2021年5月
「さがしものはなんですか」へのメモ……(1)
農家の人々から迷惑がられているムクドリ(椋鳥)君。だが谷中の墓地で見かける椋鳥君は可愛い
拾い読みの読書から連想 (1)
ほぼ二年ぶりに拙い台本を書いた。
最近は一行33字から35字で約1,000行を目安に台本書いている。短編台本だといっていい。今回の「さがしものはなんですか」は第一稿で1,300行ほどあった。約1,000行の台本で、わたしのただの勘だが上演時間は約1時間~1時間10分ぐらいだと思う。この上演時間が高齢になったわたしの演出としての心身の限界時間だと思っている。かつて若い頃は3時間くらいの芝居も作ったが、そんな演出は逆立ちしてももうできない。
なぜ一行を33字から35字ぐらいだと考えているのか、と問われれば、一行を話し言葉の自然な一つの単位の目安に、作者、俳優、観客、つまり一般の話し言葉の呼吸は20字では短すぎるし、40字では長すぎる気がするからだ、と応えるしかない。
一行にも充たない短い科白の場合も、同じように四行から五行を超えてしまう長い科白の場合も、自然な単位への任意な、あるいは意思的な破形として考えればいいのではないかと思っている。
今回の台本の一稿が行数が増えた理由は、久しぶりの公演(……コロナの感染拡大で公演に至りつくことができないかもしれないが……)で、慎重で用心深く頑張って書いた、というのはほんとうはうそで、久しぶりの台本で装飾過多、説明・解説が多く、なんとか芝居らしい芝居に仕上げよう、格好や体裁だけは台本らしいものを書いておこうという気持ちで書いていた、というのが正直なところだ。
二稿は、不要な装飾・解説を切り捨て約1,150行ほどになった。三稿でも20行ほどしか縮まっていない。なんと全体として、約1,100行以内に収めたいと思っている。その行数なら上演時間を1時間15分くらいにすることができるだろう。
違う言葉をつかえば、書かれた拙作台本「さがしものはなんですか」は単一構造の芝居なので限界上演時間がそのへんにあるだろうと、やはり勘として思っている。
この原稿を書いているのは5月5日だから、稽古初日まで約10日ほどあるから、その時間をつかって更に推敲を重ねようと思っているが、これ以上の短縮はちょっ無理かもしれない。この台本を底本として考えるのなら、更なる台本の短縮化を行える場所は、机上ではなく稽古場だと思う。
理由は、書くという位相では、どうしても最小限の説明や解説等を内在的に付けざるをえない傾向性をもっているからで、これは、<劇>や<科白>の説明や解説は、一般観客への<芝居のわかりやすさへの解説>を目的に書かれているだけではなく、それを演じてくれる俳優への説明や解説としても機能しているし、書いているじぶんじしんへの自注の役割も担っているからだ。
しかし、稽古場の時間のなかで、俳優さんがじぶんの演じるべき人物像のイメージ(意味や価値)を咀嚼しはじめると、俳優さんに向かって書いているわたしの説明や解説の科白はおのずと稽古場で<浮いて>きて、その<浮いてきた>科白を見つけだして稽古場で抹消すればよいというふうになってくれるのではないだろうか。そう願っている。
● 科白の作り方から
四、五年前、お客さんから「馬鈴薯堂」の台本は、「助詞」が意識的に省かれていたり、体言止めがよく出てきたりするが、それは何故か、どんな意図があるのかと訊かれたことがある。当時もいまも、とてもじぶんの知識では応えようがなく、黙るより仕方がなく、無意識的にそう書いてしまっているんです、それ以上はわかりませんと応えるしかなかった。
ときたま拾い読みする読書からの連想で、わたしの科白を書く癖や固有のこだわりの説明になってくれる箇所を、少し長くなるが二つほど引用させていただきます。当然、常時、以下に引用する文章を念頭において台本を書いているわけではないが、夜中に時折読み返しては、心にしまっている文章たちです。
じぶんの知識や言葉のレベルでは、引用の水準までとても書けないので、引用させていただきました。
● ふたつの感性が人生を豊かにする ●
感覚の発達というのは、社会がちょっと変われば、それに応じて変化します。感覚の動き方も変わるし、感覚から来る好みも変わってくるし、それを拡大する装置がうんと発達してくれば、ますます変わってくるに決まってるんですね。それを否定することはできないです。その発達は人間にとって悪いことではないです。
しかし、逆にそれが全部だと言われてしまうと、ちょっとおかしいよ、ということになっちゃいます。
僕は理工系というか、小学校を出てすぐから理工系のやつばかりが同級生で、大学を出るまでずっとそうだったから、彼らとはずいぶん長いつき合いをしていますが、こんな子どもみたいなやっが、よくも面白いことを考え、発明するもんだなと思いました。それと同時になんだこいつ、幼稚なことばかり言って子どもじゃないかとも思うことがありますが、それは使っている頭の部分が違うんですね。
そして、文学者の場合は、なるほどというような含蓄のあることを言う人でも、電気器具のコードひとつ直せないとかいうような人がいるじゃないですか。そういうのはおかしいですよね。だけど、実際に両方いますから、そういうものなんだということは認識しておいたほうがいいです。
感覚の発達と精神の発達は別ものです。その前提にたって両方を磨くことができれば、それにこしたことはありません。これは、「言語学」というのを自分で意識して少し勉強したことがあって、そこから来ている考えです。日本語でいえば「てにをは」ですね。「私がやりました」というのと「私はやりました」というのでは意味が違っても、「が」と「は」だけでは別に違いはないでしょう。「が」とか「は」というだけでは何も意味しないんです。「が」は「が」だ、「は」は「は」だということだけど、「私がやりました」と「私はやりました」では、意味が違ってきますね。「私がやりました」というと、やったのはオレだと、積極的に名乗りを上げているような調子になるでしょう。だけど「私はやりました」というと、誰かもやったけどオレもやったぐらいにとれます。「が」と「は」だけだったら、意味をなさないのに、文章としてつながると違う意味になるということがあるんです。こういう場合に「が」とか「は」、文法的には助詞ですけれども、これは大脳の発達、つまり外の情報を感知する視覚や聴覚などの感覚器官の問題は第二義的であって、第一義的なのは、心の中、もっと言えば内臓の動きの違いなんです。胃が悪いときに痛いな、と思うような、そういう違いなんですよ、「が」と「は」の違いは。それ自体は意味をなさないけれども、前後に何かつくと意味をなすものなわけです。
それから、「さくら」とか「花」とかの名詞は、じかに見たそれを指すわけです。これは目が見て、目の神経から大脳に通じて、大脳が「花だ」と言うから「あ、花だ」と確認するわけですね。それは目で見たとか、耳で聞いたとかいうのが第一義的な意味をなすわけです。そういう言葉と、助詞のように、「は」とか「が」とか「を」とかは、それ自体では何も指さない。ただ、心の中、もっと具体的に言うと、三木成夫(みきしげお~三木成夫は、香川県丸亀市出身の解剖学者、発生学者)さんという人はそう言ってるけど、内臓の動きが感情の動きになって出てくるみたいな、そういう作用が、「は」とか「が」とかがもっている第一義的な意味なんです。というように、日本語だってその二つ、大別すれば、大脳が第一義的に司るか、それとも、何も指さないけれども、内臓の動き、あるいは感情みたいなものが心の中でこう思ってる、みたいなことが第一義的になる言葉と両方あるんですね。
これは日本語だけじゃなくて、どこの言葉もみんなそうなんです。みんなそういうふうにできている。
例えば、英語だったら、○○オブ△△という、オブってなんだ、事物を指示する意味あるかっていえば、日本語に訳せばあるけれども、オブというだけでは何かを指しているわけではないんですよ。そういうように、どこの言葉でも両方あるんです。どちらが第一義か、第二義かというと、大脳ばかりが第一義だと思ったらそうじゃなくて、大脳の方は第二義的で、心の中の叫びとか、内臓がちょっと痛いぞ、というのが第一義だったという、両方あるんです。一つじゃないんですよ。この二つの織物から言葉は出来ています。ユングなど無意識の心理学者というのは、えてして感情がいちばん強烈なエネルギーをもっているって言うんですが、そのとおりだと思います。感情といってもいいし、情緒といってもいいでしよう。例えば、胃がチクリとしたというときに「あっ」ということがあるでしょう。「あっ」というのは意味はないんだけど、刺激に対する反応で、それを具体的に言うと、内臓の動きを大事にするっていうのがあるんですよ。人間の感情の中にもそれはありますし、感覚で、見て驚いて「あっ」と言ったというのと、このへんがチクリと痛かったので「あっ」と言うのと、ちょっと違うんです。
両方あって、どちらかなんです。それはあらゆる言葉もそうで、万国共通でその両方に分けられます。
★ 吉本隆明著『老いの幸福論』2011年刊・(株)青春出版社刊より引用させていただきました。
● 行動的な文体 ●
8、文学の初源性にふれる『田舎教師』
田山花袋の代表作をもうひとつ挙げるとなると『田舎教師』ということになるとおもいます。『田舎教師』はこの邑楽町(おうらまち)のあたりが舞台になって、弥勒野小学校に代用教員として勤めている文学好きの青年が、東京に上って文学に専念したいと願いながら、老いた親たちの面倒をみなければならず、志をとげられないうちに胸の病気になって、ちょうど日露戦争で遼陽への攻略が勝利をおさめて沸きたっているとき、死んでゆくという作品です。この作品はやはり田山花袋の代表作といえるいい作品だとおもいます。どこがいいかと申しますと、文学というのは、もとをただせばこういうものだったのだという原形みたいな懐かしさがこの作品に保存されていることです。芥川龍之介などは、田山花袋の悪口をいうときには、この『田舎教師』を例にして、こんな鈍重な作品がいいのかと盛んに批判しています。でも現在芥川の晩年の代表作である『玄鶴山房』と、この『田山花袋』を比べて、どちらがいいかということになりますと、ぼくは『玄鶴山房』の方がいいとは、いえないとおもいます。むしろ、『田舎教師』の方がいいかもしれないとぼくにはそうおもえます。文学というのは複雑になったり、方法的に高度になったからよいかというと、そんなことはありません。それを見極めるのはたいへん難しいのです。芥川は才気も教養もある作家で、よい作品を書いた人ですが、かたや芥川の代表作、かたや花袋の代表作ということで、偏見なくみてくださいといったら、どちらがいいかわからないのです。むしろ花袋の『田舎教師』の方が芥川の『玄鶴山房』よりいいかもしれないとおもっています。『田舎教師』はけっして才気のある作品とはいえませんが、文学とはもともとこういうものだといえるものがあります。それは素朴で単純な哀切ですが、文学にとってはとても重要なものです。
9 行動的な文体
ところで『田舎教師』の特徴はどこにあるのか、柳田国男との関連でいくつか挙げて触れてみたいとおもいます。
すこし注意して読みますと『田舎教師』の文体は行動的な文体です。たとえば清三という主人公の振舞いを描写した場合、作者または記述者が「清三はここのところをこう歩いてこんなふうにどこそこへいった」という客観的な描写で記述するのが一般的な描写の仕方ということになります。『田舎教師』の文体はそうではなく、「清三は何々をした」と描かれているのですが、その文章があたかも清三自身がじぶんはこう行動しているといっているような文体をもっているわけです。つまり主体が行動していることを主体が描いているという文体をもっています。これは『田舎教師』のひとつのおおきな特徴になっています。田山花袋の作品を優れたものにしている理由はそこにあるとおもいます。ちょっと二、三行読んでみましょうか。
羽生からは車に乗つた。母親が徹夜して縫つて呉れた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色の褪せた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。何となく胸が踊つた。
そうお感じになりませんか。つまりとても解説的に描けば「清三は羽生から車に乗った。清三の母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織にメリンスの兵児帯を着ていた。―」というふうに記述者あるいは作者がひとつの場所にいて、清三という主人公が羽生から車に乗ったところを描写しているという文体になるはずです。ところでいまのようにいきなり「羽生からは車に乗った。」といったら、清三という人がじぶんの動作をそういっているように皆さんに(読者に)おもえてくるわけでしょう。しかしここで清三という言葉を入れて「制動は羽生から車に乗った」と書けば作者が清三という登場人物の動作を描いているのだとおもえてくるでしょう。しかし清三という言葉をぬかしてもう一度読んでみましょう。「羽生から」の次に「は」という助詞をつけたのは主体上たいへんな意味があるのですが、「羽生からは車に乗った。」といったら、車に乗っている清三が車に乗っているじぶんを描いているふうにきこえるでしょう。つまり何をいいたいかといいますと、「清三」という主語を省いたことと、「羽生から車に乗った」あるいは「羽生からは車に乗った」というこの「は」をつけるかつけないかというその二つのことで、文体にふくみができるわけです。そのふくみがなぜできるかといいますと、客観描写のように清三が車に乗ったことを作者が描いているのだともうけとれますし、また「羽生からは車に乗った」というと清三が車に乗ることを清三自身が書いているようにもとれるわけです。その二つの受けとられ方の幅が読む人にふくみを与えるのです。このふくみが総体で集まりますと、作品の価値がそこから出てくることになります。客観描写をしたらふくみがなくなって、そこから作品の価値に寄与するものはでてきません。だから物語のよさや面白さでみせるほかないということになってしまうわけです。ところがこの『田舎教師』の場合はそうではありません。花袋の描写にはひとりでにやってしまっている部分と意図してやっている部分と両方あるわけですが、この場合は花袋は作家として円熟していますから、多分意識的にもこのふくみある文体がひとりでできていったとおもいます。そうしますと『田舎教師』という作品は物語の意味ないようからだけでなく、言葉のスタイルからも価値をうみ出していることになります。この文体の価値は何かといえば、読む人に二重のふくみをちゃんと与えているところからきています。
10 『遠野物語』の文体との類縁性
『田舎教師』という作品で柳田国男との関連で第一にいわなくてはならないことがあるとすればこの作品の行動的文体が、柳田国男の『遠野物語』の文体とよく似ているということです。四の所を二、三行読んでみましょうか。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立と云ふ山に入り、笹を苅りて束と為し担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負ひたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。
どうでしょうか。吉兵衛さんが山に入ったところまでは、柳田国男が吉兵衛さんを描写しているように書いていますが、すぐそのあと、吉兵衛さんが笹を苅って、束にして帰ろうとしていることを吉兵衛さん自身が書いているような文体になってしまっています。柳田国男の『遠野物語』のなかでこういった行動している主体を主体自身が描いているような特徴的な文体のものが三十篇ぐらいあります。その三十篇ぐらいの文体が『遠野物語』の特徴になっているのです。この種の文体で『遠野物語』を書いている場合、柳田国男はどんな主題を取り上げているかといいますと、たいていは里の人が山に行って、山人に出会って夢うつつのうちに奇怪な出来事に出会ったということになっています。この特徴がなければ『遠野物語』は昔話を誰それから聞いて、記録しただけということになります。そういう部分はもちろん七十くらい『遠野物語』にあり、それが大部分になっています。しかし特徴になっているのは三十何篇かのこの行動的な文体で描かれた挿話です。ここですぐに、柳田国男は『遠野物語』を書くときに花袋の『田舎教師』の影響をうけたといいたいわけではありません。またそれを確定することはとても難しいことです。
また逆にこの『田舎教師』の行動的な文体は『遠野物語』の文体から田山花袋がうけとったのだということもなかなか困難です。同時代だから、おなじような描き方がひとりでに身についてあらわれたということもあるかもしれません。はっきりいうためにはもっと突っ込んでみなければなりませんが、もしかすると柳田国男が田山花袋からずいぶん学んだといっていることのなかに、こういうことが無意識のうちに含まれているかもしれないのです。柳田国男でもわかりやすところは、花袋の影響を受けたといっていますが、ほんとうに影響を受けたところは、なかなか正直いってないとおもいます。そこは今後、皆さんが探究して決める以外にないとおもいます。
★ 吉本隆明講演『A130(T)田山花袋と柳田国男』より引用させていただきました。
この稿、続く。
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