日付:2021年5月 

  「さがしものはなんですか」へのメモ……(2)

 

「光合成クラブⅡ(2017/11)」。女の人たちの夜中の公園での酒宴の遊びのシーン  

 

 
      拾い読みの読書から連想 (2)
 
 
 今回の「さがしものはなんですか」の芝居の構造(構造ともよべない構造だが)について、わたしの稚拙な個人的な思い込みに過ぎない構造イメージを正直に述べてみたい。
 
 <初期歌謡(古代の短歌謡)>を文芸としてではなく、庶衆の共同・共時的な<場>での言葉遊びのあらわれの一つとして捉えてみたいと思う。そうすることで、今回の芝居の構造が、子供の遊びのようにたわいないものから発生していること浮かび上がってくるだろう。
 
 故吉本隆明氏の『初期歌謡論』から引用をさせていただく。
 少し専門的な文章の引用になるし、芝居をやっているのに、なぜ古代の「初期歌謡」の祖形についての文章の引用が必要なのかと問われだろう。ここのへんぐらいまでしか、じぶんの考え方の展伸させることができていないのが、現在のわたしの姿であるので、勘弁していただきたいという言葉しか述べられない。

 歌謡の起源の形をもとめることは、それほど魅力的であろうか。わたしはうまい言葉でいうことができないが、魅力があるとすれぼ、〈詩〉は神話の編成時代にはるかに先行するというモチーフを充たすことである。また、それを確めるために神話の地の文ときりはたすとき、以外にもきわめて平凡な、それでいて思いがけない古歌謡がすがたをあらわす。それは、とうてい名跡あるものの作ではなかった。村落や海や山あたりに住む何でもない人々が、いつの間にか時間に淘汰された歌謡をもったというべきである。(中略)
 
 
  胡鷲子鶴鴇(あめつつ) 千鳥ま鵐 何ど裂(さ)ける利目(とめ)
  嬢子(をとめ)に 直に逢はむと 我が裂ける利目  
(『古事記』歌謡・一七・一八合併)    
  新治(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる
  日日並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を
(『古事記』歌謡・二五・二六)    
  大宮の 彼(をと)つ鰭手(はたで) 隅傾けれ
  大工匠(おほたくみ) 拙劣(をぢな)みこそ 隅傾けれ
(『古事記』歌謡・一〇五・一〇六)  
 
 
 この応答の形をもち、しかも〈応〉と〈答〉とが、共時的におなじ意味構造をもった歌謡は、ひとつの祖形であった。「新治筑波を過ぎて……-日には十日を」は〈筑波の裾野の田野のあたりで日をおくってもう幾夜になるのか。指折りかぞえて夜として九夜、昼として十日数えられるが、それ以上は指がいっぱいで数えられない〉というほどの意味になる。「大宮の彼つ鰭手……隅傾けれ」〈御殿の遠くのほうの檐(ひさし・のきなどの意味)の木が傾きかかっている宮大工の腕が劣っていると檐の傾いた家ができてしまう〉となる。これらは、いずれも、歌垣とか、祭りとかで、掛けあってつくられた俗謡であった。そして、いずれもおかし味をもっていた。(中略)
 
 そこで、真淵、折口両家が、歌謡の祖形とみた、大久米命と伊須気余理比売の問答歌が、ふたたび和歌形式へ移行する祖形として浮びあがってくるものであった。
 
 
  胡鷲子鶴鴇(あめつつ) 千鳥ま鵐 何ど裂(さ)ける利目(とめ)
  嬢子(をとめ)に 直に逢はむと 我が裂ける利目  
(『古事記』歌謡・一七・一八合併)  
 
 視やすいことだが、音数律としてみれば、どうLても五七五七七の形の短歌謡にゆきつくことはできない。そのうえ前置句と後置句とは複数の人の付けあいを想定されるので、独りの作者ではない。しかし、みかけとはべつに、構造的には和歌形式の初原の形に合致するものであった。ここには触目の叙景や叙事から入って、下句で叙心へと思い入れておわる初期の和歌形式の短歌謡の構造がみとめられる。前置句で小鳥たちをながめて、どうしてその目は入墨(彩)をしたように鋭くなっているかと描写され、後置句では、おなじ意味構造をもった、少女にひたむきに逢おうとすると、わたしの目は小鳥とおなじで、入墨(彩)を施したように鋭くなってしまうという心情の表現になっておわっている。この構造は、音数の近似がないにもかかわらず、『万葉集』の和歌形式の短歌謡に接続できることを意味した。逆にいえぱ、この形の歌謡とおなじ構造をもった和歌形式の短歌謡があれば、『万葉集』のなかでも〈初期〉のものだといってよかった。そうして上句と下句とは意味がながれてゆく順序ではなく、おなじ構造を上句で客観的に、下句で主観的に二重に繰返すものであった。(中略)
 
 そこで、わたしたちは、つぎのよう、に想定する。
「あめつつ 千鳥ま鵐 何ど裂ける利目  嬢子に 直に逢はむと 我が裂ける利目」の意に沿うような初原の歌は、掛けあいによってうみだされた。はじめが女によってうたわれたとすれば、あとの句はその意に沿うように男によって応えられた。この形は、独りで片歌のように前置句あるいは後置句だけ偲び歌としてつくられることもあった。「はしけやし我家の方よ 雲居立ち來も」(「記」歌謡・三二)などがそうであった。そのほかにもひとつの形式があった。独りの作者がつくるために、前置句の終りの言葉(このばあい「利目」)が、くりかえしがいらないために除かれ、後置句のはじめ(このばあい「嬢子に」)の言葉が主体をあらためて記す必要がないために除かれて、和歌形式をうみだした。この形式の短歌謡だけが、それ以後におおきな歌謡の流れをなすようにたった。だから、最初期の短歌謡は、上句に客観的な叙景や叙事の流れをおき、下句におなじ構造をもった叙心の流れを、くりかえして二重にそえる形式をもっていた。
 ★ 吉本隆明著『初期歌謡論』より「歌謡の祖形」。河出書房新社1977年刊。より引用させていただきました。

 この引用文から、わたしなどが抜き出しえるものは、
 
 (1)古代の初期の短歌謡は、たとえばお祭りの夜の集団時、寄り合いの集合時、作物の豊饒を願うときなどで、村落の人びとが集い、多少のお酒も入ったところで自然的に発生した言葉遊びみたいなものが愉しみの掛け合いとして行われた。そうした原初の村落の人びとの言葉遊びのイメージが風景が、古代の短歌謡の発生時代の風景としてわたしには映ってきた。
 (2)古代の初期の短歌謡は作者は一人であったこともあろうが、沢山の人々の掛け合いのなかで【応答歌】として愉しまれていた。
 (3)初期短歌謡は、五七五七七が、初句からから終句まで、一つの直線的な意味の流れとして、現在のように変容・完備された意味の流れをもつものであったわけではなく、初期の短歌謡は、上句に客観的な叙景や叙事の流れをおき、下句におなじ構造をもった叙心の流れを、くりかえして二重にそえる形式をもっていた。
 
 しかし、これだけで、いまのわたしには充分である。
 
 「光合成クラブⅡ」では、舞台上の女性たちの存在の意味や価値についてまったく無意識に書いてきたが、「光合成クラブⅢ」では、彼女たちは、存在の見えない【掛け合い】の相手を想像して<掛け合い=応答歌=問いを発している>を虚空へ発している人びとだと考えるようになってきた。また彼女たちの前を横切る男性たちは、彼女たちの<問いかけ>に誘われるようにやってきた人びとだ。
 これだけの小さい考え方しか手中に持ち得ないで台本を一本をわたしは書いてきたことになる。これは、とても淋しいし、楽しいことだ。
 
 わたしの今回の「さがしものはなんですか」の台本は、この小さな単一的な構造に依拠している。古代のお祭りの夜に村落の人びとが寄り合い、多少のお酒が入り、女性が男性を、男性が女性を呼び、楽しい言葉遊びの<掛け合い>に興ずるような風景に、だ。
 つまり、わたしは、近代以前、それよりずっと以前の物語(「竹取物語」等が中国から移入される」)以前よりずっと前に、芝居の遊びの構造を展伸できる可能性を見つけだそうとして、そんな無謀な考え方を個人的に抱き、台本を書いてきたことになる。
 
 
    
 
 
 お座興だが、難解な故吉本隆明さんの『初期歌謡論』の前半のなかで、例としてとりあげられている『万葉集』の短歌謡のうち、一、二首、「この短歌謡はオレは好きだ、なんとなくだが解る感じがするからだ」、そういう歌があるなら挙げてみろ、といわれたら、わたしは万葉集など高校以来読んだことはないし、短歌のことはまったくわからないが、歌から具象的なイメージ、つまりじぶんの子供じみた思いが呼び起こされればそれでOKという思いで、迷わずに次の二首の短歌謡を選んでみた。したがって選択された短歌謡が秀歌かどうかとは、まったくかかわりはない。

 (a) 三國山木末(ぬれ)住まふ鼯鼠(むささび)の鳥待つが如(ごと) 吾待ち痩せむ
(『万葉集』巻七・一三六七)    
 (b) 新墾(にいはり)に今作る路さやかにも 聞きにけるかも妹が上のこと
(『万葉集』巻十二・二八五五)  

 (a)の短歌謡は、「鼯鼠(むささび)」という言葉を選んだ詠み手の選択眼に軽い機知がみえて親近感を抱いた。「鼯鼠(むささび)の鳥待つが如(ごと)」の「鼯鼠」という言葉の出現に意表を突かれる楽しい思いもあるし、古代の人びとにとっては森に棲む「ムササビ」は、現在の人びとよりは身近な小動物(毛皮を採ったりする)だったと思われるが、やはり「ムササビ」という言葉一つで、この短歌謡の全体のイメージが非常に具象的になり、爽やかで面白く、現在を生きる無知はわたしにも、わかるし面白いと感じるから、選んでみた。
 
 (b)の「妹が上のこと」という言葉は難しいが、「新墾(にいはり)に今作る路さやかにも」の流れは、わかりやすい。詠み手の所属する共同体の長か官庁のお偉いさんから、新田の開墾を命じられ、仕事をしている(実際に仕事をしているか、実際に仕事をしていなくとも想念の歌かどうかもわからないが)古代人の開墾の仕事の風景が具象的イメージとして思い描かれいて、この短歌謡が秀歌であるかどうかまったく解らないが、人びとの働く様子や淡い恋愛観が表れている感じがして選んだ。ここで驚くのは、約800年~1,000年以前の短歌謡を現在の2021年から読んでみても面白いと感じられることに、驚きを抱いた。
 ど素人の意見に過ぎないが、この二首は比較的に<新しい歌>であると想像できる。なぜなら、この二つの短歌は意味の流れ(上句から下句へ意味が直線的に流れていて)が穏やかで、二つ三つ辞書を引けばわたしにも理解できるからだ。
 では、吉本さんの解釈を聞いてみる。

 〈序詞〉は全体の暗喩であった。歌の中心に達するために、やむを得ない迂回路で、歌が祖形からひきずっている母斑でもあった。この母斑をきりはなして意味の流れも、上句から下句へとスムーズにあふれていく必然があった。表現意識が、短歌謡の全体をなめらかな流れとして統覚するところまでゆくと、〈暗喩〉の繋辞(けいじ=文の主語と述語を結ぶための補助的な品詞をいう=菅間)としての<の>は、あらわに<のように>という形に移っていった。そこで序詞は〈直喩〉の機能をもつようになっていった。
 
 
 <三国山の木むらの木陰に住んでいるむささびが鳥をつかまえようとじっとひそんでいるように わたしもおまえをじっとまって痩せるおもいだよ>
 
 <新しい開墾地にいまあらたに通る路はすっきりしているように わたしの恋人のさわやかな風評がつたわってくる>
 
 
 〈直喩〉の表現では、上句が、一首の中心である下句を誘導する役割からも繋がっているし、意味の流れとしてもそのまま繋がっている。
 ここまできて、短歌謡が原形にたもっていたものはすべて失われて、和歌形式の短歌謡として完成された。他者が問いかけた叙景の客観描写にたいして、おなじ意味の構造をもった叙心を応答として入れ、その響きあいに詩の心をおいた原初の歌謡は、じぶんの叙景にたいして、いかにじぶんの心を関係させるかに詩心をおく和歌形式の短歌謡にまで到達することになった。そのあとには上句と下句のあいだに〈喩〉の関係がまったくなくて、起句から終句にいたるまで、なだらかな曲線を描きながら完結される歌を想定できる。そして事実もそれを裏づけた。(中略)
 
 歌がふたたび経験にかえるのは、村落のどこにでもある山にかかった「月」や「雪」や、どこの里にでも咲いている「花」の景観のほうが、歌枕の名所の観最よりも美しいことに眼覚めたときであった。いいかえれば「月」や「雪」や「花」を、共同の観念ではなく個人的な観念によって歌にとり込むことができるようになってからであった。

    この稿、了。
 
 
        
 
 
    この稿、続く。
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参考に、菅間馬鈴薯堂のHPの『「全体的な喩とは、なにか?」を吉本隆明さんに聴く』の頁へ
 
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