度な専門的なちょっと構えてしまうような舞台表現か、そのどちに転ぶかわかりませんが、それにくらいに考えてよい言葉として使用しています。
 「光合成クラブ」は、馬鈴薯堂の第2回公演で、どのように芝居を書いたらよいのかまったく解らなくなってしまっている(アングラ演劇の衰退期)ときに、それでも芝居をやりたいという思いが強く、ただ登場人物たちが舞台へ集まって、日頃の生活のなかで社会に抱いているじぶんの<ちぐはぐさ>の気分的な意見を述べるだけの物語性などほとんど皆無にちかい作品です。
 また「光合成クラブ」を選んだ理由は、「踊り子」の反省から生まれたことも確かなことです。「踊り子」は物語性が強固で、閾値(しきいち)が高く、守備が強固過ぎたのではないかという反省です。物語の閾値(しきいち)を高くすれば(物語らしい物語を書けば&フィクションの度合いを高くすればするほど)、物語にそれなりの時間構成を与えることができますが、同時にお客さんの心に<窮屈>さを生じさせてしまいます。
 いま、かんがえられる範囲で、今回の芝居は、閾値を低くとり、見やすい舞台にしたかったのです。
 <閾値を低くとる>とは、そのまま<通俗化>することではありません。むしろ逆で、<現在>へ突入するための仕方のない困難な方法を選んだ、と考えています。
 台本は、<口語脈>というより、<街頭語脈>に近い言葉になっています。可能な範囲で、そう心がけています。
 
 
  ★ 9月16日 ~
 菅間です。台本を、ほんのオープニングの場面ですがUPしました。170行ほどです。これから、どう展開させるか、まったく見当はつきませんし、UPした部分も、現在、このような感じの芝居を作って、有効なものかどうかもわかりませんが、なんとなく一年ぶりに芝居を書いている実感みたいなものが、胸のうちで湧いてきました。あと二週間あります。なんとか展開篇まで頑張って書きたいと思っています。いまのところ、男性陣はひとつもセリフはありません。乞うご期待です。
 今回は芝居に、物語も構造もありません。それで芝居になりえるものなのかどうかわかりませんが、少しだけ実験を試みたいのす。成功のほどは、もちろん心許ないですが。
 馬鈴薯堂のTOPの頁のtop-newsの最後の行の最後部の「TEST」をクリックして下さい。テキスト・バージョンですが、読むことができます。では、稽古初日まであと二週間、頑張ってみます。
 それから、村田さんより、チラシの1,000部の折り込み分がありましたので、4,000部印刷します。みなさん、まだ折り込み分がありましたら、ご一報下さい。以上。
 
  ➤➤➤
 世界および社会は、わたしが芝居を学びはじめてからの40数年で、三回転四回転もして、大きく変わってしまった。70年代に流行した<非日常>という言葉は、現在の世界および高度に発展した社会から追い出されてしまった。わたしたちは、それぞれの高度に発展した社会のなかで愉しく空虚な生活の奥底で強いられていて、一人ひとり隠し事のようにじぶんの言葉を紡ぎ出す表出を試みるしかなくなっている。そのような時代の潮流から演劇も無縁でいられるわけではない。
 言葉を換えれば、アングラ演劇も、それ以前の演劇も、<欠如を巡る冒険>としてあった。けれども戦後70年の現在、現在の社会では食べることの困難さ(欠乏)を克服して<飽食の時代の孤独と空虚>へ突入している。わたしたちは、時間をかけて手にした演劇的技法の根幹のイメージを、社会の方から無効の審判を言い渡されたのだ。
 では、どのようにぐら具体的なイメージを持てば芝居は現在自由な解放を遂げられるのか。だれでも、どこでも、貧しい暗中模索の試行錯誤をくり返している。
 
 
  ★ 9月21日
 チラシ画を裸婦像に決めました。送ったのは、その製作過程でデザイナーさんが提示してくれたものです。ぼくは画も活字も横並列に統一して下さいとお願いしています。ぼくの提示したものは、スキャン不可能ということで、これに決めました。ちょっとこのチラシはどうかなァ(恥ずかしい?)と思いましたが、線がとてもキレイなので決めました。描いてくれましたのは、詩人の故辻征夫さんの弟さんで、辻憲さんというプロの銅版画さんです。ポテト堂の常連のお客さんです。俳優さんはチラシを配るとき、ちょっと気恥ずかしい思いをするかもしれませんが、胸を張って配って下さい!
 チラシは、芝居の内容をたんに説明するためにだけあるのものではなく、一個の独立した表現としての存在のだというのが、オレのわがままであり仕方のない傾斜の仕方です。みなさん、ゴメンナサイ! なお、印刷部数は3,500枚です。
 また、打ち上げ日は12月12日(火)、場所は町屋のいつもの「鳥新」です。
 頑張って台本を書いています。なんとか展開部の冒頭(全体の2/5)までは書けそうです。もちろん稽古場で書き直します。
 追伸。まだ予定のイメージですが、女優陣は、「TOKiO」か「思い出ぼろぼろ」、男優陣は海水パンツで「高校三年生」、唄ってもらうと思います! よろしくお願いします!
 
  ➤➤➤
 なぜ、唱うのか? わたしたちは、舞台で俳優が身体を張(晴)れる場を求めているだけだ。声をリズムやメロディ乗せて直接的な身体表現の暗中模索といってもいい。
 だれもが、芝居とはこれこれこういうもんだ、演技とはこういうもんだ、という社会風俗的なイメージはもっていて、それは相当程度深い認識や根拠に支えられている。芝居を見ることにおいて、玄人とも素人もない。
「神話の物語や歌謡には、物語ることが、実際の行為と区別できなかった時代が埋もれている。(吉本隆明著「初期歌謡論」の冒頭の行)」。だとすると、次のような無謀な類推が許されてもいいのではないか。<唱うことは、唱うことと、実際の行為を区別できなかった時代の遺制がのこされている>と。
 北島三郎や美空ひばりの高度なおけさや追分を聴くと、彼らの声の出し方、リズムのとり方、抑揚、意識的な呼吸の停止、様々な技術のなかに実際の行為の様相を呼び起こすような感性を散りばめていることがわかる。もちろん、彼らの歌は表現と行為との完全な分離のうちに唱われるのだが、全身体を活用して唱うことで、歌謡の歌詞の意味性を超えた風俗の感受性の場所を明示しているのではないだろうか。身体を使う、身体を張る、舞台で特別なこのことを勉強しようぜ。
 
 
  ★ 9月30日
 菅間です。昨日は、お疲れさまでした。昨日の台本は、まったくダメでした。すべて原稿を全部廃棄して下さい。ぼくは、じぶんの主観的な思いだけで、舞台上の俳優さんのフィクション性を考えていませんでした。ゴメンナサイです! 10月3日には、また新しく書きなおして、稽古場に臨みます。頑張ります!
 みなみ君へ、菅間です。本日の夜中に、二流のコピー・ライダーミナミの、誰にも認めもらえない「サントリーCMの新バァージョン」の披露の場面をUPします。明日、読んで下さい! 初演のほとんどそのまんまですが、やはり初演の勢いは、強いですね。いまでは、やはりかないません。
 
  ➤➤➤
 台本を何度も何度も書き直す。オレにものを書くセンスも資質もないのはわかっているが、わたしは稽古場で俳優の声を聴いてみないと、台詞から意味伝達の機能性を排除できないのだ。
 
 
  ★ 10月4日
菅間です、女性陣へ。むかし、使用した音曲ですが、作詞・作曲家・歌手の鈴木常吉さんの「石」という曲を、YouTubeで、聴いてみて下さい!
 
 
  ★ 10月7日
 シゲキ君とみなみ君の場面の長台詞を、少し全員に振り分けます。理由は、稽古場でお話しします。
 いま4稿をUPしました。前日までの三回の稽古で、ぼくは大変に覚醒させられました。またダメかもしれないけれど、もう好き勝手に書いてみました。時間のあるひとは、読んで下さい。読めないひとはゴメンナサイです!
 明日は、唄の練習をしましょう。女性陣拝啓「思い出ボロボロ」、男性陣は「高校三年生」のは歌詞を、だいたいでいいので暗記しておいて下さい。
 
  ➤➤➤
 可能な範囲で、無意味、不必要な長台詞は止めよう。
 台本のテーマへ奉仕したり、「このセリフはよく書けたろう」という書き手の見栄は削除しよう。
 
 
  ★ 10月15日
 菅間です。月曜日は町屋ふれあい館の音楽室なので、「思い出ボロボロ」等の歌の稽古もやります。歌詞を一番だけでも覚えてきて下さい。セリフは、それとなく当たる程度でいいです。なんとなく、まだぼんやりとですが、昨日の稽古で、女にひとたちの基本的な舞台上での「いかた」が見えてきた感じがしました。少しの明るい悪意が女の人たちの心に潜んでいるんだろうなと、感じてきました。セリフを大きく変えることはありませんが、少し削ります。今夕6時頃Upします。読めるひとは読んで下さい。頑張って書きます。
 
  ➤➤➤
 「いかた=立ち方」とは俳優の舞台上での存在の仕方であり、台本には書かれていない俳優への存在論的なト書きだ。そして、個別の劇集団の基本的な観客へのタッチの仕方だ。したがって演技の感性的な拠り所ではなく、論理的な拠り所となりえるものだ。
 
 
  ★ 10月16日
 台本、大きく書きなおしました。館君と南君が大げんかをはじめます。UPしてありますので、読める人は、読んで下さい。
 今回のじぶんの台本の、なにが気に入らないか、少し解った気がします! 頑張りますよ!
 
 
  ★ 10月17日
 今日は村田さんの場面と、西さんの場面の始まりを書いて行きます。今日は、舘君とみなみ君のケンカの場を中心に稽古したいです。台本のどこが悪いのか、それを頭に入れたいと思いまして。
 
 
  ★ 10月18日
 菅間です。高橋さんへ。今夜の稽古は女子を中心に見たいと思います。高橋さんは、よければ今夜も身体を休めて下さい。
 菅間です、女性陣へ。昼12時までにCMのシーンをUpします。読めるひとは一読して下さい。シゲキ君は、舞台で笑顔でいて下さい。説明ですよ、あなたの演技はすべて。高校演劇以下です。舞台で生きようとして下さい! お願いします!
 みなみ君へ。頑張っていますよ。でも、直ぐには出来ないから、辛抱して、台本を誤読して下さい!
 シゲキ君へ。あなたを役から下ろすのは簡単ですが、役は下ろしません。CMの場面も大切だと思われるセリフはカットしていませんが、どうでもいいセリフはだいぶ削りました! 「アンジェリーナ」は、ぼくに怒られても頑張って下さい。コオロギは、全カットです。CMの場面をほんとうに大切にして下さい。まず舞台に長時間、先輩俳優諸氏と「居続ける」ということが、どういうことか、深く学んで下さい。表現は、意味の説明ではなく自己を実現することです。
 菅間です、加藤君へ。今日、休んでもいいですよ。
 
  ➤➤➤
 シゲキ君が喋るセリフには意味があるように、あなたが喋るセリフの声音の速度やリズム、声音の色彩感や明度・彩度、湿度、そのときのあなたの表情もセリフの意味を補完しながらも別系列の意味や価値の体型を形作っているんです。
 
 俳優には、どうしてもとってつけたような演技になってしまうことがある。体験談からいうと、そういうときは、まず具体的に身体の姿勢を矯正するところから入ってみる。猫背をやめ、顔を引き、台詞をあまり狙わないようにして、そういう風な初歩的なことを思い出してやってみるしない。演出もホントところは俳優の演技指導の方法なんてなにひとつもっていない。けれどそういう初歩的な行為が思いのほか効果をあらわし、現行のとってつけたような演技を超えられているときって、あるんだよね。
 
 シゲキ君へ、あるいは若い俳優さんへ。
 魚屋さんになるには多くの魚の種類を憶えなければいけないし、魚のさばき方も憶えなければいけない。理髪屋さんはやはり髪型や髪の毛の切り方を憶えなければいけない。TVで活躍している若手漫才師も呼吸の妙を憶え、それを巧みに使えるように鍛錬する。TVに出ている美人アナウンサーも喋り方をひとりで孤独に身につける努力をしている。では、俳優さんはなりたい人は、なにを勉強すればいいのでしょう。
 オレは<俳優修業>という言葉が大嫌いですが、俳優になりたい人はなにを身につけなければいけないのかをかを、それなりにじぶんで考えて、頑張って練習しなければいけない。問題は、なにを身につけなければいけないのか、そのひとなりにじぶんで発見することだと思います。ところがこれがなかなか発見できないんです。俳優が抱えなければならない最大の難問です。
 そして、この発見ができなかったからオレは俳優を諦めたんです。
 
 
  ★ 10月19日
 菅間です、高橋さんへ。今日も冷たい雨だから、お休みして下さい。今日は、女性陣の稽古を中心にやりますので。
 
 
  ★ 10月20日
 菅間です、加藤君と高橋さんへ。今日も、女性陣を中心にして稽古をしたいです。
稽古場が、少しポテト堂の稽古場らしくなってきました。お二人とも、今日もお休みください。
 菅間です、西さんへ。次の西さんの出まで、台詞を完璧に入れといて下さい。凄いプレッシャーだなぁ。あなたの演技は、いつものように、素敵ですよ。
 目黒君へとシゲキ君へ。目黒君、あなたが、女性陣へ参加して、椅子へ座る前後の、みんなの前で踊るシーンですが、台本に「気違いのようにおどる」とト書きに書いてありますが、そのト書きはカットして下さい。みんなにわかるように楽しく踊って下さい!
 シゲキ君へ。だいぶよくなっていると思います。頑張って下さい!
 みなみ君へ。今日からシゲキ君にダメを出すように、あなたにも遠慮せずに、基本的なダメをガッツリ出します! 怒鳴って良くなるとは思いませんが、また基本からやってみて下さい。いま、手を抜くと、あなたは、なんでもない俳優さんになってしまいますよ。今日から、シゲキ君にダメを出すように、あなたにも遠慮せずに、基本的なダメをガッツリ出します!
 舘君へ。みなみ君と喧嘩をするシーンを稲川をもっと参加するような形にして、現在の台本のセリフをできるだけ変えないように、少し手を入れます。勘弁して下さい!
 
  ➤➤➤
 ミナミ君は演技に<照れ>が入っている。それだけだ。ミナミ君より年下の俳優、年上の俳優に囲まれて、その両者はミナミ君の俳優体験10年の蓄積の表現を評価し判定を無言のうちにくだす。あなたは、彼らの前で下手な芝居は見せられない、心の隅の小さなところでそう思っている。かといって彼等を驚嘆させるような演技はできない。そこであなたは<照れ>てしまう。それだけだのことだ。だがこの<照れ>を心身から排除するのはホントに大変なことで、俳優にとっては一大事業だが、実は排除することなんか誰にも不可能だ。
 でも、馬鈴薯堂には、上手い俳優なんて居ませんよ。みんなイモです。イモばかりの集団です。だから馬鈴薯の堂です。初心にかえって、じぶんをもっと小さく見積もればいい、そう思いますね。
 
 
  ★ 10月21日
 23日(月)に、大型の台風が東京に来て大雨になる模様です。大雨と風で危険なようなら、稽古を中止にしますが、その決定を、23日の午後にLineでします。よろしくお願いします!
 村田さんへ。今日は、女性陣の喧嘩の場面と村田さんの場面を、本気で考えます。書けるようならは村田さんに、書けたよと連絡をします。今回も、迷惑ばかりかけてゴメンナサイです!
 菅間の台本・演出の反省点……、
 「踊り子」と違ったことをしたいと思って台本を書きはじめたのに、気がつくと保守的になり。じぶんの演出できる範囲で、演出をしているじぶんに気が着き愕然とします。守備ではなく、攻撃なんだと心に決めているのにダメですね。来週から、もっと壊すことを課題に台本、演出をやってみます!
 女性陣のみなさまへ。いま、稲川が、常吉さんの「石」の歌を、さあ、これから呑み会を始めるぞォってな感じで笑顔で歌ったらどうだろうかという話をしてくれました。稽古場でやってみましょう!
 
  ➤➤➤
 演出も俳優も、ボーッとしていると保守的になってしまっています。俳優にとっての舞台上で演じなければならない<役>は、俳優としてのあなたの可能性を解放し拡大するためにあるんだという言葉は白々しいウソのように感じるときがありますよね。でも、白地らしく感じたときにはもうあなたは保守的になっているんです。心と身体の<遊び>を捨てて<役>の意味性=使用性のみを稽古場で必死に演じはじめています。
 そういうときは<横超>ですよ。真っ直ぐに天に駆け上がるのではなく、ビートたけしの「鬼瓦 権造」を思い浮かべて、横に喘ぎながら逃げて、ゆっくり峠を超えて行けばいいんじゃないんでしょうか。
 昔々、鈴木忠志さんに、舞台でマジメになるな。稽古なんて早く終えて「たぬき=高田馬場の居酒屋」で冷たいビールでも呑もうと思ってる、その気持ちの方が生活感覚として当たり前で大切な感覚で、そんな気持ちで演じろ。そういわれたことがあるが、その通りだと思う。でも、それが、できないんだよね。マジメになる方が簡単だから。
 
 
  ★ 10月22日
 稽古情報と台本の件。明日は、見通しでは夕方から雨は止むそうですので、いまの段階では稽古をやろうと思っています。明日の午後に稽古の件は決定させて下さい。なお、台本ですが、もんじゃ屋のシーンはまったく書き変えていませんが、他のシーンはできるだけシンプルに書き換えました。Upしてありますので、読めるひとは読んで下さい。
 みなみ君とシゲキ君へ。セリフを喋ることが上手いか下手かということではなく、他者を惹きつけようとするあなたたちの生命力の方向にあやふやさがあることが、あなたたちの芝居をあやふやなものにしている一番の原因だと思います。ぼくは、いろいろ言うけど、芝居の基本は、じぶんの生命力の発現をじぶんなりに作動させる力です。稽古辛いだろうけど、頑張って下さい。稲川は、決して上手い俳優ではありません。じぶんの生命力をたった一本に絞り込む力の集中と持続を手放さないということのように思います。とにかく、頑張って稽古しましょう! 今回は、お二人にとってかなり辛いと想います。
   ………………
 「許して下さい」という意味では? 許していますよ、いままでも、これからも、下手な俳優さんを。許してきたじゃないですか。下手でも結構、頑張る力を見せてくれれば、それが面白いのです。
   ………………
 もうぼくは昔話しかできませんが、これから話すことも、ぼくの芝居の師匠のTSさんの昔の秘密に類することです。TSさんに呼ばれて彼の引っ越しを手伝ったときのことです。TSさんのたくさんの勉強ノオトを運んだぼくはそのノオトを読んでしまいました。ノオトには短歌がギッシリ書いてありました。TSさんにノオトを読んでいるところを見つかり、えらく怒られました。ぼくしか知りませんが、彼は不世出の歌人です。
 もう一つあります。彼は、あまり語りませんが吉本隆明さんのとても深い愛読者でした。当時、論争までは発展しませんでしたが、大江健三郎への吉本さんの批評文の題名が「もっと深く絶望せよ」というものでした。簡単にいうとバカは絶望もしないし、できない。深く絶望し、深く地に潜れ。深く潜れない奴は浮かび上がったときの喜びを知ることはないだろうというものだったと思います(かなり主観的な解釈でが)。
 お互いに、真に深くじぶんに絶望しませんか。でないと、せっかくの時間を無駄に費やしてしまいますよ。ぼくが、少しあなた方に辛くいうのは、やり過ごすには、もったいない時間をあなたたちが、いま過ごしていると思えるからです。じぶんに絶望できる契機を失ってしまうには、もったいないと思えるからです。ぼくは、TSさんからも吉本隆明を読んだ方がいいといわれ、40年続けて読んでいます。その時の、彼の教えを忘れえないからです。お説教ではありません。深く絶望しましょうよ。でないと光明が見えてこないもの。いま、頑張って台本書いています。どうなることか、
 
  ➤➤➤
 稽古とは、なんだろうかね。いい大人が毎夜集まって、なにを行うところなんだろうかね。
 言葉遊びのように聞こえるかもしれないけど、じぶんはなにを身につけなければならないのかを考え、じぶんの身体を動かし、見つけることが実は稽古の大きな目的のひとつなんです。
 
 
  ★ 10月24日
 3景の「もんじゃ屋」編をUpしました。いろいろ書いて、みんなに迷惑をかけましたけど、UPした原稿も貧しいですが、(多少は書き直すと思いますが)、今回は、基本的にこれでいこうと思います。読めるひとは、読んで下さい。陳謝!
 
  ➤➤➤
 「もんじゃ屋」のシーンが書けたとき、また試みに稽古場で読んでもらったとき、なんとなく「今回はコレだ」と思いました。実感の印象なんで言葉があやふやなんですが、物語の硬い枠組みや屋根瓦がすべて取り払われて、等身大のみなみ君が舞台の上でじぶんの夢を直に発語しているように思われました。もちろん錯覚かもしれませんが。思いちがいかもしれません。でも、この舞台上の俳優の発語の状態への手触り、感触は、わたしには初めてものでした。
 これはシゲキ君が、じぶんの昼間のバイトの状態を身体で絵解きしてくれるシーンにも、同じような錯覚を抱きました。「この感覚なんだよ」って。
 
 
  ★ 10月25日
 みなみ君へ。今週の仕事の休み分かりますか? 昼過ぎの15時半から稽古をしたい。あるいは、28日(土)は休みだけど、もしその日、予定を入れていないようなら、その日でもかまいません。もんじゃ屋のシーンの特訓をやりたいのです。心理的な演技から、観客を惹きつける演技という演技の創意工夫をあなたとちゃんと考えてみたいのです。よろしくお願いします!
 シゲキ君へ。上と同じように、今週空いている時間ばかりありますか? あなたともう少しちゃんと稽古をしたいのです。あなたの芝居はとてもいまよくなっていると思いますよ。もう一息、二息、いま稽古をしてみませんか。
 加古君の場合によっては、あと一歩なんです。台本の意味からじぶんの演技を力づくで解放する方法を、なんとか二人して探しましょう! それができれば、あなたの演技のなかに、観客が棲めると思います。
 演出は、俳優の一番の味方であると同時に、最大の敵です。ぼくは、今日から俳優さんの敵になりますよー!
 今日は、簡単なセリフの「男、欲しいぞ」ってというセリフからやりましょう!
 シゲキ君へ。上と同じように、今週空いている時間ばかりありますか? あなたともう少しちゃんと稽古をしたいのです。あなたの芝居はとてもいまよくなっていると思いますよ。もう一息、二息、いま稽古をしてみませんか。
 
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 常々疑問に思っていることのひとつなんだけど、それをイメージとして話します。芝居の登場人物は、芝居の上演時間だけ生きていればよいと思いますか? 芝居の始まる前と芝居が終わった後も、その登場人物は街頭を歩いてたり食事をしたりしている生きている人間だと思いませんか?
 TV朝日の『相棒』は大好きなんだけど杉下右京さんはTVの放映時間だけ<生>をあたえられている存在で、またやはり大好きなTV番組の『孤独のグルメ』の井之頭五郎さんもTVのなかで生きている存在ですよね。それはそれでとても面白いと思っていいます。つまり<形象>創造の現在の一典型です。鋭さ、優秀さ、食べることにお金をたくさんかけられるサラリ-マン、現実の世界にはあるようでなかなか無い存在です。この通俗性はとても面白いです。二人ともミニ・スーパーマンです。
 <近代劇>は、どうしても<役の誇張性>を排除できない。
 
 ほんとうの意味で芝居に<形象>とうイメージが必要なら、芝居以前、芝居以後にもその登場人物は生きている、そう考えれば、演技の<形象>の謎が溶けることもあるかも知れませんね。
 それと、具体的な稽古は別です。
 芝居の基本は、<呼吸>と<声音の出し方>、それと<身体の姿勢>です。
 この言葉が、俳優に対して「稽古をしなさい!」と押しつけるようないい方しかできないのが、オレのだめなところだ。またオレの言葉のなかになにかを教えようとする啓蒙性が含まれてしまっているところが、オレのダメなところだ。さて、では、オレは、どうしたらいいだろうか?
 
 もう一つ俳優の心の問題としては、バランス感覚を養うこと、あるいはもうひとつの眼を養うとぴうこと、これが大変に重要なことだと思う。
 じぶんの心を外側から眺める眼といったらよいのか。そんなことをいっても、じぶんの心を外側から眺めるなんてことはできないし、そんなのムリだよ、という気持ちはオレもわかるし、でも、他人との差異は実は日常感覚で、生活意識のなかにこそあるものだと思う。
 表現のなかで、じぶんの気持ちを強く押し出す演技(奇異な演技を試行すること)がじぶんと他人との差異づけの行為を実現しているとは限らないということ、あるよね。でも、ここがいちばん難しくて、こういうことだと指し示すことが困難ことだね。
 ひとつの職業に就くということは、いい方は悪いが専門バカになるということ。けれども専門バカになることは、その職業に不可欠な高度な技術力も構想性持ち始めるということ。俳優も、そば屋さんも、靴職人も、お医者さんも、それはみんな同じだ。
 バランス感覚とか、もうひとつの眼とかは、専門バカ以外に、じぶんのなかの普通の一般庶民の眼を捨てないで養うといことだと思う。じぶんの専門バカ性を監視できる眼といってもいいと思う。
 
 違った言い方をすれば、じぶんの中にある個別的(変態的)な視線と、やはりじぶんの中にある一般庶民としての視線、難しいことはいわなくとも、それは誰でもが持っている視線だ。